【コラム・山口絹記】私は手紙を書く。手紙を書くときに考えるのは、便箋と封筒と切手と封の組み合わせ。そして相手に伝えたいことだ。写真を入れるか、挿絵を描くか、なんてことも考える。
手紙を書くときに下書きはしない。構成も考えない。ただ、はじめにどうしても伝えたい一文を決める。それに向かってひたすらことばを繋(つな)いでいく。だから、とんでもないことになる。書きながら、弱気になったり、おどけてみたり、誤魔化(ごまか)してみたり。
どうしてこんなにも大変な労力をかけて手紙を書くのだろう。これはたぶん、ことばに質量を持たせたいからなのではないかと思う。紙に万年筆のインクが染みこみ、やがて水分が蒸発しても、そこには染料や顔料が残る。空気の振動でもなく、0と1の信号でもなく、何かもっと、確かなカタチをもって、伝えたいことがあるのだと思う。
そうして伝えることばに、託したい想(おも)いがあるのだと思う。伝えるべきことは、自分の意思をもって、何を介すことなくできる限りを尽くして伝えたい。だから、手紙を書く。字、汚いのだけど。
手紙を書き始めると「あーあ、ことばなんて」と思うことがある。ことばなんて、くだらない。つまらない。恥ずかしい。どうせことばにしたところで。それでも、伝えたいことをことばにしないのは、ただの怠慢なのだ。うまい言い回しができなくても、ちょっとタイミングが悪くてもいい。
伝えたいことに質量をもたせる
手紙を書いたら、できるだけ早くポストに投げ込む。送ろうかどうかいつまでも迷っていると、相手が消えていなくなってしまうこともある。その手紙は、読む人を失って、机の奥底で静かに死ぬことになる。たまに読み返そうと思うのだけど、その勇気はなかなか出ない。かといって、捨てる勇気もない。そういうのは辛(つら)いからイヤなのだ。
私には、時折思い出したように連絡をとるひとがいた。もう10年以上の付き合いだった。最近、いつものように、ふと電話をかけてみると、通じなかった。なんとなく胸騒ぎがして、書留で手紙を送ったものの、数日後に宛所(あてどころ)がないと戻ってきてしまった。私よりずっと年配で、共通の知り合いもおらず、もうどうしようもない。三十路を過ぎてからというもの、少しずつこういうことが増えてきた。 それでも、私は手紙を書き続ける。伝えたいことに質量をもたせるために。(言語研究者)