水曜日, 5月 21, 2025
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純利益87%増、増収増益に 筑波銀行25年3月期決算

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決算を発表する生田頭取

筑波銀行(本店・土浦市、生田雅彦頭取)は9日、2024年度3月期決算(連結)を発表した。1年間の純利益は41億300万円で、前年と比べ87%の大幅増となり、増収増益となった。生田頭取は「(ゼロ金利やマイナス金利から)『金利ある世界』で、プラス要因の方が大きかった」などと話した。

経常収益は前年とほぼ横ばいの411億2600円。株式などの売却益は減少したが、貸出金利息や預け金利息が増加し資金運用収益が増加した。

経常費用は前年比19億7500万円減の366億4900万円。「ここ3年間のうち先の2年間は大口(取引先)の(信用状況が悪化し)ランクダウンにより(貸し倒れに備える)与信コストがかかっていたが特殊要因が無くなった」とした。

単体の預金残高は2兆6343億円、預かり資産残高は3693億円、貸出金残高は2兆1160億円と、いずれも過去最大となった。預金は個人や法人預金のほか公金預金が増加した。預かり資産は投資信託が前年比129億円増加し、生命保険も100億円増加した。貸出金は、原料コストの上昇や人手不足など厳しい環境にある地元中小企業に対する資金繰り支援などに注力したほか、住宅ローンはTX沿線の資金需要に積極的に対応し7%の伸びとなった。

トランプ関税の影響について生田頭取は「(取引先の)ヒヤリングが終わり、急激にどうこうというところは無かったが、影響が懸念されるところが散見された。今後さらにひざ詰めでヒヤリングし、当行で何ができるか情報提供したい」などと話した。

土浦が怖いと言っていた実兄《くずかごの唄》149

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イラストは筆者

【コラム・奥井登美子】

「登美子、土浦の人と結婚する話があるんだって? 結婚は自由だけれど、土浦は困る」

「なぜなの?」

「土浦くらい怖いところはない。僕は学生時代に学徒動員で土浦海軍航空隊に入り、土浦にいた」

「敗戦後、変わったでしょう。もう、大丈夫よ」

「大丈夫じゃない。僕にとって、土浦がまだまだ怖いんだ。言葉もすごい。そう、けっ、けっ、け…と、怒鳴るんだ。」

中学3年生のとき、私は疎開先の長野県から東京の学校に転入し、母や弟たちが疎開先から戻れない少しの間、父、兄と3人で生活していたことがあった。そのとき、兄は「戦争で亡くなった友達に、なんと言って説明していいかわからない。僕はどうしたらいいんだ」。そう叫んで、友達の墓のある多摩墓地に行ってしまった。

私と父は真夜中、兄の名を呼びながら広い多摩墓地を探し、墓の前で蹲(うずくま)って泣いている兄を見つけ、父が説得し、一緒に帰ってきたことがあった。同じ日に、同じ場所で殴られ、彼は亡くなり、兄は生きて帰ってきた。そういう関係の友達だったらしい。

兄の加藤尚文と私とは10歳も年齢が離れている。学生時代に招集され、そこで何か特別なことがあったようだ。

憲法記念日に結婚式

奥井誠一は当時、東大薬学部裁判化学の助教授だった。私のどこが気にいったのかわからないが、自分の弟の清と私の結婚を強く望んでいた。私は兄が土浦を異常なくらい怖がっていることを、誠一先生に伝えた。

「学徒動員で精神的におかしくなってしまった学生はいっぱいいるよ。そうだ、彼らは新しい憲法に期待しているから、憲法記念日に結婚式をやろう。そうすれば兄様の気持ちが少し変わるかも知れない」

先生は5月3日の憲法記念日に神田学士会館を予約してしまった。仲人などはいない、奥井家と加藤家の親戚と家族だけのささやかな結婚式。牧師の中村万作先生の司会で、母の奥井志づがオルガンを弾いて、讃美歌と結婚のお祝いの唄「慈しみ深き…」など、皆でたくさん歌った。尚文兄も、ひと安心したようであった。

兄はその後、経済評論家としてテレビなどがない時代のラジオで盛んにしゃべっていたが、60歳のとき、前頭葉の脳腫瘍を起こして入院し、意識が戻らないまま亡くなってしまった。

兄の訃報が新聞に載った。共通の友達から電話があり、「加藤君は、土浦海軍航空隊のときに教官に殴られて、意識不明になり入院したことがあります」「土浦は怖いと言っていましたが、何が怖いのかはわかりませんでした。殴られたところが腫瘍になったのかどうかは、今となってはわかりません」

憲法記念日は、私にとって、さまざまな思い出が詰まっている。(随筆家、薬剤師)

社会人の意識で踏み出す 関彰商事が入社式

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関社長から辞令を受け取る新入社員

関彰商事(本社筑西市・つくば市、関正樹社長)の2025年度新入社員入社式が9日、つくば市竹園のつくば国際会議場で開かれた。今年度の新入社員は大卒24、専卒20、高卒19の計63人。ほかに昨年10月以降のキャリア採用者が91人おり、総勢154人の新しい仲間を迎えた。

同社が5月に入社式を行うようになったのは昨年度から。新入社員研修を通じて仕事内容やグループへの理解を深め、学生から社会人へ意識を切り替えた状態で参加してほしいという思いによる。

成果発表する新入社員の國藤さん

式典では新入社員一人一人に辞令が交付された後、代表者4人が研修の成果を発表した。アドバンス・カーライフサービスDr.Driveアドバンスセルフつくば桜店に配属された柴山大希さんは「自分の中にある優しさを言葉や行動で相手に伝える接遇を大切にしたい」、セキショウホンダつくば研究学園店の外山真帆さんは「大学時代に茨城を離れ、地元の温かさや恩恵に気付いた。仕事を通して恩返しをしたい」、ビジネストランスフォーメーション部下館支店の山中大地さんは「地域の皆様とより良い関係を築くため、信頼と信用を得られるような行動を心掛けたい」、関耀会みらいのもり保育園の國藤遥香さんは「子どもたち一人一人に寄り添う、笑顔の素敵な先生になりたい」とそれぞれ抱負を語った。

今年はキャリア採用者として5人のインド人が入社。現在、グループ全体の外国籍社員は50人を超える

式辞では関社長が、昨年まで東北大学総長を務めた大野英男さんの「東北大には多数の輝く星のような成果がある。私の仕事はそれらの星を繋いで星座を描くことだった」という退官記念講演での発言を引き、「私は、2000人を超えるわが社の社員一人一人が星であり、皆さんが成し遂げた業績やご苦労もまた星であると思う。それぞれの活躍を結び付け、お客様の悩みを解決し、その結果が星座になる。皆さんにはあらゆることにチャレンジし、たくさんの星を作ってほしい」と呼び掛けた。

先輩社員の歓迎の言葉では、ヒューマンケア部ウェルネスサポート課の東田旺洋さんが「これから約40年の社会人生活が始まるが、その中では失敗が必ずある。だがたいていの失敗は先輩も通ってきているので、相談すれば必ず解決策はある。自分なりの方法で努力を継続し、無理せず共に頑張っていきましょう」とエールを送った。(池田充雄)

歓迎の言葉を述べる先輩社員の東田さん。アスリート社員で昨年のパリ五輪陸上競技100mに出場した

土浦一高附属中受験 地元生徒数が減少《竹林亭日乗》28

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つくば市洞下の台地から見た筑波山(写真は筆者)

【コラム片岡英明】2024年から土浦一高の募集学級が4クラスになり、昨年の土浦市内8中学からの入学者が18人に減少したのには驚いた。土浦一高には附属中(2021年設置、定員80人)から内進生も入るので、今年の市内小学校から附属中に合格する人数に注目していた。

今年の市内小学生の土浦一高附属中への受験者は初年の21年(71人)と比べ3割減の48人、合格者は初年(25人)比5割減の12人となった。市内16小学校で12人だから、1校1人以下である。これは土浦市と土浦一高にとって大きな問題と言える。

地元の受験者減は地域にとって同高が遠い存在となり、学習目標から外れたことになる。それは、土浦一高側にとって新たな魅力発信が必要になったことを意味する。

中高一貫は師づくりが

茨城県は21年から地域の伝統高校10校に付属中を設置。一方、並木中等、古河中等に加え、勝田高を中高一貫に移行させた。その結果、県内には県立中が13校もある「中高日本一」の県となった。それに見合う教員と施設は十分だろうか。

中高一貫で成果を上げている私立校は、まず教師の個性を認め、個性豊かな教師たちがチームを組み、6年間を見通して指導を行う。卒業生を出すと担任を1年間外れ、次に新しい学年のチームをつくるサイクルがある。だから、自然に20年以上、3サイクルを体験した教師が学年の中核として育つ。

つまり、中高一貫は教師づくりが鍵だ。中高一貫を成功させるには、中心的な教師集団を育て、20年以上同一校に勤務する人事制度が必要である。学校側の安定した指導が地域に見えれば、地元との距離は近くなる。

と体育館は必須

付属中が学年1・2学級でも、中学時代は中学の仲間と共に育つ場所が必要だ。同じフロアーに中高同居は安上がりだが、中学用の校舎と体育館は必須である。県内の市立中学では、学年が1・2学級規模でも体育館をはじめ多くの教育施設がある。

付属中を設置しても教室は増やさず、その分の高校定員を削減して調整するという構えでは、受験者減と受験生の苦労につながる。

高校を4級から6級に

付属中設置から5年が経ち、土浦一高・附属中の課題が少し見えてきた。「教育は百年の計」であり、始めたものを止めるわけにはいかない。ならば、受験者減の意味を受けとめ、教師の力量を高め、施設の充実をお願いしたい。

すると、県立中の環境改善は少数生徒への配慮であり、公教育としてはどうかという疑問が発生する。そこで、多くの地元の生徒のために、土浦一高の定員を4学級から6学級に戻してはどうか。

定員を増やし、教育環境を改善すれば、地域での魅力は高まる。そうすれば、多くの地元生徒が土浦一高を目標校に定めると考える。(元高校教員、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)

若者の奨学金返還を支援 土浦市

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土浦市役所

2分の1を5年間

若者の奨学金返還を支援しようと、土浦市は今年度から新たに、大学、短大、専門学校などを卒業後、市内に居住し市内で働いている20代の若者を対象に、返済した奨学金の2分の1を最大5年間支援する事業をスタートさせる。

併せて現在、都内などに住み就職活動中の大学生などのうち、卒業後は土浦市内に住み県内で就職を希望する学生などを対象に、就職活動にかかった交通費を補助する地方就職学生支援事業を開始する。

あらゆる業種で人材不足がいわれる中、若年層を経済的に支援し、大学生などのUターンなどを促して、市内への移住や定住促進を図るのが目的。いずれも12日から受け付けを開始する。安藤真理子市長は「若者の定住による土浦市の活性化につなげたい」とする。

同市によると奨学金返還支援事業を実施するのは日立、かすみがうら市などに次いで県内市町村で10番目。地方就職学生支援事業は県が2024年度から実施する事業。

奨学金の返還支援は、30歳未満で市内に1年以上住んでおり、市内の中小企業に正規雇用で就労していたり、保育士や介護福祉士、栄養士、看護師、鍼灸師、医師などとして市内の法人に正規雇用で就労していたり、個人で市内で農業などを営む若者などが対象。大企業の社員や公務員は対象外となる。支援金額は、前年度に返済した奨学金の額の2分の1で、上限は年間10万円。最大5年間支援する。初年度は年間30人の支援を想定している。

一方、就職活動の交通費を支援する地方就職学生支援事業は、都内に本部がある大学などに在学し、東京、神奈川、埼玉、千葉県に住む学生が対象で、県内企業への就職活動にかかった交通費を上限4260円補助する。今年度は年間100人の支援を想定している。二つの支援事業の同市の今年度予算は計342万6000円。

日本学生支援機構発表の2022年度学生生活調査結果によると、大学学部生(昼間部)の奨学金受給率は55%、労働者福祉中央協議会発表の24年高等教育費や奨学金負担に関するアンケート調査結果によると、日本学生支援機構の貸与型奨学金利用者の借入総額は平均344万9000円で、7割が今後の返済に不安を感じ、4割台半ばが返済の負担感に苦しさを実感していると回答している。

◆奨学金返還支援事業は12日から土浦市政策企画課窓口で、就職活動交通費補助は市商工観光課窓口でそれぞれ受け付ける。書類の提出が必要になる。詳しくは電話029-826-1111(同市)へ。

600ミリレンズも買ってしまった《鳥撮り三昧》1

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写真は筆者

【コラム・海老原信一】初めまして。皆さんお元気ですか? お元気な方は今をキープ、そうでない方は少しだけでも元気に。そうなってもらえたらうれしいなと思いながら、このコラムで皆さんとお話をしていけたらよいなと思い、書かせていただくことにしました。

コラムのタイトルと文末の略歴から、私が一体何をしているのか分かると思いますが、なぜこのコラムを担当するようになったのかの経緯も含め、身の上話的なことを話させてください。

50代に入ったころ、ひょんなことからヨシ原にいた小鳥を、そのころ出始めたばかりの、今と比べたら悲しいぐらい性能の低かったデジカメを使い、撮影したことから始まります。画像をパソコンで開いたら、ヨシの中にポツンと黒い点が! 「あれ、鳥はもしかしてこれ?」。これがいけませんでした。

あれこれ調べて、デジカメにも一眼レフがあると知り、200ミリのレンズと共に購入。同じような状況で撮影してパソコンへ。確かに鳥と確認はできましたが、鳥の種類は? う~ん、分からんな~。財布をのぞきながらも、気持ちは早や400ミリレンズへと走っていました。今度はちゃんと種もわかる。うれしくなりました。

野鳥に専念、写真展18

それからというもの、時間をつくっては野鳥の撮影。それ以外考えなくなりました。経験を重ねるうちに、鳥との距離がどうも近すぎる…。鳥に緊張感が感じられる…。鳥との距離に余裕を持ちたい…。またもや欲望が吹き上がることに。

野鳥撮影の定番として600ミリレンズの存在を知ることになり、無理して購入。その後は、野鳥との出会いに日々を費やすことになりました。そして、野鳥を撮ることに専念したいと、職場を早期退職。それからは鳥を撮影する毎日で、今日に至っているわけです。鳥たちと出会える喜びを共有できたらうれしいと、写真展を18年続けています。

その来場者の中に、この欄に寄稿しているKさんがおられ、野鳥の観察、撮影を通じて思ったことなどをコラムに書いてみてはとの誘いがありました。上の写真は展示会を決意するきっかけになると同時に、鳥に向き合う心持ちに変化が生まれた1枚です。この写真については、後日、お話しするつもりです。

野鳥と向き合う日々の以前と今を行ったり来たりしながら、レンズを通して見たこと、感じたことなどを、拙い文章になりますが、お話させていただくのを、緊張しながらも続けていけたなら幸いです。よろしくお願いします。(写真家)

【えびはら・しんいち】高卒後、食肉加工会社(土浦市)で設備営繕に従事。野鳥写真に専念するため56歳で退職。日本野鳥の会、野鳥の会茨城県、竜ケ崎バードウオッチングクラブの会員。阿見町などの探鳥会講師。2007年3月から洞峰公園ギャラリーで写真展を49回開催。76歳。阿見町在住。

つくば市に欠ける地域アイデンティティ《水戸っぽの眼》1

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つくばセンター広場で水遊びする家族(5月5日、筆者撮影)
沼田誠さん

【コラム・沼田誠】新しくコラムを担当することになりました、元水戸市職員の沼田と申します。タイトルは「水戸っぽの眼」となっていますが、これは私が名付けたものではありません。そもそも県外出身者である私が水戸に関わるようになったのは2000年からで、まだ四半世紀。私のような「ヨソ者」が「水戸っぽ」を名乗っては、「何言ってんだおめ~」と水戸人に怒られてしまいます。

皆さん、「水戸っぽ」の意味をご存知でしょうか? 「水戸っぽ」という言葉は、義理人情に厚く、頑固で一本気な水戸人の気質を指すとされ、水戸藩以来の歴史の中で醸成されてきた地域アイデンティティを示す言葉です。このような人物像は、体感では以前よりかなり弱くなってきていますが、それでも水戸市民の中に底流としてあり、良くも悪くも、地域に対する愛着や誇りを形成する要素として機能しています。

では、つくば市はどうでしょう。住み始めて4年ほど経ちましたが、「つくば人」やそれに類する表現はまだ聞いたことがありません。一方で、「つくばスタイル」という言葉があり、こちらは、先端技術を活用した利便性の高い生活や、豊かな自然との共生を強調していて、人ではなく暮らしや環境に焦点を当てています。

ただし、「つくばスタイル」はいわゆる「中心地区」やTX沿線を外向けにアピールするためのもので、市全体を包括したものとは言えないでしょう。このように、つくば市という地域全体をわかりやすく象徴するものがないことの背景には、つくば市が研究学園都市という国策から出発していることや、「中心地区」が多様な地域や文化から集まった住民の集合体として発展してきたことがあるものと想像しています。

また、行政の側も、市制施行からすでに38年もの時間が経過した今でも旧町村の枠組を意識せざるをえないことも、そうした傾向に拍車をかけているのかもしれません。(例えば、市の「周辺市街地の振興に向けた取組方針」でも「旧町村時代」という文言が使われています。それは使う必要があると行政が判断しているからです)

人口増加=住みやすい市ではない

国立社会保障・人口問題研究所が2023年にまとめた地域別将来推計人口調査によると、つくば市は10年後の2035年に水戸市の人口を抜き、茨城県内で最も人口が多い都市になるそうです(気にしている水戸人は結構います)。

しかし、地域アイデンティティが十分に形成されていなければ、地域への帰属意識や一体感は希薄なままです。それでは、つくば市がいくら人口を増やしたとしても、地域のことに主体的に参画する住民は増えず、住みやすい地域にはなっていかないでしょう。つくば市が今後さらに成熟した地域として発展するためには、「つくばスタイル」からもう一歩踏み込み、どこに居住していようとも市民誰もが感じることができる地域アイデンティティを育むことが意識される必要があるのではないでしょうか。

今年3月に発表された「第3期つくば市戦略プラン」では、「2030年の未来像」の一つとして「性別、国籍、年齢等を問わず、自身や他者の選択を尊重し合い多様性をいかす文化が地域に根付いています」ということが示され、基本施策でも「多様性が尊重された、包摂的な社会をつくる」(Ⅲ-3)ということが位置付けられています。

個人的には、「多様性の尊重」や「包摂性」が、国籍・性別・障がいの有無といったジャンルを超えて展開され、地域アイデンティティとして根付いていけば、つくば市は全体として、住む人にとって、よい地域として感じられるのではないでしょうか。(元水戸市みとの魅力発信課長)

【ぬまた・まこと】一橋大社会学部卒。民間企業を経て、2000年、水戸市役所入庁。12年、庁内公募で「みとの魅力発信課」に移り、広報・シティセールス・フィルムコミッションなどを9年間担当。同課課長、文化交流課長を経て、22年退職。飲み歩きイベント「水戸バー・バル・バール」実行委員、街歩きサークル「水戸との遭遇」を主宰。1971年、京都生まれ。つくば市在住。

常総学院が3連覇 春季高校野球県大会

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吉岡の適時打で生還した2人目の柳光璃青 (撮影/高橋浩一)

第77回春季関東地区高校野球茨城県大会は5日、土浦市川口のJ:COMスタジアム土浦で決勝戦が行われ、常総学院が3-1で境を下し3年連続18回目の優勝を果たした。3位決定戦では藤代が6-4で水城を破った。常総学院、境、藤代の3校は17日から本県で開催される関東大会に出場する。

第77回春季関東地区高校野球茨城県大会決勝 J:COMスタジアム土浦
    100 000 000 1
常総学院 300 000 00× 3

決勝戦は1回表に境が先制。1死からの遊ゴロを水口煌太朗が一塁へ悪送球し走者二塁とされ、次打者の右前打で1点を奪われた。だが常総学院はその裏、3点を奪って逆転。3番・佐藤剛希の左前打などで満塁とし、相手投手の四球押し出しで1点を返した後、6番・吉岡基喜の右前打で2者が生還。「打ったのはまっすぐ。インコース高めを腕をたたんで捉えた。犠打を打とうとボールのラインにバットを入れたが、詰まってヒットになった」と吉岡。結局、この点差を最後まで守り切った。

1回裏常総学院1死満塁、吉岡が右前へ2点適時打を放つ

常総学院の先発・小澤頼人は8回を投げて1安打1四球の自責点1。9回は野口龍馬が三者凡退に抑えた。「初回はエラーがありリズムも良くない中で、自分も調子悪いなりに最少失点で抑えられてよかった。5回のピンチも0点に抑えれば流れが来ると思った。境打線は初球からどんどん振ってくるので、低めの変化球から入る意識で抑えられた」と小澤。野口の救援について島田直也監督は「緊張する場面をストライク先行で抑えてくれた。もっといろんな選手を試したい気持ちもあったが、それよりも負けたくない気持ちの方が強かった」と話した。

8回を3安打に抑えた常総学院の先発投手、小澤

5回表のピンチとは先頭打者が左越え二塁打、次打者の投ゴロを一塁ベースカバーに入った二塁手の吉岡が落球、無死一・三塁とされたもの。しかし遊撃への小飛球を水口がダイビングキャッチし一塁送球、走者戻れずダブルプレーとなった。このように常総学院は1試合で4つの失策を数えたが、一方で3つの併殺を奪うなど、ミスを帳消しにする好プレーも多かった。

5回表境無死一・三塁、遊飛を捕球した吉岡の一塁送球で走者を封殺

むしろ課題は、追加点を奪えなかったこと。「準決勝までは打線がつながっていたが、初めての決勝の舞台に気持ちの未熟さが出た。ヒットが出なくても小技や足をからめるなど、打てないなりにできることがまだまだあるはず。一人一人が持っている引き出しの多さを発揮することができなかった」と浜崎怜央主将の振り返り。関東大会に向けては「強豪と戦える機会で学ぶことが多い。その中で自分たちの野球がどれだけできるか。チームの士気を高めながら挑んでいきたい」と意気込んだ。

春季関東大会は17日開幕の予定。常総学院は3年連続24度目、境は37年ぶり2度目、藤代は6年ぶり3度目の出場となる。(池田充雄)

優勝した常総学院

準優勝の境

邦楽の音遠くなりにけり 50周年の土浦三曲会 25日に定期演奏会

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土浦三曲会定期演奏会の様子=40周年記念演奏会記録誌から複写

お琴に尺八の14社中

邦楽でいう「三曲」は三味線(三弦)、箏(そう=琴)、尺八-の3種の楽器による音楽の総称。土浦三曲会(柳林順一代表)は25日に土浦市亀城プラザで定期演奏会を開く。50回目を迎えるが、半世紀の間に三曲合同の演奏が聴ける機会は随分と貴重になってしまった。

「無理がきかない」

演奏会には尺八の琴古(きんこ)流5社中と都山(とざん)流1社中、箏の山田流2社中、生田流6社中の合わせて14団体、約40人が出演する。三弦の地歌三味線は箏曲に含まれる。

尺八では、かつて虚無僧装束で演じられた古典の本曲「北国鈴慕」「吾妻の曲」2曲の演奏などがあり、箏曲では江戸時代の古今調子である「春の曲」、現代音楽に属する「平安朝風な舞曲」などの曲目で構成される。生田流で宮城道雄の開いた宮城派に所属する池田孝子社中はクラシックの名曲「パッヘルベルのカノン」に挑む。

定期演奏会は50回目となるが特に記念の企画は予定されていない。代表の柳林順一さん(73)は「40回目のときは土浦市民会館大ホールで盛大に開き、出演を記録した記念誌を発行したが今回は難しい。参加団体も減ってしまったし、出演者の平均年齢も上がってしまい無理がきかない」という。

自宅で尺八演奏を披露する柳林竹栄さん

土浦の自衛隊員が先鞭

土浦三曲会の発足は1974年にさかのぼる。戦後、土浦市右籾には「補給処」と呼ばれた陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地が出来、多くの自衛官が移り住んだ。隊員の間では精神修養のためか、尺八の演奏が好まれ、同好の士が集まって複数の社中ができあがっていたという。

その中心人物が安宅筑鳳さん(故人)と橋本竹堂さんで、土浦はじめ阿見や牛久などの筝曲社中に呼び掛けて、76年に1回目の三曲合同演奏会を開くに至ったと伝わる。

芸事の粋を次世代に

1992年の開催では尺八7社中、筝曲⒓社中があったというが、以降の活動は先細り。柳林さんによれば「世代交代で当時のメンバーはすっかり入れ替わった。次の世代交代は望めないほど若い人がいない」のが現状という。

昭和百年、戦後80年。詩吟や長唄など町なかに流れていた邦楽の音は遠くなりにけり。柳林さんは「定年を迎えて尺八でも習おうかと訪ねてくる人はいるが、腹式呼吸が難しくてほとんどが即座にあきらめてしまう。30代、40代に始めると長く続けられる趣味だし、仲間ができ健康づくりにも役立つと思う」と次世代に芸事の粋を聞いてほしいという。(相澤冬樹)

■土浦三曲会 第50回定期演奏会は5月25日(日)午前11時から、土浦市中央2丁目、亀城プラザ文化ホールで開催。入場無料。詳しくは柳林竹栄社中(電話029-842-6355)へ。

元気が出る話を聞いた!高校同窓会式典《吾妻カガミ》206

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写真は筆者

【コラム・坂本栄】5月連休前、切りのよい高卒年次の同窓会がありました。上の写真には「卒業60・50・40・25・15周年記念祝賀会」と書かれていますが、卒業してから60年、50年、40年…という意味です。私は卒60年ですから、この式典に招かれるのはこれが最後になります。この看板に「70を付け加えよう」との声もありましたが…。

インド人校長の方針

同窓会と言えば思い出話で盛り上がる場です。卒業時18才+60年となれば、これに持病の話がプラスされます。でも、この種の式典の面白いのは、元気が出る話も聞けることです。県の公募で採用されたヨゲンドラ校長(インド人)はあいさつの中で、攻めの教育方針を話してくれました。

「世界的に役立つ人材を育成し、自分で設計した方向に強い意志を持って進む、そういう学生に育てたい。今年から修学旅行を復活させ、台湾に送り出すことにした。現地の大学や高校のほか、世界的に競争力がある大企業も視察する」

「世の中はこれから劇的に変わる。どんな職業が残りどんな職業が残らないか、予測がつかない。各国の競争力が強くなると、日本が今の位置にいられるとは思わない。日本はさらにパワーアップしていく必要がある」

「県立高の中で我々は常にトップを走ってきたが、より上のレベルに持っていきたい」。このくだりは進学先のことですが、ヨゲンドラさんは2年後の合格目標をこっそり教えてくれました。

▽東北、東京、東京工業(科学)、東京外語、一橋、京都=70人(2023年度46人)
▽筑波、茨城、県立医療=60人(同56人)
▽国公立医学部=25人(同21人)
▽私立医学部=5人(同8人)
▽早稲田、慶應、上智、東京理科、国際基督=200人(同225人)
▽海外大学=5人(同0人)

面白い時代を生きた

高校講堂での式典のあと、市内の結婚式場で卒60年の同窓会がありました。スピーチするよう事前に言われ、1時間分の原稿を用意したのですが、15分にカットされました。結論は「私たちは面白い時代を生きた」ということです。

「経済記者になって2年目の夏、ニクソンショックがあった。米国がドルを金に交換させないと宣言、ドル切り下げに動いた事件だ。これは戦後の雄、米国のパワーの低下を意味した。その2年後にオイルショックが起き、産油国が先進国の秩序に異を唱えた。日本はどちらも乗り切り、米市場で目立つ存在になった」

「ニクソンショックのときは大蔵省を担当、オイルショックのときは海運造船業界を担当、自動車摩擦のときはワシントンで日米交渉を取材。米国の衰退と日本の台頭を間近で見られたのはハッピーだった」

「しかし日本のおごりがバブルにつながった。私も取材で銀行幹部と飲み歩き、彼らと一緒に浮かれていた。バブル破裂のあと、日本の金融システムが意外に弱かったことを知った」

「バブル処理で痛んだ日本がその後遺症から脱した今、トランプショックが襲った。他国に攻め込まれた米国がなりふり構わず反撃に出てきたわけだが、いずれ大転びする。ポスト米国の時代を迎える好機と思ったらよい」(経済ジャーナリスト)

軽井沢に藤巻進さんを訪ねて《ふるほんや見聞記》4

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写真は筆者提供

【コラム・岡田富朗】藤巻進さんは、1973年に有限会社塩沢遊園(現・軽井沢タリアセン)に入社。85年には軽井沢高原文庫を設立し、理事長に就任。その後、89年に一般社団法人軽井沢青年会議所理事長に就任、95~2007年の間、軽井沢町議会議員を3期務め、07~10年には一般社団法人軽井沢観光協会長を歴任。そして、11~23年の12年間、軽井沢町長を務められました。

今回は、藤巻さんが塩沢遊園に在籍していた時代のお話を伺いました。塩沢湖のある場所は、かつて一面の水田でした。冬になると水田に水を張り、スケートを始めたのがきっかけで、やがて本格的な天然スケートリンクとして整備され、その後現在の塩沢湖の姿となりました。

1971年には塩沢遊園が設立され、冬のスケートだけでなく、1年を通して楽しめる施設へと発展しました。78年には、ジョン・レノンとオノ・ヨーコも来園したというエピソードもあります。85年、軽井沢にゆかりのある文学者たちを中心とした文学館「軽井沢高原文庫」を開館。敷地内には堀辰雄の山荘、有島武郎の別荘、野上弥生子の書斎などを移築・公開しています。

1986年には「塩沢湖レイクランド」をリニューアルオープン。同年、「ペイネ美術館」も開館。この美術館は、建築家アントニン・レーモンドが1933(昭和8)年に建てた「「軽井沢・夏の家」を移築・復元した建物で2023年には国指定重要文化財になりました。

1991年からは10年間にわたり、「タリアセン音楽祭」を開催。1996年には「塩沢湖レイクランド」から「軽井沢タリアセン」へと施設名も改めました。

「タリアセン」という名称は、アントニン・レーモンドの師であるフランク・ロイド・ライトが建設した、設計工房兼共同生活の場の名前に由来しています。ライトのタリアセンは、単なる設計事務所ではなく、「タリアセン・フェローシップ」という建築塾として運営されていました。そこでは、自給自足の共同生活を行いながら、建築教育と実践が行われていました。

名称には、遊園施設としてだけでなく、「来園者の創造力や創作意欲を刺激する場所でありたい」という藤巻さんの思いが感じられます。

深沢紅子 野の花美術館、明治四十四年館

同年には「深沢紅子 野の花美術館」も開館。軽井沢の歴史的遺産のひとつである「明治四十四年館」(旧軽井沢郵便局舎)を移築・復元し、その2階に開館。さらに2008年には、1931(昭和6)年に建築家W.M.ヴォーリズが設計し、フランス文学者・朝吹登水子が別荘として使用していた「睡鳩荘」を移築・復元し、一般公開しています。

最後に藤巻さんは、「未来の軽井沢に、今、私たちが何を残していけるのかを考えることが大切です。かつて軽井沢には多くの文学者が集い、数々の無形文化が生まれました。また、名建築家たちが手がけた別荘も多く存在しています。そうした文化や建築は、残すだけではなく、守り、そして生かしていくことが重要なのです」と語ってくれました。

遊園施設の運営から町の運営を経験された藤巻さん、「すべては、これまで出会ってきた人たちのおかげで、ここまでやってこられた」と語ります。(ブックセンター・キャンパス店主)

<参考>町長時代のお話は、4月25日に発売された著書『軽井沢とともに歩んだ12年 時時刻刻~町長が綴った133話』(婦人之友社)でご覧いただけます。

有名な昆虫博士との出会い(1)《看取り医者は見た!》40

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写真は筆者

【コラム・平野国美】私の患者さんの中には、かつて各分野のトップを走り、現在は引退し、老化のために自宅や施設で療養をされている方がおられます。

毎日数時間、机に向かう文系の方もいます。統計データを自室で読めるため、現役時と環境があまり変わらないのだと思います。今でも専門誌に投稿したり、外国の学術書を翻訳している方もおられます。理系の方では、「動物、鉱石、虫、草木と会話できるのではないか」と思われる方もいます。

初診の際には事前に患者さんのことを調べます。病状だけでなく、人生史も把握するようにしています。米国では「あなたの全てを教えてください」と伝えてから初診すると聞いたことがあります。相手やご家族の気質まで把握することも大切です。

1匹のオケラにジャンプ

今回紹介する患者さんは、農学系の方であることはわかっておりました。部屋には昆虫標本こそないのですが、写真や自著が置かれていました。家に戻りアマゾンで調べると、児童や一般人向けの著書が何冊か出ていました。2冊を購入して読むと、独特のウイットがあり、虫好きでない私も昆虫の世界に入れる本です。

父親も蚕種(さんしゅ)系の学者で、内外で活躍された方です。この昆虫博士が虫と出合ったのは疎開先の信州松本でした。家の玄関先を走っていく物体を見つけた瞬間、誰かに体を押されたように地面にジャンプ、1匹のオケラをつかんだそうです。

その瞬間、虫に夢中になり、その世界に入ったとのことです。父親は物理や医学を勧めたのですが、昆虫以外に興味がなかったようです。父親を説得して昆虫研究を支援したのは母君でした。そして、彼は日本を代表する昆虫学者になりました。

診察の際、昆虫ネタを仕入れて診察前に話し掛けました。「いやあ、あなたみたいに虫に詳しい方に会うのは、定年になって以来久しぶりだ。2階に海外で集めた標本があるので、酒でも飲みながら話しましょう」と、声を掛けていただきました。

しかし、「私、残念ながら下戸なんです」と答えると、「では、お茶でも飲みながら」と。私は虫嫌いだと言うと、不思議そうな顔をしていました。私は「こんなに昆虫に傾倒する方がおられるのが面白くて、ここにいるのです」と話し、その日は終わりました。(訪問診療医師)

来春からジェンダーレスに統一 ランドセル贈呈50年機に 土浦市

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50年を機に、来春から新1年生に贈呈される薄い茶色のランドセル(土浦市教育委員会提供)

土浦市は1976年から毎年、市立小学校と義務教育学校に入学する新1年生に、入学祝い品としてランドセルを無料で贈呈している。来年で50年の節目を迎えるのを機に、来春の新1年生から性別に関係なく、性別によるイメージを連想させにくいジェンダーレスの薄い茶色に統一する。

同市では2020年度まで、赤いランドセルを女子、黒を男子に贈呈していた。保護者から「こういうご時世で赤が女子、黒が男子はおかしい」などの声が出て、21年度から好きな色を選べる選択制に変更した。22年度からは黄色のリュックサックを加え、赤と黒のランドセルと、黄色のリュックサックの3色から選んでもらっていた。今年度は新1年生838人のうち、赤を選んだ児童は421人、黒は417人、黄色は8人だった。このうち赤を選んだ男子は4人、黒を選んだ女子は4人だったという。

事業の継続性を考え1色に

昨年、市内の小学6年生約1100人と保護者代表約30人にアンケート調査を実施し選定した。薄い茶色、濃い茶色、紺色、キャメルの4色の中から選んでもらったところ、小学6年生は薄い茶色、保護者はキャメルが一番人気だった。明るい色の方が目立ちやすいなど登下校時の安全性を考慮し、市教育委員会が薄い茶色を選んだ。複数の色の中から選択できる方法も検討したが、事業の継続性を考え、1色に統一したという。

合わせて機能面を強化しリニューアルする。夏の暑さ対策として背あてにメッシュ素材のクッションを追加したり、授業で使用するパソコンのタブレット端末を家に持ち帰って学習できるよう収納スペースを確保したり、ランドセルの名前入れを、蓋部分の「かぶせ」の内側に移動させて外から児童の名前が見えないよう防犯対策などをする。リュックサックは機能強化が難しいことから廃止する。

素材は人工皮革で、重さは約1100グラム、A4の教科書やタブレット端末が入る大きさ。土浦鞄商組合に製造を委託する。来春は16校に入学予定の約860人に贈る予定だ。ランドセル1個当たりの価格は約1万3000円程度。予算は総額で1159万8000円程度を想定している。価格は材料費や人件費の高騰のほか、機能面を強化するなどから、前年度より25%上昇する見込みだ。

贈呈事業は、家庭の経済的負担軽減を図ることが目的。贈呈するランドセルは指定ではなく、市販のランドセルやリュックサックを使ってもいいが、ほとんどの児童は贈呈されたランドセルを使っているという。

同市によると、県内では44市町村のうち16市町村が新1年生にランドセルを贈呈している。色をジェンダーレス1色に統一するのは鹿嶋、笠間、高萩、日立市に続いて県内で5市目になる。(鈴木宏子)

お好み焼きとジャガイモ、それからビール① 《ことばのおはなし》81

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写真は筆者

【コラム・山口絹記】「来週空いてる? 日本に行くんだけど」。彼女からの誘いはいつも突然だ。まぁ、彼女からのお誘いとあれば無理にでも予定を空けるので、あまり関係はないのだが。

彼女というのは、63「わたしたちのことばのおはなし」(23年11月4日掲載)に登場した台湾人の旧友である。あちらのことばでいうところの“朋友”だ。今回は私に是非会ってみたいと言ってくれているドイツ人の旦那さんも一緒である。

関東のお好み焼きが食べたいという彼女の希望で、大雨の中、自己紹介と近況報告をしながら、スマホで適当なお店を検索する(旦那さんには申し訳ないが、私と彼女の会合はいつも行き当たりばったりなのである)。

席について店員さんが注文を聞きにくると、彼女が目くばせをしてきた。そうだったそうだったと私が事前の打ち合わせを思い出して黙ると、彼女が「とりあえず生で!」と日本語で元気よく注文を伝える。

「かしこまりましたー!」と言いながら去っていく店員さんを見送りながら、3人で笑い合う。彼女は日本語を勉強中なのだ。言語学習は実戦に限る。いくつになっても、この手のやり取りは楽しいものだ。私も台湾に滞在していたときは、何度も教えられたフレーズを使わされたものだ。

独語、日本語、英語で乾杯

運ばれてきたビールを片手に、私はドイツ語で、彼女は日本語で、旦那さんは英語で「乾杯!」とジョッキをぶつけ合った。日本に交換留学した経験があるので少し日本語が話せる旦那さんと、ドイツ語を勉強中の私、日本語を勉強中の彼女というメンバーなので、使用言語はあべこべだ。すばらしいことである。

生まれ育った国も使う言語も関係ない、それぞれの歴史を背負う必要のないこういう空間が、私にとっては一番居心地がよいのだ(言語研究者)

研究者ら、持続可能な研究環境の実現訴え つくばでメーデー集会 

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参加者100人余りが駅周辺をパレードした

5月1日はメーデー。第96回つくば中央メーデー(同実行委員会)が1日、TXつくば駅前の中央公園で開かれた。市内や県南、県西地区の研究機関、民間企業、自治体の労働組合など18団体から約200人が集まり、研究予算の拡充や労働環境の改善、賃上げなどを訴えた。

同実行委の永井孝志委員長(48)が読み上げたメーデー宣言では、武力紛争や異常気象、AI技術の悪用による偽情報の拡散などにより世界情勢が不安定化している中で、問題解決に取り組む市内の各研究機関では、国から交付される予算が削減されていることで、持続可能な研究環境が脅かされている研究者が多数いると指摘した。また、直面する物価高騰、実質賃金の低下、税金や社会保障費の負担増などに対して政治的な対応が必要だとし、大幅な賃上げと労働条件の改善、雇用の安定、ジェンダー平等を求めることが盛り込まれた。宣言は、賛成多数で採択された。

宣言文を読み上げる永井実行委員長

同実行委員で、産総研労組執行委員長の吾妻崇さん(58)は「国からの運営交付金が年々減少する中で、物価高なども重なり、純粋に研究費として使える予算はより限られてきている」とし、「研究を続けることは未来への投資。この予算を削ることは我々の未来が失われることにつながる。つくばは世界に誇れる研究都市。研究を続けるためにも、運営費交付金を全体的にも増やしてほしい」と訴えた。

集会後は、100人余りの参加者らが同駅周辺をが約40分かけてパレードした。「選択的夫婦別姓の実現」「年金の引き上げ」「防衛費削減」「最低賃金を1500円に」など、思い思いのメッセージを記したプラカードを掲げながら、「人間らしい生活のために、職場環境の改善と雇用の拡充を!」「子どもから高齢者までみんなに優しく豊かで安全な社会の実現を!」などと声を上げた。(柴田大輔)

夫婦別姓の実現を訴える参加者

ホテル日航つくば社長の石田奈緒子さん【キーパーソン】

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石田奈緒子さん

今回は、茨城県の部長やTX(つくばエクスプレス)の常務などを歴任し、10カ月前に「ホテル日航つくば」の社長になった石田奈緒子さんに登場してもらった。学園都市を代表するホテルの経営者として、いろいろな営業企画を考え、宿泊客を呼び込もうとする話は面白い。

昔は「第一…」「オークラ…

TXつくば駅から徒歩2分のところにあるホテル(商号は株式会社筑波学園ホテル)は、つくば科学万博(1985年)直前の1983年、「筑波第一ホテル」としてオープン。2001年に「オークラフロンティアホテルつくば」に改称され、2020年から現在の「ホテル日航つくば」という名前になった(国際会議場近くの「ホテルJALシティつくば」も併営)。日本のホテル業界を代表する「ホテルオークラ」の100%子会社。

科学万博のころから市内に住む人は今でも「第一ホテル」と呼び、20年前から隣接市に住むようになった私は今でも「オークラホテル」と言っている。「ホテル日航」という名称がなかなか出てこない。

全国どこの伝統ホテルも同じだが、宿泊+宴会+結婚式を基本とするホテル経営は苦労が多い。会社などの節約志向で宴会が減り、若い人の結婚式も簡素になっているからだ。こういった流れを乗り切るには、著名ホテルのブランドを生かして宿泊客を増やすことが求められる。

ホテル日航つくばのセンター広場側入口

体験を組み込んだ宿泊プラン

「ホテルを楽しく使ってもらおうと、『つくたびプロジェクト』と称して旅とセットにしたプランを提供している。筑波山麓のワイン醸造所を見学した後にホテルで食事・宿泊してもらうプラン、市内の農園でサツマイモを掘ってホテル内でスイーツ作りを体験してもらうプラン、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の元職員を講師にペットボトルでロケットを作り飛行実験をする宿泊プラン、などなど」

「つくたびプロジェクト」はコロナ禍にホテルが始めたものだが、TX在職中もコロナ禍で利用客が激減する中、その対応にあたった。「TX駅周辺の魅力を発信し、TXを利用する観光客を増やした」。ワープステーション江戸でのコスプレイベント(つくばみらい市)、アサヒビールとのコラボ企画(守谷市)、慶應義塾幼稚舎の先生の監修を受けた子供向け研究機関紹介パンフ作成(つくば市)などだ。

TXへの茨城県の出資額は東京都に次いで2番目。経営企画担当として、経営戦略・財務・広報・沿線事業を担当していた。インタビューのついでに、TX駅ホーム拡張(混雑対策、6両停車→8両停車)の進行状況を聞くと、完了したのはまだ6駅にとどまり、全20駅の拡張が終わるのは2030年代になるという。

北茨城市で7年間も副市長

下の経歴欄からは省いたが、石田さんは2009~16年の7年間、北茨城市に副市長として勤務している。県職員が市町村に「副」で出る期間は2~3年が普通なのに、なぜ7年にもなったのか聞くと、「東日本大震災で市も被災。それでも4年ぐらいで帰ろうと思っていたら、市立病院の移転などの仕事が入って7年になっていた」

県とのパイプ役、市復興の仕事人として、北茨城市に必要な人材になってしまったらしい。県職員には珍しい発想力と企画力が豊田稔市長に買われたようだ。

「地球にやさしい」ホテル

県幹部のキャリアはホテル経営にも生かされている。今春には、ホテルのSDGs活動が「地球にやさしい企業」として県から表彰された。①食品ロス削減運動②廃食用油回収③使用済み歯ブラシ再資源化④屋上でのミツバチ飼育⑤ペットボトルによる巨大アートづくり―などの取り組みが評価されたそうだ。

この取り組みを県表彰で終わらせず、ホテル内での集客イベントにも活用している。6月8日(日)には、「地域・お客様と連携したSDGs体験会『ホテル日航つくばサステナブルフェス2025』」を開く。環境専門家の講演のほか、持続可能メニューの試食会、子ども向けペーパークラフト講座、天然染料を使った染色体験などをパートナー企業と共に準備していると言う。

【いしだ・なおこ】1984年、茨城大学人文学部卒。NHK水戸放送局FM番組アシスタントを経て、86年、茨城県入庁。総務部地域支援局市町村課副参事、保健福祉部次長、国体・障害者スポーツ大会局長、営業戦略部長などを経て、2021年に定年退職。21~24年、首都圏新都市鉄道株式会社(TXの運営会社)常務取締役。24年6月からホテル日航つくば代表取締役社長。64歳。笠間市出身、同市在住。

【インタビュー後記】筑波学園ホテル社長は県部長クラスのポスト(石田さんは6人目)。TX常務も同クラスのポスト(石田さんは6人目)。ホテルの歴代社長とは随分付き合ってきたが、TX役員経由の方は初めて。知事は、今年開通20年のTXと学園都市の老舗ホテルのつながりを重視した?(坂本栄、経済ジャーナリスト)

◆「ホテル日航つくばサステナブルフェス2025」は6月8日(日)午前11時~午後3時、つくば市吾妻1-1364-1 同ホテル本館3階ジュピターで開催。2021年から同ホテルが進めているSDGsの取り組みを紹介し、日ごろから連携している企業や団体の展示ブースや体験コーナーを設ける。3回目の開催で、環境カウンセラーの中上冨之さんによる特別講演のほか、フードロス削減プロジェクトによるサスティナブルメニューのグランプリを投票で決定する試食イベント、規格外のコーヒー豆で行うブレンド体験、子供向けペーパークラフトワークショップ、天然染料を使った染色体験などを実施する。会場では、航空機の燃料となる家庭の廃食用油を回収する。詳しくはこちら

「故郷」の変化を記録 解体される公務員宿舎の写真展

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県つくば美術館での展示風景

つくば市出身の松﨑章馬さん

つくば市吾妻2丁目にあった国家公務員宿舎「筑波大学職員宿舎」の取り壊しまでの過程を記録した写真展を、つくば市出身の写真作家、松﨑章馬さんが29日から、同市吾妻の県つくば美術館とつくば市民ギャラリーの2会場で同時開催している。つくば美術館では、松﨑さんが同宿舎の取り壊し計画を知った2018年から取り壊し作業を間近に控える2023年までを記録した大判写真54点が、市民ギャラリーでは、取り壊しが始まり更地になるまでを記録した大判写真約20点が展示されている。

自然と近代が同居する街並み

1990年代生まれの松﨑さんが小学1年まで暮らしたのが、TXつくば駅から徒歩数分のところにあった旧・筑波大学職員宿舎だ。つくばエキスポセンターに向かい合う約3万3400平方メートルの敷地内には、16棟の宿舎が立ち並んでいた。2024年までに解体を終え、今後、筑波大学による研究・実証実験施設の建設が予定されている。

松﨑さんが記憶しているのが、歩道の両側や公園に立ち並ぶ木々など、整備された街並みに同居する豊かな自然だった。木々の隙間からのぞくエキスポセンターに立つ実物大の宇宙ロケット「H-IIロケット」や、アーチ状の最上部が特徴的な当時市内で最も高かった三井ビルなど、自然と同居する近代的な風景も、幼心に印象に残っている。

つくば市民ギャラリーの展示風景

現在、東京で暮らす松﨑さんが「故郷」を撮影しはじめたのは、つくばに帰省した際に、以前暮らしていた宿舎に何気なく立ち寄ったのがきっかけだった。懐かしさもありスマートフォンで動画を撮影してみると、以前は感じなかったその場所の雰囲気に面白さを感じた。その後間もなくして、宿舎が廃止されるのを聞いた。過程を記録しておくべきだと感じ、2018年から毎月1、2回、現地へ足を運んで建物や周囲の風景を撮影し始めた。

当初は作品にするつもりはなかったと振り返る松﨑さんだが、ファインダー越しにかつて暮らした場所を見つめる中で、以前は見落としていた敷地に茂る木々や草花の豊かさに気づいていく。さらに、住民の退去が進み宿舎が無人化する中で、住民がかつて育てていたツバキ、ビワの木が大きくなり建物の窓を塞ぎ、以前は刈り取られていたはずの雑草が、建物や路地など人の暮らしの痕跡を覆っていくのも目についた。そうした軌跡を追う中で「当初は建物に関心があったが、場所が持つ様々な表情に興味が移った。一つの場所を見続ける面白さに気がついた」と松﨑さんは話す。

昨年6月に、解体される様子を記録した写真をつくば美術館で初めて展示した。同年12月には、解体で出た「瓦礫」をテーマに市民ギャラリーで写真展を開いている。今回の展示は、過去2度の展示作品を再構成した作品を市民ギャラリーで展示し、県立美術館では、初めて公開する取り壊し以前の写真を展示する。

「つくばの中心地域には、計画的につくられた街の中で自然と人が共存していた。前回の展示では、この場所を『いい場所だった』と懐かしむ人もいた。街の風景を無意識に拠り所にしていた人は多かったのだと思う。人と共存していた木々も全部切ってしまったのは残念」とし、「街の変化を記録し、観察していくのは誰かがやらなければいけないことだし、一つの対象を観察し続けることで見えてくるものがあると感じている。取り壊される前後の風景の対比を見てほしい」と松﨑は言う。

初日に展示に訪れた市内在住の三倉恵子さんは「私も以前、公務員宿舎に暮らしていたことがある。写真にあるビワの木など、自分が暮らしていた場所にもあった。写真から感じる湿気などにも懐かしさを感じた」と感想を話した。(柴田大輔)

◆写真展「アーキテクチュラル ピルグリメッジ / 建築の巡礼」は、つくば市吾妻2丁目8、県つくば美術館で、「シーイング ア プレイス」はつくば市吾妻2丁目7-5、つくば市民ギャラリーで開催。会期はいずれも5月6日(火)まで。つくば美術館の開館時間は午前9時30分~午後5時、最終日は午後3時まで。市民ギャラリーは午前9時から午後5時、最終日は午後2時まで。2会場とも入場無料。

突然発症する大動脈解離《メディカル知恵袋》10

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筑波メディカルセンター病院

【コラム 大坂基男】大動脈解離を知っていますか。予兆もなく突然発症して患者さんは死の淵に立たされます。テレビやネットでも時々紹介されるのでご存じの方も多いと思います。今回は大動脈解離について説明します。

大動脈解離とは

大動脈壁は、内膜・中膜・外膜の3層から構成されています(図1)。

大動脈解離とは、大動脈壁の内膜に亀裂を生じて流入血によって大動脈壁が内膜側と外膜側に剥がれた状態になることです。この亀裂をエントリー、生じた内外膜間の空間を偽腔(ぎくう)、本来の血管内腔を真腔(しんくう)と呼びます(図2)。エントリー部位に一致して強烈な胸背部痛や腰背部痛が出現します。解離の進展により疼痛(とうつう)部位が移動するのも特徴です。この解離により破裂と大動脈分枝閉塞が起きます。特に上行大動脈の解離は心嚢(しんのう)内で破裂しやすく、上行大動脈を含む解離をスタンフォードA型、含まない解離をスタンフォードB型と分類して緊急症例を識別しています(図2)。偽腔の血流と圧の増加で真腔が圧迫され大動脈分枝に閉塞が起きます。

その結果、心筋梗塞、脳梗塞、脊髄梗塞、肝虚血、腎梗塞、腸管虚血、下肢虚血などの様々な血流障害(続発症)が出現します。大動脈基部に解離が及ぶと大動脈弁閉鎖不全症で心不全を発症します。偽腔内は血栓ができやすくなるため播種性血管内凝固(DIC)を発症します。疼痛は一時的に改善し、脳梗塞、狭心症・心筋梗塞、腰痛症、尿管結石、下肢動脈閉塞、胆嚢炎などと診断され背後の解離が見逃がされる危険があります。年間発症数は人口10万人あたり3~10人、男性の方が多く、男女とも70歳代に発症のピークがあります。冬季に多く発症して高血圧との関連が示唆されます。

急性A型大動脈解離の治療

急性A型大動脈解離の死亡率は1時間当たり1~2%と考えられ、治療しなければ24時間以内に約半数が命を落とすため、緊急手術が行われます。手術はtear-oriented surgeryという原則に基づき、破裂しやすい上行大動脈と分枝閉塞や破裂の原因となるエントリーを含め人工血管に置換します。エントリーの位置により大動脈基部、上行、部分弓部、全弓部大動脈置換術が選択されます。

近年、全弓部置換術において遠位側の下行大動脈内に直視下でステント付き人工血管(オープンステントグラフト)を内挿する術式が急速に普及しました。この術式は人工血管の遠位側吻合(ふんごう)を従来法より手前で行うことができ、より安全に近位下行大動脈までのエントリーを閉鎖できるようになりました。また残存解離腔の真腔拡大・偽腔血栓化を惹起して将来の残存解離腔の拡大予防が期待されています(図3)。

急性B型大動脈解離の治療

重篤(じゅうとく)な続発症のない急性B型大動脈解離症例の死亡率は10%以下と低く、安静と降圧療法による保存的治療が選択され約3週間の入院で退院します。一方、重篤な続発症を有する症例では胸部ステントグラフト内挿術(TEVAR)によるエントリー閉鎖(+)大動脈分枝のステント留置や、開胸による人工血管置換が行われます。

保存的に治療された症例のうち将来の拡大が予想される症例は1年以内にステントグラフトによるエントリー閉鎖(preemptive TEVAR)が行われます(図4)。

慢性解離性大動脈瘤について

手術後のA型も、保存的治療後のB型も、解離が残った部分は徐々に拡大して数年から10数年の後に慢性解離性大動脈瘤(りゅう)になり、瘤径60ミリ以上が手術適応になります。人工血管の中枢が拡大すれば基部置換、末梢が拡大すれば弓部・下行・胸腹部置換術を行います。B型は広範な胸腹部瘤になることが多く、主に左開胸で下行置換や胸腹部置換が行われます。根治的治療ですが高齢者には手術侵襲(しんしゅう)が高いのが問題です。慢性解離に対しても拡大防止目的でTEVARが行われます。低侵襲ですが対症的で再治療率が高いのが問題です。

最後に

急性A型大動脈解離の手術件数は高齢者人口とともに増加していますが、救命率は向上しています(図5)。慢性期には患者さんのライフステージに応じた最適な治療法を検討します。(筑波メディカルセンター 心臓血管外科診療科長)

筑波大出身の東田旺洋選手、クミ2025アジア選手権出場へ

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パリ五輪帰国報告会での東田選手=昨年8月19日、つくば市二の宮、関彰商事つくばオフィス

パリ五輪陸上男子100メートルに出場した筑波大学出身の東田旺洋(ひがしだ あきひろ)(29)選手=関彰商事所属=が、27~31日、韓国クミ市で開催される「クミ2025アジア陸上競技選手権大会」の日本代表に選出された。100m競技への出場が予定されている。

東田選手は、昨年8月3日に行われたパリ五輪で10秒19(追い風0・6メートル)の1組5着という結果で予選敗退となったが、スタート反応速度は0.129と、出場選手72人中1番のタイムという非凡な才能を見せた。昨年の日本選手権は2位、2019年のインカレ、国体は優勝している。

東田選手は「昨年のオリンピックに続き、今大会でも日本代表に選んでいただいた。韓国の地で走れることを光栄に思う。持ちタイム的には厳しい戦いになることが考えられるが、万全の準備を行い大会に臨む。目標は決勝の舞台で勝負すること。日本代表として恥じない走りをしたい」などとコメントを出している。

アジア選手権は、9月に東京・国立競技場で開催される「東京2025世界陸上競技選手権大会」の出場権獲得につながる重要な大会に位置付けられている。

東田選手は1995年奈良県で生まれ。 奈良市立一条高から筑波大、同大学院に進み、栃木県スポーツ協会を経て、関彰商事に入社した。関彰商事ではヒューマンケア部ウェルネスサポート課に所属し、仕事をしながらトレーニングに励んでいる。東田選手の記録は60メートル6秒59、100メートル10秒10、200メートル20秒60。(榎田智司)

➡東田選手の過去記事はこちら(24年7月10日付同8月19日付

ある日本画にまつわる縁の不思議《文京町便り》39

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】今回は、私の親戚筋で女流日本画家KMさん(1918~2009年)の絵画にまつわる縁の不思議さについて語ります。彼女の父親は戦前に茨城県議会議員をしており、家計もそれなりに裕福でもあったためか、地元の女学校を卒業後、美術学校(現女子美術大学)に学び、生計をあまり気にせず画業一筋だったようです。

私の父と母が土浦市に転居した際(1954年ごろ)、KMさんは近くに居住していたこともあってか、転居祝いにと自作の絵画を持参してくださいました。筑波山を正面から描いたもので、それ以来、わが家の居間の鴨居(かもい)に飾ってあります。子供時代の私も、その時の光景や会話をかすかに記憶しています。

それから約65年。コロナ禍前の2019年晩秋、私の家内が水戸でのお茶会で、HKさんという方とやり取りする機会がありました。その方は筑西市(旧下館市)にお住まいの未亡人で、KMさんの甥(おい)だったご主人HT(歯科医師)さんが数年前に亡くなり、遺品の中にあったKMさんの絵画(大判の10数点)の引き取り手を探しているとのこと。

家内からその話を聞き、数カ月後、筑西のご自宅を訪ねました。拝見すると、いずれも150号(227センチ×162センチ)程度で、襖(ふすま)や障子が多く壁の少ない日本家屋では設置場所が無いため、引き取り手を探すのが難しいのもうなずけました。最初は地元市役所に話したそうですが、専門家が選定したものをすでに数点収蔵しているため、これ以上KMさんの絵画を収蔵することはできない、との回答だったそうです。

日展特選の絵画「おおづる」

そこで私は、2、3の知人や親戚に話を向けました。土浦ロータリークラブの仲間FA君に打診すると、KMさんは親戚筋でもあり、経営している病院が増築中なので、その壁面に数点飾れるのはありがたいと、快諾を得ました。私の父の生家(旧八郷町半田)では、江戸時代後期の屋敷を維持していることもあり、土間上部の大きな梁(はり)が組み合わさった空間に飾ることが可能であることも分かりました。

一方、土浦市内の拙宅(父の生家の隠居家屋を移築)ですが、玄関脇の応接間に壁があり、そこに150号を収蔵するスペースがありました。たまたま父親が残していた「第14回日展特選集(1982年)」に、この絵画「おおづる」が特選の一点に選ばれたことが写真と共に記録されていました。

ともあれ、こうしてKMさんの絵画数点は、何とか関係者に収めることができました。すると1年後、小学校からの友人YY君が拙宅を訪ねて来て、玄関に入るや否や(半分程度しか見えないにもかかわらず)これはKMさんの絵画ではないか、と言うのです。KMさんは自分の親戚筋でもあるので、ここに落ち着いてよかったと言ってくれました。

しかも、自分の妹TNさんがKMさんに絵画指導を受けていたので、見たいというかもしれないとまで言うのです。1カ月後に、YY君が妹TNさんと絵画教室仲間だったご友人と連れだって拙宅にお見えになり、喜んでいただけました。

これを奇縁というべきか分かりませんが、人のつながりは大事にしたいものだと、しみじみ感じているところです。(専修大学名誉教授)