水曜日, 12月 31, 2025
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つくば中学受験事情 分析事始め《竹林亭日乗》5

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田植えから1カ月(写真は筆者)

【コラム・片岡英明】5月の「つくば子どもと教育相談センター」総会で県立高校問題を5分ほど話した。すると参加者から中学受験の質問があり、それを契機に話し合いが盛り上がった。そこで今回は中学受験について考える。

中学受験の背景

つくば市は人口増の中、県立高校が削減され、そこにTX沿線開発で小中学生が激増。さらに2020年から県立付属中設置で高校入学枠の削減が追い打ちをかけた。つくば市の小中学生は自分の進路の選択肢が狭くなり、そのために中学受験に目が向いているのか。

中学受験に対する首都圏からの転入増の影響はどうか。東京の全日制高校は186校の都立より245校の私立の方が多く、その割合は4対6。私学の流れが強い。さらに187校ある私立中の133校(71%)が中高一貫。東京の中学受験の文化がつくば市にも流入しているのか。

しかし、生徒や保護者が知りたい中学受験に関して冷静な情報は少なく、素朴な疑問が解消されないまま、塾ベースの宣伝や口コミに流される傾向がある。そのため保護者にも不安がある。

そこで、「つくば市の小中学生の高校進学を考える会」は6月の学習会で、つくばの県立高校不足の周辺の問題としてデータに基づいて中学受験についても考えることにした。

中学進学者の推計

まず、最初のデータでつくば市の中学進学数を捉える。つくば市ホームページのopen data(オープンデータ)で前年の小6と次年度の市立中1年の生徒数の差を調べる。これを県立中学、県内私立中、県外私立中などへの中学進学者数とする。もちろん小学卒業時の転出や中学1年の転入もあるので概数である。

<6年間の中学進学者の推移>

▽2018年:中1=1940人、前年小6=2193人。差は253人(11.5%)

▽2019年:差は285人(12.3%)

▽2020年:差は249人(10.4%)

▽2021年:土浦一高が付属中募集開始。差は304人(12.3%)

▽2022年:水海道一高・下妻一高も付属中募集開始。差は331人(12.8%)

▽2023年:中1=2155人、前年小6=2506人。差は351人(14.0%)

<上の数字から言えること>

▽つくば市では中学進学者が人数・割合ともに増加傾向

▽23年は18年より中学進学者が約100人増

▽22年の小6は17年より313人多く、中学進学増は小学生増に伴う面も

▽正確に把握するには転出などを含む資料や中学別の分析が必要

中学受験 学びの視点

中学受験は、つくばの生徒増・県立高不足・県立中設置・東京などの影響以外にも、生徒・保護者の希望、通学条件や費用負担、私立中や塾の指導など多くの要素が絡んでおり、単純な評価・批判はなじまない。

今は中学受験の論評よりも現状把握が先決である。子どもの気持ちを大事にしながら、まず情報を集め、丁寧に語り合うことから始めてほしい。

小中学生の学びの要点は何か? それはどこで学びのスイッチが入るかにある。生徒に学びのスイッチが入れば、高校や過去の成績に関係なく大きく伸びていく姿を見てきた。ゆえに中学受験を生徒にとっての学びの視点で考えてほしい。(元高校教師、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)

突然始まった【不登校、親たちの葛藤】上

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中村昌人さん(右)と規乃さん夫妻

突然、我が子が学校に行かなくなった。どうしよう―。子の不登校に、悩む親は少なくない。親子、夫婦の考えの違いが、時に、家族にきしみを生む。当事者である親たちの声に耳を傾けた。

親は困惑

「もう、学校には行きたくないんだ」。

3年前の9月。つくば市の中村昌人さん(44)、規乃さん(48)夫妻は、目の前で泣きじゃくる中1の長男(15)の訴えを戸惑いながら聞いていた。2週間前から学校で毎日のように体調不良で早退していた。少し様子がおかしいと思っていた。

行きたくない理由に、友人とのトラブルを挙げた。

「まさか、うちの子が不登校?」。信じられない思いだった。悪ふざけもするけど、明るい性格で誰とでも仲良くできるタイプだったはず。これまでも時々、行きたがらない日もあったが、休ませると、数日後には、自然に学校へと足が向いていた。

学校側にトラブルの内容は伝えたが、友人への指導は求めなかった。再び登校したとき、トラブルを引きずってほしくなかったからだ。

「そっとしておけば、学校へ足が向くだろう」。登校しないことに罪悪感を感じているかもしれない。夫婦とも、登校や勉強を強制せず、長男の前で不登校の話題は口にしなかった。

すんなり受け入れたわけではない。秋が深まり、暮れになっても、長男が登校する気配はない。昌人さんは出勤途中に制服姿の同級生を見かける時に胸が痛んだ。イライラも募った。「なぜ、我が子は学校に行かないのか」。苦しそうな昌人さんの姿を規乃さんはよく覚えている。

夕食を終えると、すぐに自室へ引き揚げる長男。夫婦でその背中を見送りながら、葛藤を胸にしまい込む日々だった。

中1の冬休み明け、中2の4月。新学期になれば、気持ちが変わるかもしれないと期待した。でも、長男は動かなかった。

学校以外で、居場所を見つけてほしい―。規乃さんはそう思い、中1の1月からフリースクールに通わせ始めた。だが、体調不良を訴え、1、2カ月で足が遠のき、毎日は通えず週2回ぐらいがやっと。費用もばかにならない。規乃さんはいらだちが募ってきた。3人で話し合い、結局、4カ月足らずでやめさせた。「子どもの気持ちを考えず、居場所を見つけなければと焦りすぎていた」。規乃さんは振り返る。家にずっといると、長男が気になる。なるべく用事を見つけて出かけ、自分の時間を持つように心がけていた。(鹿野幹男)

続く

ワンピースのおんな《続・平熱日記》135

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】トイレの中に随分前の「暮らしの手帳」という雑誌が置いてある。その中に「ワンピースのおんな」というタイトルのページがある。ワンピースを着た、多分それなりのキャリアを積んだとおぼしき女性の写真が載っていて、文章はちゃんと読んだことがないのだけれどもちょっと気になっていた。

そのワンピースのおんなは突然現れた。それも大柄の模様の「マリメッコ」のワンピースを着て。妻は大学を出てすぐに有名な布団屋さんに就職した。そのときの担当が有名ブランドのライセンス商品のデザインだった。だからうちには試作品などのタオルや生地サンプルなんかがあって、おおよそ暮らしぶりとはそぐわない一流ブランドのタオルなんかを普段用に使っていたのだけれども、その中にマリメッコという聞き慣れない独特のプリント柄が特徴のブランドがあった。しかし、私にはなじみがないだけであって、フィンランドを代表する有名ブランドであることを知った。

ワンピースのおんなは関ひろ子さんという。職業はアーティストのエージェント? ややこしい業界の話は置いておくとして、1990年代、美術畑とは無縁だった彼女はある若手作家をプロデュースし始め、やがてその作家は世に知られるまでの存在となる。千曲でお世話になったart cocoonみらいの上沢かおりさんもほぼ同時期に同様の活動を始めた方で、お2人はそれまでの閉ざされた?アート界に風穴を開けた、大げさではなく、美術史に残る先駆者的な存在なのだ。

今回の千曲での私の個展を含めたギャラリーのオープンに際しては、ひろ子さんはかおりさん宅に泊まって、プレス関係から食事の支度まで実に楽しそうに手伝いをしていた。

着ることは自由と尊厳につながる

ひろ子さんが一足先に東京へ戻られる日の午前中、時間があるというので、ワンピースを着た彼女と長野歴史館を訪れることにした。歴史に興味がある人にとってはたまらない展示なのであろうが、一般人の私はごく平均的な速度で見終わって出口にたどり着いた。ところがワンピースの女はいつまでたっても出てこない。やっと現れた彼女はどうやら係の女性に解説をしてもらっていたようで、お礼のあいさつをしながら出口にやって来た。後でその様子を話すと、「あの人は好奇心のカタマリなのよ」とかおりさん。

ワンピースのおんな…。パリでピナ・バウシュのコンテンポラリーダンスの公演を見たのを思い出した。ダンサーはワンピースを着て踊っていた。なぜワンピースだったのか…。バウシュ自身もワンピースのおんなだったような…。それから…そうだ! 以前よく描いていた少女。それは震災の後、被災地でトランペットを吹く少女の画像を見て描き始めた力強い少女像。私は無意識のうちにその少女にワンピースを纏(まと)わせていた。

ワンピースのおんなという連載記事は、その後1冊の本になっているらしい。あとがきに「お気に入りのワンピースを着ることは自由と尊厳につながる…」と、ある。(画家)

➡斉藤さんの過去のコラムはこちら

音楽劇「ヒロシマ」 7月、土浦公演 市民団体が主催

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「ヒロシマ」のチラシを手にする代表の石原之壽さん

紙芝居やチンドン屋の練り歩きなどを行っている土浦の市民団体「つちうら駄菓子屋楽校」(石原之壽=のことぶき=代表)が主催し、音楽劇「ヒロシマ」の公演が7月22日、土浦市大和町の県県南生涯学習センターで催される。2021年から毎年、土浦で開催し3回目となる。

「ヒロシマ」は、78年前に広島で被爆した路面電車を擬人化し、当時の記憶を語っていく物語。作中には被爆者たちの様々な証言を、できるだけ表現を変えずに用いているという。俳優で演出家の嶋崎靖さん(67)が平和への思いを込めて制作・演出した。今回の公演では、数々の劇団で活動する原洋子さんと、俳優の保可南さん、地脇慎也さんが出演し、武蔵野音楽大学大学院の青山絵海さんがマリンバを演奏する。音楽は嶋崎雄斗さんが制作を手がけた。

音楽劇「ヒロシマ」の一場面(石原さん提供)

チンドン屋の先輩と後輩

主催する「つちうら駄菓子屋楽校」は石原さん(64)が3年前に立ち上げた。飛行船「ツェッペリン伯号物語」や「土浦花火物語」など、土浦を中心に地域の歴史や物語を題材にした紙芝居を制作し上演している。

石原さんは群馬県伊勢崎市の出身で、中学生の頃から都内の劇場に通い、演劇や落語、ジャズライブなど演芸に親しんで育った。大手会社のサラリーマンとして働き定年を迎えた後、できることは何かと考えた時、子どもの頃から親しんだ演芸に自分の原点を見つけたと話す。2018年には全日本チンドンコンクールに出場し、素人部門で準優勝した。

「ヒロシマ」を制作した嶋崎さんは08年に開催された関東ちんどん選手権の優勝者で、石原さんにとってチンドン屋の先輩だ。4年前、嶋崎さんから誘いがあり、東京都新宿区の経王寺で「ヒロシマ」を初めて見た。

「音楽のすばらしさ、プロの役者の演技など、表現者の一人として衝撃を受けた」と石原さん。感銘を受けた石原さんはすぐに土浦公演を企画した。公演の費用は協賛金などを集めてまかなった。昨年はコロナ禍だったことから全員入場無料にした。若い人に見てほしいという思いから、今年も学生は無料とする。

初回の一昨年は約150人、昨年は約200人が来場した。「スポンサーを募集しているが資金調達が難しく開催が大変。もう止めようと思ったが、昨年、一昨年の来場者アンケートを見ると『こんな舞台は初めて』『やめずに継続してほしい』という声が多くあり、今年も開催を決めた。何とかか続けたい」と話す。

「何でもオンラインになり、生で見るという体験が失われている。東京でなければ見られないようなプロの劇を土浦でも見てほしいと思った。本物に触れる体験をしてほしい」と石原さんは来場を呼び掛ける。

石原さんは紙芝居でも平和の大切さを伝えてきた。3年前、山口県に住む山田英子さんが被爆体験を描いた紙芝居「英ちゃんと原爆」のことを新聞記事で知り、新聞社を通して山田さんに連絡した。被爆体験を多くの人に伝えるため茨城でも上演したいと申し出たところ快諾を得、2年前から毎年土浦で上演している。今年は8月16日、17日に土浦駅前のアルカス土浦1階ラウンジで上演する予定だ。「自分には戦争の体験はないが、体験者の魂を伝えることはできる」と話す。(田中めぐみ)

◆音楽劇「ヒロシマ」は7月22日(土)、土浦駅前の県県南生涯学習センター多目的ホール(市役所5階)で開催。開演時間は昼の部が午後2時開演(開場は午後1時30分)、夕の部が午後5時開演(開場は午後4時30分)。公演時間70分。全席自由。定員は昼夕とも大人100人、学生300人。入場料は大人 1500円、大学生以下は無料。予約方法はパスマーケットへ。

アストロプラネッツ、巨人との交流戦に敗れる

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5回裏、瀧上が右翼へ適時打を放つ(撮影/高橋浩一)


ラミレスさんの障害児野球教室も

プロ野球独立リーグ・ルートインBCリーグの茨城アストロプラネッツは7日、土浦市川口のJ:COMスタジアム土浦で、NPB(日本野球機構)との交流戦として読売ジャイアンツ3軍と対戦し、1-5で敗れた。試合に先立って、横浜DeNAベイスターズ前監督のアレックス・ラミレスさんによる障害児向けの野球教室も開かれ、約20人の子どもたちが直接指導を受けた。

茨城アストロプラネッツ-巨人3軍(6月7日、J:COMスタジアム土浦)
巨人 003100001 5
茨城 000010000 1

茨城は要所で守備にほころびが出て、要らぬ失点を重ねた。3回表、ショート寺嶋祐太の捕球ミスなどで2死一・三塁とされ、中堅への適時打で1点を先制される。次打者の右前打では、土田佳武が処理に手間取るうちに2者が生還、0-3と引き離される。4回にも2死からエラーがらみで走者を出し、さらに1点を追加された。

先発の二宮衣沙貴は「エラーでランナーを出しても、自分が踏ん張って抑えていれば結果は変わっていた。そこが今日の反省点。自分の能力を高め、三振で切り抜けられる力をつけたい」と悔やむ。

二宮は熱投実らず(同)

5回裏、茨城が1点を返す。2死から一番・土田がショートゴロで出塁、二番・瀧上晶太の右翼への当たりは、野手が目測を誤り適時打となる。こちらもエラーがらみの得点だった。

しかし9回、投手は5人目の浅野森羅のとき、2死一・二塁からショートゴロを送球ミス。この間に1点を追加され、ダメ押しとなった。

「投手は頑張ってくれたが、守備の乱れや走塁で相手と差があった。今季は見た目ほどの実力差はないが点差がついた残念なゲーム。今季はこうしたミスが多く、それが成績に直結している」と、伊藤悠一監督も渋い表情。

土浦市内の約20人が参加

子どもたちと交流するラミレスさん(同)

試合前に催された野球教室は、ラミレスさんが「スペシャルニーズ」のある子どもたちを支援する一般社団法人VAMOS TOGETHER(バモス・トゥゲザー)を主宰していることがきっかけ。茨城アストロプラネッツの運営会社「アドバンフォースグループ」が障害福祉サービスを提供していることから、その趣旨に賛同し開催に至った。

スペシャルニーズとはラミレスさんの造語。ほんの少しの手助けがあれば、障害があっても自立して個性や才能を発揮しながら生きることができるという考えだ。「彼らに夢と笑顔と、生きる力をつける機会を与えていきたい。そして、彼らを支える家族もサポートできたら」と、思いを語る。

今回は、放課後デイサービス「アストロ土浦真鍋」の利用者など、土浦市内の障害児施設に声を掛け、約20人の参加者が集まった。

「素晴らしいコラボをさせていただいた。多くの子が楽しんで参加し、ベストを尽くそうとする姿を見せてくれた。中には将来野球選手になりたい子もいるのでは」とラミレスさん。

茨城アストロプラネッツとしても今後もラミレスさんと協力し、このようなイベントを引き続き開催して地域貢献の機会としていきたい考えだ。この日伊藤監督が、直近3試合で集めたVAMOS TOGETHERへの支援金7万460円をラミレスさんに手渡した。(池田充雄)

支援金をラミレスさんに手渡す茨城アストロプラネッツの伊藤監督(右)=同=

オカルト、エリファス・レヴィ《遊民通信》66

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【コラム・田口哲郎】

前略

ずいぶん前からオカルトに興味があります。オカルトといえば、学研の月刊誌「ムー」です。UFOやツチノコ、心霊現象など、科学で解明できない現象について扱っています。オカルトはちょっとゾクゾクしますし、謎が解けそうで解けないところが魅力だと思います。

オカルトについて調べてみると、オカルトの元となった思想があることがわかりました。それはオカルティズムと呼ばれるもので、19世紀フランス最大の魔術師といわれるエリファス・レヴィ(1810-1875)が大成したとされています。オカルトはヨーロッパのキリスト教文化圏で生まれ、発展したものであるのは確実なようです。

少しその背景を説明すると、18世紀末のフランス革命でカトリック教会の一強支配が崩れて、聖職者ではない俗世の作家たちが、キリスト教会が担っていた精神的役割を肩代わりするようになりました。そのとき、いわゆる「宗教」には収まらない「宗教的なもの」が次々に生み出されてゆきました。その「宗教」の枠をはみ出した「宗教的なもの」の中の一つが、オカルティズムです。

オカルティズムの大成者レヴィはなにを隠そう、元カトリック修道士であり、詩人でもありました。そのレヴィがキリスト教会と絶交して、しかし人類を救いたいという一心で、つくりあげたのがオカルティズムなのです。

レヴィは今のオカルトで扱う未確認飛行物体・生物などについて研究したわけではありません。ユダヤ神秘思想にもとづいたカバラを極めました。これは現代のタロットに通じるものです。それもたとえば恋愛運や金運を占うという意図ではなく、宇宙を支配する聖なる知恵を知り、その知恵によって世界を知り、よりよく生きることを目指しました。その知恵を人びとに伝えることで、人びとが幸せになることが大切なのです。

人間の根本的な存在を問いつづける

夜空を眺めていると、宇宙が見えるような気になり、目をつぶると、自分が宇宙の中の小さな存在であることが実感できます。そもそも宇宙や人間の存在自体が不思議です。

その意味は、日常にかまけていると気にもなりませんが、ふと瞑想(めいそう)すると、この宇宙の意味を誰も教えてくれないことに気づきます。そもそも教わるものではないのですが、では探求したとしても、答えなどない。でも、宇宙はたしかに存在して、地球は自転・公転し、宇宙の中を時速11万キロで駆け抜けています。科学で事実はわかっても、宇宙の存在の意味はわかりません。

こうした人間が持たざるをえない根本的な疑問は、人を不安にもさせますが、深い静寂にも導きます。

レヴィはこうした人間の根本的な存在の意味を研究して、人びとに伝えたかったのです。こうしてオカルティズムは150年以上前に生まれ、そして現代にまで脈々と続いています。こんな人間の思いを大切にしたいですね。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

阿見大空襲、むなしさこみ上げた【元予科練生からのバトン】下 

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著書を手に語る萩原さん=石岡市内の喫茶店

石岡市 萩原藤之助さん(94)

石岡市在住の萩原藤之助さん(94)は、土浦海軍航空隊甲種第13期飛行予科練習生だった。第14期生だった戸張礼記さん(94)=6日付=に回想録執筆を勧められ、去年2月、予科練の生活をまとめた「雛鷲の残像―そのままの予科練回想録」を自費出版した。「等身大の予科練―戦時下の青春と、戦後」(常陽新聞社)などの参考文献を元に、当時の記憶と照らし合わせてつづり、戸張さんが監修を務めた。萩原さんは長年、戦争の資料を集めており、3カ月ほどで書き上げた。多くの人に読んでほしいと700部制作し、200部を阿見町の予科練平和記念館に寄贈した。

『雛鷲の残像』表紙

萩原さんは中学3年の時、校内に貼りだされた「予科練習生募集」のポスターを見て応募を決めた。1943(昭和18)年のことだった。「戦局が悪化の一途をたどる中、13期は、もっと搭乗員教育を進めて飛行機搭乗員を大量に養成せよということで、入隊者数を大幅に増やした年だった」と、回想録に付した資料を示して説明する。

予科練では精神教育が行われた。「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭(軍人勅諭)」に由来する五ケ条を暗唱。集会に遅れたり、訓練にやる気がなかったりすると罰を受けた。「アゴ」はこぶしで練習生のあごを殴る罰で、殴られた時には自分の至らなさを恥じたという。厳しい訓練に耐えていたが、卒業直前に体調不良に陥り、しばらくの間療養した。卒業前日になり、班長から卒業できることを告げられ、土浦海軍航空隊の分隊に所属して訓練を継続することとなった。所属した分隊で、44年9月には滑空訓練を行うようになった。

45年6月10日、土浦海軍航空隊が米爆撃機B29による空襲を受け、374人が犠牲になった阿見大空襲ー。この時の記憶も『雛鷲の残像』に詳細に記している。朝7時過ぎ、いつもの訓練通り射撃場の後ろにあった防空壕に退避していた。すると空襲警報が発令され、戦闘機が機銃掃射を浴びせて飛び去っていった。続いて大きな爆発音が10回ほど響き渡った。青宿の横穴式防空壕に急行せよという命令が出て、萩原さんはトラックに乗って向かった。

防空壕の入り口付近には多くの爆弾の落ちた跡があり、入り口が崩れて、奥からうめき叫ぶような声が聞こえた。助けなければと崖に上り、スコップで掘り下げたが土は崩れるばかり。そのうちまた戦闘機がやってきて機銃掃射を浴びせた。萩原さんらは木陰に逃げたが、その間に土がまた崩れてしまった。崖の上から航空隊を見下ろすと、兵舎や講堂に火の手が上がっていた。

そのうち、所属部隊に戻るようにという命令が下り、掘るのを断念して徒歩で兵舎に戻った。誰がいない、彼がいないと確かめ、いない者の探索に取り掛かった。兵営の門から霞ケ浦湖岸までまっすぐ続く道路の両側には、むしろをかぶせた死体が延々と続いていた。その道を歩き、むしろを少し上げて顔を見ながら同僚を捜し続けた。青ざめた同僚の顔を発見し、むなしさが込み上げたという。

萩原さんが所属していた31分隊5班。萩原さんは最上段の右から3番目。1944年撮影=「雛鷲の残像―そのままの予科練回想録―」に掲載

誰にも言わなかった

「戦争が終わっても、予科練にいたことを誰にも言わなかった。予科練あがりは『与太練』なんて呼ばれていたんだから」。

予科練での訓練は我慢、忍耐の連続だったが、それだけではなく、ぬくもりや親切を感じることもあったと振り返る。復員後は茨城師範学校に入り、教員となった。練習生としての生活を礼賛できるわけではないが、集団生活での修養はその後の人生の糧にもなった。しかし、戦争は二度としたくないと語る。(田中めぐみ)

終わり

戦争は人災、起こさないでほしい【元予科練生からのバトン】上

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自作のスライドで予科練の記憶を語る戸張さん=阿見町の自宅

78年前の1945年6月10日、阿見町にあった土浦海軍航空隊が米爆撃機B29による空襲に見舞われ、10代の予科練生と教官、民間人ら計374人が犠牲になった。6月10日を前に元予科練生2人に話を聞いた。

阿見町 戸張礼記さん(94)

阿見町在住の戸張礼記さん(94)は1928(昭和3)年生まれ。旧制土浦中学校に進学した41年の12月、ラジオの放送を聞いて「ぞくっとし、震えた」と当時を振り返る。「大本営陸海軍部発表12月8日6時。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米・英軍と戦闘状態に入れり」。ハワイ真珠湾攻撃を伝える放送だった。44年6月、「海軍飛行兵徴募」のポスターを見て応え、土浦海軍航空隊に甲種第14期飛行予科練習生として入隊した。

予科練では学科のほか射撃、水泳、短艇(カッター)、グライダーなど厳しい訓練を受けた。軍人精神を注入するため「バッター」と呼ばれる棒で叩く制裁があった。モールス信号を聞き取る無線通信の授業では、1分で80字を聞き取らなければならず、1文字間違うと1本バッター、3文字間違うと3本バッターと罰があった。

練習生は大きな風呂に皆で入った。隠していても皆、尻が紫色になっているのが分かった。「こんな調子だからすっかりぶるってしまった」。戸張さんは土浦中学の滑空部でグライダーの心得があったため、グライダー訓練は得意で楽しかったが、カッター訓練は長くて重いオールを合わせて漕がねばならず、尻の皮がむけるほどで辛かったと話す。

やがて特攻が発令されるようになる。一つ上の13期予科練生は神風特別攻撃隊や回天特別攻撃隊として、戸張さんより2カ月早く入隊した14期の1次隊は木製モーターボートで敵艦に体当たりする震洋特別攻撃隊として、体当たりの攻撃を任務とする部隊に配属される。

予科練の制服を着た戸張さん。1945年3月撮影=戸張さん提供

戦局は悪化していた。本来は1年で卒業するが、途中で予科練教育が凍結された。戸張さんは10カ月で予科を終え、翌45年3月、本土決戦要員として青森の部隊に転属される。航空機に乗ることはなく、7月には青森の大湊特別攻撃陸戦隊に転属となり、本土上陸を想定した特攻、対戦車攻撃の訓練をした。

45年7月、戸張さんら14期2次隊も、青森県の海岸にある大湊兵団の土龍特別陸戦隊の特攻隊員となった。掘った穴に爆雷を抱えて隠れ、敵の戦車もろとも自爆するのが任務で、爆雷に見立てた六角柱を持って穴に入り日々訓練した。「敵が上陸してきたことを想定し、海岸で直径80センチのタコつぼと呼ばれる穴を掘って爆雷を突っ込む練習をした。まさに墓穴を掘った気持ちだった。とにかく体ごとぶつかって死ねばいいのだろうと思っていた。国のために、家族を守るために戦いたいという気持ちと、死にたくない気持ちと、両方あった」。

8月、広島、長崎に原爆が落ちた。とてつもなく暑い日だった15日、朝から汗みどろになって対戦車攻撃の訓練をする中、緊急の総員集合の命令が出て幕舎前に集まり、玉音放送を聞いた。聞き慣れない抑揚の高い声が聞こえ、雑音がひどかったが「戦いを終わらせたい」という意味は理解できた。「これで家に帰れる、よかった、という安堵感も感じたが、卑怯(ひきょう)でひそやかなものだった」と戸張さん。

同期に死んだ者はなく、全員生き残った。武装解除の作業があり、気が抜けたようになりながら大湊から汽車に乗った。途中仙台で一泊し、8月30日、自宅に帰った。家の前に立ち、しばらく呆然(あぜん)としていたら、母がやって来て号泣したという。

かわいそうだと思われるのが嫌なんだ

戦後復員すると「お前らがしっかりしないから日本は負けた」と言われた。「まるで国賊扱いだった。予科練にいたことを誰も黙ってたよ。特攻くずれ、予科練くずれなどとも言われた。アメリカの宣撫(せんぶ)工作で慣らされた影響があったと思う」と言う。「アメリカ兵に群がってチョコレートをもらい大喜びする子どもたちを見て情けないと思ったが、でもへこんでいられない。明日食べるものがなく、いかに生きのびるかを考えていた」。

戦後、価値観は180度変わった。「予科練にいたことを家族にも誰にも話さなかった人もいるが、予科練でひどいことをやられたととらえてほしくない。かわいそうだと思われるのが嫌なんだ。その時は皆、成し遂げることに誇りと喜びを持っていた。教員がバッターで殴るのは恩情からだったし、殴られる方も自分が守れなかったからという気持ちで耐えていた。過酷さやひどさを強調してほしくない」と言う。

「小学1年の国語の教科書に『ススメ ススメ ヘイタイススメ』が載っていた。中学3年の時には武装してわら人形を突き刺す練習が正課の中にあった。教育ではなく洗脳だった」と戸張さんは話し、そういった教育の中で優等生であろうとし、憧れを持って予科練に入ったという。

戦後、教員となり39年間、小中学校に勤めた。現在、阿見町の予科練平和記念館の歴史調査委員でもある戸張さんは「学ぶのは平和に生きる力を身に付けるため。平和を守る思考力、平和に生きるための判断力、平和を実現するための表現力を磨いてほしい。人災は止められる。戦争は人災。道徳、仁徳を持ち、戦争を起こさないでほしい」。令和の子どもたちに平和のバトンを渡し、伝えたいと語る。(田中めぐみ)

続く

フィンランドのNATO加盟 安保の新動向《雑記録》48

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写真は筆者

【コラム・瀧田薰】2023年4月4日、フィンランドが北大西洋条約機構(NATO)の31番目の加盟国となった。この日はNATO発効(1974年)から74回目の記念日でもあった。

もともとスウェーデンの一部であったフィンランドは、1809年にロシアに割譲されてロシアの一部となったが、1917年(ロシア・十月革命)に「フィンランド共和国」として独立した。その後、大国ソ連と長い国境線で隣り合うことになった同国は、二度の対ソ戦、そして対独戦にも耐え、秀でた外交力とそれを支える高度な国際政治研究力を備え、近年は非同盟と軍事的中立によって独立を貫くことに成功してきた。

そのフィンランドが、なぜ、わざわざNATOに加盟したのか。ロシアによるウクライナ侵攻であると誰しもが考えそうだが、軍事専門家は、NATOと北欧諸国(スウェーデンを含む)との間で、「北極圏における戦略的環境の変化」「新たな領域における抑止と防衛の強化の必要性」で認識が一致した、そことが大きいと指摘する。

例えば、IINA(International Information Network Analysis)の長島純氏による「戦略的環境の変化から読み取るNATO拡大と5条適用の問題」(2023年5月16日)など。

すなわち、地球温暖化の影響によって北極海航行の自由度と資源の開発可能性が上昇し、北極海を取り巻く国家間の資源や安全をめぐる競争が激化していることが一つ。もう一つ(フィンランドを動かした真の理由)は、最近の情報通信技術(ICT)、特に宇宙空間における衛星通信の利活用の可能性が飛躍的に向上し、経済・軍事両面における安全保障に死活的影響を与えるようになったことだという。

ハイブリッド戦争 一国対応に限界

具体例をあげれば、衛星システムを使った民間衛星通信サービス「スターリンク」や、商用衛星画像、スマートフォンが撮影した画像データをビッグデータ化するシステムなどで、いわゆる「ハイブリッド戦争」に登場する種々の装置・技術である。フィンランドは、もともとICT先端技術を軍事面で積極的に利用しようとしてきたし、その技術力はNATOの歓迎するところであるが、技術開発競争を一国で担うことに実は限界を感じてもいたようだ。

ともあれ、フィンランドのニーニスト大統領は、NATOに加盟したことで「国防マインドセット」を変更しなければならなくなったと述べた(加盟式典演説、4月4日)。フィンランドは「自分の国は自分で守る」ことを国是としてきた。つまり、他国には頼らないが、他国を支援もしないし、他国の戦争に巻き込まれることもないという前提が存在した。

しかし、この考え方を捨て、あえてNATO加盟を決断したのである。確かに、自国有事の際の安全保障の強化にはなるだろう。その一方で、ソ連や中国とNATO加盟国との間であれ一朝ことあれば、即座に防衛出動する責任を負うことにもなった。フィンランド軍関係者の思いは複雑ではなかろうか。(茨城キリスト教大学名誉教授)

博物館の歴史論争拒否、土浦市法務が助言 《吾妻カガミ》159

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論争の契機になった土浦市立博物館の「東城寺と『山の荘』」展の図録(左)と、市役所が入るウララビル

【コラム・坂本栄】今回は158「土浦市立博物館が郷土史論争を拒絶!」(5月29日掲載)の続きになります。市立博物館と本堂清氏の郷土史論争。博物館の論争拒否に対し、本堂氏は「(博物館がそう出るなら同施設を管轄する)市教育長に検討申請書を提出する」と反発しており、エスカレートしそうな雲行きです。

また取材の過程で、本堂氏を門前払いするようアドバイスしたのが市の法務部署であったと聞き、土浦市の博物館マネジメントにも唖然(あぜん)としました。論争を挑む本堂氏をクレーマー(苦情を言う人)並みに扱うよう指導したわけですから。

郷土史をめぐる主な論争は3

私は中世史に疎いこともあり、市立博物館(糸賀茂男館長)の学芸員にこの論争の要点を整理してもらいました。

いつから山の荘と呼ばれたか

▼本堂氏:『新編常陸国史』(国学者中山信名=1787~1836=が著した常陸国の総合史誌)の記述からも明らかなように、「山の荘」(土浦市北部の筑波山系地域)の名称は古代からあったのに、博物館は同歴史書の記述を無視して同名称を古代史から抹消した。

▼博物館:『新編常陸国史』では「山の荘」が古代にさかのぼる名称とは述べられていない。「山の荘」の名称が史料に初出するのは『常陸国富有人注文』(室町時代の文書)であり、古い時代からの名称であることを裏付ける史料はない。

山の荘は方穂荘の一部なのか

▼本堂氏:博物館は「山の荘」の地が「方穂荘(かたほのしょう)」(つくば市の北部を流れる桜川の南側を中心とした地域)に含まれていたと解釈しており、「山の荘」の名称を歴史上から抹消した。

▼博物館:「方穂荘」が桜川の北側地域(旧新治村など)を包むと解釈するのは妥当であり、『承鎮法親王附属状』(鎌倉時代の文書)の記載でも、「山の荘」にある東城寺の周辺は「方穂荘」と呼ばれていた。

東城寺があった場所はどこか

▼本堂氏:博物館は「東盛寺」が桜川の南側を中心部とする方穂荘にあったと解釈しているが、方穂荘の中心部にあった「東盛寺」は山の荘の「東城寺」とは別の寺である。

▼博物館:近年発見された史料から、中世の文書に見られる「東盛寺」が「東城寺」を指すのは間違いない。「東城寺」は歴史上1カ所だったと考えている。

学術を市民につなぐ使命を放棄?

論争で注目されるのは、本堂氏が口伝(くでん=言い伝え)や『新編常陸国史』を使って自説を展開しているのに対し、博物館はより古い文書を多用していることです。また博物館は、故網野善彦氏(中世史の権威、元名古屋大教授)の史観や学説に多くを依拠しています。

こういった論争を踏まえ、博物館は1月30日付の回答書で「…『口伝』をもってしては、第三者がこれを再検証することは困難です。口碑伝説、口頭伝承は、歴史研究にとって大切な資料のひとつですが、資料としての取り扱いは難しく、それを根拠にすることについては、博物館は慎重に考えています」と述べています。

中世史学者の糸賀館長(プロ)と郷土史研究者の本堂氏(セミプロ)ではレベルが違うということでしょうか。口伝も含め多様な説を集め、それらを公開しながら議論し、市民に郷土史への関心を持ってもらう―これが市立博物館のミッション(使命)のはずです。それなのに学術研究の城郭のように運営するのはいかがなものでしょうか。

学術を市民につなぐのが仕事の博物館が市民の参加を拒むことは、その使命の放棄ではないでしょうか。郷土史に関する見方が2つあっても何も困らないし、むしろその方が楽しいのではないでしょうか。(経済ジャーナリスト)

阿見町の予科練平和記念館 《日本一の湖のほとりにある街の話》12

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イラストは筆者

【コラム・若田部哲】終戦直前の1945年6月10日。この日は、阿見・土浦にとって決して忘れてはならない一日となりました。当時、阿見は霞ヶ浦海軍航空隊を有する軍事上の一大重要拠点でした。そのため、B29による大規模爆撃を受けることとなったのです。当時の様子は、阿見町は予科練平和記念館の展示「窮迫(きゅうはく)」にて、関係者の方々の証言と、再現映像で見ることができます。今回はこの「阿見大空襲」について、同館学芸員の山下さんにお話を伺いました。

折悪くその日は日曜日であったため面会人も多く、賑わいを見せていたそうです。そして午前8時頃。グアム及びテニアン島から、推計約360トンに及ぶ250キロ爆弾を搭載した、空が暗くなるほどのB29の大編隊が飛来し、広大な基地は赤く燃え上がったと言います。付近の防空壕(ごう)に退避した予科練生も、爆発により壕ごと生き埋めとなりました。

負傷者・死亡者は、家の戸板を担架代わりに、土浦市の土浦海軍航空隊適性部(現在の土浦第三高等学校の場所)へと運ばれました。4人組で1人の負傷者を運んだそうですが、ともに修練に明け暮れた仲間を戸板で運ぶ少年たちの胸中はいかばかりだったかと思うと、言葉もありません。負傷者のあまりの多さに、近隣の家々の戸板はほとんど無くなってしまったほどだそうです。

展示での証言は酸鼻を極めます。当時予科練生だった男性は「友人が吹き飛ばされ、ヘルメットが脱げているように見えたが、それは飛び出てしまった脳だった。こぼれてしまった脳を戻してあげたら、何とかなるんじゃないか。そう思って唯々その脳を手で拾い上げ頭蓋に戻した」と語ります。また土浦海軍航空隊で看護婦をしていた女性は「尻が無くなった人。足がもげた人。頭だけの遺体。頭の無くなった遺体。そんな惨状が広がっていた」と話します。

累々たる屍と無数の慟哭

この空襲により、予科練生等281人と民間人を合わせて300名以上の方々が命を落とされました。遺体は適性部と、その隣の法泉寺で荼毘(だび)に付されましたが、その数の多さから弔い終わるまで数日間を要したそうです。

先の平成の世は、戦禍を免れ得た稀有(けう)な時代でした。しかし、現在私たちの多くが当然のように享受している日常は、こうした先達の累々たる屍(しかばね)と、無数の慟哭(どうこく)の上に成り立っていることを忘れてはならないでしょう。

「予科練の歴史を通じ、平和の尊さを学んでほしい。この地でも空襲があり、その延長線上に今の我々の生があることを感じてもらえたら」。山下さんはそう語ります。この凄惨(せいさん)な記憶と平和の尊さを語り継ぐべく、同館は空襲のあった6月10日に、毎年無料開放を実施しています。ぜひこの機会に、身近なところにも存在する戦争の記憶をご覧ください。(土浦市職員)

<注> 本コラムは「周長」日本一の湖、霞ケ浦と筑波山周辺の様々な魅力を伝えるものです。

➡これまで紹介した場所はこちら

牛久沼近くで谷田川越水 つくば市森の里北

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谷田川左岸が越水し約100メートルにわたって土のうが積まれたつくば市森の里北側の水田。谷田川は左端=3日午後4時30分ごろ

台風2号と前線の活発化に伴う2日からの降雨で、つくば市を流れる谷田川は3日昼前、左岸の同市森の里の北側で越水し、隣接の住宅団地、森の里団地内の道路2カ所が冠水した。住宅への床上浸水の被害はないが、床下浸水については調査中という。

つくば市消防本部南消防署によると、3日午前11時42分に消防に通報があり、南消防署と茎崎分署の消防署員約25人と消防団員約35人の計約60人が、堤防脇の浸水した水田の道路脇に約100メートルにわたって土のうを積み、水をせき止めた。一方、越水した水が、隣接の森の里団地に流れ込み、道路2カ所が冠水して通行できなくなった。同日午後5時時点で消防署員による排水作業が続いている。

越水した谷田川の水が流れ込み、冠水した道路から水を排水する消防署員=3日午後4時45分ごろ、つくば市森の里

市は3日午後0時30分、茎崎中とふれあいプラザの2カ所に避難所を開設。計22人が一時避難したが、午後4時以降は全員が帰宅したという。

2日から3日午前10時までに、牛久沼に流入する谷田川の茎崎橋付近で累計251ミリの雨量があり、午前11時に水位が2.50メートルに上昇、午後2時に2.54メートルまで上昇し、その後、水位の上昇は止まっている。

南消防署と茎崎分署は3日午後5時以降も、水位に対する警戒と冠水した道路の排水作業を続けている。

現場を見に来た同団地内に住む防災介助士の金栗聡さん(55)は「いつもは平穏な谷田川だが1日で急変しびっくりした。いつ何が起こってもおかしくないと痛感した」と語った。

森の里自治会の倉本茂樹会長は「43年住んでいて、谷田川が越水したのを見たのは初めて。2015年と16年に森の里団地で床下浸水があったが、その時の原因は、団地の排水ポンプが停電で動かなくなったため。その後10年ぐらいかけて停電でも動くように改修した。越水し、びっくりしている。団地内に水が来ないように堤防をかさ上げしてほしい」と話す。

谷田川を管理する県竜ケ崎工事事務所河川整備課によると、越水部分の長さは不明という。越水の原因についても「強い雨が長時間にわたって降ったが、越水した原因は調査している」と話すにとどまっている。

森の里より少し上流のつくば市若栗や房内の谷田川両岸に広がる水田は、降雨により一面が冠水した。谷田川は中央=3日午後3時30分ごろ

森の里より少し上流の同市谷田部地区では、谷田川の水位が午後になっても下がらないことから、3日夕方まで、両岸に広がる水田が冠水し、一面湖のようになった。

つくば市危機管理課によると、3日は市全体で、森の里を含め29カ所で道路が冠水したほか、倒木の被害が10件あった。

論文もパネルで「CONNECT展」 筑波大芸術系学生らの受賞作集める

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CONNECT展の様子=つくば市二の宮、スタジオ‘S

筑波大学(つくば市天王台)で芸術を学んだ学生らの作品を展示する「CONNECT(コネクト)展Ⅶ(セブン)」が3日、つくば市二の宮のスタジオ’Sで始まった。2022年度の卒業・修了研究の中から特に優れた作品と論文を展示するもので、今年で7回目の開催。18日まで、筑波大賞と茗渓会賞を受賞した6人の6作品と2人の論文のほか、19人の研究をタペストリー展示で紹介する。

展示の6作品は、芸術賞を受賞した寺田開さんの版画「Viewpoints(ビューポインツ)」、粘辰遠さんの工芸「イージーチェア」、茗渓会賞授賞の夏陸嘉さんの漫画「日曜日食日」など。いずれも筑波大のアートコレクションに新しく収蔵される。芸術賞を受賞した今泉優子さんの修了研究「樹木葬墓地の多角的評価に基づく埋葬空間の可能性に関する研究」は製本された論文とパネル、茗渓会賞を受賞した永井春雅くららさんの卒業研究「生命の種」はパネルのみで展示されている。

スタジオ’S担当コーディネーターの浅野恵さんは「今年は論文のパネル展示が2作品あり見ごたえ、読みごたえがある。版画作品2作品の受賞、漫画の受賞も珍しい。楽しんでいただけるのでは」と来場を呼び掛ける。

筑波大学芸術賞は芸術専門学群の卒業研究と大学院博士前期課程芸術専攻と芸術学学位プログラムの修了研究の中から、特に優れた作品と論文に授与される。また同窓会「茗渓会」が茗渓会賞を授与している。

展覧会は関彰商事と筑波大学芸術系が主催。両者は2016年から連携し「CONNECT- 関(かかわる)・ 繋(つながる)・ 波(はきゅうする)」というコンセプトを掲げ、芸術活動を支援する協働プロジェクトを企画運営している。 (田中めぐみ)

◆CONNECT展Ⅶ 3日(土)~18日(日)スタジオ’S(つくば市二の宮1-13-6)開館時間は午前10時から午後5時。入場無料。電話029-860-5151

キャッチフレーズの怖さ《続・気軽にSOS》134

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【コラム・浅井和幸】キャッチフレーズとは、時に人が悲しみから抜け出すきっかけになり、時に勇気をもって立ち向かうようになる素晴らしいものです。

・夢は必ずかなう
・人間生きているだけでもうけもの
・明けない夜はない
・親が変われば子が変わる

これらは前を向くときに、説得力のある大きな力になります。少ない文字数で端的に表せる素晴らしいものですね。しかし、「端的に表せる」表現は危険をはらんでいます。時に、一方的に決めつけて責め立てる言葉となることもあるので、注意が必要です。

例えば、優勝を逃した選手に向かって「大丈夫、夢は必ずかなうよ」と言えるでしょうか? 大切な人が交通事故で重体となり、虫の息のときに「人間生きているだけで儲けもの」と声をかけられますか?

苦しみのさなか、泣き叫んでいる状況で、そのようなキラキラした言葉をかけることはマイナスになることはあっても、決してプラスにはなりません。端的に言い切る言葉は、時と場合、その人との関係性で、言って良いか悪いか決まってきます。

自分が良いと思う言葉だからといって、いつも良い言葉として受け取られないことは肝に銘じておくべきです。また、キャッチフレーズに縛られて、その言葉が示すことは逆の言動をしてしまうこともあります。

「8050問題」というキャッチフレーズ

人に共感をすることが大切だと伝えたいがために、共感が出来ない相手を責め立てる。「あなたは共感力が足りない。なんで人に共感できないのだ」と。相手がいかに共感できずに周りを傷つけているかを説教して、ケンカになったり、相手を悲しませたりする場面はまあまあ見られます。

このとき、共感が苦手な人の気持ちに共感を出来ずに、共感を押し付けている状況で、自分自身が相手に共感する気持ちから離れていることに気づきにくいものです。

ちなみに、ひきこもり問題で「8050問題」というキャッチフレーズがあります。親が80歳で、ひきこもった子どもが50歳。親の年金だけの収入で苦しい生活を送っているという問題を世間に広く伝え、しかも若者だけの問題ではないのだと認識してもらうためには、とてもよいものだと考えます。

しかし、80歳と50歳。人口が多い団塊の世代と団塊ジュニアがその世代になってくると考えると…。止めておきましょう。ひきこもり問題が若者だけの問題ではなく、中高年、高齢者も含む問題には変わりないのですから。

キャッチフレーズにとらわれずに、うまく使う方法を試行錯誤していけると、より人とのコミュニケーションや自分が成し遂げたいことに利用できるかもしれませんね。(精神保健福祉士)

台風で霞ケ浦に帰る 死せるハクレン、オイルフェンスを越えて

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台風2号の影響で水位上昇中の桜川を流れ下るハクレンの死魚=土浦市大町地先

台風2号の影響による増水警戒中の桜川で2日、大量酸欠死したハクレン死魚の一部が、土浦市銭亀橋に設置してあったオイルフェンスをすり抜けて下流に向かい、相当数が霞ケ浦に達する事態になった。

つくば市玉取の田土部堰(たどべぜき)の下流で、酸欠によるハクレンの大量死が見つかったのが先月24日、桜川を管理する県土浦土木事務所(土浦市中高津)が堰付近の桜橋にオイルフェンスを張り、26日から死魚の回収に乗りだしていた(5月27日付)。

オイルフェンスはさらに下流の銭亀橋(土浦市大町地先)にも設置され、同事務所河川整備課によれば、1日までに約1万尾を回収した。ドローンなどによるパトロールの結果、1日午後5時時点で、田戸部堰下流から銭亀橋までの区間で、死魚が集中している箇所の回収は概ね完了したとの認識だったという。点在する全ての死魚を回収するのは困難であり、2日朝の時点で、回収しきれなかった一部の死魚が銭亀橋のオイルフェンスにかかっていたとしている。

ところが台風2号の影響で雨足の強まった2日昼ごろから、流下してきた死魚が次々にフェンスを越え始めた。銭亀橋のフェンスは合成繊維織布に塩化ビニールを被覆したもので、全長80メートル(20メートルのものを4本接続)、高さは水面上で30センチ、水面下で40センチ程度ある。

オイルフェンスを難なくすり抜けていくハクレンの死魚(左が下流)

水位があがると、ハクレン死魚はフェンス上部にある隙間をすり抜けるように流下していく。川岸の水の淀みに群れで滞留する死魚もあり、あたりに臭気を漂わせたが、河川敷が水没するにつれ、これらの個体も流されていった。目測で100匹以上は流下した。

同事務所は、台風等の出水時に河川内で作業することは危険かつ困難であるとして、様子見の状況。天候が回復し河川の水位低下を待ってから、オイルフェンスが外れているようであれば、張り直しを行う。追加設置は考えていないという。

死魚が霞ケ浦まで流されると管理は国交省に移り、対応は国の判断に任されることになる。

同事務所では、「今回のハクレン大量死は、急激な河川水位低下による酸欠死と推察されることから、水門や堰の管理者に対し、水門付近の水位に急激な変動が生じないような水門操作を行っていただけるようお願いしていく」としている。(相澤冬樹)

来年開学の日本国際学園大、米ノースウッド大と提携 筑波学院大で調印

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協定覚書を締結した(左から)ノースウッド大学のリーブス真美子学長代理、学校法人日本国際学園の橋本綱夫理事長、学院大の望月義人学長=筑波学院大学(つくば市吾妻)

来年4月に日本国際学園大学(学園大)として開学する筑波学院大学(学院大、つくば市吾妻、望月義人学長)で2日、米国ノースウッド大学と結ぶ協定覚書の調印式が行われた。ノースウッド大が日本の大学と提携するのは初めて。

来年4月の開学(22年12月1日付)に合わせて学園大の学生は、ノースウッド大に留学したり、両大学の学位を取得できるようになる。併せてつくばキャンパスにノースウッド大の留学生を迎えるなどする。

ノースウッド大は米国のほか、中国、スリランカ、スイスなどに国際プログラムセンターを設け、学位が取得できる英語の授業を行っている。さらにフランス、ポルトガルなどにも広げる計画であることから、学生は米国だけでなく各国の国際センターで学べるようになる。

開学に合わせて学園大は来年4月、つくばキャンパス(現在の学院大)にインターナショナルプログラムセンター(IPC)を開設し、留学や学生同士の相互交流について案内したり、米ノースウッド大学から留学生を迎えるための教育プログラムをつくる計画だという。

ノースウッド大はミシガン州にある私立大学で1959年に創設された。自動車マーケティング、ファッションマーケティングとマネジメント、保険リスク管理、eスポーツマネジメントなど、ビジネス分野のユニークな教育プログラムを提供する大学として知られる。特に自動車マーケティングは、学生が毎年モーターショーを企画、開催し、世界各国から現役の自動車ディーラーも訪れている。

2日の調印式では、学院大を運営する学校法人日本国際学園の橋本綱夫理事長と望月学長、来日したノースウッド大のリーブス真美子学長代理が協定覚書に調印式した。

橋本理事長は「新しい大学の開学を機に連携協定を締結できて大変うれしい。学生が海外に挑戦できる機会になる。ノースウッド大は米国だけでなく世界各国にキャンパスをもっており、学生はいろいろな国に行って学べる。そういった可能性が開け、学生が世界に目を開くすばらしい連携協定になる」などと話した。

リーブス学長代理は「ノースウッド大は、ソ連が1957年に世界初の人工衛星打ち上げに成功し、米国の大学がサイエンス教育に一色になった時代に、会社を経営する人材育成は必要だと感じた2人が、退職金を前借りして1959年に創設した。開学の精神は息づいており、現在も34%の学生が卒業して6年以内に起業するなど、起業家精神が旺盛な学生がたくさんいる。学園大学との提携を機に、クリエーティブで起業家精神がある学生と一緒に学べるといい。長くお付き合いしていきたい」と語った。

来年4月に開学する日本国際学園大学は、国際教養、英語コミュニケーション、現代ビジネス、公務員、国際エアライン、国際ホテル、AI・情報、コンテンツデザイン、日本文化・ビジネスモデルの9つのコースがあり、つくばと仙台に2つのキャンパスがある。

米国のペットショップ禁止法《晴狗雨dog》8

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写真は筆者

【コラム・鶴田真子美】2017年に米カリフォルニア州で法改正があり、2019年から、ペットショップでイヌ、ネコ、ウサギを販売できなくなりました。ただし、保護シェルターの里親募集中のイヌ、ネコはショップに置くことができます。ショップには、首輪やリード、水槽や金魚、キャリーバックやケージなどが並びます。

ニューヨーク州でもこのペットショップ法案が通り,2024年から施行される予定です。それ以降は、保護シェルターが提供する保護イヌ、ネコ、ウサギのみが販売されることになります。

ニューヨーク州は、ペット販売業の規模が大きく繁殖も盛んであるため、店舗やブリーダー(育種家)からの抵抗はすさまじく、訴訟も起こりました。店頭で商品としてのイヌ、ネコ、ウサギを売買できなくなったブリーダーは失業の不安を訴え、ニューヨークで実施しても他州で買えるなら意味がないと反発。「ニューヨークのブリーダーとペットショップが困るだけだ」と矛盾を訴えました。

しかし、生体販売への抵抗感が市民の側にはありました。メリーランド州では2020年、ペットショップが禁止になり、イリノイ州では2021年、ペットショップがブリーダーから入手したイヌ、ネコを販売することを禁じました。

米国でのペットショップ禁止はブリーダーでなく、まずバイヤー(買い手)のところからスタートしました。買うのを止めさせるのは需要の抑制につながります。売り手からでなく買う方から止める、売らせないより買わせない―。このように米国の「PET STORE BAN(ペットショップ禁止」はスタートしたのです。

実は、ホームブリーダー(自宅で母子を大事に生育するブリーダー)はこの法改正に賛成しています。彼らはエシカル(倫理的)ブリーダーとも言われ、半年や1年前から希望者と契約を結び、家庭環境下で子イヌを育てます。子イヌは母親や兄妹たちと過ごし、心身の健康と社会性を獲得します。

このように、優良ブリーダーは子イヌや子ネコたちが大切に飼育されることを望んでいるのです。

劣悪な繁殖場「パピーミル」

一方で、パピーミル(子イヌ工場)と呼ばれる劣悪な繁殖場もあります。これを完全に禁止にするには、子イヌ工場で育った子イヌは売れないようにすること、消費者に買わせないことなのです。

法改正を経て、ペットショップで買えなくなった市民らはパピーミルからは買わずに、直接ホームブリーダーの元に足を運ぶようになります。飼い主となる人は、家庭に迎えるイヌ、ネコがどのような環境で育ったかを知る権利があります。購入者、つまり消費者には、トレーサビリティー(過程追跡)などの情報提供は当然入手する権利があります。

このように欧米では、利益のために、命ある伴侶動物を大量に繁殖させ、店に並べる行為を禁止しようとする動きが始まっています。その理由は、シェルターに保護イヌ、保護ネコがあふれているからです。産ませなくても、虐待や殺処分から救われたイヌ・ネコが各地のシェルターにはあふれているのですから。(犬猫保護活動家)

宇宙ビジネスへの「橋渡し」つくばで いばらきスペースサポートセンター開所

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いばらきスペースサポートセンター開所イベントの講演会は満席=つくば研究支援センター

つくば市千現のつくば研究支援センター内に1日、「いばらきスペースサポートセンター」が開所した。宇宙ビジネスの活動拠点として、茨城県が専任コーディネーターを常時配置し、宇宙航空研究開発機構(JAXA)や企業と連携した展開を図る。

コーディネーター2人が常駐

県内の特に中小・ベンチャー企業の宇宙産業への挑戦意欲を高め、新規参入や取引機会の拡大を図るのがねらい。県は1日付で、専任コーディネーター2人を配置、宇宙ビジネスに関する企業からの相談にワンストップで対応する常設の拠点として、県内企業による新製品開発や受注拡大、県外宇宙ベンチャーによる県内企業との連携等を支援する。

県は2018年に「いばらき宇宙ビジネス創造拠点プロジェクト」を立ち上げ、宇宙ベンチャーの創出・誘致や宇宙ビジネスへの新規参入を目指し、支援体制の構築を進めてきた。さらに「いばらき宇宙ビジネス創造コンソーシアム」で宇宙ビジネスに挑戦する企業の事業化推進にも取り組み、昨年にはJAXAでの勤務経験を持つ黒田信介さん(66)が専任コーディネーターとなり活動を強化させた。

コーディネーターの鈴木貞明さん(左)と黒田信介さん

その成果を踏まえ、今回黒田さんに加え、ひたちなか地区などで中小企業支援のための産業活性化コーディネーターを務めてきた鈴木貞明さん(68)との2人の陣容で、研究支援センター1階に常駐体制を組んだ。宇宙産業とのつながりや専門知識を生かし、技術開発のノウハウやニーズについて助言する。必要に応じて開発商品の販路開拓も支援。JAXAや宇宙ベンチャーとは、開発した商品の活用提案や試作品発注の橋渡し役を担う。

1日には、同センターで開所イベントの講演会が開かれ、宇宙ビジネスにかかわるJAXAの担当者や先発企業の実例発表などが行われた。県内の企業を中心に60人以上が集まり、聴講し、名刺交換などを行った。

開所イベントで、コーディネーターの黒田さんは「SDGs(持続可能な開発目標)が叫ばれて久しいが、(スペースデブリなどで)遅れをとっているのが実は宇宙利用。技術による可能性追求に民間主導で盛り上げていきたい」などと抱負を述べた。

イベントに参加していた研究機器の設計・製造企業、オオツカ(つくば市大曽根)の大塚美智夫社長(71)は「我々のような小さなところではJAXAあたりには営業をかけられないし、こちらから研究開発を提案するのも難しい。でも話によっては提供できる技術もありそうなので、情報交流の新しいチャネルが開けることへの期待は大きい」と語る。(相澤冬樹)

◆いばらきスペースサポートセンター(つくば市千現2-1-6 つくば研究支援センター1階)電話080-9158-0947(平日午前10時~午後4時)ホームページはこちら

「通訳」と「翻訳」 《ことばのおはなし》58

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写真は筆者

【コラム・山口絹記】前回の記事(5月7日付)で、絶版本の翻訳をする、ということについて書いた。今回はそもそも「翻訳」とはどういうものなのか、ということについて、少し距離をおいて書いてみようと思う。私は以前、某企業において通訳業務を担当していた。「通訳」と「翻訳」、いずれも二つ以上の言語の仲介をするということに関しては変わりないのだが、実は結構性質の違う行為なのだ。

「翻訳」というものについてより理解するために、まず「通訳」という行為について少し想像してみよう。その場にいる複数人が、共通の話題に関して意思疎通をはかりたいと考えている。違っているのは使用している言語のみだ。英語を話す者、日本語を話す者、それぞれが発言する内容を、私がリアルタイムで訳して相手に伝えていく。

通訳である私は、明確にその場に存在していて、その場の人間は常に相手の表情や空気を感じつつ、私のことばに耳を傾けている。通訳と言っても、私の場合は部外者ではなかったので、議題についても両言語で参加するわけだ。会話を続けていく中で、カンどころを押さえておけば基本的に問題がない。

通訳という業務にもいろいろあると思うのだが、比較的こういった業務(一関係者として通訳する)は比較的難易度が低く、仲介する両者ともに属さない通訳業務のほうが、より難易度が高いだろう。なぜなら、その場に通訳者として存在はしているのだが、内容に関する専門知識は事前に別途学んでおかなければならないし、存在自体を強く意識させてしまうようでは円滑な議論ができないからだ。

翻訳者の存在を意識させない

さて、翻訳者の存在は読者に意識させるべきだろうか。私は基本的に意識させてはいけないと思う。特に文学であれば読者は物語を読みたいわけで、それが翻訳されたものかどうかなど関係がない。知ったことではないのだ。

翻訳されているからこそ読めるのだが、大多数の読者は、もともとどういった表現でその文章が書かれているかには関心がない。関心が強ければ自分で原書を読もう、言語を学ぼうとなるだろう。

そして、翻訳するものが文学作品であれば、当然「文体」が大切だ。文学作品を書くとなると、一般的に平均よりも高い文章作成能力が要求される。読書好きな方であれば、この著者の文体が好き、なんてことは当然にあって、これはおそらく一般的な通訳者には強く要求されないタイプの問題だ。

通訳者にも高いレベルの言語能力は要求されるが、あくまで優先されるべきは正確な情報であって、それをおろそかにしてまでその場の人間の感情を揺さぶることを優先するべきではない。

一方で、文学の翻訳においては、物語の世界に読者を誘導させるために、時に正確な情報伝達をあきらめなくてはならないときがある。このバランス感覚がおそらく文学の翻訳におけるキモなのだが、この話は次回にまわそう。まさかのシリーズ化である。(言語研究者)

点字ブロックのQRコードで道案内 視覚障害者支援へ つくば駅で実証実験

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スマホを点字ブロックにかざして音声の誘導を受けながらつくばセンターバスターミナルを歩く筑波技術大学1年の井田怜菜さん(黄色い四角のシールがQRコード)

点字ブロックに貼り付けられたQRコードをスマートフォンのカメラで読み取りながら、視覚障害者を目的地まで、音声で正確に誘導する移動サポートシステムの実証実験が31日、TXつくば駅と隣接のつくばセンターバスターミナルで実施された。

つくば駅やバスターミナルの利用に慣れている視覚障害者は、頭の中の地図をもとに白杖や点字ブロックを使いながら1人で移動できるが、よく知らない場合、外出を支援する誘導者が必要になる。新たに開発された移動支援システムは、視覚障害者が自分のスマートフォンを使って、1人でつくば駅やバスターミナルを移動できるよう誘導する。

実証実験は、TXを運行する首都圏新都市鉄道(東京都千代田区)と、バスターミナルを管理するつくば市、システムを開発したリンクス(東京都港区、モハメッド・オサムニア社長)、システムの開発協力をした筑波技術大学(つくば市天久保)の4者が共同で実施した。

31日は、技術大で学ぶ視覚障害者の学生ら5人がそれぞれ、自分のスマートフォンを使って専用のアプリを起動し、カメラを点字ブロックに向けて、音声で誘導を受けながら、バスターミナルのバス停からつくば駅の上りホームまで、片道約340メートルを一人で白杖を付きながら歩いて往復した。

点字ブロックの曲がり角や分岐点、階段に差し掛かると、「直進3メートル」「右19メートル」「階段35段」などの詳細な音声案内があった。

実証実験に参加した視覚障害者で技術大の寮に住む保健科学部情報システム学科1年の井田怜菜さん(18)は「『右何メートル』とか細かく教えてくれてありがたい。4月に北海道からつくばに引っ越してきたばかり。知らないところではガイドヘルパーなどに頼って移動するが、アプリがあると1人で移動できる」と感想を話す。

スマホを点字プロックにかざして音声の誘導を受けながらつくば駅の上りホームに到着した井田さん

視覚障害者で技術大4年の北畠一翔さん(21)は「リアルタイムで情報を得られるので安心できる。点字ブロックがあるだけではどこにつながっているか、教えてもらわないと分からない。アプリで案内してもらえるので自分だけで目的に到着することができる」と語っていた。

開発された移動支援システムは「shikAI(シカイ)」と命名されている。今回の実証実験では、地上にあるバスターミナルから、地下にあるつくば駅構内やホームまでの延びた点字ブロックに、計約500枚のQRコードが貼り付けられた。設計図面や現地調査をもとにあらかじめ作成された点字ブロックの地図情報をもとに、点字ブロックに貼られたQRコードの位置情報をスマートフォンのカメラで読み込んで、視覚障害者の位置を確認し、1メートル単位で誘導する。

2016年から開発が始まり、17年から筑波技術大学の松尾政輝助教(29)が開発協力してきた。リンクスの小西祐一取締役によると、17年から東京メトロで実験を始めたが、当初は無線で誘導するシステムだったことから、地下鉄では案内が途切れるなど壁にぶつかった。点字ブロックにQRコードを貼り付けてスマートフォンのカメラで読み取るシステムに変更したところスムーズにいくようになったという。

現在すでに実用化されており、2020年から東京メトロの10駅と豊島区の区役所と図書館、今年3月からはJR西日本が大阪駅うめきたエリアに導入した。

つくば駅での実証実験は6月7日まで計4回実施され、安全性や利便性、効果や課題などを検証する。松尾助教は「人によってどういうものが使いやすいかは異なるが、効率的な移動手段を当事者が選べることが重要。shikAIは当事者の意見を聞いて開発された。導入されれば移動の選択肢の幅が広がる」と話している。

リンクスは、駅やバスターミナルの管理者が導入費用を負担し、利用者は無料で利用できる枠組みを提示している。導入費用は1駅当たり100万円から200万円程度で、つくば駅構内とバスターミナルに導入する場合、200万円程度かかるという。

今後つくば駅で導入するか否かについて首都圏新都市鉄道は「実証実験の結果を踏まえて4者で検討したい」とし、つくば市は「バスターミナルだけではなくて駅までシームレスにつながることが大事なので、実証実験の結果を検証して首都圏新都市鉄道と協議したい」としている。