木曜日, 10月 22, 2026
ホームつくば24時間介助受けながら理事長として働く 川島映利奈さん【ひと】

24時間介助受けながら理事長として働く 川島映利奈さん【ひと】

「意思決定支援に力入れたい」

つくば市の川島映利奈さん(44)は24時間、ヘルパーの介助を受けて地域で暮らす障害当事者だ。昨年11月、障害者にヘルパーを派遣するNPO法人サラダボールの理事長に就任した。「意思決定支援」に今後さらに力を入れたいと川島さんは考えている。9月には、障害のある人の意思をどのように受け取り、日々の支援につなげるのかを考える勉強会をつくば市内で開く。

いつ、何を食べるのか、今日は何色の服を着るかー。障害の有無にかかわらず、人は日々、小さな選択を繰り返しながら生活している。しかし重い障害があり、言葉による意思表示が難しい場合、選択の機会が限られたり、本人が発しているサインが意思として受け止められなかったりすることがある。

「どんなに障害が重くても、だれもが好きなこと、嫌なことは感じる。表現手段として、ある人は、指差しとか、笑うとか、泣くとか、体の緊張が強くなったり、眉間にしわが寄ったりする。障害の当事者が発する小さなサインを見落とさないことが大切」だと川島さんは言う。

開催するイベントで挨拶をする川島映利奈さん

自立生活センターと出会い、衝撃

川島さんは福井県出身。全身の筋力が低下する先天性の進行性難病による障害があり、幼いころから手足を大きく動かすことが難しかった。筑波大学大学院進学を機に2005年、親元を離れてつくば市で自立生活を始めた。現在は車椅子を使い、痰(たん)の吸引や身の回りのことなどヘルパーの介助を受けながら、市内でパートナーと暮らしている。2011年からは、サラダボールの設立母体で、障害者の権利擁護活動を行う当事者団体「つくば自立生活センターほにゃら」の代表を務めてきた。

幼少期から日常生活には家族の介助が欠かせなかった。家族が着替え、食事、風呂やトイレなど、川島さんの生活全般を支えた。一方で、我慢したこと、諦めたことも多かった。

ベッドへの移動にも人手がいるため、就寝時間は家族に合わせる。夜遅いテレビ番組は我慢する。ひとりでは買い物に行けず、欲しいものを自由に買えない。手伝ってくれる人を待つため、行きたいときにトイレに行けない。髪は洗いやすいよう、伸ばすのを諦めた。暮らしの中でさまざまな「モヤモヤ」が募っていった。

サラダボールの職員と川島映利奈さん(中央)

転機となったのが、地元福井で出会った自立生活センター「コムサポ」の重度障害者たちとの出会いだった。当時、福井県内の大学に通っていた川島さんは、コムサポの障害当事者メンバーと食事や外出を重ねる中で、介助サービスを使って地域で暮らし、やりたいことをやり、いきたい場所にいく姿に衝撃を受けた。

2005年、筑波大大学院への進学が決まると、コムサポから紹介された「ほにゃら」によるサラダボールからヘルパー派遣を受けながら大学の寮に入り、念願の自立生活を始めた。「すべてが新鮮。朝、誰にも起こされないのも、自分で時間を計算して起きなきゃいけないのも。授業後に、寄り道しながら帰れるのも」

失敗も重ねた。初めての洗濯では色物と一緒に白いTシャツを洗って色が付いてしまったり、洗濯ネットの使い方が分からなかったり。だが、いくつもの失敗に心が躍った。何時に起きるのか、何を着るのか、どこへ行くのか、どんな介助が必要なのかを自分で考え、他者に伝える必要があることも知った。

趣味はアイドルグループの「推し活」

こうした経験の積み重ねの先で出会った健常者の夫と、今は市内で暮らしをともにしている。しかし、川島さんは、身の回りのことを夫には頼まない。自分でできることは自分でするし、できないことは、いつも別室で待機している介助者に声をかけてやってもらう。「パートナーは介助者ではない。私は介助してもらうために結婚したわけじゃないし、介助者のほうがちゃんと訓練しているプロなので丁寧。プロの介助者だからこそ、自分のタイミングで自分のことができる」

「本人が何をしたいか」で支援を組み立て

川島さん自身の介助には、1週間でおよそ15人のヘルパーが交代で入る。仕事中も介助は続く。昨年から市の制度を利用し、勤務時間中も介助者によるサポートを受けながら働いている。介助者は会議や研修に同席することもあれば、利用者の個人情報を扱う際には、部屋の外で待ってもらう場合もある。痰の吸引などの介助が必要になれば、会議を中断して川島さんが一時的に外に出て介助を受ける。

ヘルパーの成田恵理さんは、川島さんとの関係について「一緒にやっていく、仲間」と表現する。「ここでの活動の目的は社会を変えることなので、その延長線上に、サラダボールの仕事がある」と語る。

川島映利奈さん

理事長になり、求人や研修、支援会議、介助シフトの調整などに加え、これまで深く関わってこなかった経営にも向き合うようになった。これまで主に女性利用者の支援を見てきたが、理事長職を引き継いで以降は男性利用者を含めた事業所全体を見るようになった。

自立生活センターで何より重視するのは「本人が何をしたいのか」だ。1日のどこで食事をし、外出するのか、当事者の意思を第一に支援を組み立てる。

意識して増やそうとしているのが、職員同士で話し合う機会だ。特に、介助者と利用者の調整役を担う立場の職員とは会議や研修、日常的なコミュニケーションを増やしてきた。

夫(右)が運転する自家用車に介助者と乗り込む川島さん

子どものうちから「自分で選ぶ」経験を

川島さんたちが力を入れている活動の一つに「ほにゃらキッズ」がある。地域で暮らす障害のある子どもたちが、将来、自立生活を暮らしの選択肢の一つとして考えられるように、家族とともにさまざまな経験を重ねる取り組みだ。2003年に保護者らの発案で始まり、20年以上続いてきた。

障害のある小さな子どもも一時的に家族と離れ、介助者と買い物をする。カラオケやバーベキュー、料理、電車で東京へ行き「推し活」をしたこともある。買い物では、子ども自身が店に並ぶ商品を見て食べたいものを選ぶ。「自分で決める」経験を重ねながら、自分が何を好きなのか、どんな暮らしが自分に合っているのかを知っていく。家族にとっても、「親ではない人に任せても大丈夫」と知る体験になるという。

「失敗も大切な経験」だと川島さんは言う。その先に生まれるのが、自立生活という選択肢だ。

自宅で介助者による痰吸引を受ける

当時に比べ、現在は障害者の地域生活を支える制度も増えた。「子どものころから知っていれば、できることもいっぱいある。実際にやれる場所があるというのは、すごく大事だと思う」

言葉にならない意思をどう受け取るか

川島さんが特に大切にしているのが、本人の小さなサインを見逃さないことだ。表情の変化がわずかな人もいる。それでも川島さんは「きっと何かはアピールしているはず。こっちが受け取れていないだけ」と考える。それでも、読み取ったものが本人の本当の意思だったのか、簡単に答えが出るわけではない。「正解はなかなか分からない。でも、受け取ろうとすることを怠っちゃいけない」

つくばでの市民活動が表彰され代表して授賞式に望む

「やっぱり、自立生活を知ってもらいたい。こういう仕事もあるよって知ってもらいたいし、当事者にも、こういう生活があるよって知ってもらいたい」と言う。その先には、誰かに支えられるだけではなく、働き、責任を担い、今度は自分が誰かの暮らしを支える仕組みをつくる側になる人生もある。

「どんな障害があっても、住みたい場所で、やりたいことをしながら、その人らしい生活を作っていくっていうのが、私たちが一番やりたいこと。その中で、介助者と利用者だけで完結せずに、ちゃんと地域の人とつながってこその生活です。私はそのために、いろんな仕掛けをつくりたい」。川島さんはそう話す。

◆障害者の意思決定に関する講演会「意思決定支援(SDM)を知ろう!〜支援の「モヤモヤ」を大切にする関係づくり〜」が、9月13日(土)午後1時30分からつくば市役所 コミュニティ棟(つくば市研究学園1丁目1−1)で開かれる。講師は、筑波大学人間系講師で、SDM-Japan代表理事の名川勝さん。参加費は無料。定員50人(先着順)。申し込みは専用フォームで9月7日(月)まで受付。問い合わせは、メール(cil-tsukuba@cronos.ocn.ne.jp)か電話(029-859-0590)でつくば自立生活センターほにゃらへ。

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