火曜日, 8月 11, 2026
ホームつくば30年度1学級増、33年度2学級減 つくばエリアの県立高 県高校審議会答申資料で推計値

30年度1学級増、33年度2学級減 つくばエリアの県立高 県高校審議会答申資料で推計値

2027年度以降の県立高校教育改革の方向性を検討する県高校審議会(委員長・笹島律夫常陽銀行会長)が25日、県庁で開かれ、答申をまとめた。

人口が増加している「つくばエリア」(つくば市など4市)の今後の募集学級数と募集定員について、答申の参考資料の中で推計値が示された。同エリアの全日制県立高の2025年度の入学者数は2203人なのに対し、30年度は31人増え2234人となる一方、33年度の入学者数は63人減り(25年度比は32人減)2171人になるとして、25年度の同エリアの学級数が58学級(募集定員2320人)なのに対し、30年度は1学級(40人)増えて59学級(2360人)、33年度は2学級減り(25年度比は1学級減)57学級(2280人)になるとする見通しが示された。

推計値について県高校教育改革推進室は「入学者数や募集学級数はあくまで現時点の推計値であり、(実際には)県教育委員会が志願の状況や欠員の状況などを踏まえて策定する」としている。

市民団体「実態に合わない」

一方、つくば市やTX沿線に県立高校の学級増や新設を要望してきた市民団体「つくば市の小中学生の高校進学を考える会」の片岡英明代表は「つくばエリアの子供たちが増えていることが反映されていない。県の推計値は入学率をもとに入学者数を推計している。もともと県立高校が少ないつくば市は、市内の県立高校に入学する生徒が少なく実態に合わない」と話している。

片岡代表は2033年度のつくばエリアの中学卒業見込者数が25年度の4393人より226人増えて4619人になり、日立エリア(日立市など3市)と水戸エリア(水戸市など4市)を合わせた4425人を上回ると推計され、さらに38年度にはつくば市1市だけで中学卒業見込者が3392人と見込まれ、日立エリアと水戸エリアを合わせた3429人に匹敵する推計値が出されていることから、「つくばエリアは県立高校の緊急な定員拡大と本格的な対応が必要」だなどと指摘している(12月21日付)。

人口増 答申で具体的言及なし

つくばエリアで子供の数が増えている問題については、答申に具体的言及は無く、県全体の県立高校の適正規模について「今後、地域ごとの中学卒業者数の差はますます鮮明になっていくと予想されるため、引き続き、県内全ての地域に一律で適用する適正規模の基準は設けないことが望ましい」などとするにとどまった。

ただし同審議会の専門部会(部会長・中村麻子茨城大副学長)では、つくばエリアについて「教育を目当てに移住する人もいるので、学級数の増を考えてもいいのではないか」とする意見が出た一方、「今、人口が増えているつくば市もいずれ減っていくので、新校設置はあまり現実的ではない」「最終的に生徒が減っていく中、学級数の増をすると、近隣の学校に様々な影響が出る。学級数増については慎重に検討していく必要がある」などの意見が出たことが紹介された。

答申もとに基本プラン策定へ

25日まとまった答申は、来年1月下旬に県教育委員会の柳橋常喜委員長に手渡される。答申を踏まえ来年度の早い時期に、県の全体計画である「県立高校改革プラン基本プラン」が策定され、パブリックコメントなどが実施される予定。

答申の主な内容は、県内の中学卒業者数は1989年の4万9441人をピークに年々減少し、2025年には2万5192人となり、35年には約1万9500人まで減少すると予測されているなどから、中学校卒業者数の変動に対する対応として、生徒数が減少傾向にあるエリアでは、高校規模の縮小が一層進むと予想されるためICTを活用した同時双方型の遠隔授業を推進していくことが求められる。規模が縮小した学校の活力向上を図るため学校連携型キャンパス制のような高校同士が連携する学びの仕組みを一層推進することが重要―などとしている。

学級編成については、小中学校の1学級40人学級から35人学級への引き下げを受けて、特に生徒数の減少が大きいエリアでは、高校の特色の一つとして少人数学級編成を行うことも考えられる。農業、工業、商業学科など学科の在り方については、各エリアの生徒数によっては、複数の学科を総合学科に改編することも考えられるーなど、県全体の生徒数減少に対する対応について方向性を示している。

ほかに、今回の答申では新たに「選ばれる県立高校であるための魅力訴求」についての項目が設けられ、情報化社会の広報について、学校説明会への参加意欲を促すため、学校・学科の魅力や生徒の日常の様子、様々な取り組みなどをウェブサイトを活用して日頃から情報発信することが望ましい。AIなど先端技術については、さまざまなリスクが含まれることも想定され、これまで以上に倫理観や情報リテラシーの育成が求められるーなどが盛り込まれた。

参考資料で示された県全体の今後の募集学級数と定員の推計値は、25年度の全日制県立高の入学者数が1万6098人なのに対し、30年度は1111人減って1万4987人となり、33年度はさらに1438人減って(25年度比は2549減)1万3549人になることが推計されることから、募集学級数は25年度が442学級(募集定員は1万7630人)なのに対し、30年度は30学級減り412学級(1万6430人)、33年度はさらに40学級減り(25年比70学級減)、372学級(1万4830人)となる推計値が示された。(鈴木宏子)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

9 コメント

9 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

自宅に負傷した日本兵がかつぎこまれた【語り継ぐ 戦後81年】1

つくば市 飯田猷子さん(92) 筑波山麓のつくば市神郡に住む飯田猷子(みちこ)さん(92)の終戦は、小学6年の時だった。「戦争には良い思い出がなく、つらいことばかりなので、あまり話したくはない」と言いながらも、80年前を振り返ってくれた。 猷子さんは、室町時代から伝わる、和紙で贈り物を包む礼儀作法「折形(おりがた)礼法」の指導者で、「日本の折形歳時記 礼の心」などの著書がある。 81年前、筑波山麓の上空にはかなりの戦闘機が行き交った。空中戦を繰り返す戦闘機の様子も見られた。筑波山は飛行機にとっては目印なので、かなりの頻度でやってきたのではないかという。近隣の作谷には、落下傘やグライダーを用いて敵地に進むグライダー訓練基地だった西筑波陸軍飛行場があった。 ラジオで空襲警報が鳴ると、各家庭にある防空壕に身を寄せた。辺りが静かになると防空壕から出てくる。1時間ぐらい防空壕に身をひそめていたという。幸い神郡周辺に爆撃はなく家屋に被害はなかったが、近くの山林に戦闘機が墜落する事件があった。村人たちは米兵だと思い、竹やりを持って集まった。ところが、戦闘機に乗っていたのは日本兵。みんなで助け、当時、祖父が区長だったこともあり、猷子さんが住む飯田家にかつぎ込んだ。猷子さんは血だらけの兵士を見てとても怖かったと振り返る。兵士はその後、作谷にあった施設にかつぎこまれ手当てを受け、助かった。後に歩けるようになり、白い患者服を着たままお礼に来たという。 猷子さんは1933(昭和8)年、東京都北多摩(現在 東久留米市)の寺の長女として生まれるが、母の実家だった神郡に2歳で預けられた。その後、猷子さんの叔父にあたる飯田家の長男、次男が中国北部で戦死、3男も入隊したのち病気になり、戦後自宅で亡くなった。飯田家に男子の後継者がいなくなり、猷子さんは祖父母に育てられながら、飯田家の後継者となった。 1945(昭和20)年、戦況がひどくなるころは、通っていた田井国民学校(田井小学校、2018年に廃校)でも授業が少なくなり、サツマイモ作りなど農作業ばかりしていた。「当時の子供は食べるものも食べていないので力も出ず、くわなどの農具がうまく扱えず大変だった」。収穫前に、終戦を迎えた。 8月15日は、自宅で玉音放送を聞いた。意味はわからなかったが戦争が終わったことを知った。うれしいとか、悔しいとか、そういう感情はなかった。子供たちの間では、戦争が終わったのだから、勉強しなくても済むんじゃないかという噂も広がった。ただ「空襲警報もなくなり、戦争から解放されたのはうれしかったと思う」と語る。 猷子さんはその後、土浦の土浦二高に進学、自転車で常陸北条駅まで行き、旧筑波鉄道で通った。北条の坂がつらかった。大学に行きたかったが祖父母の反対で行けず東京洋裁学校をへて、大手電機メーカーに就職、社長秘書として2年勤め、大変勉強になったという。東京にいた4年間は、母親がいる東久留米から通った。 神郡の飯田家で生きていくことを納得し、つくばに戻り23歳で結婚。飯田家を守っていくことになる。一度東京に出たという体験が、田舎と東京の両方を知るという経験になり、田舎の良さや自然のありがたさがわかってとても良かったという。自然が好きで、日本アルプスなどの山を歩いた。「この年齢でも足腰が丈夫なのは若い頃山を歩いて鍛えておいたから」だともいう。 世界各地で今も戦争が続く世の中については「人間の欲望がある限り戦争はなくならない。欲望は人間の力の源でもあるから戦争をなくすのはとても難しい。小さなコミュニティでさえ、争いを起こす、人が争うのは必然のような気がするので、戦争がなくなる世の中は来ないのではないか」と話した。 今は本を読んだり、詩を書いたりして、ゆったりしたときを過ごしている。(榎田智司)

最終話《続・平熱日記》195

【コラム・斉藤裕之】ちょうど24年前、大工の弟と2人でここに家を建てた。その時に内壁に使った漆喰(しっくい)が余ったので、それを木っ端に塗って絵を描いてみた。それから古いハエたたきを見つけて、その朽ちかけた金網に漆喰を塗って最初に描いたのは、小さな木彫りの馬の絵。その絵は手製の額に入れられて今も手元にある。 「平熱日記」と題してその小さな絵を発表したのが今から16年前。その4年後、タブロイド判「常陽新聞」に同じタイトルのエッセイを寄稿し始めた。新聞休刊後は、タイトルを「続・平熱日記」に変え、WEB版「NEWSつくば」に掲載してきた。これまでにざっと350話ほど。 近く「平熱日記」を出版 今年の初め、千曲市にあるアートコクーンみらいの上沢さんから「平熱日記」を本にしてみないかというメールが来た。文章もさることながら、毎回自筆の絵を載せ、それも長い間続いているのがいい、と。そう言われると、「飽きもせずに続いているもんだ」と思わないではないが、毎朝小さな絵を描き、日々の些事(さじ)を言葉でつづることは性に合っていた。 正直うれしかったが、どこか他人事のように感じた。確かに前からそういった声はないではなかったが、「それほどのもんでもない」と本人は思っていた。ところが、彼女はあっという間に立派な企画書を作り(彼女は物書きからスタート)、出版社に話を持ち掛けてくれた。紆余(うよ)曲折はあったものの、本になる算段はついた。 そこで、「続・平熱日記」となってからの200話近くから、約90話を抜粋することとなった。70話前後までの作品画像は、デジカメでWEB用に撮ったので印刷には耐えられそうもない。そこで出版を機に撮りなおすことにした。すでに現物がないものは、仕方なく別の絵の画像に差し替えることにした。 コーヒーの花が咲きましたよ! その作業をほぼ終えた日のこと。NEWSつくばから、同メディアが配信開始から10年になるのを機に、コラムなどの顔ぶれを一新したいと言ってきた。この知らせに私は不思議な偶然を感じた。この夏からしばらく、故郷山口に帰って暮らしてみようと考えていた矢先だったからだ。私は何の未練もなく「続・平熱日記」を終えることにした。それから、このコラム「最終話」を出版される本の「まえがき」にすることを思いついた。 山口に発つ1週間前、スマホに着信が…。「コーヒーの花が咲きましたよ!」。カミさんが生前大切にしていた人の背丈もあるコーヒーの木。その後、わが子のように面倒を見てくれた「サイトウコーヒー」のマスターのやや興奮気味の声だった。送られてきてた、4年越しに咲いた星のような白いコーヒーの花の画像に「いってらっしゃい」と言われているような気がした。 コラム最後の絵は家の扉を描くことにした。家族や友人が出入りした扉。カミさんと結婚パーティーをした、今はなき東京芸大の大浦食堂からもらってきた扉の絵。(画家)

霞ケ浦、中京に勝利し2回戦へ【高校野球’26】

甲子園球場で開催中の第108回全国高校野球選手権大会は9日の第4試合、県代表の霞ケ浦が中京(岐阜)と対戦、6-3で勝利し2回戦に勝ち進んだ。阿見町青宿の霞ケ浦高校ではパブリックビューイングが催され、生徒、保護者、OB・OGら約70人がスクリーンに向かって声援を送った。 霞ケ浦は一昨年の智弁和歌山戦に続く甲子園で2度目の初戦突破。快挙は母校で観戦応援するクラスメートたちにも勇気を与えた。サッカー部3年の濱田晋吾さんは「彼らの活躍が、自分たちも頑張らなくてはと思う原動力になった。次は自分たちがみんなを(全国選手権大会の舞台となる)国立競技場へ連れていきたい」と意気込み、同じく稲葉涼太さんは「普段クラスでは明るく元気な野球部員たちが、スクリーンの向こうで真剣な表情で戦っているのを見て感動した」と話した。 第108回全国高校野球選手権大会 1回戦(9日、甲子園球場)霞ケ浦 001022100 6中 京 100000200 3 霞ケ浦が中京のエースでU-18日本代表候補の鈴木悠悟投手を打ち崩した。3回表、7番・菊地勇一が四球と盗塁で二塁へ進み、9番・相田歩希の左中間への安打で生還。5回にも相田の右前打や2番・村上聖の左翼線二塁打などで2点を追加し、流れをたぐり寄せた。 6回には、それまで精密にコースへ投げ分けていた鈴木の制球が乱れ、2死一・二塁の好機。ここで8番DH(指名打者)野口空真の中前打と相田の右前打で2点を獲得した。相田はこの試合3安打2打点の活躍。7回には中京の2番手投手・西岡海心に対し、村上の中前打と盗塁から犠打、四球で1死一・三塁とし、5番代打・小磯陽希の内野ゴロで1点を追加した。 霞ケ浦の先発は小林将大。高橋祐二監督は「最低でも打者一巡、良ければ5回まで」との目論見で送り出したというが、大きく曲がるスライダーとキレの良いストレートで次々と相手打線をほんろう。初回こそ野手が打球を足に当てる不運もあり1点を失うものの、その後は凡打の山を築いた。7回には相手打線もタイミングが合ってきて1点を奪われるが、この回途中からエース稲山幸汰がマウンドを引き継ぎ、中京の追撃をかわした。 霞ケ浦の2回戦は14日、第2試合で鳴門渦潮(徳島)と対戦する。試合開始は午後4時の予定。

「倭文織」をご存じですか《邑から日本を見る》197

【コラム・先﨑千尋】本コラムをお読みの皆さんは「倭文織」のことをご存じだろうか。私たちは「しづおり」と言っている。「倭文」だけだと、「しどり」、「しずり」、「しとり」、「しつ」などと読んでいる。 倭文織は、藤布、葛布、科布(しなふ)、からむし織などと同じく、山野に自生する植物(楮=こうぞ=など)を素材とした自然布の一つなのだが、いろいろな文献には残っていても現物が存在しないので、どのような織物なのかが分からず、幻の織物とされてきた。 私は35年前の瓜連(現那珂市)町長のとき、この復元に取り組んだ。私の町は奈良時代には「倭文郷(静織郷、しどりのさと)」と言われていた。713年に編まれた『常陸国風土記』久慈郡の条には「郡の西十里に静織の里あり。上古の時、綾を織る機を知る人あらざりき。時にこの村に初めて織りき。因りて名づく」とある。 また、同町にある常陸二宮静神社には、織物の神様・建葉槌命(たけはつちのみこと)がまつられており、織物関係者の信仰が篤(あつ)い。 倭文織を生産する専門的技術者は倭文部(しとりべ)と呼ばれていた。その一人、倭文部加良麻呂は、防人(さきもり)として北九州に派遣され、そのときに詠んだ長歌が『万葉集』に残っている。 私はこのような歴史遺産をよみがえらせようと考え、県の助成を受け、倭文織のルーツ調査を始め、復元のために、原料となる楮の栽培、織る機を購入、技術者を養成した。瓜連小学校には全国初の「しづ織クラブ」も誕生。織物が好きな人たちはグループ「手しごと」を組織し、現在に至っている。 倭文の名を冠した神社は全国に14社あり、関東、山陰、近畿に多い。地名だけだとさらに多く、北は岩手県にまで残っている。苗字が倭文という人もいる。あまり知られていないが、静岡という地名も「しづはた」に由来する。 この織物については、『日本書紀』『万葉集』『古語拾遺』『延喜式』『常陸国風土記』などに記載されており、特に平安時代の『延喜式』には頻繁に登場する。しかし、その素材についての記述はない。 「倭文織」の文献を1冊にまとめて刊行 私はこの時から、倭文織や自然布、古代布などの文献を集めるため全国各地を訪ねた。それが600余になったので、これをまとめるのが自分の使命と考え、5年前に書き始めた。今回やっとそれがまとまり、A4判112ページの『倭文織考』を自費出版した。 その内容は、我が国の倭文織に関する明治以降の研究史、静、倭文、志鳥などの地名、神社名と人名、建葉槌命と関わりのある香香背男(かがせお)、倭文織に関する最近の動向、文献リストなど。これまで目に触れられなかった江戸時代末期の松浦道輔の『倭文考』も、翻刻収録した。表紙は、江戸時代初期に書かれた「常陸名所図屏風」から採った。 本書は非売品。国会図書館と県内の主な図書館、博物館にあるので、関心のある方はそちらで読んでほしい。 最後に。私の筆力が最近衰え、切れ味が鈍くなったので、このコラムは今回でおしまい。長い間のご愛読に深謝。さらば。(元瓜連町長)