月曜日, 10月 19, 2026
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海外サイトで県が販路開拓 技術の粋集めた県産品10点

【山崎実】茨城県は20日から、米国EC(電子商取引)サイトを活用した県産品の販売を開始する。コロナ禍で世界的に市場規模が拡大している海外のECサイトを活用し、県産品を生産する県内事業者の海外販路開拓を支援する。

販売商品は公募の中から10商品を選んだ。いずれも日用品、装飾品などだが、技術の粋を集めた県産品の海外販売だけに、県も意欲的に取り組み、成果を期待している。

販売するECサイトは、米国小売りEC市場の売上シェア4割を占める最大手の「アマゾン」と、売上シェア3位で衣料品から伝統工芸品まで幅広い商品を掲載している「イーベイ(eBay)」。

現地での検索サイト広告や、SNS・動画サイトで、一般ユーザーの投稿と同形式で広告を掲載するなど、販売プロモーションを行う。

米国ECで現地販売する県産品は次の通り。価格はいずれも消費税込み。

▽ハンドメイドによる高級囲碁・将棋盤「囲碁盤」(茨城木工、神栖市、国内価格5万7200~11万5500円)=囲碁・将棋盤の国内シェア8割以上を占める信頼のメーカーによる新カヤの無垢材を使用した高級碁盤
▽風鈴にヒントを得た銅合金製オリジナル打楽器「ミニ凛1オクターブ8音セット」(大塚製作所、水戸市、3万3000円)=精密機械加工技術で銅合金を鐘に加工、シンプルで小さく独特な澄んだきれいな音色と長く続く余韻が特徴
▽世界で唯一の金属製蝶ネクタイ「Metal Butterfly(メタル・バタフライ)」(日青工業、河内町、2万7500円)=精密板金加工の技術をファッションアイテムに応用、実在のチョウをモチーフに1枚のアルミ板から製造
▽Eスポーツ向け本格マウスパッド「ステンレス製マウスパット」(稲見精密、筑西市、1万3000~5万2000円)=特殊表面加工により摩擦を軽減、高級感あるステンレス鋼を使用し耐久性や耐摩耗性がある
▽洗濯洗剤を不要にするマグネシウム製品「洗濯マグちゃん」(宮本製作所、古河市、7590円)=マグネシウムと水の反応を利用し洗濯機に入れるだけで洗剤を使わず洗濯ができる、洗濯槽やホースの美化にも効果あり
▽はすの花をイメージした綿100%風呂敷「風呂敷Lotus(ロータス)・フラミンゴピンク」(プラネッツ、常陸大宮市、3575円)=「風呂敷デザインコンペ2009」で大賞を受賞した呉服店による風呂敷
▽ブラシ専門製造者によるこだわり製造のブラシ「タワシブラシ」(橋本ブラシ製作所、美浦村、2000円)=ねじりブラシ専門製造業者として熟練職人の手と技術で作られた、密度と洗浄効果が高いブラシ
▽広げても折り紙の形に戻る形状記憶レンズクリーナー「PetiPeto(プッチペット)」(南海プリーツ、牛久市、1760円)=折り紙をモチーフにした眼鏡やスマートフォン用ポリエステル製クリーナー、プリーツ加工のため広げても元の折り紙の形に戻る
▽オーガニック100%のこんにゃくで作られた肌ケア用スポンジ「つるりんころりん」(袋田食品、大子町、800円)=コンニャクを素材とし細やかな編み目のためとても滑らかな使い心地
▽世界で唯一のパイプクリーナー機能も持つ洗剤「環境配慮型洗剤 緑の魔女ランドリー」(エーベル・バイオクリーン、龍ケ崎市、大667円、小391円)=環境や健康に配慮、バイオの力でパイプをきれいにする効果もある

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つくばの記憶 1970年代の竹園と千現《デザインを考える》37

【コラム・三橋俊雄】京都では「先の戦い」と⾔えば、「応仁の乱のこと」だといいます。そこには、⻑い歴史の延⻑線上に今の⾃分がいるという感覚があるのかもしれません。では、つくばに暮らす私たちは、このまちの歴史と今の⾃分とを、どこかで重ね合わせて感じることがあるでしょうか。 私は以前から「つくばの根っこ」を知りたいと思い、つくばの語り部の⽅々から話をうかがってきました。今回は、研究学園都市の建設が始まった1970年代の⽵園や千現での暮らしについてのお話です。 道路はぐちゃぐちゃだよ つくばに移ってこられた人たちが、どのように買い物をし、⼦どもたちはどこで遊び、住⺠同⼠はどのような関係を築いていたのか。そこには、今では⾒ることのできない⾵景や暮らしがありました。その1ページを、EHさんの記憶からたどってみたいと思います。 EHさん⼀家は1972年、⽵園の公務員宿舎101棟に⼊居しました。翌年、108棟に移り、1978年には千現に家を建てました。この分譲地に家を建てたのは、EHさん⼀家が最初だったといいます。 前年の1971年、初めて現地を訪れたときのことを、EHさんはよく覚えています。⼟浦から来て「倉掛」でバスを降りたものの、周囲には何もありません。遠くに公務員宿舎らしき建物が⾒え、⾏き⽅を尋ねると、「奥さん気をつけな、道路はぐちゃぐちゃだよ」と⾔われました。農道のようなぬかるんだ道を歩いて⽵園までたどり着きました。当時、まだつくば市は存在せず、市が誕⽣するのは1987年のことです。 1972年に⼊居したころも、101棟にはまだ2家族ほどしか住んでいませんでした。街灯もなく、夜になると真っ暗でした。造成中の東⼤通りでは、住⺠の⼥性たちが⾃転⾞の練習をしていました。⾵が吹けば⼯事現場の埃が舞い、初夏にはカエルの声が聞こえました。 買い物も不便でした。研究所から⼟浦へ買い物⽤のマイクロバスが週に2回ほど出たほか、現在も銀⾏の建物が残る付近には、⼟浦から⾁屋などが出張販売に来ていました。倉掛にあった吉⽥商店も貴重な店でした。 じゃあここに住もうか しかし、不便だったからこそ、住⺠同⼠のつながりは強かったといいます。農協から野菜や鶏をまとめて買い、みんなで分けました。洗濯物を干している家には「⾬が降ってきたわよ」と知らせたり、「たくさん買ったから半分分けるわよ」と声を掛け合ったりしました。⼦どもたちは棟の前に出したビニールプールで⼀緒に遊び、⺟親たちは習字やピアノ、英語など、⾃分のできることを近所の⼦どもたちに教えました。 保育所がなかったため、住⺠たちは桜村の村⻑に掛け合い、保育所をつくってもらいました。⽣活に必要なものを、住⺠⾃⾝が声を上げながら、ひとつずつ実現していった時代でもありました。 EHさん⼀家が千現に住むことになったきっかけも、当時のつくばの様⼦をよく伝えています。⽵園に住んでいたころ、息⼦を二の宮のプールへ連れて行く途中、辺りには松林が広がり、ウグイスが鳴いていました。息⼦が「とってもいいところだね」と⾔い、その⼀⾔をきっかけに「じゃあここに住もうか」と、千現に家を建てることを決めたといいます。 まちは変わり、それを覚えている⼈たちの記憶もやがて失われていきます。⼀⼈ひとりが⼼に刻む「つくばの暮らしや⾵景の1ページ」を集め、未来へ⼿渡していく。それもまた、今を⽣きる私たちだからこそできる、わがまちの歴史を紡ぐ営みではないでしょうか。(ソーシャルデザイナー)

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土浦の花火100年の紡ぎ ⑽《見上げてごらん》57

【コラム・小泉裕司】土浦の全国花火競技大会は1992年以降、新たな挑戦の歴史に入る。今回は、その主な動きを記しておきたい。 1992年:土浦と大曲の大会名の違い 秋田県大仙市の大曲の花火大会名は「全国花火競技大会」だが、土浦は「土浦」を冠している。同じ内閣総理大臣賞が授与される大会なのに、なぜ名称が違うのかと疑問に思う方もいるかもしれない。実は、かつては両大会とも「全国花火競技大会」の名称で開催されていた。1992年、両大会の区別を明確にするため、土浦が現在の名称に変更し、今では全国的に定着している。 2000年:審査基準の差別化 内閣総理大臣賞の創設に当たり、国から「明確な審査基準を設けなければ、賞を授与することはできない」との条件が示された。そこで、大曲の審査基準を参考にしながらも、土浦らしい基準を熟考。3部門の優勝者から、煙火技術の向上に寄与するとともに、観客に感動を与えた作品を総合的に判断して選ぶこととした。 一方、大仙市の大曲「全国花火競技大会」では、全4部門の総合評価(合計得点)が最も高かった花火業者に、内閣総理大臣賞が授与される。 2000年:土浦花火づくしの感動 この年に始まった「土浦花火づくし」(9月20日付コラム)は、当初一度限りの予定だったが、反響が大きかったことから継続開催が決まった。現在も日本煙火協会茨城地区会の6社が企画・打ち上げを担い、競技花火とともに観客に感動を届けている。 2011年:余韻に浸るエンディング花火 第80回記念大会では、来場者への感謝を伝えるとともに、花火の余韻に浸りながら帰路についてもらおうと、「エンディング花火」を企画した。7号玉80発を音楽に合わせて打ち上げた。この企画を機に、翌年以降も大会回数と同じ数の花火を打ち上げることとなった。 2014年:競技開始前にレクチャー花火 第83回大会からは、花火をより身近に感じ、競技大会を一層楽しんでもらうための取り組みも始まった。「レクチャー花火」は、花火の種類や星の開き方などを事前に解説し、理解を深めてもらう企画で、伝統的な菊花火から最新の点滅花火、人気の冠菊など10種類の5号花火を打ち上げる。 2014年:超人気の花火師登場 花火師たちを紹介するとともに、前大会の内閣総理大臣賞受賞者があいさつし、花火師たちの意気込みを伝えるものだ。当時、県外の花火大会では、打ち上げ終了後に花火師と観客がエールを交換する取り組みが始まっていた。堤塘(ていとう)など地形的な制約から同様の演出が難しい土浦が、知恵を絞って生み出した企画である。いずれも好評を博している。 2025年:規制退場待ちにアフタートーク 2025年の100周年記念第94回大会では、コロナ禍を経て導入された規制退場に協力し、退場を待つ来場者への「おもてなし」として、花火鑑賞士やラジオ解説者によるトークショーを場内放送した。当日の競技大会の感想や審査結果の予想などを語る企画は好評を博し、今年も実施に向けて準備を進めている。 営々と築かれた歴史に安住せず、「新しい挑戦」と「おもてなし」を追求する実行委員会。「お越しいただいた皆さんに楽しんでもらいたい」という一心で創り上げられる「土浦の花火」の進化は、これからも止まらない。 さあ、今年も土浦の夜空を舞台に、心を揺さぶる感動の時間が幕を開ける。本日はこれにて打ち留めー!(花火鑑賞士、元土浦市副市長) <参考文献>「花火と土浦」(土浦市、2018年)「土浦と大曲の友情物語」(2023年製作)※YouTube動画(15分)配信中

帰郷の理由《短いおはなし》56

【ノベル・伊東葎花】都会暮らしをやめて、故郷に帰ることにした。忙しさを言い訳に、かれこれ15年も帰っていない。 「もしもしお母さん、明日帰るから」 「えっ、何で帰るの?」 「何でって、何でもいいでしょう」 「よくないでしょう。何で帰るのよ」 「なに、迷惑なの?」 「違うよ。何で帰るのか、聞いてるだけよ」 「もういい。とにかく帰るから!」 覚悟を決めて電話したのに、何だか拍子抜け。娘が実家に帰るのに理由が必要?しかも15年ぶりに帰る一人娘に、第一声がそれ?まあ、帰らなかった私も悪いけど、「待ってるよ」くらい言ってもよくない? そもそも理由なんてひと言じゃ言えない。40歳手前で10年付き合った男と別れて、仕事に生きようと思ったら新任の上司とそりが合わずに転職。転職先は信じられないブラック企業で即辞表。おまけにアパートのオーナーが変わって、立ち退きを要求された。ここ1年でいろいろあって疲れちゃった。貯金があるうちに、地元に帰ってやり直そうって思った。とりあえず帰って、落ち着いてからゆっくり話すつもりなのに、いきなり理由を聞くなんて。もしかして、15年も帰らなかった仕返し?まあいい。とにかく帰る。今の私にはそれしかないんだ。 在来線に揺られること3時間。乗り継ぎのローカル線で30分。懐かしい駅は変わっていない。ああ、なんて静か。のんびりしている。山が近い。実家はここからバスで30分。時刻は午後5時。もう辺りは暗いし、少し寒い。早く帰ろうとバス停に向かったら、バス停がない。嘘でしょう? 通りかかった自転車の高校生に尋ねてみた。「バス、ないですよ。3年前に廃線になって、今はありません」なんですって? 確かに私がいたころから乗る人まばらだったけど、まさか廃線?すぐに母に電話をかけた。しゃくだけど迎えに来てもらうしかない。 「お母さん、バスないんだけど」 「そうそう、なくなっちゃったのよ」 「あのさ、悪いけど迎えに来てくれる?」 「無理よ。お母さん、70歳過ぎてから免許返納したんだわ。今はほら、ネットスーパーもあるし、乗り合いタクシーもあるからね」 「えー、じゃあ私、どうしたらいいの?」 「だから聞いたでしょう。何で帰るのって(バスないけど)」 「えっ、何で帰るって、そういう意味?」 「あんた、電話切るの早いから。タクシー乗りなさい。5千円くらい持ってるでしょ」 げげ、タクシー代が5千円? 田舎なめすぎてた。 私は、山道を走るタクシーのメーターが、どんどん上がるのを眺めながら思った。 「まずは免許取ろう」 懐かしい家に帰ると、お母さんはご馳走を作って待っていた。 「ああ、久々のお母さんのご飯、おいしい」 「ところであんた、何で帰って来たの?」 「え、電車とタクシーだよ」 「そうじゃなくて、何で帰って来たの?」 「だから電車とタクシー」 「いや、だから、そうじゃなくて何で帰って来たの?」 「だから、電車と……」 日本語ってややこしい。  (作家)