土曜日, 8月 16, 2025
ホームつくば科博の国産旅客機「YS-11」 航空宇宙技術遺産に認定

科博の国産旅客機「YS-11」 航空宇宙技術遺産に認定

2月からヒロサワで展示

国立科学博物館(篠田謙一館長)が所有する国産旅客機「YS-11」の量産初号機が19日、日本航空宇宙学会から航空宇宙技術遺産に認定された。同機は今年2月からテーマパーク、ザ・ヒロサワ・シティ(筑西市)内の科博廣澤航空博物館で一般公開されている(2月1日付)。

戦後の航空機産業の空白後に、再び航空機設計の基礎技術を確立し蓄積したエポックメーキングな機体であることなどが評価された。

YS-11は、国内唯一の純国産民間旅客機として国の支援を受けて開発され、性能や経済性などが世界的に評価され活躍した。ヒロサワで公開されている機体は量産初号機で、現存するYS-11の中では試作機を除いて最古となる。1965年3月に運輸省航空局(当時)に納入され、日本の飛行安全を確認する点検機として2万時間を超えて飛行した実績がある。

2007年には機械遺産(日本機械学会)、08年には「重要航空遺産」(日本航空協会)に認定された。

羽田空港内の格納庫で保管されていたが、2020年にグラウドファンディングによる支援を得て、筑西市のヒロサワに移設し組み立てられた。21年3月、同館とザ・ヒロサワ・シティが一般財団法人科博廣澤航空博物館(廣澤清代表)を設立し、今年2月11日から一般公開されている。

同館産業技術史資料情報センターの前島正裕センター長は「長いこと保有し、やっと皆さんに見ていただけるようになった中、航空宇宙技術遺産として技術や機体の重要性を認定いただき、感謝申し上げたい。多くの皆さんにご覧いただければ」と話している。

航空宇宙技術遺産は、日本航空宇宙学会が日本の航空宇宙技術発展史を形づくる画期的な製品及び技術を顕彰して、後世に伝え、今後の航空宇宙技術の発展に寄与することを目的に認定している。23年からスタートし、第1号として6件、今年はYS-11を含め8件が認定され、認定件数は計14件になる。今年の8件のうち、2件は国立科学博物館が所有する製品で、もう1件は同館上野本館(東京都台東区上野公園)に展示されている超小型のペンシルロケットが併せて認定された。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

0 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

開拓の地に根を張って 芝と共に歩んだ大日向組合【戦後80年】

黒澤さん夫妻の70年 「当時、2、3年ごとに必ずあったのが春の大霜や夏の干ばつ。苦しい生活にさらに追い打ちをかけるものでした。昔は本当に苦労しました」 長野県大日向(おおひなた)村出身の黒澤武宣さん(83)は、遠くを見つめながら語る。隣には、牛久市出身の妻 美津子さん(77)がいる。ブランド芝のつくば姫、つくば輝、つくば太郎、つくばグリーン等を生み出す日本一の芝産地つくば市。そこで長年、芝生産を支えてきた大穂地区に戦後、黒澤さんら同郷の14家族が入植した。大日向組合による開拓地だ。 陸軍西筑波飛行場跡地 「この滑走路のあたりにあるのが、私たちの家です」 古い地図を指差しながら、黒澤さんが言う。黒澤さんが暮らすのは、つくば市西部にある西高野地区。下妻市に隣接する旧大穂町に位置し、筑波山を仰ぐ自宅の周囲には広い平地に黄緑色の芝畑が広がっている。ここは終戦期まであった旧陸軍による「西筑波飛行場内」の一角にある。「西筑波開拓農協二十年史」(西筑波開拓農業協同組合、中本信治編)によると西筑波飛行場は、旧作谷村(旧筑波町)と旧吉沼村(旧大穂町)にまたがる平地に1939年からつくられた約280ヘクタールの飛行場で、グライダー部隊である旧陸軍第116部隊と117部隊が駐屯していた。戦争末期になると、米軍による爆弾投下や機銃掃射を受け、戦後は一時、占領軍の管理下に置かれていた。 日本は戦後、直面する深刻な食糧不足の解消と、復員兵や引揚者の生活再建を目的に、旧軍用地や未墾地を農地として開墾し、食糧増産と失業対策を同時に進めた。1945年11月、緊急開拓事業実施要領が閣議決定され、約21万1000戸が全国の開拓地に入植した。茨城県には全国の4.2%にあたる262カ所が整備された。西筑波飛行場跡地もその一つだった。 緊急開拓事業の対象地区となった同飛行場への入植が始まったのは終戦翌年の1946年。県内を含む全国から復員者や引揚者らが集まった。黒澤さんがこの地に来たのは1953年だ。先に来ていた祖父を頼り、父と来た。10歳の時だった。50年ごろに同郷の大日向村から14家族が入植し、大日向組合を結成していたという。「西筑波開拓農協二十年史」によると、飛行場内を走る滑走路を中心に、東側に「西筑波開拓」が、西側に「大日向組合」の開拓地が広がっていた。 大日向村から大穂へ 「だだっ広いところだなぁ」。筑波山の麓に広がる平地に初めて立った時、小学5年生だった黒澤さんはあたりを見回しそう思った。故郷の旧大日向村は、長野県と群馬県の境にある山村で、現在は、佐久穂町大字大日向と呼ばれている。山間を流れる抜井川沿いに八つの集落が点在する細長い谷間の村だった。 「生活が厳しいところだった」という。戦前の大日向村住民は養蚕や炭焼きを営みながら、限られた農地で米や野菜を育てていた。1930年代の昭和恐慌の影響で生活は困窮した。生活難を背景に、1938年、村民の約半数が旧満州、現在の吉林省へ渡り、「満州大日向村」を築いた。国策として進められた満蒙開拓の、全国初となる「分村移民」で、国から模範事例と讃えられた。しかし終戦間際にソ連軍の侵攻を受けると、引き揚げまでの約1年間に400人余りが命を落としたとされる。約250人が帰国したものの、多くが満州へ渡る際に土地や家を処分しており村に留まれる者は少なく、再び新天地をめざすことになる。その先駆けとなったのが、1947年、65戸168人による軽井沢町への入植だった。その後、他の土地へも移住者が相次いだ。旧大穂町の「大日向組合」による開拓地もその一つだった。黒澤さんの親族には、満州からの引揚者はいなかった。 2、3年ごとに大霜と干ばつ 黒澤さんは、父親と、先に入植していた祖父に連れられ、2日をかけて大穂にきた。列車で土浦に着くとバスに乗り換え目的地近くの吉沼へ向かった。そこから徒歩で開拓地にたどり着いた。その日はちょうど、大穂が村から町に変わる日で、大勢が役場に集まり祝賀会が開かれていた。バスの車窓から見た活気あふれる風景を今もよく覚えている。 大穂へ来た祖父がくじ引きで割り当てられていたのは、滑走路跡の「砂利だらけ」の土地だった。鍬を振るえば砂利が現れ、作物はなかなか育たない。落花生、スイカ、サツマイモ、麦などを栽培したが、肥料や農薬は乏しく、2、3年ごとに訪れる春の大霜と夏の干ばつが苦しい暮らしに追い討ちをかけた。入植者たちは当初、旧飛行場の兵舎で生活していた。数年後、自力で家を建てたが、周囲に木々は少なく、「燃料はカヤの根を掘り起こして乾かしたものしかなかった」と黒澤さんが話す。 芝栽培が始まり暮らしが安定した 転機は1957年頃。東京から複数の園芸業者がコウライシバ(高麗芝)の種芝を持ち込み、農家に栽培を勧めたのだ。当時、戦災で芝の栽培地を失っていた都内の業者が、首都近郊に新たな栽培地を求めていた。第1次ゴルフブームが到来し、芝の需要が高まっていた時期であり、新たな栽培地として筑波山麓の平地に目をつけた。同時期に、隣接する南作谷の西筑波開拓でも芝栽培が始まった。 黒澤家は当時、大穂町内に支社を構えていた東京・浅草に本社がある「芝万」から種芝を仕入れ、栽培を始めた。周辺には以前から在来の「野芝」が自生しており、入植者らは農閑期の収入源として刈り取り、河川の土手や土木工事用として販売していた経験があった。芝には馴染みがあったのだ。 その後、年を追うごとに芝栽培は少しずつ拡大した。植え付けから管理までを農家が担い、切り取りは業者が行った。1957年頃の第1次ゴルフブーム、1969年頃の第2次ゴルフブームで需要は急増し、関東、東北への出荷ルートが整備され、入植者の暮らしは次第に安定していった。 子ども時代の記憶 入植者の子どもたちは吉沼小学校に通った。文化や習慣の違いから「よそ者」と見られ、集団登校や遊びの輪に入れないこともあったという。当時のことを聞くと、黒澤さんは「涙が出ちゃって、話せないですよ」とうつむいた。電気がきたのは黒澤さんが高校生になってから。それまでは、石油ランプを使っていた。ランプの掃除は、子供の仕事だったし、明かりもなくて「受験勉強どころじゃなかった」と振り返る。 1960年代半ば(昭和40)になると、地元との交流が増えた。地域の人々が協力し、映画上映や踊りの会、遠足などの行事が開拓地でも行われるようになった。 黒澤さんは高校卒業後、試験を経て大穂町役場に就職し、地域づくりに尽力してきた。妻の美津子さんと結婚したのは1970年だった。「仕事一筋、真面目な人」だったと美津子さんが当時の印象を話す。役場は家庭的な雰囲気だった。独身だった黒澤さんを心配した同僚が「黒さんにお嫁をもらう会」をつくっていた。 1987年、4町村合併でつくば市が誕生すると、黒澤さんはできたばかりの市で財政担当として奔走。「ないところに街をつくるという意味では、開拓と似てました。いろんな人の意見に気を遣いながら、無我夢中だった」と当時を振り返る。 過疎化に直面 2人の息子に恵まれて、黒澤さんは役所を定年まで勤め上げた。芝栽培は妻が支えてきた。変化の大きなつくば市で、かつて大日向組合に17軒あった芝農家は今では3軒にまで減少した。後継者不足や、野焼き禁止などの規制が産業を圧迫している。 黒澤さんは「市の中心部が注目される一方で、外側にある多くの地域が過疎化に直面している。よくよくです。耕作放棄地も増えている。置いてかれちゃっている感じがしている」と、戦後70年以上を生きてきた開拓地で黒澤さんは話す。それでも「今でも芝を1町歩作っています」と美津子さんが胸を張る。「私も仕事一筋。百姓やって、子育てして。まだ農業やってます。芝もまだまだ。昔の、死に物狂いでやってきたのを守るっていうのかね。それも、だんだん終わっていっちゃうのかな、と思うこともあります。でも、一生懸命やってきた芝を守りたい気持ちでいます」と美津子さんが前を向く。(柴田大輔)

疎開先で空襲に遭い母に手を引かれ逃げた【語り継ぐ 戦後80年】2

つくば市 山城啓子さん(86) つくば市に住む山城啓子さん(86)は6歳の時、疎開先の福井市で空襲に遭い、母親に手を引かれて逃げた。翌日自宅に戻ると、福井の街は焼け野原になっていた。市街地の84.8%が損壊した福井大空襲だ。1945年7月19日深夜、米爆撃機B-29が127機飛来し、81分間に865トンの焼夷弾を福井の市街地に落とした。2万戸以上が焼失し、9万人以上が罹災し、1900人を超える死者が出た。 啓子さんは東京都文京区湯島で生まれた。父親は沈没船などの引き揚げを行うサルベージ会社に勤務していた。兵庫県西宮市に転勤となり、両親と三つ下の妹の4人で、東京から西宮の社宅に転居した。やがて父親に赤紙(召集令状)がきて、海軍の警備府が置かれていた青森県大湊に水兵として配属された。 1944年、母親と妹の3人で兵庫から青森まで父親の面会に行った。面会室で待っていると向こうから、まるで行進しているかのように両手を大きく振って歩いてくる一人の水兵が見えた。父親だった。何を話したかは覚えていないが、普通の歩き方ではなかった父親の姿だけは今も覚えている。 父親が召集された後、3女となる妹が生まれたが、赤ん坊の時、高熱を出し肺炎で亡くなった。西宮の社宅は母親と娘2人の女ばかりだったので、母親は自身の実家のある福井県に疎開することを決めた。実家近くの福井市内に家を借り、母親と妹の3人で1年ほど暮らした。1945年4月、啓子さんは福井市で小学校に入学した。先生からは、学校の行き帰りに空襲警報のサイレンが鳴ったら、近くの家に駆け込むよう言われた。 こんなに広かったのか 福井大空襲があった7月19日夜は、夕食を食べ終え、買ったばかりのラジオを自宅で聞いていた。突然サイレンが鳴り響き。次第に外が騒がしくなった。当時29歳だった母親は落ち着いて身支度を始め、亡くなった3女の位牌を懐に入れ、まだご飯が残っていたお釜を風呂敷に包んで、3歳の妹をおぶった。啓子さんはモンペ姿で肩に水筒を掛け、防空頭巾をかぶった。ラジオを抱えて持っていこうとしたが、母親から「そんなものいいから」と止められた。母親はお釜を持ったもう片方の手で啓子さんの手を引っ張って逃げた。 外は米軍が落とした照明弾で昼間より明るかった。人々は皆、郊外へ郊外へと一方向に向かって走っていた。母親に手を引かれた啓子さんも郊外へと逃げた。途中、焼夷弾が落ちて燃えている炎を、消そうとしている男性の姿があった。 どこまで逃げたか分からないが、郊外まで来て、啓子さんはそのまま眠ってしまった。翌日、明るくなって目を覚ますと、畑のようなところに大勢の人がいた。しばらくするとB-29が上空を飛行し、また爆弾を落としに来たのではないかと怖くなったが、周りの大人に「爆弾を落としに来たのではなく、偵察に来ただけだよ」と言われた。 お釜に残っていたご飯を食べ、自宅に戻った。途中、焼け跡のあちこちから煙が出ていて、焼けた家の前で立ち尽くす人の姿があった。悲しいとか、そういう感情は無く、焼け野原になった福井の街を「こんなに広かったのかと思った」と啓子さんは当時を振り返る。視線を遮る建物は無く、立っているのは人の姿しかなかった。背負われて母親の背中から焼け野原を見ていた妹は当時のことを「焼け焦げた人を大勢見た」と話すが、啓子さんにその記憶は残っていない。 住んでいたところに到着すると、家は全焼だった。買ったばかりのラジオも焼けてしまった。 その日のうちに母親が実家方面に向かうトラックを見つけてきて、大勢の人とトラックの荷台に乗り、母親の実家に行った。1時間ほどで実家に到着し、そのまま終戦の日を迎えた。 8月15日を過ぎて間もなく、復員した父親が軍服姿で家族を迎えに来た。2、3日福井で過ごした後、父親の実家がある東京に家族4人で向かった。湯島にあった実家は東京大空襲で焼けてしまったから、父親の両親は世田谷区に移っていた。戦後は、戦争中よりも食べ物に苦労した思い出がある。 成人し国家公務員の夫と結婚。40歳の時つくば市に転居した。戦後80年経ち「戦争は人間にとっていいことは一つもない。戦争はどんなにつらいことか。人間は人間を大事にしないといけない。とにかく戦争を起こしてはならない」と、次の世代に伝えたいと話す。(鈴木宏子)

公園から消えてしまったバリケン《鳥撮り三昧》4

【コラム・海老原信一】小さな池のあるつくば市内の公園。そこには一時30羽ぐらいのバリケンが生活していました。環境的にはそぐわないほどの数です。どうしてこれほどの数になったのか? 豊富な食べ物は繁殖を促しますから、人の手による給餌が影響して繁殖が可能になったのでしょう。 「給餌をしないで」との立て看板が設置されたためか、餌は以前よりは少なくなった様子。まかれた餌はバリケンだけでなく、その他の野鳥たちの食料にもなります。当然、バリケンたちの取り分は少なくなり、繁殖への影響も出て来ます。少しずつ減っていくだろうと思っていましたが、急激な減少を見せたのです。カワセミと一緒の写真を撮影したとき、バリケンが2羽になっていました。 バリケンが木の上で休むことはあまり見たことがなく、珍しく思いました。地面より不安定な樹上で休むにはそれなりの理由があるはず…。バリケンにとっては地面が安全でなくなり、樹上へと向かわせたのでしょうが、一体何があったのか私には分かりません。 愛くるしいヒナたち 「思い出していたら悲しくなって涙が…」。写真展で上の写真をご覧になったご婦人の一言です。「いま公園にはバリケンが一羽もいなくなりました。季節には子供が生まれ、その可愛らしさに癒されていました。私ばかりでなく、みなさんヒナたち愛くるしい様に笑顔になっていました。思い出していたら悲しくなって…」。 いなくなった理由は分かりません。バリケンは家禽(かきん)として移入されたもので、それが野生化しました。割と多産で、黄色いヒナたちはにぎやかでかわいいし、見る者をハッピーにする魅力を持っています。ご婦人の寂しさはよく理解できました。 私自身、バリケンのヒナたちの様子を楽しみながら撮影していました。この公園にはもうバリケンが戻って来ないのでしょうか。(写真家)

戦死した兄思い玉音放送聞いた【語り継ぐ 戦後80年】

つくば市 宮田米子さん(93) つくば市北条に住む宮田米子さん(93)は、満州事変が起こった1931(昭和6)年、小田村(現在、同市小田)の農家に生まれた。3人の兄がおり、旧姓は宮川。戦時中は地元にあった国民学校高等科(現在の中学校)に通った。終戦は14歳の時、当時の事はよく覚えているという。 「農家だったから食べるものにはさほど困らなかった。でもコメに麦を8割混ぜた8分の麦ご飯で、おかずは野菜くらいしかなく、ぜいたくはできなかった」と振り返る。当時、農家でない人は、クリやジャガイモを入れ、かさを増して食べていたという。 宮田さんは尋常小学校を出て国民学校高等科に入った。全生徒は30人ぐらいで、近隣の田宮、北太田、山口からも通っていた。小田に住む人の中にも越境して北条の学校に行く子もいた。当時の北条は、石岡、土浦と並ぶ大きな物資の集積地だったということもあった。 国民学校は日中戦争後の1941年に発足した制度で、教育全般にわたって教育勅語に示された皇国の道を修練させることを目指した。それまでの尋常小学校が国民学校初等科、高等小学校が国民学校高等科になり、戦時色がより一層強まった。 「最初は普通に勉強していたが、戦争が進むと、授業も少なくなっていった」という。終戦を迎える年の1945年4月からはまったく授業は行われず「食料増産のための、農作業が主となっていった」と振り返る。 寝転がってはだめ 志願して入隊した次兄は飛行機乗りで、無線通信担当だった。「飛行機から人の姿はよく見える。隠れるときは寝転がってはだめ、しゃがんでうずくまっていろ」と、帰省した際、次兄に忠告された。 小田地区には大きな戦禍はなかったが、それでも登校時などに空襲警報が鳴ると、怖くて(筑波鉄道筑波線の)常陸小田駅の駅舎(現在は小田城跡歴史ひろば)に隠れた。近くの山口地区に爆弾が落ちたとか、機銃掃射があったという話を聞いていたそうだ。それでも筑波山周辺地域で空襲で亡くなった人はいなかった。 筑波地区に初めて空襲警報が鳴ったのは、1942(昭和17)年3月5日だったのを覚えている。北条近くの作岡村(つくば市作谷)には、落下傘部隊やグライダー部隊の訓練が行われた陸軍の西筑波飛行場があり、戦局が進むと頻繁に空襲警報が鳴るようになった。特にアメリカ機動部隊の艦載機1200機が関東各地を空襲した1945(昭和20)年2月16日のものは大きく、朝から夕方まで外出が禁止された。 フィリピンで戦死 長兄の宮川善一は1944(昭和19)年末に赤紙(召集令状)により徴兵され、9カ月後、フィリピンで戦死した。終戦間際、23年の生涯だった。 天皇が終戦を告げた8月15日の玉音放送は、兄の生死がはっきりせず、何か分かるかもしれないと、家族全員で自宅のラジオの前に集まり聞き入った。当時農家でラジオを持っている家は少なかったが、どうしても放送が聞きたくて購入した。近所では兄弟全員が戦死したという家もあったが、兄の死は、まさか家族に戦死者が出るとは思わず、長男ということもあり、生涯忘れられない出来事となった。80年たった今でも、当時を思うと言葉が出なくなり、涙が流れる。 戦後は、国民学校高等科を出て、その後、家の手伝いをして過ごした。ヤミ米が流出していたため、多くの農家と同じように調査が入ったりしたそうだ。 1952(昭和27)年、北条地区の宮田家に嫁入りし、一男一女をもうける。「戦争を体験した人はみな、90歳以上になってしまった。戦争は本当に怖かった。戦後はだんだんおいしい物も食べられるようになった。やはり平和が一番だ。そういう時代がずっと続いて欲しい」と昔を振り返りながら語る。(榎田智司) ➡戦後79年の聞き語りはこちら ➡戦後78年の聞き語りはこちら ➡戦後76年の聞き語りはこちら ➡戦後75年の聞き語りはこちら ➡戦後74年の聞き語りはこちら ➡戦後73年の聞き語りはこちら