【コラム・2年 M.T】例えば今、道端にペットボトルのごみが捨ててあるとします。そのとき、あなたはどうするでしょうか。
それを見過ごす場合、多くの人は罪悪感を抱くでしょう。しかし、ごみを拾ってごみ箱に捨てたとしても、私たちには何か直接的な利益が返ってくるのでしょうか。罪悪感を抱かなくて済むということはありますが、わざわざごみを拾い、ごみ箱を探して捨てるという手間が増えるだけのように感じます。それならば、罪悪感など気にせずごみを無視した方が自分のためになるような気がします。ですが、ここである葛藤が生まれます。それは人道的に、倫理的に正しいことなのだろうか、と。自分は人として正しい行いをしているのだろうか、と。
善い人で在りたかった私
私は中学生ぐらいの時、善い人でありたいと漠然と思いながら、善い人になるために、他の人が嫌だと思っていること、自分もあまりやりたくないことをやるように努めていました。友達と何か一つのもので取り合いが生じている時、自分から身を引いたり、あまり人気のない係や当番を引き受けたりしました。また、落とし物を届けたり、場所をきれいに使うように心掛けたり、ルールをきちんと守ったり、善いと思うようなことはできるだけしていました。自分でも、なぜ善い人になりたいのかわかりませんでした。ただ、私は人として、善い人であるべきなんだという一種の強迫観念を抱いていたのです。そして、こんなふうに日々を過ごしているうちに、私はだんだんと疲れを感じるようになりました。いくら善いことをしても、何も起こらない。私はただ自分の感情を無視して、自分を犠牲にしているだけだと思いました。
このように思ってから私は、善い人になるということについて考え始めました。善い行いをすること、すなわち、徳を積むことに意味はあるのだろうか。私がこのコラムに参加したのは、この疑問を解決したいと思ったのが主な理由です。

徳を積むとは?
徳を積むという言葉は普段の生活ではあまり馴染みがなく、古い言葉に聞こえるかもしれません。ただ、私が善い人になろうとして行なってきたことには、徳を積むという言葉がぴったりだと感じています。
「徳」という言葉には、様々な意味があると思います。以前の私の経験に沿えば、「徳」とはまず、他人がしてほしいことをしようとする態度を指すように思います。このことからすれば、徳を積むとは、他人がしてほしいと思っている行動、すなわち善行を積み重ねることだといえるでしょう。ですが、徳を積むことは他者のためだけではなく、自分の人格を正すためにも行われるように思います。そこで、徳を積むということを私は、「他者がしてほしいと思える善行を積み重ね、それによって自分の人格を正すこと」と定義づけたいと思います。
では、「徳を積むことは自分を善い人に変えてくれるのか?」という疑問を解決するために、まずは徳を積むことのメリットを考えていきましょう。先ほど私は徳を積むということを、他の人がしてほしいことを行うことで、自分の人格を正すことだと定義しました。であれば当然、徳を積めば他の人からの評価とともに、自己評価が上がると考えられます。
次に、徳を積むことのデメリットを考えてみましょう。徳を積むとは、時には我慢をするということでもあります。自分ではやりたくないと思っていることでも他の人のためになったり、自己評価を高めたりすることにつながるのであれば、やるしかないからです。よって、自己犠牲が求められるということが考えられます。そして、人のために行動するあまりに他の人から仕事や責任を押し付けられるなど、他人に利用されやすくなるということもあります。善い人ではなく、(都合の)良い人と見なされてしまうのです。
以上を整理すると、以前の私は、徳を積むことには自分を犠牲にする側面と、自分の評価を上げる側面があると考えていたように思います。

善い行いをしたのに苦しいのはなぜ?
ここで重要になるのは、自己犠牲と自分の評価を得ることのバランスです。私が善い人になろうと行動をとって疲れを感じていた理由はここにあります。
善い行いをしたはずなのに自分が苦しいのは、自分が犠牲になったことで感じる痛みや、本当はもっと自分の好きなように振る舞いたいといった思いに比べて、自分の人格を正すことができているという実感が少なかったからです。これに気づいた時、自己犠牲は、自分の善い人格を形成することにはつながらないと思いました。善い人になりたいと思って行動していた時の私は、本当はつらい自分の思いにふたをして、自分の人格を根本から変えるわけではなく、善い人であるという見せかけの人格を、現状の人格に上塗りしているだけだったのです。これでは、ただの偽善でしょう。
それからというもの、私はあえて善い人になるということをしなくなりました。このまま善いことを続けていても、自分を壊すだけだと思ったからです。そしてその代わりに、自分を大切にすることを始めました。自分の思いに耳を傾ける、自分の意思を伝える、自分の思うように行動をする。それをするだけで、心は驚くほど軽くなりました。ただ、このような振る舞いをしたことで、他の人と対立したり、他の人が我慢をしなければならない状況になったりすることが、もちろんあります。自分も優先したい、でも相手が犠牲になる。そんな歯がゆい状況には誰もが陥ったことがあるでしょう。しかし、このような状況に真正面から立ち向かうことで、徳につながるあるものを得ることがあります。相手が犠牲になってしまったこと、それを踏まえて、自分は相手にそれをどう埋め合わせることができるのか。そのような互酬性から自分の心に「相手に何かしてあげたい」ということを考える余裕ができる。そしてそこから、恩を受けた相手だけでなく、それ以外の人のためにも見返りを求めずに、相手のためになることをしたいんだという単純な利他への要求が生まれるようになる。私が思うに、これこそが真の〈徳〉(*脚注)なのです。

自分を大切にする
「徳」を積めば善い人になれるのか。「徳」を積めば、確かに周りからの評価は上がるし、自分は誠実に生きているということを実感できます。しかし、私はそれ以前に、まずは自分を大切にすることが大事なのだと思います。他者のために何かをしようとするあまり自分を無理やり犠牲にすること、それはただ善い人であろうと義務感を抱いているだけであり、偽善をしていることと同じです。こんなものは本当の意味で〈徳〉を積んでいるとはいえないでしょう。人のために善い行いをすることは、相手に何かしてあげたいということを考える余裕、すなわち、心の余白をつくることから始まります。私の場合は、自分を大切にすること、そして他の人から受けた恩を感じることから始まりましたが、心の余白を作る入り口は、それ以外にもたくさんあるでしょう。その心の余白を使うことで、自然と、心から、この行動をとりたいと思えるようになるのです。これこそが、真の〈徳〉なのではないでしょうか。真の〈徳〉は、他者のためにもなるし、自分の成長にもつなげることができるはずです。そこに、自己犠牲は存在しません。
私が思うに、徳を積むことに意味なんてものは存在しないのではないか、と思います。なぜなら、〈徳〉とは自発的な利他心であり、人間の欲求そのものだからです。〈徳〉は積むものではなく、積まれていくものです。
この文章を読んで、みなさんは徳についてどう考えたでしょうか。ぜひ、みなさんも自分なりの真の〈徳〉を見つけてみてください。
*脚注 このコラムでは、以前の私が考えていた徳を「徳」、現在の私が考える真の徳を<徳>と表記して、区別しました。






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