
【コラム・佐々木哲美】日本では毎年7月1~7日が「全国安全週間」に設定され、今年で99回目を迎えます。私たちが職場で当たり前のように行っている「KY(危険予知)活動」「ヒヤリハット」「リスクアセスメント」「安全教育」などは、100年以上前に1人の技術者が抱いた疑問から始まりました。その人物は「日本の安全の父」と呼ばれる蒲生俊文(がもう としふみ、1883~1966) です。
なぜ同じ事故が繰り返されるのか
1910年代の工場は、今では考えられないほど危険な環境でした。機械にカバーはなく、作業手順も統一されていません。事故が起きても「運が悪かった」で片づけられた時代です。東京電気(後の東芝)で働いていた若い技術者・蒲生は、毎日のように起きる事故を見て、「なぜ同じ事故が繰り返されるのか」と強い疑問を抱きました。この問いが、日本の安全文化の出発点になりました。
1914年、東京電気で、日本初の本格的な安全運動が始まります。蒲生は事故を記録・分析し、傾向をつかむという当時としては画期的な方法を導入しました。「事故は偶然ではなく必然であり、必然なら防げる」という彼の考え方は、現代の安全工学そのものです。危険箇所の改善、作業方法の統一、安全掲示、安全教育など、今につながる取り組みを次々と形にしました。
その後、蒲生は企業の枠を超え、1917年に「安全第一協会」の設立に関わります。後の中央労働災害防止協会(中災防)の源流となる団体で、蒲生は機関誌「安全第一」を通じて安全思想を全国に広めました。さらに、1920年代以降の官製安全運動にも知見を提供し、制度づくりにも影響を与えました。
制度ではなく「人」で安全を語れ
一方、アメリカのUSスチールでは、トップのエルバート・H・ゲイリー(1846-1927)が「Safety First(安全第一)」を掲げ、安全文化を社会に広げました。ゲイリーが世界的に知られているのに対し、蒲生が日本でさえ知られていないのは、日本の安全史が制度中心で語られ、人物が表に出にくい文化にあると思います。安全活動が企業内の改善にとどまり、物語として語られなかったことも、若手が安全に誇りを持ちにくい理由の一つです。
黎明(れいめい)期には他にも小田川全之、内田嘉吉、戦後には三村起一など人物がいましたが、いずれも広く知られてはいません。本来、安全の歴史は制度ではなく、「人」で語られるべきものです。現場で考え、行動し、仲間を巻き込み、社会に広げた人々の物語こそ、安全文化の根を育てます。
日本の安全は、1人の技術者が「このままでいいのか」と問い続けたところから始まりました。その最初の火をともしたのが、蒲生俊文です。(労働安全コンサルタント)
【ささき・てつみ】盛岡工高卒。中堅ゼネコンに入社し、千葉県、茨城県を中心に29年間、土木工事の現場、アグリプロジェクトを担当。定年前7年間は安全担当。土浦市の区画整理事業を担当したことをきっかけに、1991年に土浦市へ移住。そこで「NPO宍塚の自然と歴史の会」と出会い、30年以上、同会の活動に参加。土浦労働安全コンサルタント事務所代表。2023年まで暮らした土浦市が第2の故郷。現在は東京都昭島市在住。1952年生まれ、盛岡市出身。






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