【コラム・奥井登美子】私が宝物にしている絵本がある。丸木位里さんと丸木俊さんの、2人のサインの入った「ひろしまのピカ」だ。
「私には子供がいないから孫もいません。でも、これは、孫たちへの遺言なのです。描いたり、消したり、破ったり、ずいぶん長い間かかってしあげました。丸木俊」と、後書きにある。
丸木位里さんの故郷は広島市。広島に原子爆弾が落ちたという報道で、やっと手に入れた汽車の切符で、ふるさとについたとき、広島市は文字通り死の街となってしまっていた、という。
1945年8月6日。世界で初めての原爆は、想像を絶する放射性熱線と爆風によって、広島市民35万人のうち10万人以上の命を奪った。
一般の市民は、戦争中のあくどく強い報道規制で、写真機など、報道につながるものを持って行けなかった。カメラを持っていただけで、警察に連れていかれてしまう。
焼け焦げた残骸だらけの街。何もない中、放射線の熱線を浴び、心臓は細々と機能しているのに皮膚がベロベロに焼け、垂れ下がってしまっている人たち。顔の皮膚、手の皮膚、皮膚がたれ下がったまま、よたよたと歩いている人たち。
放射線を浴びた人間の究極の姿を、丸木位里・俊夫妻は、現実に、自分の目で見てしまったのだ。写真などない中、位里さんはやや抽象的な水墨画、俊さんはそれを油絵に描いた。
うちの2階で丸木位里・俊展
2人はその絵をぐるぐる巻きの巻紙にして、世界中を回って歩いた。土浦にも来てくださった。薬局2階の画廊で、「丸木位里・俊展」。お2人は我が家に泊まり、楽しい時を過ごすことができた。人間の究極の悲劇を見てしまった人の深い優しさは、格別の味がある。
私が霞ケ浦湖岸の葦(アシ)を刈り取って、その繊維で作った粗末な和紙をお見せしたら、俊さんが河童(カッパ)の絵を画いてくださった。私のコラムのイラストの元絵は、この河童たちなのである。(随筆家、薬剤師)
