火曜日, 4月 21, 2026
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《邑から日本を見る》74 安倍政治を検証する(4) 福島の汚染水と東海第2

【コラム・先﨑千尋】安倍政治検証の最後は原発問題だ。「フクシマについて、ご案じの向きには、私から保証をいたします。状況は統御(アンダーコントロール)されています」。2013年9月、アルゼンチンで開かれたIOC総会で安倍首相はそう演説した。帰国後、安倍氏は「汚染水の影響は、湾内の0.3平方キロの範囲で完全にブロックされている。汚染水処理は国が前面に出て、私が責任者として対応したい」と言った。

しかし7年たった今でも、汚染水の流出は1日平均で180トン。止まっていないのだ。この汚染水は多核種除去装置(ALPS)で浄化しているが、それでもトリチウム、セシウム、ストロンチウムなど63種類以上の放射性物質が溶け込んでいる。処理水を詰めたタンクはすでに1000基を超え、限界に近づいている。

この汚染水について、原子力規制委員会の田中前委員長、更田現委員長は、トリチウム濃度を告示濃度以下に薄めて海に流せ、と発言してきた。所管の経産省はこれまでに有識者会議や小委員会を開き、地層注入、海洋放出、コンクリート化して地下埋設、水蒸気にして放出、水素にして大気放出―の案を検討し、委員会はこの2月に「現実的な選択肢は海か大気への放出で、海洋放出の方が確実に実施できる」という報告書をまとめた。

地元ではこの問題をどう受け止めているだろうか。朝日新聞と福島放送が今年2月に行った世論調査では、汚染水を薄めて海に流すことに賛成が31%、反対が57%だった。福島県議会は丁寧な意見聴取や風評被害対策を求める意見書を採択し、郡山市、浪江町議会など13議会が反対、8市町村が慎重に検討するよう求める意見書を採択している。地元の大熊町と双葉町の町長は保管継続に反対の考えを表明。福島や茨城、宮城などの漁業団体などは強く反対している。

メルトダウンを起こした3基の原子炉内部には溶け落ちた燃料デブリがそのまま残され、廃炉の見通しは立っていない。安倍氏は世界に「アンダーコントロール」と見栄を切った。しかし安倍氏はフクシマの解決策を示さないまま逃げていく。

負の遺産だけを残し去った

東海第2原発の再稼働についても同じだ。本欄で何度も書いてきたように、東海村にある日本原電東海第2発電所は世界で最も危険な原子炉と言われている。それを20年延長して再稼働させるというのが国の方針だ。

東海第2の30キロ圏内には100万人近くの人が住んでいるし、日立製作所などの大工場が林立している。首都圏にも近い。国、原子力規制委員会、日本原電は「事故が絶対に起きない」とは言明していない。

マスコミ各社の世論調査や那珂市のアンケートでは、県民、市民のおおよそ3分の2が再稼働に反対だ。民意を無視する国の姿勢は沖縄でも見られるが、東海第2が再稼働し、事故を起こしたらどうなるか。影響は私たちだけでなく、首都圏が壊滅し、日本は沈没してしまう。そのとき誰が責任を取るのか。取れる訳がない。

コロナ以後の世界と日本の社会の仕組み、経済構造は、確実に変わる。エネルギーの使い方も大きく変わる。安倍氏は負の遺産だけを私たちに残し去っていった。私たちは、国が言うから「働き方改革」をするのではなく、自分自身の生き方、国と私たちとの関わり方などを考えるいいチャンスを与えられた、と考えたい。(元瓜連町長)

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土浦の花火100年の紡ぎ(4)《見上げてごらん!》51

【コラム・小泉裕司】戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の統治下にあった1945年10月、火薬類の製造は全面禁止となった。再び製造・販売が許可されたのは、3年後の1948年8月1日である。同日、東京・両国では「川開き花火」が8年ぶりに再開された。のちにこの日は「花火の日」に制定されている。さらに同年9月22日には、戦後初の競技会とされる「第1回全国花火コンクール」が隅田川で開催された。 このコンクールの目的は、花火師同士が切磋琢磨(せっさたくま)し、色彩や造形美といった品質を極限まで高めることにあった。同時に、もう一つ重要な役割を担っていた。それは、花火の輸出振興を目的とした「プロモーションの場」である。海外バイヤーに対し、「日本の花火は世界一である」ことを示すショールームとしての機能を果たしていたのだ。 終戦からわずか3年。深刻な物資不足とインフレに直面していた当時の日本にとって、外貨獲得は至上命題であった。繊維製品や雑貨と並び、伝統技術の結晶である花火もまた、戦略的な輸出品として位置づけられていく。 茨城が誇る「輸出花火」の輝き こうした国策の流れは茨城にも波及する。1953年の「いはらき新聞」によれば、野手火工や茨城火工があった下妻地方では、特産の玩具花火が同地方の出荷額第3位を記録した。輸出先は南米にまで及び、まさに輸出産業の花形であった。 土浦火工もまた、輸出に心血を注いだ企業の一つである。海外の環境に対応するため、防水スプレーを塗布するなどの工夫を重ね、アメリカを中心に各国へ花火を送り出した。 こうした功績が評価され、1961年には「土浦の花火」大会の最高賞として通商産業大臣賞が授与された。さらに1962年から10年間、大会名称に「輸出振興」の冠が付されたことは、高度経済成長期という時代を象徴している。 進駐軍を魅了した「日本の花火」 一方で、土浦の花火には興味深い記録が残る。火薬製造が禁止されていたはずの1946年9月30日に、すでに「第14回大会」が開催されていたというのである。1948年の両国花火再開よりも、実に2年早い。 背景にあったのは進駐軍の存在だ。当時、米軍は独立記念日などにキャンプ地で花火を打ち上げており、国内の催事でも司令官の裁量で許可が下りる場合があった。1946年、水戸に置かれたGHQ茨城軍政部に着任したリンボー少佐は、故郷のナイアガラの滝を懐かしみ、花火の打ち上げを要望したという。 これを受けて県内の花火師が招集され、土浦観光協会の主催により、9年ぶりの大会が実現した。リンボー少佐ら幹部将校30人余りが、友末知事ら県幹部とともに観覧したと伝えられている。日本の花火に魅了されたGHQが花火師たちの訴えに耳を傾けたことが、1948年の製造解禁を後押ししたとも言われている。 歴史の転換点を経て しかし1970年代に入ると、転機が訪れる。人件費の高騰や円高、さらに安価な中国製花火の台頭により、花火の輸出は次第に縮小していった。 現在の「土浦全国花火競技大会」は、輸出振興よりも芸術文化の継承や観光振興の側面が強い。しかし、その根底には「日本の匠(たくみ)の技で世界を魅了し、国を豊かにする」という、戦後を駆け抜けた花火師たちの熱い志が、今も確かに息づいている。本日はこれにて、打ち留めー。(花火鑑賞士、元土浦市副市長) <参考文献>「下妻市史」(下妻市史編さん委員会、1995年刊)「日本の花火のあゆみ」(武藤輝彦、あずさ書店、2000年刊)「花火の事典」(新井充、東京堂出版、2016年刊)「花火と土浦」(土浦市、2018年)「花火師たちの記憶/DVD」(㈲茨城ビデオパック、2025年完成)