火曜日, 4月 7, 2026

様々な交通事情:米国での1980年代の経験《文京町便り》19

【コラム・原田博夫】今回は米国での交通・運転事情の体験を語ってみたい。とはいえ、ある特定の地域・時期にことであり、あくまでも私の個人的な感想である。 マイカーを実質的に運転し始めたのは、1980年代初頭、米カリフォルニア州だった。1960年代末期に、日本(地元茨城県)で免許証は取得していたが、東京の生活では、自分で車を運転する必要もなかった。したがって、渡米直前、陸運局に国際運転免許証(かなり大判)を申請し、それを持参したわけである。 入国後2~3カ月して、中古車(後に現地では欠陥車と判明)を安価で手に入れ、キャンパスのかいわいを利用していた。 たまたま郊外に出向くことがあり、パトカーに呼び止められた。そこで警察官(カリフォルニア州)に、日本から持参した国際免許証を見せたのだが、彼はこれを自分は知らないという。国際免許証には、これを承認している外国政府名が記載されていて(そのためにかさばっているわけだが)、当然、米連邦政府もその1カ国である。 しかし、この警察官は、自分はカリフォルニア州の法律に基づいて職務を執行しているのであって、米連邦政府の指示には従う必要はない、という。とはいえ、今回は車線侵入ミス程度なので警告だけにとどめておくと温情措置。 そこで私は、カリフォルニア州の運転免許証を取得するべく、試験会場に赴いた。筆記は、当時は英語以外にも複数の言語(スペイン語、日本語など)が選択でき、私は、試験問題の日本語訳に疑問はあったものの、日本語を選択した。記入済みの解答シートを受け付けに戻せば、30分後に結果が判明。 実技は、私のマイカーに試験監督者が乗り込み、近くの回遊ルートを15分ぐらい周回するというもの。そもそも、この運転免許申請者がどうやって(どのような手段で)ここにやってきたかは、問わない。 要するに、この試験は落とすための試験ではなく、最低限の交通ルールと運転操作マナーをクリアしているかどうかのチェックなのである。できるだけ多くの希望者に、ライセンスを授与することが趣旨だったのである。 希望者にはできるだけ免許証を交付 米国では、大都市以外では鉄道・地下鉄などのネットワークが限定されている関係で、スーパーおよびマイカーは、米国民の日常生活の基本中の基本であり、それなしでは夜も日も明けない。 そのために、できるだけ多くの希望者に運転免許を与え、かつ、ガソリン価格を安価に維持し、利用者にストレスを感じさせないパーキング構造を確保する。初心者でも、運転技能の低下している高齢者であっても、運転操作・駐停車できるようにしておくことが大前提になる。 そうした運転環境になじんでしまったせいか、私は現在でも、スペースに制約のある日本のコンビニなどでの駐車が苦手である。 そのことを、先般の高齢者講習で一緒になった他の受験者にポロっと語ったところ、それじゃ、日常生活で困っちゃうじゃないかと指摘され、だから自分はコンビニにはマイカーでは行かない、と返した。日本では、潤沢な駐車スペースの確保は望めないが、最近の車はカメラ機能が向上しているおかげで、こうした制約は解消されているかもしれない。(専修大学名誉教授)

まつりつくば 4年ぶり開催 ねぶたや山車が競演

つくば市最大の祭り「まつりつくば」(つくば市など主催)が26日、4年ぶりに開催された。つくば駅近くの土浦学園線には午後5時半過ぎ、11基のねぶたが登場し「ラッセーラッセーラッセーラ」の掛け声と共に通りをパレードした。27日までの2日間、つくば駅周辺の土浦学園線やつくばセンター広場、中央公園、竹園公園などを会場に、みこしや山車のパレードのほか、ダンスフェスティバル、大道芸フェスティバルなどがにぎやかに催される。 土浦学園線の沿道はねぶたや山車が登場すると、大勢の市民が集まった。友人と見に来た近くに住む会社員、木村葉子さん(37)は「4年ぶりに祭りの活気が戻ってきてすごくうれしい」と話した。1年前に三重県からみどりの駅近くに引っ越してきて家族で初めてまつりつくばを見物したという会社員男性(42)は「思ったより祭りの規模が大きくて楽しい」と語った。 正午から大道芸フェスティバルが催された中央公園前の通りでは、2日間で中国雑技芸術団など15の団体や個人が芸を披露するほか、筑波山ガマ口上保存会のメンバーががまの油口上を演じ、人だかりが出来た。 同フェスティバルを運営するアートタウンつくば実行委員長の大和田直紀さんは「つくばはサイエンスシティと言われるが、江戸時代に始まった元祖大道芸のがまの油口上があり、大道芸の聖地。まつりつくばといえば、ねぶたのパレードに人気が集まるが、アートタウンにも注目して欲しい。今年は4年ぶりの開催となり、暑い中、たくさんの人が訪れてくれたことに感謝したい」と話した。 市によると、4年前の2019年は2日間で47万人が訪れた。今年は天気も良く、4年前と同じぐらいになりそうだと予測している。 つくば市の26日の最高気温は33度を記録し、かき氷や飲み物を販売する屋台はどこも行列が出来た。一方、午後3時までに熱中症などによる救急車の出動は無かったという。 まつりつくばは1981年に市民有志により大清水公園で始まり、今年でちょうど40回目。会場はつくば駅を中心に、つくばセンター広場、大清水公園、中央公園、竹園公園などに拡大し、実施されてきた。新型コロナの感染拡大で2020年から3年連続中止となった。昨年は研究学園駅周辺で計画されたが、今年は会場をつくば駅周辺に戻した。

夏休みの熱中書集め 土浦の「寺子屋」で作品展

夏休みの終わりに修練の成果集めて―。土浦市中央の古民家「寺子屋亀楽」で26日、1日限りの書道展が開かれた。同所でお習字の「おおせき教室」を開く大関まことさんが、日本習字教育財団主催のたなばた競書展に出品した生徒たちの作品を展示した。教室で学ぶ生徒は、小学生を中心に成人を含む約60人。会場には1人1点、「新星発見」や「夏の太陽」など画仙紙半切サイズに墨書された60点の作品が並べられた。同財団の創立者、原田観峰にちなむ観峰賞をはじめ、金賞、銀賞の審査結果が張り出された。「亀楽」は江戸時代末期の学者、沼尻墨僊(1775~1856)が開いた寺子屋のあった一画の古民家を改装して、地元のまちづくり団体が運営する。同市内2カ所で習字教室を開いていた大関さんが、同所に一本化して教室を開設したのが2019年。競書展には毎年出品しているが観峰賞に15点も選ばれたのは初めてという。寺子屋での教室開設直後に新型コロナの感染拡大があり、運営面で苦労もあったが、「大人しく落ち着いて取り組む書道は継続しやすかったのかもしれない。小学校低学年の子どもたちが辞めずにがんばって6年生まで続けてくれた。その子たちが観峰賞をとってくれた」と大関さん。その中のひとり、坂入柚羽さん(都和小6年)は会場入りして初めて受賞を知った。「とってもうれしい。新星発見の発の字の払いがうまく書けたと思う」とほほ笑んだ。学校から出された習字を含め、夏休みの宿題はほとんど完了、「今年の夏休みはお祭りにも行けたし楽しかった」そうだ。 金賞の神乃々華(じん・ののか)さん(市立東小4年)は、日焼けした体操着姿で会場入り。作品は7月中に仕上げ、今夏は室内のお習字ばかりでなく、室外のプールで思い切り泳いだそう。「水泳は日大幼稚園で始めて今妹が通っている。その土浦日大が甲子園で大活躍。うれしいこといっぱいの夏休みになった」という。(相澤冬樹)

「里山の暮らし」で学んだこと《宍塚の里山》104

「里山の暮らし」(左)と「続・里山の暮らし」の表紙

ようこそ、無人島へ《短いおはなし》18

【ノベル・伊東葎花】 妻と2人で、無人島へ行く。 無人島だけど清潔なコテージがあり、冷暖房完備。冷蔵庫には必要な食材がある。 つまり、リゾート用に整備された無人島だ。 予約客は、1ツアー1組のみ。 島の存在は、ごく一部にしか知られていない。だから誰にも言わずに行く。 クルーザーで島に着いた。 美しい島だ。夜は星がきれいだろう。 「わあ、素敵なコテージ」 「明日まで、この島すべてが僕たちの物だ」 妻の肩を抱いてコテージのドアを開けた。 誰もいないはずなのに、物音がする。 中に入ると、僕たちと同じ世代の男女が、ソファーに座っている。 「誰だ?」 振り向いた男女は慌ててソファーから降りて、床に頭をこすりつけた。 「すみません。今日予約が入っていたのをすっかり忘れていました。すぐ出て行きます」 「どういうことだ?」 「実はこの家は、私たち夫婦の家です」 「ここは無人島だろう?」 「住んでいるのは私達だけです。この家の掃除や管理をしています」 「無人島じゃないなら、詐欺じゃないか」 「ですから、お客様が来る日は林の中の洞窟で寝泊まりしています。そういう約束で金をもらっているので、ツアー会社にはどうか内密に」 「わかったよ。さっさと出て行け」 「はい」と立ち上がった途端、女がフラフラと倒れた。 「すみません。ジメジメした洞窟暮らしで、すっかり病んでしまって」 女は青い顔で立ち上がった。さすがにちょっと胸が痛む。 「あなた。可哀想よ。泊めてあげたら」 妻が言った。確かにこのまま夫婦を追い出したら後味が悪い。 僕たちの邪魔をしないことを条件に、夫婦を泊めることにした。 夫婦は物音を立てず、僕たちの視界に入らないように気配を消した。それでいて、タオルやドリンクがさりげなく用意されている。有能な執事を雇った気分だ。 夕暮れ、海から戻ると、豪華なディナーが用意されていた。 テーブルには、夫婦からのメモがある。 『差し出がましいとは思いますが、泊めていただいたお礼です』 テーブルに並ぶ料理に、妻は大喜びだ。高級なワインも用意されている。 「後片付けもやってくれるかしら」 「やらせればいいさ。泊めてやったんだ」 僕たちは、いい気分で無人島の夜を楽しむ…はずだった。 目覚めると、もう陽が高い。いつの間にか眠っていたのだ。 ワインを2杯飲んだところで記憶が消えている。 「あなた、私たちの荷物がないわ。クルーザーの鍵もない」 「あいつらだ」 昨日の夫婦を探したが、どこにもいない。 急いで林の中の洞窟に行った。 生活していた後はあるが、夫婦はいなかった。 「あなた、手紙があるわ」 『次の管理人、お願いします。大丈夫。あなたたちのような、マヌケで親切な夫婦が来るまでの辛抱です。グッドラック』 やられた…。 (作家)

高校生4人、課題解決型インターンシップに挑戦 企業のSDGsを研究

  高校生を対象とした「課題解決型インターンシップ」が今夏、関彰商事(本社筑西市・つくば市)で実施され、23日、つくば市二の宮のつくば本社で成果報告会が催された。インターン生として参加したのは土浦日大高校1年のマレク・ラワハ・マナミさん、下館一高1年の富田にこさん、同2年の内山ひかりさん、茗溪学園高校1年の設楽桃さんの4人。報告会では集計したSDGsに関するアンケート結果の報告が行われたほか、同社の SDGsの取り組みを紹介するパンフレットの構成案が披露された。 課題解決型インターンシップは一般的なインターンシップの就労体験とは異なり、インターン生自身がテーマを設定し、受け入れ先でプロジェクトに加わり研究活動を行う。インターン生4人はSDGsを研究テーマに選び、同社は学生への情報発信に課題を感じていたことからインターン生に向けて「中学生に向けたSDGsのパンフレットを作成する」という課題を提示した。 7月から8月にかけて社員らとミーティングを重ねながら、在籍する高校や卒業した中学校の生徒を対象に県内の様々な企業の認知度やSDGsへの意識に関するアンケートを実施。また同社のオフィスや店舗を見学し、どのようなSDGsの取り組みを行っているかを調査した。 成果報告会ではアンケート結果を分析してまとめたスライドを示し、中高生の意識について分かったことを関正樹社長や社員らの前で発表し、質問に答えた。読み手となる中学生の意識を踏まえて考えたパンフレット案も披露。同社のカーボンニュートラルやダイバーシティ、スポーツを通じた地域活性化の取り組みなどを分かりやすく記載し、親しみやすいよう設楽さんが描いたイラストを添えた。今後、案をもとに同社で完成版を作って印刷し、中学生に配布する予定だという。 今回のインターンシップは、4月に開催された教育イベント「成蹊教育フォーラムinつくば」に参加したマレクさんが、登壇した関社長に「海外大学への進学を考えており、自己の成長につながる課題解決型のインターンシップを受けるにはどうしたらよいか」と相談したことがきっかけで実現した。近隣の高校に声掛けを行い、3校から4人の生徒がインターン生として参加した。 大学で経済学を学びたいというマレクさんは「参加したみんな違っていろんなスキルがあって、協力し合うことができた。このような経験ができ、この経験を生かしていけたら」と参加の感想を述べた。内山さんは「これまで1人で活動することが多かったが、年齢関係なく他の人の意見を聞くことはいいなと思った。SDGsへの理解が深まった」と話し、他者との協働から得た学びについて強調した。 同社では今後も高校生を対象にしたインターンシップを続けていきたいとしている。関社長は「(今回の報告会のように)大人だけでなく誰でも自由に意見を言い合える場所が必要。会社のあるべき姿であり、こういう場が将来日常になっていくだろう」と話し、一人一人にインターンシップの修了証書を手渡した。(田中めぐみ)

甲子園決勝 エンジョイ・ベースボール 《遊民通信》71

【コラム・田口哲郎】 前略 夏の全国高校野球選手権大会の決勝に神奈川県代表の慶應義塾高校が進出し、昨年の優勝校である宮城県代表の仙台育英高校と対戦し、8対2で優勝しました。慶應義塾高校にとっては、実に107年ぶりの優勝ということになります。この年月の長さが高校野球の歴史を物語っていると言えるでしょう。最初に慶應高校が優勝したのは、1916年(大正5年)の第2回大会、旧制中学の慶應普通部時代です。高校野球黎明(れいめい)期で、学校がいまほど多くなく、野球をすること自体が先進的だったころです。 全国の旧制中学だった高校に通っていた出身者は母校の歴史を眺めたときに、母校が高校野球の全国大会の初期に出場していたことを見つけた人も多いのではないでしょうか。私の出身校の宮城県仙台第二高校も旧制二中時代、1925年(大正14年)に出場しています。初期の全国大会にはこうして全国の旧制中学、私立中学が名を連ねていました。 でも、いまはいわゆる強豪校が常連となっていて、初期に出場していた学校が甲子園にゆくことはほとんどないようです。そうした事情を思うと、慶應高校が103年ぶりに甲子園で決勝戦に進んだことには感慨深いものがあります。 あくまで勝ちにこだわる闘志こそ 慶應高校の「エンジョイ・ベースボール」というモットーも話題になっています。慶應の生徒がプレーしている様子をテレビで見ていると、笑顔が絶えず、和気あいあいとしているので、野球を「楽しむ」ことなのかと思います。 それはそうなのですが、それだけではなさそうです。『三田評論』という慶應義塾内の広報誌にエンジョイ・ベースボールの記事がありました。この言葉は慶應大学の野球部で脈々と受けつがれてきたもので、それを高校でも監督前田祐吉氏が本格的に使い始めたのだそうです。 モットーの起源は明治43年にさかのぼります。慶應野球部が2人の大リーガーを神戸に招いて合宿を行い、日本人が理論的、系統的に野球戦術を学んだ最初とされる出来事に由来するそうです(「【From Keio Museums】Enjoy Baseballの原点」)。チームワークとしての野球を考え、創意工夫をして、試合では「どこよりも闘争的に勝ちを求める」ことにより、それでこそ味わえるBaseballの楽しみこそがエンジョイ・ベースボールの真意なのだそうです。 ここには鬼気迫る真剣さがにじみでています。慶應の生徒たちの笑顔のうらにあるだろう、どの対戦相手にも負けない闘志、勝利の渇望が、楽しそうに見える不思議。この姿勢はなにも慶應の生徒だけが見せるものではないでしょう。これこそが、日本人が長らく高校球児に見てきた、青春の汗とかがやきなのかも知れません。 草々 (散歩好きの文明批評家)

いよいよ小屋暮らし【続・平熱日記】140

【コラム・斉藤裕之】寝るところと小さな流しと少し広めの机。できれば朝起きてから寝るまで気持ちの良い、春から冬までを楽しめる風景があること。話をする人が身近にいること。そんなところに住みたい。それはいったいどこだろう?と考えていた。 夏を故郷の山口で過ごす。生まれ育った市街の実家はもう売ってしまって今はもうないが、車で30分ばかり山に入ったところに弟の家がある。カナダでログハウスを作っていた弟は長女を連れて帰国した後、故郷に戻り地元の大工さんに弟子入りする。そして四半世紀ほど前、ここに土地を求め山を切り開いて家を建てた。やがてふたりの娘は巣立ち、今は夫婦2人暮らしだ。 夏が来るたびに私も2人の娘を連れてここにきて、よく海に連れて行ったりしたものだ。なにしろ山も海もあるしお金をかけずに遊べる。薪(まき)で沸かす風呂に娘たちがみんなで入ったり、バーベキューをしたり。夏でも夜は少し寒いくらいに涼しく、エアコンは要らない。しかし月日が経って、今やここに帰って来るのは私ひとりとなった。 仲のよい弟夫妻は趣味趣向が私と合っている。生活のリズムや休日の過ごし方、食べるもの、身の回りの物の趣味や経済観念など。 とりあえず今はやりの二拠点生活 先日弟夫妻が我が家にやって来た。茨城で私の知人の家を建てたりしたのを機に友人にも恵まれ、今回も地元のお祭りの日に宴を設けて楽しい夜を過ごしたりした。短い滞在ではあったけど、娘達のことや自分達の行く末などを話しているうちに、ごく自然とある結論にたどり着いた。 それは弟の敷地に私の小屋を建てること。幸い弟の家は広い敷地の中にあって、私が望むほどのささやかな小屋は十分に建つ。飯は一緒に食べればいいし、別棟の風呂は拝借することにする。余談だが、今の風呂をそろそろ作り直したいというので、庭に転がっている五右衛門風呂の釜を使って、この際風呂を新調しようということにもなった。 そして、とりあえずは今はやりの二拠点生活。その先のことは、またその都度考えればいいということで。 昔住んでいた浦和の別所沼公園に小屋が建っていたのを思い出した。とても気になるそのモダンな小屋は、詩人であり建築家の立原道造の「ヒアシンスハウス」。記憶はおぼろげにしかないのだが、寝るところと机と…、必要最小限のとても心地の良い空間だったような…。 弟の作業小屋には、解体現場から引き取ってきた古材や建具がストックされている。使えるものは使って建てる安価で質素な小屋。アスファルトの上より自然の中を散歩するのが大好きな犬の「パク」もきっと気に入るはずだ。(画家)

土浦日大 決勝進出ならず

甲子園で開催中の第105回全国高校野球選手権は21日、準決勝の第2試合で県代表の土浦日大が慶応(神奈川)と対戦。0-2で敗れ、県勢として20年ぶりの決勝進出は果たせなかった。土浦市小松ケ丘の土浦日大高校ではパブリックビューイング(PV)が催され、生徒や保護者ら261人が試合の行方を見守った。 土浦日大の誇る強力打線が、この日は最後まで爆発力を欠き、慶応の先発・小宅雅己を打ちあぐねた。特に、ひざ元のきわどいコースに決まる直球やカットボールに翻弄(ほんろう)された。 土浦日大の先発は準々決勝に続き伊藤彩斗。立ち上がりからいきなり無死二・三塁のピンチを背負うが、続く3人を打ち取って事なきを得る。しかし2回は安打と送りバントで2死二塁とされ、小宅の右中間への二塁打で先制を許す。これが小宅をさらに乗せてしまった。 3回にも慶応の先頭打者に安打を許し、送りバントと進塁打で2死三塁。土浦日大はここで2人目の藤本士生をマウンドへ送り、ピンチを切り抜けた。4回はこの試合唯一の3者凡退を奪ったが、5回以降は毎回先頭打者を出し、ランナーを背負う展開が続いた。 6回は先頭打者が左翼フェンス直撃の二塁打。送りバントで1死三塁とされ、次打者の大村昊澄には一度スクイズを失敗させるものの、高めに抜けたチェンジアップを右前に運ばれる。慶応は試合の流れを引き寄せる大きな1点を手にした。 土浦日大も2回と5回以外は毎回走者を出しながら、なかなか得点圏まで進塁できない。7回は初めて2死三塁のチャンスを作るが、6番・鈴木大和は内野フライに倒れた。8回は代打・飯田将生の内野安打と1番・中本佳吾の右前打で2死一・二塁とするが、2番・太刀川幸輝はレフトフライ。あと一打が出ないまま試合終了を迎えた。 「60周年に心が震えるほどの感動」 土浦日大高校のPV会場で一喜一憂する生徒や保護者、教職員らの様子をビデオカメラに収めていたのは、放送部の小島優也さん(2年)と田中瑞姫さん(2年)。この夏の野球部の活躍をドキュメンタリー作品にまとめ、10月のホームカミングデーのイベントで上映する予定だ。「8回表の中本くんのヒットや、8回裏の塚原さんのファウルフライキャッチでは会場が大きく沸き、とてもいい雰囲気だった。みんなのはらはらした表情や落ち込んだ様子など、日常では見られない緊迫感ある表情がたくさん撮れた」と話す。 赤松浩二副校長は「勝負の世界は厳しいが十分に誇れる内容。本当にいい試合だった。本校の創立60周年にこのような機会が持て、心が震えるほどの感動を与えてもらった。野球部が戻ったときは、ぜひ感動をありがとうという気持ちで迎えてほしい」と、会場に語りかけた。(池田充雄)

酷暑日に核廃絶と核抑止について考えた《吾妻カガミ》165

【コラム・坂本栄】先のG7広島サミットで、首脳たちは平和記念資料館を訪れて核被爆の悲惨さを見聞きし、核廃絶の必要性を痛感したはずです。それなのに、採択された声明では核兵器が持つ戦争抑止力を正当化しました。8月前半の新聞には、首脳たちの矛盾を指摘する記事も見られ、資料館訪問をお膳立てしながら声明の案文を作成した岸田政権も批判されていました。 核廃絶か?核抑止か? 核保有国、非保有国を問わず、首脳たちとっては頭の痛い問題であり、国際政治学者たちにとっても議論が尽きないテーマです。8月6日、広島での平和記念式典のテレビ中継を見ながら、「1945年夏の時点で日本が原爆を保有し、米国に対する核抑止力が効いていたら、原爆の投下はなかっただろうか?」と思い巡らしました。 米の原爆開発と理研/京大の研究 当時日本でも、理化学研究所(陸軍の命令と予算、中心は仁科芳雄博士)と京都大学核物理学研究室(海軍の命令と予算、中心は荒勝文策博士)が原爆開発を進めていました。しかし、いずれも研究の域を出ず、豊富な予算と人材を投入した米国の原爆開発(マンハッタン計画)にはとても及びませんでした。 完成した原爆を実戦で使うかどうか、米首脳は悩んだようです。しかし、その破壊力を日本に実感させて降伏に持ち込み地上戦を避けたい(米軍兵士の損耗回避)、巨額の開発費を使った原爆の力を実戦で確認してみたい(開発兵器の実証誘惑)、大戦後に主要な敵となるソ連の諸活動を抑制できる(冷戦想定の政略戦略)―などを総合判断、使用を決断したと伝えられています。 もし日本の原爆開発が実用レベルに達し、その情報が米首脳に届いていたら、不使用論「日本による核報復の可能性」が使用論「米軍兵士の損耗回避」「開発兵器の実証誘惑」「冷戦想定の政略戦略」を抑え、原爆投下をためらっていたかもしれません。 ウクライナに核が残っていたら? 現在進行中のロシアのウクライナ侵略でも、ソ連崩壊後、ウクライナに配備されていた核兵器をウクライナが継承・管理していれば、ロシアは核報復を恐れて侵攻しなかっただろうとの指摘があります。対ロシア核抑止力が効いたはずとの見方です。 ロシア・ウクライナ戦の現実は、G7を中心とする通常兵器の支援もあり、志気が高いウクライナ軍がロシア軍を押し返し、慌てたロシアは隣国ベラルーシに戦場で使う戦術核を配備し、ウクライナをけん制するという妙な展開になっています。いずれやってくる停戦交渉をにらんだカードなのでしょう。 核廃絶と核抑止は厄介な問題です。日本の場合、抑止力として米国の核の傘が差し掛けられています。しかし、78年前のように冷徹な判断を下す米国のこと、この枠組みが不変と考えない方がよいでしょう。岸田さんは「核被爆の悲惨さ確認」と「核抑止力の正当化」をセットで演出しましたが、そのケタ外れの破壊力を再確認して帰った首脳もいたかもしれません。(経済ジャーナリスト、戦史研究者)

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