月曜日, 10月 12, 2026
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土浦一高野球部 伝説の選手たち《文京町便り》53

【コラム・原田博夫】1925年秋季から本格的に始まった東京六大学野球の2026年春季リーグで、天覧試合(天皇陛下と敬宮愛子さまが御臨席)の早慶戦があった翌日の6月1日、慶應大野球部は5季ぶり、41回目の優勝を手にしました。今回は、慶應大、土浦一高に関わった高校野球の「伝説」の人、木内幸男監督たちのお話です。

優勝案内人、木内幸男氏

土浦一高野球部は1957年夏、一度だけ甲子園に出場し、1回戦で和歌山商業に勝利したものの、2回戦で岐阜商業に敗北しました。そのときの主力選手は、ピッチャー・五来孝輔、ショート・安藤統男らで、彼らは土浦一高第10回卒(甲子園出場時は3年生)でした。小学生の私は、その試合を土浦市内の亀城公園に設けられた特設TVで背伸びしながら見ました。

このときの一高野球部の部長は遠藤俊夫先生(後の同校校長、茨城県教育次長)で、私の父と旧制土浦中学で同窓でした。わが家は、甲子園まで応援に出向くことはなかったものの、このときの甲子園出場はとても身近でした。その後、遠藤家と我が家は親戚関係になりました。

土浦一高野球部の監督は、彼ら主力選手が高校2年になるまでは、7歳上の木内氏でした。彼は一高卒業後、慶應大進学をキャンセルして、一高野球部のコーチに没頭しており、甲子園進出時の監督は島田実氏でした。彼は、早稲田大野球部で広岡達朗(後のプロ野球阪神の監督)らとプレーした人です。

木内氏は、1957年4月に取手二高の野球部監督に異動、その後、同校は木内氏の指導の下、何度も甲子園に出場し、全国優勝したことはご存知と思います。同氏は常総学院野球部でも全国優勝しています。周知のことと思いますが、専修大松戸高校野球部の持丸修一監督は木内氏の「野球教え子」です。

阪神監督、安藤統男氏

1957年夏の甲子園での岐阜商業のピッチャーは「超高校級」の清沢忠彦氏でした。同校に敗れた土浦一高としては、「とてもかなわなかった」という感じでした。しかし、土浦一高の安藤統男と岐阜商業の清沢氏が進学したのは慶應大野球部でした。彼らは慶應大野球部でチームメートになったのです。

その上、1960年秋季の六大学リーグ戦で、早慶6連戦をやり遂げました。このリーグ戦では早稲田大が優勝したのですが、安藤氏と清沢氏は慶應大野球部の仲間として、高校時代からのつながりを感じたのではないでしょうか。この伝説的な早慶6連戦は、それから約10年後、私が慶應大に入学したころも、先輩たちの間で語られていました。

この伝説の早慶戦のときの早稲田大野球部の監督は石井連蔵氏(水戸一高出身)で、「一球入魂」のフレーズで有名な高校野球の父、飛田穂州の薫陶を受けていたようです。安藤氏はその後、阪神タイガースに入り、同球団の監督になっています。(専修大学名誉教授)

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【コラム・山口京子】「死に時に あらがいつつも 迷いつつ…」。今の自分の心持ちです。昨年12月にがんと告知され、医師に「治療をしなければ余命8カ月。治療して功を奏した場合は2年半」と言われました。月に2回入院して、抗がん剤治療が効き、10カ月が過ぎました。 そうした中、良寛さんの言葉を思い出しました。1828年、良寛さんが71歳のとき、新潟で大地震が起きました。被災し、子どもを亡くした知人に宛て「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」と。色身と法身を一身に生きた良寛さんならではの言葉だったのでしょう。 昨今の天災は人災の要素が高まっています。医療技術が進み、かっては助からない命が助かるようになった時代に生き、自分は死に時をどう考えるのか…。末期がんとどう向き合うのか…。 国民皆保険制度で、受けられる治療であれば受けてみる。高額になる自由診療は見合わせる。自分でできる食事・運動や生活改善はやってみる。手の届く代替治療やサプリメントは可能な範囲で利用する。こうして過ごしてきました。 抗がん剤治療で時間を稼いで、できるならがんの進行を遅らせ、がんを小さくし、その間に、体力・体調・体重をキープし、自分の免疫力や自然治癒力を高め、標準治療に頼らないで、がんと共存できたらという願いがあります。 どんな物語を紡ぐのか そう願う一方、抗がん剤を止めたらがんが増殖するのではないか、抗がん剤が効いて手術ができるようになったのに手術をしないのはどうかと、迷っている自分がいます。 自分の心身は自分の支えでもあり、制約でもあるのでしょう。制約を取り払うことができるなら、何が見えてくるでしょう。人が生きていくに当たって、物語と意味は不可欠なものかもしれません。どんな物語を紡ぐのか、何にどういう意味を込めるのか。 自分の自分と、他人の自分、たくさんの他人の自分で構成される社会で、平和に暮らすすべとは、いかなるものなのでしょうか?(消費生活アドバイザー)

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カフェ&ラボ テラッツァ《ご飯は世界を救う》75

【コラム・川浪せつ子】公益財団法人つくば文化振興財団が運営する「つくばカピオ」(つくば市竹園1丁目)では、室内アリーナ、会議室、和室などの施設を借りることができます。ここでは、バスケットリーグ、大相撲つくば場所などのスポーツイベント、音楽リサイタルなどの文化プログラムが開かれています。 その西側に、ガラス張りのステキな平屋の建物があります。以前は、障害者関係の方々が飲食店をやっていました。ところが閉店していまい、今年6月、「Cafe&Labo TERRAZZA(カフェ&ラボ テラッツァ)」という名前のイタリア料理店がオープンしました。 私は月1回、つくばカピオの小会議室を借りて、水彩画教室をやっています。教室が終わってから、皆さんとTERRAZZAにご一緒しました。外観だけでなく内部もオシャレで、都会的ないい雰囲気。お店の方も親切です。隣には、展示などができるフリースペース(有料)もあります。 アナタのお子さんは大丈夫 記憶がややあいまいですが、かつてこのコーナーは社会福祉法人の相談所でした。私はわんぱく息子に手を焼き、2回ほど児童相談に行きました。担当の元小学校の校長先生は「アナタのお子さんは大丈夫です」と言ってくださり、特別なアドバイスはありませんでした。 ですが、その言葉で私の気持ちは落ち着き、ホッとして帰宅したことを覚えています。数年後、元校長先生にお礼をと思いましたら、相談所はすでに閉鎖。社会福祉法人に問い合わせたら、その方は亡くなられたとのことでした。 その後、子育ては山あり谷ありでしたが、今でも時々思い出します。男の子は、母親に理解できないことが多い「未知の生命体」ですね。今、息子たちは「チョッピリ親思い」の大人になりました。(イラストレーター)

5カ国の19人を歓迎 日本つくば国際語学院で秋の入学式

つくば文化学園が運営する日本語学校「日本つくば国際語学院」(つくば市松代、東東郷治久理事長兼校長)の2026年度10月生歓迎会(秋の入学式)が8日、同市小野崎の同校に隣接する料亭、つくば山水亭で開かれた。5カ国から来日した19人が、鮮やかな民族衣装などに身を包み、新たな一歩を踏み出した。 新入生はミャンマー、バングラデシュ、スリランカ、ネパール、中国出身で、ミャンマー出身者が9人と最多。これから1年半、日本語を学ぶ。 歓迎会では、19人のうち、出席した18人全員がそれぞれ、習いたての日本語で、出身国、年齢、日本でやりたいこと、趣味などを自己紹介し「日本語学校で学びながら専門学校に進みたい」「卒業後は日本で仕事先を見つけたい」「音楽とサッカーが趣味」「読書や旅行が好き」「好きな日本の食べ物はすしとラーメン」などと話した。 在校生を代表してバングラデシュ出身のイスラム・サイフルさんが歓迎のあいさつをし、「最初、日本語があまりわからず、電車に乗った時はどこに行くのかもわからなかった。先生たちは優しく教えてくれたので安心して勉強することができた。皆さんも故郷を思い寂しくなることもあると思うが、学びながら日本の生活を楽しんでください」と新入生にエールを送った。 東郷理事長は「遠い国から、このつくばの地に来てくれてありがとう。日本語を学びながら、日本の文化や社会も学んでほしい。つまずくことがあるかもしれないが、つまずきは大きな経験。明るく前向きにチャレンジして成長してほしい」と語った。 歓迎会には在校生も参加し、この日は新入生を含め200人を超える生徒が会場にあふれた。在校生を対象に日本語能力試験の表彰も行われ、5段階評価のうち最も難しいN1に合格した1人、日常的な日本語を理解できるN2合格の2人、N3合格の21人、N4合格の26人が表彰された。N1は日本人でも合格するのが難しいという。 その後、新入生、在校生、教職員全員で記念撮影が行われた。最後は歓迎パーティーとなり、在校生がキーボードやギターを弾きながら歌ったり、ミャンマー出身の生徒が伝統舞踊を披露するなどした。 東郷理事長は「入学した学生を見ていると、向上心があり明るい、日本人の失ったものをもっているような気がする」などと話した。(榎田智司)