【ノベル・伊東葎花】
5歳の夏、弟が生まれた。僕は一週間、伯母の家に預けられた。
伯母は古い一軒家に、ひとりで住んでいた。
慣れない家で眠れずにいたら、天井に黒いシミが現れた。
シミはどんどん大きくなり、やがて液体になって僕の額にポトリと落ちた。
悲鳴を上げたら伯母が飛んできて、背中を優しくなでてくれた。
黒いシミが、じわじわと体の中に入る気がした。
母と弟が退院して、僕は家に帰った。
「卓ちゃんは、お兄ちゃんになったのよ」
母はその日から弟の世話ばかりで、僕は甘えることができなくなった。
ある日僕は、心の中で念じてみた。
「弟なんか消えてしまえ」
すると翌日、弟は高熱にうなされて、生死の境をさまよった。
僕は怖くなり、命を取りとめた弟に何度も謝った。
小学生になり、僕は自分の力を確信した。
いじめっ子に「消えてしまえ」と念じたら、翌日交通事故で入院した。
嫌な先生に「消えてしまえ」と念じたら、翌日不祥事を起こして学校をやめた。
宿題が終わらなくて「学校なんか燃えてしまえ」と念じたら、ボヤ騒ぎが起きて3日間休校になった。
僕は自分の心が怖くなって、念じることを一切やめた。
12歳になった夏、母が原因不明の病気で入院した。
僕は弟と一緒に、再び伯母の家に預けられた。
伯母は僕にだけ、異常なほど優しかった。
弟が寝た後、伯母が僕の顔をのぞき込んで言った。
「ねえ卓ちゃん、伯母さんの子供にならない?」
伯母は、嫁いですぐに夫を亡くして子供がいない。寂しいのは分かる。
だけど僕は、すぐに首を横に振った。
「伯母さん、僕はこの家が怖い。だからこの家の子にはならないよ」
僕は、あのシミを見た夜のことや、その後に起きた不思議な力の話を打ち明けた。
「なんだ。卓ちゃんもそうなの。実は伯母さんにも、その力があるのよ」
伯母は、嫁いで間もないころ、僕と同じ経験をしたそうだ。
「でも、卓ちゃんの念はちょっと弱いね。優しい子だから、本当に消すことは出来ないのね。伯母さんの念は強いよ。意地悪な姑(しゅうと)と小姑、ふがいないダンナ、みんな消しちゃった」
伯母はさらりと言った。笑みさえ浮かべている。
「伯母さん、まさかお母さんに何かした?」
「ふふ、卓ちゃんが欲しいって言ったら断られちゃったから、ちょっと嫌がらせ。ねえ卓ちゃん、私がもっと強く念じたら、あんたのお母さん、どうなるかな」
「やめて」
「ねえ卓ちゃん、伯母さんの子になって」
伯母が手首をぎゅっとつかんだ。やめて、痛いよ、やめて。
伯母の手が急に離れたと思ったら、胸を押さえて苦しみだした。
「えっ、伯母さん?」
伯母の呼吸が止まった。僕は念じていない。僕じゃない。
後ろの襖がすうっと開いた。弟が立っていた。
「ぼく、この伯母ちゃんキライ」
弟の額には、黒いシミがべったりと付いていた。(作家)