土曜日, 9月 5, 2026
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来年入試で竹園高を2学級増に《竹林亭日乗》42

【コラム・片岡英明】受験生にとって夏休み前は高校説明会を意識する時期でもある。つくばエリアの中学生や保護者は、県立高の魅力アップと市内の県立高の定員増を期待している。

つくば市内にある県立高への今年の入学者数は、中学卒業者2161人に対して370人(17.1%)にとどまり、6人に1人しか市内の県立高に入学しなかった。市外の公立高へは946人(43.8%)、私立高へは691人(32.0%)進んでいる。市内の中卒者の75%が市外や私立の高校に行っているわけで、通学時間や教育費面で負担が生じている。

県平均には28学級増が必要

2025年国勢調査で、つくば市の常住人口は県内最多になった。そこで、中卒者100人当たりの県立高学級数がどのくらいか、水戸市、県平均、つくば市について比較してみた。

その結果は、水戸市2.05学級、県平均1.75学級に対し、つくば市はコンマ以下の0.66学級だった。水戸市は県平均をも上回るのに、つくば市は県平均の3分の1ちょっと。 水戸市とつくば市は歴史も違い、単純な比較はできないが、つくば市の県立高入試環境はあまりにも悪い。水戸市並みとは言わないものの、県平均には近づけてほしい。

つくば市の100人当たり学級数を県平均にするには、28学級増が必要になる。1学年4学級の並木中等教育学校を入れても、あと24学級増やす必要がある。1学年8学級として計算すると、3校分になる。

今年1月に提出された県高校審議会の答申には、2038年までの中卒数推計が記載されている。これによると、水戸市の中卒者数はこれから減少するが、つくば市は2026年=2562人が、2038年=3392人に、830人増加する。つくば市の県立高定員を増やさないと、2038年には、中卒者100人当たりの県立高学級数は0.50に低下する。

1学級40人で計算すると、現在の100人当たりの県立高定員は、水戸市が82人、県平均が70人であるのに対し、つくば市は26人となる。それが2038年には20人に低下する。これは現在の水戸市の4分の1以下の水準であり、何らかの対策が必要といえる。

7月21日、県に要望書を提出

つくば市の生徒増に対し、県が無策だったわけではない。2019年高校改革プランでは「中学卒業者数の変動に対しては、原則として募集学級数の調整で対応する」とし、つくばエリアの2018年=10校57学級を、2026年まで2学級増の59学級にするとしていた。

この改革プランは実行されたのだろうか? 2019年以降のつくばエリアの学級数を見ると、水海道一高:高校-2、中学から+1、サイエンス高校:+2、筑波高校:-1、牛久栄進高校:+1となった。その結果、2019年の57学級(高校53、中等4)は、2026年には58学級(高校53、中等4、中学から1)となった。

改革プラン実施後も、つくばエリアの高校入学枠は53学級のままで増加しておらず、このままでは2027年の入試で、さらに受験生を苦しめることになる。

そこで、つくば市の高校不足改善の第1歩として、また改革プランの仕上げのためにも、2027年度入試で竹園高の2学級増を求めたい。その上で、県はエリアごとの中卒数に基づき、つくばエリアを県平均水準に引き上げる次の改革プランを策定してほしい。そんな受験生の願いを込めて、7月21日、私たちの会は県議・市議や関係者と共に、9回目の要望書を県教育長に提出する。(元高校教師、つくば市の小中学生の高高進学を考える会 代表)

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