【コラム・小泉裕司】観客動員数の推移について、「土浦の花火オフィシャルカレンダー2026」の6月のページには、「第14回(1946年)の35万人(当時人口の約7倍)から順調に増加し、第77回(2008年)には過去最多の80万人を記録した。当時は土浦駅に入場規制がかかるほどの混雑ぶりだった。その後は70万人ほどで推移している」とある。
2025年(第94回大会)の観客動員数は65万人。この数字の変遷は、大会が歩んできた発展の歴史そのものといえる。こうした発展の裏には、これまであまり功績を紹介されてこなかった業界の著名人がいる。
東大卒の花火師が土浦に
東京帝国大学文学部を卒業した花火師、武藤輝彦氏(1921~2002)は、日本の近代花火を語る上で欠かせない先駆者の1人だ。前回(5月17日掲載)紹介した通り、武藤氏は、かつて「土浦火工」とともに、土浦の花火産業の両輪を担った「昭和火工」の専務として、北島義一氏と共同経営にあたっていた。
その工場は土浦市上高津にあり、玩具(がんぐ)花火を幅広く取り扱いながら、東京浅草橋の事務所を拠点に全国へ営業を展開していたのである。
花火史に残る武藤氏の功績
昭和火工の再興から5年後の1961年、花火を文化財の対象にすべく「日本煙火芸術協会」が設立されると、武藤氏は事務局長に就任した。その事務局は、浅草橋の昭和火工事務所内に同居する形でスタートしている。大学卒業後にさまざまな職を歴任したという彼の多様な経験と広い視野が、この精力的な活動を支えたに違いない。
翌1962年には、花火の安全保安に寄与するため、北島氏とともに「日本煙火協会」の設立にも専務理事として深く携わった。花火師として35年余のキャリアを誇る一方で、武藤氏は生来の文才を生かし、日本の花火を「知」として編み上げた人物でもある。『ドン!と花火だ』や『日本の花火のあゆみ』といった多くの著書がそれを物語る。
かつて、土浦市立博物館が「花火を歴史としては捉えてこなかった」と省みたように、煙火業界において花火はそれまで「門外不出の秘伝や口伝が多く、学術的記録にしにくい芸術」とされてきた。それを丹念に文章化し、歴史、技術、文化を後世に書き残した功績は極めて偉大だ。
花火は安全が絶対条件
武藤氏の歩みは、土浦の地にとどまらない。後に、北海道で廃業の危機にあった火工品会社の経営再建を引き受け、1976年には「海洋化研」(札幌市)を起業した。同社は1978年に初めて第47回土浦全国花火競技大会に出品し、今や常連だ。武藤氏の没後も、北海道唯一の業者として創造花火の部に出品し、今なお土浦の夜空を彩り続けている。
土浦の花火史に大きな足跡を残した武藤氏のモットーは「花火は、安全が絶対条件」であった。それは、北島氏が掲げた「安全なくして花火の発展なし」という信念と、まさに響き合うものだったに違いない。本日はこれにて打ち留めー! (花火鑑賞士、元土浦市副市長)
<参考文献>
「日本煙火協会参拾年史」(日本煙火協会、1993年刊)
「日本の花火のあゆみ」(武藤輝彦、あずさ書店、2000年刊)
「新訂現代日本人名録2002」(紀伊國屋書店、2002年刊)
「花火と土浦」(土浦市、2018年)
「HaNaBi 第4部」(朝日新聞秋田版、2024年6月20~22日)






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