火曜日, 3月 31, 2026
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利活用方針出せず、改選後に持ち越し 旧総合運動公園用地 つくば市議会

【鈴木宏子】住民投票で白紙撤回となったつくば市の旧総合運動公園用地(同市大穂、高エネ研南側約46ヘクタール)を民間に一括売却するという市の方針を調査検討する市議会調査特別委員会(小久保貴史委員長)が、9月議会開会日の27日開かれた。利活用方針について任期中に結論を出すことができず、改選後に持ち越しとなった。

市議は今年秋に改選となることから、9月議会が任期中の最後の定例会となり、利活用方針の提案が待たれていた。

同日開かれた調査特別委では、小久保委員長から中間報告の提案があった。内容として「新型コロナ感染拡大の影響で議会活動の自粛を余儀なくされ、論点整理後の議論の場を持つことができなかった」とし「改選後も引き続き調査検討を重ねていく」とする案が示され、全会一致で了承された。9月議会最終日の9月18日、本会議で報告される。

一方、委員からは「(前回の市長選で)市長が(元所有者のUR都市機構に)返還するという大きな公約を出して、売却に変わり、(利子も含め)28億円マイナスを出しても売るということになった。今は利活用に流れが変わってきているが、特別委を設置したときは3月までに結論を出そうということになっていた。ずるずるして、4年間何も結論が出ないまま。新しい議員で検討するというが、こういうことをやっていると市民の期待に沿えない」「改選後(の議員)に縛りをかけるのは極めて異例」などの意見が出た。

小久保委員長は取材に対し「委員会として一つの方向にまとめるまでには時間が足りなかった」と説明し、「(市の方針に対し)反対、賛成と両方の立場があった。論点整理をして、それぞれの考え方の共有まではできたが、事業を(提案)する場合の財政面の検討や実現性を含めて、(議会の意見を)まとめるには時間が足りなかった。ただし議員それぞれの考え方は見える化されたと思う」と話した。

市は陸上競技場の検討開始

旧総合運動公園用地をめぐっては昨年3月、五十嵐立青市長が一括売却方針を示し(19年3月20日付)、4月に事業提案を公募した(同4月26日付)。結果、1社から、40億円で用地を購入し、倉庫や大型商業施設、老健施設などとして利用するという提案があった(同8月19日付)。

その後、9月に住民説明会が開かれたが、一括売却に異議を唱える意見が相次ぎ(9月7日付)、市議会に調査特別委員会が設置された(9月27日付)。

特別委では多数の委員から、一部公共利用すべきだとする意見が出された。具体的には陸上競技場、屋内プール、アリーナ、避難所、防災拠点、道の駅、市営墓地、研究所などの提案が出た(同11月7日付)。この間、計4回の委員会と3回の勉強会を開いたが、意見をまとめることができなかった。

一方、市執行部は、調査特別委が設置されたのを受けて、議会の結論を踏まえる方向に転換し、昨年9月以降、売却に向けた手続きをストップさせた。しかし議会の結論が見えない中で、市は7月に陸上競技場整備基本構想策定検討会議を設置し、旧総合運動公園用地も含めて場所や規模の検討を開始している(7月31日付)。

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好きな「もの」や嫌いな「もの」とは何なのか《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》8

【コラム・1年 秋山節】好きなものと嫌いなものは誰にでもある。私にももちろんある。極端なぐらいに。私が嫌っているものが、誰かの好きなものでもある。好き嫌いとは他者を傷つけるものではないのだろうか。そんな懸念が浮かんだ。 嫌いなものがあるのはなぜか? そして乗り越えることはできるのか? これらの疑問に、このコラムの分析を通じて解答することを試みたい。ただし、分析では「もの」(物や者を指す)に対する好き、嫌いのみを対象としている。人に向ける好き嫌いと「もの」に向ける好き嫌いは性質が異なるため、家族や友人などの対人関係の好き嫌いは扱わない。 1 私の好きな「もの」と嫌いな「もの」好きなものと嫌いなものの分析をするために、私自身の例を出すことを許していただきたい。心理的な行動を観察しやすいからだ。 1.1 好きなものについて実際にどんな「もの」を私は好きだと認識しているのだろうか。一部に過ぎないが、列挙してみよう。 ・吉松隆氏(作曲家) ・現代音楽(音楽のジャンル) ・ウィッチウォッチ(漫画/アニメ) 音楽に偏っていて申し訳ないばかりだが、どうして私は好きになったのだろうか。その過程でどんなことを思ったのかを述べてみる。 まず吉松隆氏について。私は作曲を行っていて、彼は作曲を独学で学んだということが、今の私と共通している(といいが)。私は共感し、目標としているのだ。なお吉松氏は確かに人であるが、家族や友人などの対人関係とは異なるので、ここでは「もの=者」に対する好き嫌いとして扱うことができる。 続いて現代音楽について。現代音楽は大ざっぱに言うと、現代版クラシック音楽といったところだ。人によって現代音楽の定義やそもそも定義するのかということで、見解が分かれるところだが、むしろ私にとっては現代音楽の語は重要だ。理由はいくつかあるが、一つはコンサートに行く度に、録音を聞くたびに発見があり面白いということ。時間をかけて音楽のいろいろな部分を聞き込んでいけるのが魅力だ。また、型破りや常識破りが常識になっているので、作曲家がどんなことを考えて書いているのかやどういった構造になっているのかなど、考えるべきことがたくさんある。一歩足を踏み入れるとなかなか抜け出せないもので、是非ともその一歩を読者の皆様にも踏み入れていただきたいと思っている。最後の一つは、全くこれまでとは異なったもので、ある人とは違う音楽を聞きたかったということだ。ただ、誤解のないように申し上げると、音楽に優劣をつける気はないし、このネガティブな面は全て私の私見で、その上もはや克服されているということだ。つまり、出会い、内容、自分の置かれた環境が総合的に作用した結果、現代音楽が好きなものとして認識されるに至ったのだ。 そして、ウィッチウォッチについて。これは、週刊少年ジャンプで連載されている漫画で、アニメ化もされている作品である。私は偶然スマートフォンでこのアニメを見つけた。高校入学当初の不安定な心理において、この作品の笑いあり涙ありの内容が支えになった。特に、このアニメを見ている人が他にもいると知ったとき、非常にうれしかったことを覚えている。人との交流を実感できたのだ。特殊な条件下で救いとなった作品である。 1.2 嫌いなものについて好きなものと違い、嫌いな「もの」といって浮かぶものは案外少ない。 ・「ある音楽」 ・蟹(かに) 「ある音楽」は嫌いなものとして認識されているが、実際に聞いてみると、むしろ好きなものに近いように思われることもある。このように矛盾した状況において、かつて嫌いな理由をこじつけたことがあったが、納得することはできなかった。実は、好きなものについてで述べたように、ある人が聞いていたから好きではなかったのだ。こう考えたとき、非常に腑に落ちる感覚があった。即ち、私が嫌いだったものは「ある音楽」そのものではなく、その人が聞いている音楽だったということだ。 蟹はかつては北海道から送ってもらうほど好きだったが、今では匂いや味を思い出すとどうしても食べる気が起こらない。 今挙げた二つの例では、接近を忌避したいという感情がいずれも生まれている。 1.3 好きなものと嫌いなものに共通する背景こうして見たいくつかの例を、私が感じた感情を基に分類してみると、次のようになる。 A 好き  a 強い 現代音楽、ウィッチウォッチ  b 弱い 吉松隆 B 嫌い  a 強い  「ある音楽」  b 弱い 蟹 何がこの違いを生んでいるのだろうか? その原因について次の章で考察を進めていこう 2 人間関係と好き嫌いの関係について 2.1 好きでも嫌いでもない「もの」私はアマゾンの密林の名前も知らない果物が好きだろうか? そんなことはない。知らないものを好きになることも嫌いになることもできない。つまり、知らない状態から知っている状態への遷移が、好きと嫌いの境界を調べるうえで必要なことになる。 好きなものと嫌いなものが生まれるまでの段階は次に掲げる図のようなものだと考えられる。 何らかのきっかけで知らない「もの」が知っている「もの」に変化する。契機は私の例を見て分かるように、どんなものであってもよい。そして、その「もの」に対する接触時間によって好き・嫌いが明確に定まるか、好き嫌いがほとんどない(好き嫌いが明確に定まらない)かに分離する。もちろん知らないものは知らないままで、好き嫌いは存在しない。 ただここで注意しなければならないのは、接触時間によって好き嫌いが明確に定まるかが決まるということである。心理学では単純接触効果と呼ばれ、日本心理学会によると「ある刺激に触れれば触れるほど,それを好きになっていく現象」(*脚注)である。接触時間が長ければ、ある物事の情報が常に入ってくるので、好きか嫌いかが明確に定まるという意味での関心が持続し、短ければ反対の結果をもたらす。つまり、接触時間が変化するとそれに伴って好き嫌いが明確に定まるかどうかも変化するということである。接触時間によって関心が変化した私の例をあげてみよう。私はかつてハリーポッターシリーズを何度も読み返していたが、今や設定もあまり覚えていないほどである。 ここで問題になるのは、どうして一瞬の邂逅(かいこう)から、長い接触時間が得られるのかということだ。私はその原因を人間関係に求められると考えている。まずは人間関係の考察から始め、続いて好きと嫌いとその程度を人間関係と関連づけて考えることにする。 2.2 人間関係の強度と種類人間関係は様々だが、どれだけ相手との強いつながりがあるかという観点では異なっている。相手とのつながりの度合い、言い換えると人間関係の強度は、相手と会っている時間によって数値的に考えると良い。強度が最も高いのは、家族や友人だ。反対に、通学バスで会う人々は、その時間が極めて短く、強度は低い。 一方で人間関係は、どのようなことを感じるかによって、異なる二つに類型化しうる。 1. ポジティブ 2. ネガティブ x. 流動的 この定義は大枠を示したに過ぎず、なぜポジティブやネガティブだと感じるのかは人によって異なる。私の場合は、相手との関係が対等だと認識したときにポジティブな関係と感じ、相手との関係が対等ではない、つまりは上下関係を感じたときにはネガティブな関係と感じる。また、二つの型の他に流動的という例外を設けた。それは、初めて会ったばかりの相手の場合は、人間関係が構築されるのに時間を要するため、その間は人間関係の分類は定まらないからである。 2.3 人間関係と好き嫌いの関係私は好きと嫌いが生まれる要因は、「もの」の背後にある人間関係がその人物にとってどのようなものなのかに依存すると考えている。 まずは人間関係の強度と好き嫌いの度合いについて見てみよう。図1で示したように、接触時間が短いと、好き嫌いはほとんどなくなる。そのため、好き嫌いそのものに踏み込む前に、接触時間と人間関係の関係を明確にする必要がある。 人間関係の強度が高ければ高いほど、つまり、よく会う相手との人間関係ほど、「もの」について、継続的に情報をもたらしやすくなる。長い接触時間が得られ、ある「もの」に「関心」があるままでいることができるのは人間関係の強度が高いからである。このことから、人間関係の強度と好き嫌いの度合いには、いわば比例関係があることになる。人間関係の強度を横軸に、好き嫌いの度合いを縦軸に取って、グラフで整理することができる。 そして、このグラフは人間関係の強度と好き嫌いの度合いだけを示し、好きか嫌いかは示していないので、好きな「もの」と嫌いな「もの」は人間関係そのものやその捉え方によって、同じ度合いのまま入れ替わる可能性を示唆している。 続いて、人間関係の分類と好き嫌いはどのように関わっているのかを考察しよう。人間関係のそれぞれの分類について、好き嫌いと組み合わせて考えてみる。 まず、ポジティブな人間関係について。大原則は、相手の考えを受け入れるということである。相手の考えを受け入れるということは、相手の好きな「もの」を好きだと捉えるようになるということである。また、これは相手にも言えることで、人間関係という相互関係の中で好きな「もの」が構築されていくと考えられる。 一方、ネガティヴな人間関係では、相手の考えを否定しようとする。そのため、相手の好きな「もの」を嫌いになる。 流動的な人間関係では、上の二つのことの両方が生じるだろう。 以上の二つが組み合わさることで、曖昧に見えた好きと嫌いの境界線がいわば画定されるということである。先に述べた好きと嫌いの具体例を再掲する。 A 好き  a 強い 現代音楽、ウィッチウォッチ  b 弱い 吉松隆 B 嫌い  a...

なぜ私たちはフィクションを求めるのか《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》7

【コラム・1年 H.O】フィクションには、人間を一時的に現実世界の憂慮から離す力がある、と私は思っている。 学校で、哲学部とともに文芸部にも所属する私は、小説などのフィクション作品を作る担い手であり、フィクション作品を鑑賞する立場でもある。そんな私がフィクションに触れるのは、自分の感じたい感情のため、あるいは作品づくりの勉強をするためというのが主な理由だ。ただ、その根底にあるのは、フィクションという空想の世界に一時的に没入して、悩んでいることから離れたい、もしくは他の人にも自分の作品で嫌なことを一時的に忘れてほしいという思いだと思う。 なぜ私たちはフィクションを求めるのだろうか。私たちの身の回りでは、さまざまな出来事が起こっている。わざわざ架空のものを求める必要性は何なのか、と私はふと思うこともある。おそらく、フィクションを必要とせず、普段ほとんど接することがない、という人もいるだろう。 ここでは、改めて私たちがなぜフィクションを求めるのか、私の経験などをもとに考えていきたい。この文章を読みながら、あなたも一緒に考えてみてはいかがだろうか。 「作られたストーリー」だからこそ可能なこと フィクションを読む理由の一つとして、冒頭でも述べた通り、自分の感じたい感情のためというのがあると思う。これは私がフィクションを求める大きな理由だ。 ある日のこと、私はクラスの人からお菓子をもらったのがうれしかったので、親にその旨のLINEを送った。また、その日返却されたテストの結果が良かったので、その点数も送った。しかし、全て送った後に何か違和感を感じて、自分が今開いているトークルームを確認してみると、それはクラスのトークルームだった...!  慌てて消そうとしたため、間違って「送信取り消し」ではなく「削除」という自分の端末からだけ消去する選択肢をしてしまい、送ったメッセージは消せず。今となっては話のネタだが、その当時は絶望的な気持ちだった。そんな嫌な現実を忘れるために選んだのが、コメディー作品を読むことだ。自分がいる場所から一時的にフィクションの世界に没入して、登場人物たちによって繰り広げられる面白劇を眺める。そうすることで、絶望の記憶が楽しい記憶で塗り替えられていく。結局、出来事が起きてからすぐコメディーを読んだおかげで、この思い出は割と早くに笑い話へと変化した。 上記の例では、誤送信から発生した「現実を忘れたい」「楽しいことを考えたい」という感情を満たすため、笑えるコメディーを読んでいる。 それ以外にも、一般的に、ワクワクしたい時にファンタジーを、キュンキュンしたい時に恋愛ものを、肝試し感覚で恐怖を感じたい時にはホラーを読むことが多い。自分が感じたい感情を感じる時、フィクションは割と効果的な気もする。 ここで少し、なぜ私が自分の感じたい感情を感じるとき、フィクションを求めるのか考えてみたい。 フィクションの大きな特徴として、「虚構性」が挙げられる。完全に作者の手によって作られるため、その世界は私たちが生きている現実世界そのままではない。また、フィクションには「決められたストーリー」がある。 では、その虚構性と決められたストーリーにより、どういった効果があるのだろうか? まず、とある作品を読むことによって、ある程度特定の感情を感じることができるというのがあると思う。作者の手によって、フィクション、特に大衆向けのものは作者の意図した感情を抱かせるような作りをしている。例えば、ファンタジーもので、優しい姫が王子に婚約破棄される話はどうだろう。心優しい有能な姫は国のために一生懸命働いていたが、王子に浮気されて国外追放されてしまう。途方に暮れる姫だったが、追放された先の王子が姫を助け、2人はやがて恋に落ちる。そして、姫がやってきた国は豊かになり、姫は優しい王子と結婚する。一方で、姫を追放した王子は姫の恩恵を失い、責任を取らされて全ての地位を失う。 この例において、読者の感情の流れとして意図されているのは 冒頭(姫が王子に婚約破棄される) ・姫を追放した王子への怒り ・姫が救われてほしいという願望 中盤(姫が追放された先の王子に助けられ、恋に落ちる) ・姫が助けられたことによる満足・幸福感 ・姫と王子の恋が成就してほしいという願望 ラスト(姫が王子と結婚・追放した王子が地位を失う) ・姫と王子の恋が成就したことによる満足・幸福感 ・追放した王子が報いを受けたことによるスカッと感 (※ただし、ここで挙げた感情は意図されている感情の一部) といったものだろう。 ここで、フィクションが私たちの感情にもたらす効果をもう一つ挙げてみる。現実世界とは違う世界で話が展開されるため「安心しつつフィクションの世界と感情を楽しむことができる」ということだ。登場人物に感情移入して笑ったり涙を流したりはするが、その登場人物と私は同一人物ではない。一方、ノンフィクションはあくまでも現実世界の話であり、どこかに「これは現実だ」という意識がある。つまり、私たちはフィクションを現実とは違うものとみなし、その分、思う存分感情を味わうことができるのだ。 ここまでの話を一度まとめてみる。フィクションには虚構性があるため、特定の感情を感じるために作られたストーリーを、現実世界の出来事だという意識を持たずに、「自分の求める感情のため」に読むことができる。これは、ノンフィクションにはない特徴だ。 もちろん、自分の感じたい感情を感じる手段は他にもある。SNSはその一つの例だと思う。でも、私にとって、フィクションは自分が求める感情を感じるための一つの大きな手段であり、自分の心を支えるための薬とも言えるかもしれない。 人と人をつなげるフィクション ここまでは、私の経験をもとにして、フィクションを求める理由の一つである、自分の求める感情のためについて考えてみた。しかし、これ以外の理由からフィクションを求める人もいる。ここで一度、先ほどとはまた違った角度から、フィクションを求める理由を考えていきたい。 一般的に、フィクションは、複数人が見ることが可能な形式になっていることが多い。そのため、フィクションは人と人の間で共有可能という特徴がある。すなわち「共有性」があると言えるだろう。これが存在することによって、人と人はつながることができる。フィクションは、人と人をつなげるのだ。それが、「人とのつながりのため」という、フィクションを求める理由の一つになる。 フィクションが人をつなげることについて、もう少し深く考えてみよう。 人同士がフィクションを通してつながる時、そのつながりには種類があると思う。つながりによって、その特有さや強度が異なるのだ。フィクションを見た時に生じるであろうそれぞれのつながりを、以下で考えてみる。 一つ目のつながりは、同じものを知っているということだと思う。同じ本を読むことで、そこで登場する人々、発生する出来事、ストーリーなどを共有することができる。 フィクションが生み出す二つ目のつながりは、同じ感情を同じ流れで感じたということではないかと思う。これは、作者の意図した感情を読んでいる側に感じさせるようなフィクションの場合に言える。先ほど「優しい姫が王子に婚約破棄される話」の例でも述べたが、フィクション、特に大衆向けの話は意図した感情の流れを発生させるようなものが多い。フィクション特有のつながりは、これによって生まれるのではないかと私は思う。 まず、フィクション以外の感情の共有について少し見てみる。「同じものが好き」というのは、「好き」という感情を好きな者同士で感じていることであり、そこにつながりは発生する。しかし、その場合共有しているのは単一の感情のみであり、つながりは薄いような気がする。 同じフィクションを読んだ場合は、共有しているのは一つの感情だけではない。主人公が不幸に遭った時は悲しみや同情、主人公が幸せになった時は幸福感や満足感を感じるなど、一つのストーリーの中でも様々な感情を感じる。しかもその感情には一定の流れがある。それにより、フィクションを読むことは様々な感情を同じ流れで感じたという、他のものではなかなか起こりづらい体験の共有ができるのだ。これは一つの感情を共有している時よりも、より強力なつながりだと思う。しかも同じフィクションを読めば同じ体験が共有できるのだから、手軽なリンクでもある。 ただ、ここで二つ目のつながり、「同じ感情を同じ流れで感じた」というものについて考えてみると、いくつか例外的なフィクションが出てくる。それは、決まった感情の流れを意図していない作品だ。この間の授業で、芥川龍之介の「羅生門」を学んだのだが、その受け取り方は生徒によって多種多様だった。その場合、同じ感情を同じ流れで感じたというつながりは発生しない。では、その他に何かリンクはないのだろうか。 私が思うに、フィクションの場合、もはや同じ感情を共有していなくとも、フィクションを媒介として人と人の内面をつなげることができるような気がする。フィクションに対する感想交換を通じて、社会的規範に縛られず、ありのままの自分を知ってもらえるのではないか、と思う。 一つのニュースについて意見を交換するとき、その意見は無意識的、もしくは意識的に社会的規範に縛られる。常識や一般的な倫理感から、「こんなことはあり得ない」「倫理的にいけない」と、社会規範から外れる意見はセーブされやすくなる。意見は国籍や所属団体によっても変化するだろう。しかし、それが現実世界ではなくフィクションについて感想を交換するとき、意見の束縛は減るのではないだろうか。 フィクションは虚構の世界の話だ。だから、その世界の物事について感想を述べるとき、「これは現実世界のことではない」と割り切って話すことができる。社会的規範や立場に縛られることなく、登場人物になりきったり、自分だったらもっとこういう世界がいい、と考えることができる。それは、現実の物事に対する意見と比較して、さらにその人自身の考え方に近く、内面を映し出していると言えるのではないだろうか。フィクションは、人の思考を社会的なしがらみから解放し、より自由な意見を表せるようにする。そうすることで、感想を交換した人同士は、ただニュースなどについて意見を交換するより、その人の内面を知ることができる。フィクションには、人と人の内面を繋ぐ力があるのだ。 私は、「感想交換を通じて、自分の内面を共有できる」というのが、フィクションが生み出す三つ目の強いつながりになるのではないかと思う。 最後に この文章では、フィクションを求める理由を「自分の感じたい感情のため」と「人とのつながりのため」の二つに絞り、深く掘り下げてみた。「なぜフィクションを求めるのか」という問いへの答えは、人によって違うだろう。また、同じ人であっても、時と場合によって変化もするだろう。今回考えてみた理由二つのうち、どちらも当てはまらない人や、フィクションを見ない、という人もいると思う。ぜひ、私が今回この文章で私にとってのフィクションを求める理由を考えたように、あなたもあなた自身にとっての理由を考えてみるのはいかがだろうか。 最後に、尋ねよう。「あなたはなぜフィクションを求めるのか?」

アストロプラネッツ、茨城ダービーでゴールデンゴールズに勝利

プロ野球独立リーグ・ルートインBCリーグの開幕を前に、茨城アストロプラネッツ(AP)は28日、笠間市箱田の笠間市民球場で、社会人クラブチームの茨城ゴールデンゴールズ(GG)とオープン戦を行い12-2で勝利した。茨城APの今季開幕戦は4月5日エイジェックスタジアム(栃木県宇都宮市)で、ホーム開幕戦は翌6日ノーブルホームスタジアム水戸(水戸市見川町)で行われ、対戦相手は2戦とも栃木ゴールデンブレーブスになる。 【2026シーズンオープン戦】茨城アストロプラネッツ-茨城ゴールデンゴールズ(3月28日、笠間市民球場)茨城GG 000001010 2茨城AP 30021123X 12 茨城APは先発投手の川平真也が5回を投げ被安打1、6奪三振、1四球と試合をつくった。攻撃では初回に5安打を固めて3点を先制。4回以降も得点を重ね、救援投手を打ち崩した。 初回に右前打で先制点を挙げた木村泰賀は下妻市出身、常磐大高では31本塁打を挙げた強打者だ。仙台大を卒業し今季、茨城APに加入。高校ではサード、大学ではレフトを守ったが、今年はセカンドにも挑戦中だ。「プロに行くなら内野で勝負しようと考えた。特にセカンドは守備範囲も広く、一つ一つの打球に他のポジションの選手と連携して動かなくてはいけない」と、守備を鍛え直している最中だという。 「今季は新たに18選手が加入し、レギュラーも去年から6人が入れ替わった。サインプレーやフォーメーションなどは一からつくり直しの部分もあるが、八木健史ヘッドコーチの加入や北原翔捕手の兼任コーチ就任でスタッフが充実し、よりスムーズな指導ができている」と話すのは巽慎吾投手兼任監督。「能力ある選手たちがそろい、実力を発揮してリーグ優勝を目指すとともに、昨年はゼロだったドラフト指名にも選手を送り込みたい。一人でも多く上のステージへ上がれるよう全力でサポートする」と意気込む。 注目選手の一人が捕手の草場悠。大阪の名門・履正社高の出身で、50メートル走5.9秒、遠投100メートルなど肩と足にストロングポイントを持つ選手だ。今季は打率3割、10本塁打、30盗塁を目標とし、主将にも就任した。「2年目なので気持ちも新たにチームを引っ張ってくれというメッセージだと受け止めている。年の近い選手も多いので楽しくやらせてもらっている」と話す。 それぞれの日本一目指す 茨城APと茨城GGの対戦は今回初めて実現した。スタッフや選手同士の交流は以前からあり、機会をうかがっていたという。「個々のレベルの違いはあるが、いま持っている実力を出すことができた。ぜひまた再戦したい」と茨城GGの樋口亮介・助監督。「どこへ行っても茨城と言うと欽ちゃん球団(茨城GGの初代監督はタレントの萩本欽一さん)の名が上がる。その知名度はすごい。うちも頑張らなくては」と巽監督。「ここ数年は全国大会を逃してきたが、今年こそ力をつけて全国へ行き、カテゴリーは違ってもプラネッツと一緒に茨城の野球を盛り上げていきたい」と樋口助監督は返す。なお、茨城GGは今年チーム創設20周年を迎え、去年からは女子チームも活動を始め、躍進が期待される。(池田充雄)

徳を積むことに意味はあるのか《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》6

【コラム・2年 M.T】例えば今、道端にペットボトルのごみが捨ててあるとします。そのとき、あなたはどうするでしょうか。 それを見過ごす場合、多くの人は罪悪感を抱くでしょう。しかし、ごみを拾ってごみ箱に捨てたとしても、私たちには何か直接的な利益が返ってくるのでしょうか。罪悪感を抱かなくて済むということはありますが、わざわざごみを拾い、ごみ箱を探して捨てるという手間が増えるだけのように感じます。それならば、罪悪感など気にせずごみを無視した方が自分のためになるような気がします。ですが、ここである葛藤が生まれます。それは人道的に、倫理的に正しいことなのだろうか、と。自分は人として正しい行いをしているのだろうか、と。 善い人で在りたかった私 私は中学生ぐらいの時、善い人でありたいと漠然と思いながら、善い人になるために、他の人が嫌だと思っていること、自分もあまりやりたくないことをやるように努めていました。友達と何か一つのもので取り合いが生じている時、自分から身を引いたり、あまり人気のない係や当番を引き受けたりしました。また、落とし物を届けたり、場所をきれいに使うように心掛けたり、ルールをきちんと守ったり、善いと思うようなことはできるだけしていました。自分でも、なぜ善い人になりたいのかわかりませんでした。ただ、私は人として、善い人であるべきなんだという一種の強迫観念を抱いていたのです。そして、こんなふうに日々を過ごしているうちに、私はだんだんと疲れを感じるようになりました。いくら善いことをしても、何も起こらない。私はただ自分の感情を無視して、自分を犠牲にしているだけだと思いました。 このように思ってから私は、善い人になるということについて考え始めました。善い行いをすること、すなわち、徳を積むことに意味はあるのだろうか。私がこのコラムに参加したのは、この疑問を解決したいと思ったのが主な理由です。 徳を積むとは? 徳を積むという言葉は普段の生活ではあまり馴染みがなく、古い言葉に聞こえるかもしれません。ただ、私が善い人になろうとして行なってきたことには、徳を積むという言葉がぴったりだと感じています。 「徳」という言葉には、様々な意味があると思います。以前の私の経験に沿えば、「徳」とはまず、他人がしてほしいことをしようとする態度を指すように思います。このことからすれば、徳を積むとは、他人がしてほしいと思っている行動、すなわち善行を積み重ねることだといえるでしょう。ですが、徳を積むことは他者のためだけではなく、自分の人格を正すためにも行われるように思います。そこで、徳を積むということを私は、「他者がしてほしいと思える善行を積み重ね、それによって自分の人格を正すこと」と定義づけたいと思います。  では、「徳を積むことは自分を善い人に変えてくれるのか?」という疑問を解決するために、まずは徳を積むことのメリットを考えていきましょう。先ほど私は徳を積むということを、他の人がしてほしいことを行うことで、自分の人格を正すことだと定義しました。であれば当然、徳を積めば他の人からの評価とともに、自己評価が上がると考えられます。 次に、徳を積むことのデメリットを考えてみましょう。徳を積むとは、時には我慢をするということでもあります。自分ではやりたくないと思っていることでも他の人のためになったり、自己評価を高めたりすることにつながるのであれば、やるしかないからです。よって、自己犠牲が求められるということが考えられます。そして、人のために行動するあまりに他の人から仕事や責任を押し付けられるなど、他人に利用されやすくなるということもあります。善い人ではなく、(都合の)良い人と見なされてしまうのです。 以上を整理すると、以前の私は、徳を積むことには自分を犠牲にする側面と、自分の評価を上げる側面があると考えていたように思います。 善い行いをしたのに苦しいのはなぜ? ここで重要になるのは、自己犠牲と自分の評価を得ることのバランスです。私が善い人になろうと行動をとって疲れを感じていた理由はここにあります。 善い行いをしたはずなのに自分が苦しいのは、自分が犠牲になったことで感じる痛みや、本当はもっと自分の好きなように振る舞いたいといった思いに比べて、自分の人格を正すことができているという実感が少なかったからです。これに気づいた時、自己犠牲は、自分の善い人格を形成することにはつながらないと思いました。善い人になりたいと思って行動していた時の私は、本当はつらい自分の思いにふたをして、自分の人格を根本から変えるわけではなく、善い人であるという見せかけの人格を、現状の人格に上塗りしているだけだったのです。これでは、ただの偽善でしょう。 それからというもの、私はあえて善い人になるということをしなくなりました。このまま善いことを続けていても、自分を壊すだけだと思ったからです。そしてその代わりに、自分を大切にすることを始めました。自分の思いに耳を傾ける、自分の意思を伝える、自分の思うように行動をする。それをするだけで、心は驚くほど軽くなりました。ただ、このような振る舞いをしたことで、他の人と対立したり、他の人が我慢をしなければならない状況になったりすることが、もちろんあります。自分も優先したい、でも相手が犠牲になる。そんな歯がゆい状況には誰もが陥ったことがあるでしょう。しかし、このような状況に真正面から立ち向かうことで、徳につながるあるものを得ることがあります。相手が犠牲になってしまったこと、それを踏まえて、自分は相手にそれをどう埋め合わせることができるのか。そのような互酬性から自分の心に「相手に何かしてあげたい」ということを考える余裕ができる。そしてそこから、恩を受けた相手だけでなく、それ以外の人のためにも見返りを求めずに、相手のためになることをしたいんだという単純な利他への要求が生まれるようになる。私が思うに、これこそが真の〈徳〉(*脚注)なのです。 自分を大切にする 「徳」を積めば善い人になれるのか。「徳」を積めば、確かに周りからの評価は上がるし、自分は誠実に生きているということを実感できます。しかし、私はそれ以前に、まずは自分を大切にすることが大事なのだと思います。他者のために何かをしようとするあまり自分を無理やり犠牲にすること、それはただ善い人であろうと義務感を抱いているだけであり、偽善をしていることと同じです。こんなものは本当の意味で〈徳〉を積んでいるとはいえないでしょう。人のために善い行いをすることは、相手に何かしてあげたいということを考える余裕、すなわち、心の余白をつくることから始まります。私の場合は、自分を大切にすること、そして他の人から受けた恩を感じることから始まりましたが、心の余白を作る入り口は、それ以外にもたくさんあるでしょう。その心の余白を使うことで、自然と、心から、この行動をとりたいと思えるようになるのです。これこそが、真の〈徳〉なのではないでしょうか。真の〈徳〉は、他者のためにもなるし、自分の成長にもつなげることができるはずです。そこに、自己犠牲は存在しません。 私が思うに、徳を積むことに意味なんてものは存在しないのではないか、と思います。なぜなら、〈徳〉とは自発的な利他心であり、人間の欲求そのものだからです。〈徳〉は積むものではなく、積まれていくものです。 この文章を読んで、みなさんは徳についてどう考えたでしょうか。ぜひ、みなさんも自分なりの真の〈徳〉を見つけてみてください。 *脚注 このコラムでは、以前の私が考えていた徳を「徳」、現在の私が考える真の徳を<徳>と表記して、区別しました。