月曜日, 3月 16, 2026
ホームスポーツ「進学は回り道にあらず」5選手がプロに 筑波大蹴球部

「進学は回り道にあらず」5選手がプロに 筑波大蹴球部

【池田充雄】筑波大学(つくば市天王台)で23日、来季のプロチーム入団が内定した蹴球部5選手の合同記者会見が開かれた。5人ともJリーグクラブの育成組織出身で、うち4人は元のクラブに戻ってデビューを果たす。プロを目指す選手にとって大学進学はもはや回り道ではなく、将来を見据えた戦略的な選択になったと言えそうだ。(文中敬称略)

鋭い切り返しで敵陣を切り裂く三笘=全日本大学選手権準々決勝=12月16日、味の素フィールド西が丘、以下同

J1川崎フロンターレに進む三笘薫は、相手の間合いを外すドリブル突破や、創造性に富むパスが魅力の攻撃的MFだ。会見の翌日にはU-22日本代表に合流し、28日のキリンチャレンジカップ・ジャマイカ戦に備えるという。「この試合への思いは強い。活躍すれば東京オリンピックに向けて生き残れる。自分の特徴を生かしながら、チームに貢献できるようなプレーがしたい」

J1コンサドーレ札幌に進む高嶺朋樹は、体の強さを生かした1対1の守備と、左足からの高精度なキックを武器に、守備から攻撃へのスイッチを入れるボランチだ。「3年冬にオファーをもらい即決した。厳しい戦いになるだろうが1年目からスタメンを勝ち取り、試合に出られるようにしたい」

フィジカルの強さとともに気の強さも持ち味の高嶺(左写真)とインカレでは守備力だけでなく得点力も発揮した山川

J1ヴィッセル神戸に入る山川哲史は、長身を生かしたヘディングと、クレバーな守備を得意とするセンターバック。「監督から言われた、チームを勝たせられる選手になること。蹴球部のビジョンである、人の心を動かす存在になること。この2つを意識し、今後も目標にしたい」

J2アルビレックス新潟入りするGK阿部航斗は、身体能力に優れ、視野の広さと正確なポジショニングでゴールを守る。「考えてシュートを止めることと、相手が嫌がるような駆け引きを心掛けている。自分の力で新潟をJ1に上げ、ビッグクラブにすることが目標。新潟を象徴するような選手になりたい」

俊敏性と跳躍力を生かし、数々の大舞台で活躍したGK阿部(左写真)と来年度、大学院を休学してプロの道へ踏み出す大川

シンガポールプレミアリーグのアルビレックス新潟シンガポールに入団が決まった大川圭為は、瞬発力を生かしたシュートストップや、安定感あるロングキックが長所。同ポジションの阿部と切磋琢磨して成長し、4年後期は正GKに就いた。「来年1年で結果を出さないと先がなく、いい意味であせりがある。自分の努力次第でどれだけできるか、チャレンジしたい」

大学で得た、自ら成長する姿勢

三笘と山川は、ユース卒業時にもプロへの誘いがあったが、「もっと成長したい」「まだプロになれる覚悟がない」との理由で筑波大を選んだ。他の選手も「大学だからこそ学べたことがある」と口をそろえる。それは何だったのか。

一つは、自ら考えて取り組む姿勢だ。トレーニングや栄養管理はもちろん、自分の特徴は何なのかと悩み、それを作り出す努力や、身体能力などの弱点を直視し、プレーでカバーする取り組みなども含まれる。

「サッカーに対する考え方の幅が広がった」と話す選手もいる。ユースではチームのスタイルに合わせた練習ばかりだったが、筑波大では相手の強みを消すためのさまざまな戦い方を学んだ。また、試合や練習以外の活動を通じて、各自がそれぞれの役割を果たして物事を成し遂げることを学び、自分たちも誰かに支えられてサッカーができていることに気付いたそうだ。

小井土正亮監督は「技術の育成だけでなく人間的成長にも、大学が果たす役割は非常に大きい。本学で学んだことを生かし、プレーヤーとしても人としても必要とされる人材になってほしい」とエールを送る。

筑波大蹴球部にはプロ志望以外にコーチやトレーナー、あるいはクラブ運営スタッフなどを目指す部員もいる。技術レベルも人によってさまざまだ。大勢の仲間の中で、幅広い学びが得られる環境は、他大学にはない特徴的なものだという。

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「真のプロフェッショナルに」つくば国際ペット専門学校で卒業式

185人が巣立つ つくば国際ペット専門学校(同市沼田、東郷治久理事長)の卒業式が14日、つくば市竹園、つくば国際会議場で催された。185人の卒業生を前に高橋仁校長は「皆さんが手にした卒業証書は、全国から注目を集める本校で実践教育を受けた証し。ペット業界の未来に貢献していく人材となった。次の目標に向かってがんばってほしい」とエールを送った。 東郷理事長は「動物に関する技能は教科書を読むだけでは決して身に付かない。優れた環境で勉強された皆さんは、真のプロフェッショナルになるための必要な愛情を身に付けたことと思う。ペット業界で必要とされるあらゆる技能を現場で集結できるはず」と卒業生に祝辞を述べた。 卒業生代表として答辞を述べたドッグトレーナーコースの河口青波(せいな)さんは「ライセンスを取得する時に、パートナーの犬に思うように指示が伝わらず、互いの心が通わないもどかしさで自分を責めたこともあった。しかし諦めずに粘り強く向き合い続けた結果、合格をいただけた時の達成感は今も鮮明に覚えている。つくば国際ペット専門学校の卒業生であることに誇りを持ち、これからも努力を忘れずに精進していくことを約束します」と語った。 式典では、訓練士などの公認資格を授与しているジャパンケネルクラブの藤田透専務理事が、トリマーB、C級、ハンドラーC級、愛犬飼育管理士の合格者にライセンスを授与したほか、ビジネス能力検定3級、愛玩動物看護士の表彰も行われた。 式典の最後に、在学中の思い出を振り返る映像が会場の大スクリーンに流されると、卒業生に向けて、参加した保護者や在校生らからも大きな拍手が起こった。教員らのメッセージも紹介された。 式典に出席した愛玩動物看護師コースの原香織さんは「やりたかったことが学べ、無事、国家試験も合格できたのでとても良かった」などと振り返った。動物病院に就職することが決まっているという。 同校は1997年にトリミングスクールとしてスタートし、県内初の動物分野の専門学校として2006年に開校した。現在「ドッグトリマー」「ドッグトレーナー」「ペットケア総合」「愛玩動物看護師」「動物看護福祉」の5コースのほか、22年4月に開設された日本初の通信制コース「通信制ペット学科(3年制)」に約450人が在籍する。授業中も放課後も生徒1人が1頭の子犬と共に生活する「パートナードッグシステム」が特色であるほか、学校の隣りにはグループ企業が運営する犬のテーマパーク「つくばわんわんランド」(同市沼田)があり、日頃から実習を積むことができる環境が整っている。(榎田智司)

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