【ノベル・伊東葎花】
歩くことが困難になり、施設のお世話になっています。
施設の前には大きな湖があります。湖の向こう側は、私が生まれ育った町です。
晴れた日は高台の小学校が見えます。その先が私の家です。
誰も住んでいません。両親はとうに亡くなり、独り身なので家族もいません。
残された家が不憫(ふびん)でなりません。
「そろそろ戻りましょう」
職員さんが来ました。陽が暮れて、向こう岸にチラチラ灯りが揺れています。
「ねえ、湖の向こう側に行くには、車椅子でどのくらいの時間がかかるかしら」
「丸一日かかりますよ。ここからまっすぐ、橋でも架かっているなら別だけど」
職員さんは笑いながら車椅子を押してくれました。
本当に橋が架かっていたら、どんなに近いでことでしょう。
それから私は、湖のほとりに行くたびに想像しました。ここからまっすぐ、向こう岸まで延びている橋を思い浮かべました。
透明な硝子で出来ている橋はどうかしら。まるで湖の上を歩いているみたいで素敵(すてき)。
そんな夢みたいなことを考えていると、寂しさや不安が消えていきます。
ある日のことです。日暮れまで、湖のほとりで対岸の町を眺めていました。
夕凪(なぎ)の中に、誰かの声がしました。目を凝らすと、向こう岸から誰かが叫んでいます。
「ごはんだよー」と言っています。
母の声です。母が私に向かって叫んでいます。
きっと帰りたい気持ちが、幻を見せているのです。
目が眩(くら)むほどの強い光が湖の上を走りました。
次の瞬間、私の足元から向こう岸まで、橋が架かっていたのです。
それは、私が夢見た硝子(ガラス)の橋でした。
私は立ち上がりました。自分でも驚くほど自然に立てたのです。
あれほど重かった身体が、走り出すほど軽やかです。
橋に足を乗せました。すっかり藍色になった湖の上を、ゆっくり歩き出しました。
時おり魚が跳ねて、小さな水音を立てます。楽しくて、踊るように橋を渡りました。
対岸の町に着くと、一気に坂道を駆け上がりました。毎日のように上っていた坂です。
とうに閉店したはずの駄菓子屋が、店先でラムネを売っています。
「早く帰らないと叱られるよ」
とっくに死んだはずの店のおばちゃんが、笑いながらラムネをくれました。
青い瓶に映った私は、おかっぱ頭の小さな子供になっていました。
家の前に母がいて、「いつまで遊んでるの」と私を叱ります。
夕餉(ゆうげ)のいい匂いがします。
私は振り返り、向こう岸を見ました。
湖のほとりに、空の車椅子がポツンと置かれています。
硝子の橋は、跡形もなく消えていました。
もうあの場所に戻ることはありません。
私は扉を開けて、「ただいま」と大きな声で言いました。(作家)