【コラム・平野国美】私の患者さんの中には、かつて各分野のトップを走り、現在は引退し、老化のために自宅や施設で療養をされている方がおられます。
毎日数時間、机に向かう文系の方もいます。統計データを自室で読めるため、現役時と環境があまり変わらないのだと思います。今でも専門誌に投稿したり、外国の学術書を翻訳している方もおられます。理系の方では、「動物、鉱石、虫、草木と会話できるのではないか」と思われる方もいます。
初診の際には事前に患者さんのことを調べます。病状だけでなく、人生史も把握するようにしています。米国では「あなたの全てを教えてください」と伝えてから初診すると聞いたことがあります。相手やご家族の気質まで把握することも大切です。
1匹のオケラにジャンプ
今回紹介する患者さんは、農学系の方であることはわかっておりました。部屋には昆虫標本こそないのですが、写真や自著が置かれていました。家に戻りアマゾンで調べると、児童や一般人向けの著書が何冊か出ていました。2冊を購入して読むと、独特のウイットがあり、虫好きでない私も昆虫の世界に入れる本です。
父親も蚕種(さんしゅ)系の学者で、内外で活躍された方です。この昆虫博士が虫と出合ったのは疎開先の信州松本でした。家の玄関先を走っていく物体を見つけた瞬間、誰かに体を押されたように地面にジャンプ、1匹のオケラをつかんだそうです。
その瞬間、虫に夢中になり、その世界に入ったとのことです。父親は物理や医学を勧めたのですが、昆虫以外に興味がなかったようです。父親を説得して昆虫研究を支援したのは母君でした。そして、彼は日本を代表する昆虫学者になりました。
診察の際、昆虫ネタを仕入れて診察前に話し掛けました。「いやあ、あなたみたいに虫に詳しい方に会うのは、定年になって以来久しぶりだ。2階に海外で集めた標本があるので、酒でも飲みながら話しましょう」と、声を掛けていただきました。
しかし、「私、残念ながら下戸なんです」と答えると、「では、お茶でも飲みながら」と。私は虫嫌いだと言うと、不思議そうな顔をしていました。私は「こんなに昆虫に傾倒する方がおられるのが面白くて、ここにいるのです」と話し、その日は終わりました。(訪問診療医師)