溶鉱炉を流したように焼夷弾が落ちてくる、本当に恐ろしかった【語り継ぐ 戦後79年】3
つくば市 山田ゆきよさん
つくば市に住む元音楽教師、山田ゆきよさん(88)は三重県出身。小学4年生になった1945年4月から8月、米軍の爆撃を受け、怖い思いをした。「どんな理由があっても戦争はやってはいけない」という。
1936(昭和11)年、三重県鈴鹿市神戸(かんべ)町で生まれた。父親は旧制中学の教師をしていた。町にはシュークリームを売るお菓子屋、パン屋、肉屋と何でもあったが、1941年12月、太平洋戦争が始まると、店頭からものが消えた。駄菓子屋にあったのは、原料が日本でとれる酢こんぶだけ。あとは全部、店頭から無くなった。早々にコメの配給制が始まり、食べ物一切が配給となった。
煤を持ってきて学校を迷彩柄に
1944年末ごろから日本各地のまちがB29の爆撃を受けるようになった。45年4月、4年生の新学期が始まると、二つの仕事が待っていた。一つは、2人1組になって校庭のどこかに防空壕を掘る仕事。しかし防空壕はまったく役に立たなかった。もう一つ、家から煤(すす)を持ってきなさいと言われた。あの頃は木を燃やして料理をしていたのでどの家にも煤があった。それをバケツに入れて持ってきて水をかけて真っ黒にした。通っていた国民学校は三重県内でも有数のクリーム色のおしゃれな学校だった。敵機から見えないようにと、煤で学校の壁を迷彩柄になるよう、まだら模様に塗った。「よく考えてみたら黄色と黒の迷彩柄なのでその方が目立っておかしな話だと思った」と話す。
その頃から、米軍の爆撃で家を失い疎開してくる人の姿を見るようになった。縁故疎開と学童疎開があって、家を失った人はまず親戚を頼って縁故疎開に来た。工業地帯で海軍の燃料工場などがあった四日市で空襲があり、ゆきよさんの家にも縁故疎開が来た。夜遅く、家族8人が四日市からぞろぞろやってきて「うちはあんたんとこの親戚や」と言ってきた。普段付き合いは全くなかったが、家に入れ、しばらく一緒に暮らした。
知らない子供がある日突然、クラスにいることがあった。親戚を頼って縁故疎開してきた子で、都会の子だから、着ているものや髪型も違って、とてもおしゃれな感じがした。見たこともないようなきれいなリボンを頭に載せていた子もいた。
田舎に縁故がない子供たちは集団疎開をした。名古屋から来た子たちは、神戸町の寺に集団疎開し、寺にピアノがないので、音楽の時間だけいつも2列に並んでゆきよさんたちの学校に来た。学校では「あの子たちは家が無くなってしまって来ているんだよ」と聞いた。
頭の上に降り注いでくるようだった
6月から7月になると、三重県は頻繁に米爆撃機B29の爆撃を受けた。北から、桑名、四日市、津、松阪、伊勢の五つの町がB29のじゅうたん爆撃を受け、焼夷弾で焼かれた。
ゆきよさんがいた神戸町は、津と四日市の間にある。夜、焼夷弾が落ちてくると、津と四日市はそれぞれ20キロぐらい離れていたが、焼夷弾が頭の上に降り注いでくるようたった。「見上げると、最初は上の方でピカっと小さな赤い火が見える。それがだんだんと、釣り鐘のような形で溶鉱炉をそのまま流したように落ちてくる。四日市の時も津の時も、頭の上から落ちてきたような感じ。本当に恐ろしかった。それはすごい景色だった」と振り返る。
爆弾が18発落ちて男の子が死んだ
1945年6月、神戸町から少し離れた村の住職だった祖父が亡くなった。当時父は、生徒を連れて軍需工場で武器をつくる手伝いをしていたため神戸町を離れることができず、寺を空(から)にするわけにいかないと、母親が姉と下の子を連れて父親の実家の寺に移った。60軒ほどの小さい農村にある寺だった。
8月初め、夏休みなので、たまたま母のいる寺に行っていた時、爆弾が近くに18発ほど落ちた。隣の津に軍需工場があり弾がそれたと見られた。田園地帯なので、まさかこんなところに爆弾が落ちるとは夢にも思わなかった。終戦間際、米軍のB29は低いところを通った。音がすごくて、近づくとザーと音がして、ガラガラガラ、ドッスーンとひどい音がした。防空頭巾などかぶっている暇はなくて、その辺にあった座布団を頭からかぶって、下の弟と妹を、母と姉が手をひいて逃げた。
ちょうど3軒家が並んでいたところの3軒目に爆弾が落ちた。男の子たち3人が外で遊んでいて逃げたが、そのうち小学3年の1人が破片に当たって死んだ。B29が行ってしまってから、見て回ったら、あちこちの田んぼにすり鉢状に穴が空いていた。小さい川に細い石の一本橋があって、その上に爆弾が落ち、一本橋は衝撃で100メートルくらい跳ね上がって、民家の屋根を突き破り、床を突き破って、地面にめり込んでいた。
ヤルタ会談合意と原爆開発がビラに
終戦間際になると、空からよく米軍のビラがまかれた。1945年8月初めごろ、米軍が落としたビラを、寺の隣の男の子が拾い、こんなのが落ちてたよと持ってきてくれた。表に米兵とソ連兵が握手してる写真があって、裏面には「アメリカが強力な爆弾(原子爆弾)をつくった。早く降参しないと大変なことになるぞ」と書いてあった。「そういうビラは隣組の組長がすぐに回収して皆の目に触れないようにしていた。私と男の子しか見てないと思う」。
言論統制も敷かれていた。近くに独り住まいの元気のいいおばあさんがいて、近所の人と雑談している中、ふっと言ったことを、だれかが言い付けて警察に引っ張られた。「こんなにぎょうさん死ぬのに、それでもお米が足らんやがな」と言っただけだった。その頃は日本が戦争で負けているのを何となく知っていたが、おばあさんはそう言っただけで警察に連れて行かれ一晩留置された。警察では「誰が言ったのか」ということを厳しくとがめられたという。「誰も言わへんがな。わしがそう思ったから言ったんやがな」と通して、翌日帰ってきた。うっかりものも言えない、そんな時代だった。
8月15日、夏休みだったが、全員集まりなさいと言われ、学校に集められた。教室に入ると、先生は「日本は戦争に負けました」と言い、黒板に、支那(中国)、朝鮮と書いて、一番下に日本と書き「日本は一番下になりました」と言った。ちょっと悲しい気持ちになったが、正直ほっとしたのを覚えている。
戦後79年経ち、若い人たちに「戦争がどういうものか、できるだけ過去の戦争について知ってほしい」という。「戦争を始める時『わが同胞を助けるため』とよく言うが、こういう理由だからとか、戦争は理屈じゃない。今の日本を見ていると、だんだん私たちが若い頃体験したような空気になってきている」と話す。(鈴木宏子)
「農業者」と「農家さん」《邑から日本を見る》165
【コラム・先﨑千尋】今、一般に農業生産に携わっている人のことは「農業者」と呼ばれている。農に関連している人たちは農家のことを「農家さん」と、さん付けで呼ぶことが多い。では、農業生産者は果たして「業者」なのか。農家にどうして「さん」を付けるのか。私はこの呼称にずっと違和感を抱いてきた。
水戸市内原町にある鯉渕学園で有機農業を教え、定年前にそこを辞め、2011年に有機農家を育てる研修農場「あしたを拓く有機農業塾」を立ち上げた涌井義郎さんは、近著『未来の食と環境を守れ-有機農家からの提案』(新日本出版社)でこの2つの表現に異議を唱えており、「そうだ、そうだ」と思いながら読んだ。
涌井さんによれば、もともと農は生業(なりわい)。農家のくらしは、業すなわち一般的な理解で言う経済活動だけで成立しているわけではない。生産された農産物の一部は自家消費に使われ、隣人や親戚にも配られる。生産活動で用いられる資材も堆肥や敷き藁(わら)などのように自給することもある。ちょっとした道具も手づくりできる。
このような家族農業が生業。日本の農家の95%を占めている。そうした農家を一括(くく)りに「農業者」と呼んでいいのか。そう、涌井さんは訴えている。
「農家さん」も同じだ。職業に「家」を付けるのは、作曲家、画家、作家など1つの領域を専門とする人のことだ。鍛冶屋、豆腐屋、下駄屋、床屋など「屋」を付ける職業もある。今はそれらの職業はだいぶ廃れているが、農村では、多くは農業との兼業だった記憶がある。
相手を呼称で言う場合、豆腐屋さん、床屋さんとは言うが、画家さん、作曲家さんなどと言うだろうか。「農家さん」だけは別格なのか。
農民や漁民の「民」の語に蔑(さげす)みが含まれてはいないだろうか、「さん」を付け、農家の評価を底上げしようとしている善意が現れているのではないか、それが涌井さんの見立てだ。私も「農家さん」と言われると、こそばゆい感じがしてならない。「農家」だけでいい。断じて、農業者ではないのだ。
「百姓」という言葉
百姓という言葉もある。永く差別用語として使われてきた。私は学生時代、旧友と口論していて「どん百姓」とののしられたことを、今でも鮮明に覚えている。私の知人で名刺に「百姓」と入れている人を何人も知っている。姓は「かばね」と読み、特定の技術職あるいはその技術・技能を代々伝える家系のことを言った。農民でありながら、同時に様々な仕事を兼ねる人々が百姓だった。むしろ誇るべき言葉だった。それがいつの間にか逆転してしまった。
涌井さんは自分自身の経験をもとに、本書で「有機農業に舵(かじ)を切った現在の農政に対して、担い手となる有機農家を育てるために技術指導者を増やせ。そのために1兆円以上の農家育成予算を」などと提言している。有機農業の将来に対してどのような絵を描いても、誰がそれを担うのかが基本。それが抜けていれば絵にかいた餅になりかねない、というのが涌井さんの主張だ。
その他、本書では有機農業の技術など学ぶことが多い。涌井さんは2019年に、地域生産の有機農産物と国産無添加食品のオーガニック直売所を笠間市に開店している。(元瓜連町長)
傍観者に行動呼び掛ける案も 筑波大生ら 痴漢・盗撮被害防止ポスターを作り直すイベント
つくばエクスプレス(TX)の駅構内などに貼られている痴漢や盗撮の被害防止を訴えるポスターを作り直し、新たにオリジナルのポスターを制作しようというイベント「ちかん、盗撮 誰のせい?」が10日、つくば駅前のつくばセンタービルで開かれ(7月31日付)、中学生や大学生、社会人など男女10人がそれぞれ、ポスターの原案を制作した。現場に居合わせた第3者ができる5つの行動をポスターに記載する案が複数の参加者から出された。
5つの行動は①被害者の知り合いのふりをして声を掛けるなど「加害者の気をそらす」②自分の安全が確保できるなら加害者に注意するなど「直接介入する」➂警察や駅員に知らせるなど「周囲に助けを求める」④スマホで映像や音声を撮るなど「被害の証拠を残す」⑤後で被害者に声を掛けたり通報を助けるなど「後で対応する」ーの5つ。居合わせた人がただ見ているだけでなく行動する人(アクティブ・バイスタンダー)になることで、痴漢や盗撮などの抑止につながるとされている。
イベントを主催した筑波大3年の上田咲希乃さん(21)は「被害者と加害者だけに限定せず、傍観者が自分たちの問題としてとらえ、行動していくというポスターが結構見受けられたのが良かった」と話した。
イベントは、TX駅構内に掲示されているポスターに「スカートを履いている時が危険」「夜道の一人歩きを避ける」と書かれているなど、被害者に自衛を求める価値観に違和感を感じた上田さんが呼び掛け、9人でプロジェクトを立ち上げ、開催した。
臨床心理学や犯罪心理学が専門で実際に性犯罪者の治療に取り組んでいる原田隆之筑波大教授、ポスターを制作したつくば警察署、つくば市ダイバーシティ推進室、性暴力や性差別を無くす取り組みをしている慶応大学の学生団体などが参加した。
中学生や大学生らは、原田教授やつくば警察署の担当者などから話を聞いた後、それぞれオリジナルのポスターの原案制作に挑戦した。
上田さんは「きょう制作してもらったポスターを参考に、今後、2点か3点のポスターを改めて制作して、9月下旬か10月初めを目途につくば警察署に持っていきたい」と話し、つくば警察署生活安全課の植野真人係長は「筑波大生が自分たちの視点で作ってくれるなら、県警本部に上げたい」としている。(鈴木宏子)
大東亜共栄圏信じ、国を守りアジアのためという気持ちだった【語り継ぐ 戦後79年】2
つくば市 木村嘉一郎さん
つくば市臼井に住む木村嘉一郎さん(95)は太平洋戦争末期の1944年、東京陸軍少年飛行兵学校の第19期生となった。日本を中心にしてアジアの国々が栄える大東亜共栄圏の構想を強く信じて、この戦争は日本の国を守ると同時にアジアのためという気持ちだったので、兵隊に行くことは当然の義務だと思っていたという。
13歳の時に乙種海軍飛行予科練習生を受験、目の検査で不合格となり悔しい思いをしていたので、兵学校に入ったことは誇りだった。戦争で死ぬという感覚はなかった。
入校後は学業や鍛錬に厳しい生活を送ったが、比較的楽しい生活だったと振り返る。
学校でのスケジュールは朝5時30分に起床し点呼と体操と掃除。6時40分 朝食をとり自習。8時 服装検査。8時15分 学科教育。12時 昼食。13時 術科教育。15時15分 運動。17時 入浴と夕食。18時30分 自習。21時 点呼。21時30分 消灯というものだった。生徒は、軍人の身分である兵籍に編入され、木村さんは月給として5円50銭の支給を受けていた。
ほとんど外出がなかったので戦況も世界情勢も全くわからず、上官にあたる中隊長が話をするぐらいだった。そんな中でも1945年3月10日の東京大空襲や、戦闘機のエンジンをつくっていた三鷹の中島飛行機武蔵製作所が米爆撃機B29の標的になったことなどは耳に入ってきた。
8月15日、突然の玉音放送を全校生徒で聞くことになる。内容は分からなかったが、戦争が終わったことだけは理解できた。内務班に戻り上官の話で、ポツダム宣言を受諾し全面降伏をしたことを知った。自分のことよりも、国家は、日本は、どうなるのかという人が多く、個人のことを話す人は少なかった。
1週間で世界は変わった
8月21日、学校は解散となり、実家に帰ることになった。10カ月ぶりに戻り安堵もあったが、今後の見通しも立たず仕事もできず、ただ呆然(ぼうぜん)と日々を送っていた。地区内では35人が兵隊に行き、13人の戦没者があった。満州に行って行方不明の者もいた。
木村さんの住む六所地区(つくば市臼井)でも戦争中、山林に戦闘機が落ちる事件があった。地元の大人たちは米軍が落ちたのかと思い、竹やりをもって落ちた場所に向かったが、日本兵だったので皆で助けたという話を聞いた。
終戦を迎えて8日目の23日の夜、神社の境内で盆踊りをすることになったので見に出掛けた。よその集落の人も加わり、盛大に行われ、明るく楽しそうな様子だった。木村さんは「わずか1週間で状況は変わったのか」と信じがたかった。
「身内に不幸があった状況なら、まったく気に留めず、こんなに楽しんでいいのだろうか。この人たちはどんな気持ちで戦争を考えていたのか」と思ったが、人々のこの姿は、今日を強く生きるという現れだったと解釈した。
当時の農村は、自分の家に本などはなく、新聞を購読している人も少なかったので、社会情勢をあまり知らなかった。「敗戦の打撃は年長で教養ある者ほど大きく、若い人たちは早く新しい時代の流れに乗ることができたのだと思う」と語る。
木村さんは戦後、地域のリーダーとして10年もの間、区長を務めた。60を過ぎて独学で地域の歴史の勉強を始め、今もノートに記録を続けている。毎年、木村さんの研究や歴史の話を聞きたいと、地区の人や話を聞きつけた人が集まってくる。
木村さんは「今なお、世界中で戦争の話を聞く。戦争の記憶のある者がその実情を若い世代に伝えていく必要がある」と話す。(榎田智司)
人生暇つぶし《続・平熱日記》163
【コラム・斉藤裕之】もう何年も同じ風景のままの本棚。その中のずっしり重い○○画報という女性雑誌を手に取ってみたのは、妻が亡くなってしばらく経ってからのこと。「あこがれの軽井沢で…」という大きな文字が目立つ表紙。巻頭には緑に囲まれたモダンな平屋の建物の写真。
それは文化学院の創設者、西村伊作の別荘。この当時の西村家の財力からするとむしろ質素にも見える別荘は、実は当代きっての文化人であり教育者だった伊作氏の軽井沢や別荘建築に対する理想や思いが詰まっている。
この雑誌を読んだせいかはわからないけれども、妻がしきりと軽井沢へ行きたいと言い出したのは亡くなる数週間前ぐらいだったか。それまで一度も旅行をせがんだりしたことはなかったし、軽井沢に行ったことさえなかったのに。
てっきり日帰り旅行だと思ったら宿泊をしたいという。それはちょっと無理だと家族の誰もが思ったのだけれども、本人は行く気満々というか行ける気満々だった。結局、在宅医療に来てくれるお医者さんに説得されて軽井沢行きはかなわなかった。
行ってみるか軽井沢
ところで、長女の義理のお母さん、姑さんはとても元気な人で、今も海外旅行の添乗員をしていて1年の半分ぐらいは日本にいない。そのお母さんが、この夏に長女家族と軽井沢に避暑に行くからと私も誘ってくれた。正確には北軽井沢。上田出身のお母さんはその辺りの事情に詳しく、「軽井沢は実は結構暑いのよ」と、より標高の高い北軽井沢推し。
私自身は避暑などという概念すらなく、夏はとにかく暑いのが好きで、海や山を駆けずり回っていたい方だったのだが、このところの尋常ではない暑さと年齢のせいか、それからつけっぱなしのクーラーにも罪悪感を覚えたりして、夏は涼しいところで過ごしたいというふうに考えが変わってきた。
ある夜のこと。まだ起きる時間ではなかったが目が覚めたので、紙粘土で文化学院の旧校舎を作って描くことにした。実は、私はお茶の水の文化学院に日曜日の社会人対象の絵画講座の講師として長いこと通っていた。入口の大きなアーチが印象的な西洋風の洒落た建物だった(多くの文化人を輩出した自由で独創的な学び舎も時代の波には勝てず約百年の歴史に幕を下ろした)。
ネットで校舎の画像を見ながら、当時を懐かしく思い出す。フランスから帰ってきたばかりの私を文化学院に紹介してくださったのは当時の大学の恩師。そういえば先生は晩年を軽井沢で過ごされた(まきストーブのまき割りに行くという口約束をしたきりになってしまった)。
フランスから帰って来てちょうど30年。この夏、彼の地ではオリンピックが開かれている。開会式の様子を見ながら、懐かしい風景を思い出す。聖火の灯されたチュイルリー公園では、嫌がる妻と観覧車に乗ったっけ…。
そして、当時学院長だった西村八知先生のエスプリに富んだ名言がふと頭をよぎった。「人生暇つぶしだから…」。行ってみるか軽井沢、暇つぶしに。夏の浅間山を妻に見せるつもりで。(画家)
学校説明会に338組約700人 普通科新設のつくばサイエンス高 2学科併願可
来春、普通科が新設され科学技術科と2学科になる県立つくばサイエンス高校(つくば市谷田部、石塚照美校長)で10日、夏の学校説明会が開かれた。つくば市や近隣の中学3年生と保護者など338組から参加申し込みがあり、約700人の親子連れが参加した。
人口増が続くつくば市で高校不足が指摘される中、同校は改編から2年連続で定員割れとなっていた。普通科新設により来春の志願者がどのくらいになるかが注目されている(5月24日付 )。
説明会では、普通科も科学技術科と同様、地元の国公立大学や都内の有力私立大学(GMARCH=ジーマーチ)への進学を目指すことのほか、入学願書出願時に普通科と科学技術科をそれぞれ第1志望、第2志望などとして出願できることが新たに示された。
石塚校長は、県内初の特徴として①科学技術科がある②ノーベル物理学賞受賞者の小林誠高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授が9日、同校の名誉校長に就任し、講演会などの特別授業がある➂現在2人いるサイエンスアドバイザーがさらに増える④普通科、科学技術科両方の志願が可能で、第1志望を科学技術科、第2志望を普通科などにできる、などと話した。
ほかに、普通科は「総合的な探求の時間」の代わりに1年次は「理数探求基礎」、2年次は「理数探求」を履修し、探求の過程を通して課題解決するために必要な基本的な資質や能力を養う、修学旅行は今年は沖縄だが来年は台湾に行くーなどと述べた。
参加者が多いことから、説明会は2グループに分かれて開催。参加者は16教室に分かれ、各教室に設置された大型のディスプレイで石塚校長らの説明や学校生活の様子を聞くなどした。
続いて校内の施設を見て回り、分析機器や顕微鏡など実験機器などが整った校内で、在校生らの案内を受けながら、ロボットを作る操作をパソコンで体験したり、ドローンの操作を見学したり、気象衛星の観測データを受信したりする様子を見るなどした。
つくば市内から母親と参加した男子中学生は「兄が(同高の)3年生で、学校の雰囲気がいいと聞いているので、普通科に入りたい」と話し、同じつくば市内の女子生徒は「第一志望は科学技術科。ちょっと難しそうだけど、ワクワクの方が勝っている。楽しそう」と話していた。牛久市から参加した男子生徒は「ロボットか、情報処理か迷っている。願書を出すまでに考えたい」などと話していた。
石塚校長は「皆さん、目を輝かせて説明会を聞き、施設をご覧いただいた。反応は良かったと思う」と話し、県教育庁高校教育改革推進室の増子靖啓室長は「普通科をつくるので、魅力ある学校を見ていただければ」と話していた。
次回の学校説明会は10月12日実施される予定。(鈴木宏子)
豊かだった満州の記憶 鮮明に【語り継ぐ 戦後79年】1
阿見町 奥島雅子さん
阿見町でミニデイサービスの事業所「レプラコーン若栗」を管理する奥島雅子さん(93)。1931(昭和6)年、東京都江東区生まれ。戦時中のことを鮮明に覚えている。米屋を営む家で、雅子さんは8人きょうだいの末っ子だった。3歳の時に父が亡くなり、11歳の時に母も亡くしたが、25歳上の兄が家業を継ぎ、親代わりとなって雅子さんを育てた。
亀戸にあった実家は米屋だったため米蔵もあり、ネズミに困るほどたくさんの米があったが、1940年に配給制が始まると蔵は空になり、配給もわずかだったことから雅子さんたちきょうだいも食べ物に困るようになった。「配給でもらえるのはほんの少し。これでどうやって家族全員食べるのかと。お芋を入れたりしてなんとか食べてはいたが、栄養失調だったと思う」と話す。
満鉄の兄に連れられ満州へ
長男の兄は本来徴兵される年齢ではなかったが、兵隊として中国南方へ配属された。2番目の兄は満州事変をきっかけに徴兵されて満州(中国東北部)に渡っていたが、その後除隊。次男で後を継ぐ必要がないからと南満州鉄道に就職していた。2人とも実家の米屋の配達で車の運転ができたため、前線に行くことなく無事だった。1944年の秋、雅子さんが14歳のころ、満州へ行っていた兄が日本に一時帰国して、食べるに食べられない状況を見かね、雅子さんと姉を満州に連れて行くことにした。急なことだったが雅子さんは急いで荷物をまとめ、リュックを背負って東京駅から下関まで1日かけて汽車に乗り、下関の港から船で釜山に渡った。
汽車の中で一人に一つ蒸しパンが渡されたが、雅子さんは食べずに取っておいた。釜山から列車で満州の撫順(ぶじゅん)駅に到着すると、満鉄の人が車で迎えに来てくれ、社宅まで送ってくれた。「社宅には紺と白のじゅうたんがありびっくりした。取っておいた蒸しパンを姉が蒸して温めなおしたら、バターを塗って、紅茶にお砂糖を入れて出してくれた。感動どころか、驚いてひっくり返った。なんでバターやお砂糖があるのかと」
撫順での暮らしは豊かだった。社宅はコンクリート造り3階建て。冬はマイナス10度以下になるが、ボイラーがあって室内は暖かく暮らしやすかった。「豚肉の切り身やみかんなどなんでもあった。栄養が取れるようになり、満州で体ができた」。学校にも通った。日本人専用車に乗って30分から40分ほどかけて通学した。教科書も日本で勉強していた内容と同じだったが、中国語の授業があることが違っていた。
雅子さんと姉は撫順で落ち着いた暮らしをしていたが、1945年3月、東京大空襲があり、亀戸にあった米屋の実家は燃えてしまった。姉たちは金庫にあったお金を懐に入れて逃げ、あたり一面が火の海になる中、川に入ってやりすごしたと聞いた。家族全員、無事だった。「焼け出されて(足立区にあった)隠居所に越したよ、という手紙をもらって(実家が燃えたことを)知った。着る物もなく困るだろうと浴衣や靴下、炒った大豆のカンカンを行李(こうり)2つ分入れて日本に送ったけれど、1つだけしか届かなかった」。
押し入れに隠れて寝た
1945年8月、ソ連が満州に攻め入ってきた。国民党軍と八路軍(中国共産党軍)の撃ち合いも始まり、爆撃音が聞こえていた。「どこまでが正規軍(国民党軍)でどこまでが八路軍かも分からない。ソ連軍を恐れて、夜は押し入れに隠れて寝るようになり、夜は近所中の男の人が警備をした。撃ち合いになると流れ弾に当たらないように壁にくっついた。とにかく自分を頼るしかない。家族と離れないようにしていた」と話す。学校は閉鎖になり、不安の中、家で兄の勉強ノートなどを読んで過ごす日々が続いた。
1年間残留し、1946年10月27日、東京に帰ることになり、撫順市から港がある葫芦島(ころとう)市まで屋根のない汽車で向かった。途中で盗賊に襲われるグループもあったが、雅子さんたちは無事だった。葫芦島からは日本語を話せるアメリカ兵が誘導し、「ごはん食べた?」と日本語で聞かれ、雅子さんは驚いた。
「みんな緊張していたが、ボートが陸を離れると大人も笑顔になった」と話す。船の中で亡くなる人がおり、水葬となった。乗り込んだ人の中でお経を上げる人がおり、船長が板を斜めにして海に遺体を流した。「お経を上げてくれる優しい人がいてよかったと思った」。
東京に戻り、亀戸の駅前に立つと、「180度見渡す限りなんにもない。引き揚げ船の中で、東京のここが焼けていると地図を見せて教えてもらっていたが、何もかも変わっていた」。しかし「自分はけがもない、手足もそろっている。こんなにありがたいことってない」と境遇に感謝する。
工夫が身に付いた
結婚し、都内で空調工事などを手掛ける会社「奥島工業」を夫と2人で切り盛りした。女性が現場に入ることが少なかった昭和30年代に、病弱だった夫を助け、雅子さん自ら2トントラックのハンドルを握り、搬送や経理の仕事をした。仕事で中国に何度も行き、満州時代に覚えた中国語を勉強し直した。60代で女性起業家の異業種交流会の代表を務めた。退職後、阿見町が気に入り移り住んだ。
「無い無いばかりだった時、兄も姉もなんでも自分で作っていた。無い物は自分で作るという習慣ができている。足りないものばかりだったから、今は誰かが来たらいつでも何かを食べさせる。経験したことが知恵として残っていて、不自由だから自分で直したり、ものづくりしたりが染みついている」と話す。(田中めぐみ)
阿見町の雪印メグミルク工場《日本一の湖のほとりにある街の話》26
【コラム・若田部哲】「日本一」。良い響きですね。家庭用のバターやマーガリン、チーズなどの生産量で日本一を誇る、雪印メグミルク株式会社。同社の阿見工場では、高度にオートメーション化された工場の見学会を開催しています。今回は、阿見工場総務課の植村さんに、工場の特徴や見学時の見どころについて、お話を伺いました。
さて、雪印メグミルクの様々な製品のうち、プロセスチーズやマーガリンは、ほとんどこの阿見工場で生産されていることをご存じでしょうか。製品の入れ替えなどにより多少の推移はありつつも、丸いパッケージでおなじみの「6Pチーズ」や、「パンにはやっぱり『ネオソフト』」をはじめとする約200種類の製品は、この茨城は阿見の地で生産されているのです!
日本における生乳の最大生産地といえば北海道。産地のそばに工場を建設した方がよいのでは?と植村さんに伺うと、近年物流が整備されたため、最大の消費地である東京へのアクセス性の良さ、ロジスティクス的観点から、以前は神奈川県(横浜、海老名)と兵庫県(伊丹)にあった3つの工場を集約化したのが、この阿見工場なのだそうです。
そうした説明の後、実際に工場を拝見すると、驚くのはその製造のスピード感! 「6Pチーズ」の丸い箱やマーガリンの列が、片時も途切れることなく、目まぐるしい速さで流れていきます。個別の包装からダンボール詰め、トラックでの物流までが、高度に一体化して設計されていることが実感できます。
国際基準の衛生・品質管理
この東京ドーム3個分にもなる広大な工場敷地では、国際基準にのっとった衛生・品質管理が徹底されています。衛生管理の基本として、入場前の手洗いの様子が展示されますが、実に30秒の時間をかけた入念な内容。同じ手順で実際に手を洗ってみると、実に長いことに驚き! また、作業環境に求められる衛生基準により、2種類の異なる性質の作業着を着用するなど、細かな配慮を行っているそうです。
さらに、品質管理部門では、日々生産される製品の「官能検査」を行っています。官能検査は、製品の風味、におい、組織などについて調べる検査で、機械を使って評価することが難しいそうです。毎月実施している「官能訓練」で力量が確認された作業者だけが「官能検査」に従事でき、この部門にお勤めの方は、ごくわずかな食味の変化も感じ取れるよう、人工甘味料や刺激物を検査前に控えるなど、徹底しているとのこと!
さて、こうして日々生産される「6Pチーズ」、青い箱のプレーン味だけで、1日当たりの生産量は積み重ねると333メートルの東京タワーなんと10棟分! さらにマーガリンは、1日で8848メートルのエベレストと同じほどになるそうです。ちょっと想像がつかない規模に、めまいを覚えるとともに、この茨城から全国に、長年愛されるロングセラー商品が生産され、運ばれていくことがうれしくなります。
最後に、植村さんに工場見学の見どころを伺ったところ「衛生・品質管理の力の入れ方や、普段何気なく食べているチーズ・マーガリンがどのように作られているか、ぜひ見ていただけたら。見学の最後には試食もあるので、ぜひ当社製品の味わいを楽しんでください」とのお話でした。日ごろ慣れ親しんでいる味を支える、高度な技術を体感できるこの工場見学は、1名から随時受付。茨城で繰り広げられる日本一の生産現場を、皆様、ぜひご覧ください。(土浦市職員)
<注> 本コラムは「周長」日本一の湖、霞ケ浦と筑波山周辺の様々な魅力を伝えるものです。
<取材協力> 雪印メグミルク株式会社
➡これまで紹介した場所はこちら
筑波大生が夏休みの宿題応援 小学生50人が絵と習字を学ぶ スタジオ’S
筑波大で芸術を学ぶ学生が小学生に絵画と書道を教える企画「夏休み宿題応援 in つくば」が9日、つくば市吾妻の県つくば美術館で開かれた。関彰商事(本社・筑西市、つくば市 関正樹社長)が運営するギャラリー「スタジオ’S」が、筑波大と連携して開催したイベントで、2018年から始まった。この日は午前9時半と11時から書道教室、午後1時と3時に絵画教室が開かれ、つくば市をはじめ、土浦や牛久市などから50人の小学生が参加した。
午前9時から始まった書道教室には5人の小学生らが参加した。講師を務めた書道専攻の筑波大生4人は「大きく書くと元気よく書けて、書きやすいよ」「腕全体を使って書こう」など、それぞれマンツーマンでアドバイスした。
半紙に「笑顔」の文字を書き上げたつくば市の小学4年 杉浦圭さん(10)は「先生の教え方がわかりやすかった。今までに書いたことのない漢字に挑戦した。丁寧に教えてもらえてうまく書けた。楽しかった」とホッとした表情を浮かべた。昨年に引き続き2回目の参加となった牛久市の小学3年 上田桃華さん(8)は「去年は絵画で参加した。ほめてもらえてうれしかった。今年も楽しみにしていた」と思いを語った。
講師を務めた筑波大大学院2年の髙橋杏奈さん(24)は「うまく伝わるように言葉を選んだり、例えを使ったり、子どもの目線で考えるようにした」と話し、同大学院2年の内野陽菜さん(24)は「文字を等間隔で書いたり、偏とつくりの高さをそろえたりするときれいに見えるなどのコツを伝えた。プレッシャーにならないよう、書くことを楽しく学んでもらえるよう心掛けた」と語った。
書道と絵画を対象とした今回の企画は、2016年から毎年開催しているスタジオ’Sによる子ども向け企画「キッズアート体験」で好評だった2つの科目に特化し、18年から始まった。20年からは県近代美術館が協力している。
関彰商事広報の石井雅也さんは「ここに来れば大学生と一緒に宿題もできるとリピーターも多い企画。地域の方が心身ともに健やかに暮らしていただけるよう活動していきたい」と思いを話した。(柴田大輔)
パリ五輪開会式で見えたフランスという国《遊民通信》94
【コラム・田口哲郎】
前略
パリオリンピックでの日本人選手の活躍に胸が躍りますね。
さて、今回のオリンピックは開会式が特に話題になりました。開会式会場をセーヌ川とその河岸にするということからして、期待感がありました。セーヌ川というのは舞台になるほどのコンテンツを持っているんですね。
確かにパリの名所の多くはセーヌ川の周りにあります。パリの街の中心を南北に分けるように流れていて、中洲がシテ島といって、パリ最古の都市部です。東京に当てはめると、山手線の内側の中央線がセーヌ川になると思います。
東京もお堀がありますが、隅田川が流れていたら、歴史や景観はずいぶん変わっていたでしょうね。河岸の右と左で街の特徴が違っているというのも有名ですね。左岸にはソルボンヌ大学があったカルチェ・ラタンがあり、庶民的な学生街。右岸にはルーブル美術館や高級ブティックなどがあり、ブルジョワの雰囲気といった具合です。
開会式演出も、フランスの歴史
人びとを驚かせたのは、開会式の舞台だけではありませんでした。演出もフランスらしかったのではないでしょうか。物議をかもしたのは、フランス革命の監獄として有名なコンシェルジュリーの窓から生首を持ったマリー・アントワネットが姿を見せたシーン。
そして、古代ギリシャの酒の神、ディオニュソスに扮(ふん)した青い中年男性がキリスト教の最後の晩餐(ばんさん)を模したと思われるテーブルに寝そべり、さらに晩餐のテーブルにはずらりとドラァグクイーンという女装した男性が並んでいる場面。
オリンピックの開会式としてどうなのか、品性、あらゆる価値観を持つ人たちへの配慮が焦点として問題となり、組織委員会は公式ページからこうしたシーンの動画を削除したそうです。
今回の演出は公式なオリンピック運営組織の許可があって催行されたことに違いありません。シーンの賛否はともかくとして、なぜこれらのシーンが表現されたのかを考える必要がある気がします。
ご存知のように、フランスは革命があって王政から共和政に劇的に移行しました。フランスは現在共和国で第五共和政です。ヴェルサイユ華やかだったのはルイ14世の時代で王政でした。第五が示しているように、革命後、王政が復活したり、皇帝ナポレオンが君臨した帝政があったりと、複雑な政治変化の末に現在の共和政に至っています。
仏共和国はあの「自由、博愛、平等」の精神を礎にしています。現在のフランスは一概には言えませんが、カトリック教会や貴族制に代表される伝統的な体制を批判して成立したのです。歴史的経緯を踏まえると、あの過激とも思える演出も、さもありなんと思えなくもないです。どう感じるかは人それぞれですが。ごきげんよう。
草々
(散歩好きの文明批評家)
