つくば市 宮田米子さん(93)
つくば市北条に住む宮田米子さん(93)は、満州事変が起こった1931(昭和6)年、小田村(現在、同市小田)の農家に生まれた。3人の兄がおり、旧姓は宮川。戦時中は地元にあった国民学校高等科(現在の中学校)に通った。終戦は14歳の時、当時の事はよく覚えているという。
「農家だったから食べるものにはさほど困らなかった。でもコメに麦を8割混ぜた8分の麦ご飯で、おかずは野菜くらいしかなく、ぜいたくはできなかった」と振り返る。当時、農家でない人は、クリやジャガイモを入れ、かさを増して食べていたという。
宮田さんは尋常小学校を出て国民学校高等科に入った。全生徒は30人ぐらいで、近隣の田宮、北太田、山口からも通っていた。小田に住む人の中にも越境して北条の学校に行く子もいた。当時の北条は、石岡、土浦と並ぶ大きな物資の集積地だったということもあった。
国民学校は日中戦争後の1941年に発足した制度で、教育全般にわたって教育勅語に示された皇国の道を修練させることを目指した。それまでの尋常小学校が国民学校初等科、高等小学校が国民学校高等科になり、戦時色がより一層強まった。
「最初は普通に勉強していたが、戦争が進むと、授業も少なくなっていった」という。終戦を迎える年の1945年4月からはまったく授業は行われず「食料増産のための、農作業が主となっていった」と振り返る。
寝転がってはだめ
志願して入隊した次兄は飛行機乗りで、無線通信担当だった。「飛行機から人の姿はよく見える。隠れるときは寝転がってはだめ、しゃがんでうずくまっていろ」と、帰省した際、次兄に忠告された。
小田地区には大きな戦禍はなかったが、それでも登校時などに空襲警報が鳴ると、怖くて(筑波鉄道筑波線の)常陸小田駅の駅舎(現在は小田城跡歴史ひろば)に隠れた。近くの山口地区に爆弾が落ちたとか、機銃掃射があったという話を聞いていたそうだ。それでも筑波山周辺地域で空襲で亡くなった人はいなかった。
筑波地区に初めて空襲警報が鳴ったのは、1942(昭和17)年3月5日だったのを覚えている。北条近くの作岡村(つくば市作谷)には、落下傘部隊やグライダー部隊の訓練が行われた陸軍の西筑波飛行場があり、戦局が進むと頻繁に空襲警報が鳴るようになった。特にアメリカ機動部隊の艦載機1200機が関東各地を空襲した1945(昭和20)年2月16日のものは大きく、朝から夕方まで外出が禁止された。
フィリピンで戦死
長兄の宮川善一は1944(昭和19)年末に赤紙(召集令状)により徴兵され、9カ月後、フィリピンで戦死した。終戦間際、23年の生涯だった。
天皇が終戦を告げた8月15日の玉音放送は、兄の生死がはっきりせず、何か分かるかもしれないと、家族全員で自宅のラジオの前に集まり聞き入った。当時農家でラジオを持っている家は少なかったが、どうしても放送が聞きたくて購入した。近所では兄弟全員が戦死したという家もあったが、兄の死は、まさか家族に戦死者が出るとは思わず、長男ということもあり、生涯忘れられない出来事となった。80年たった今でも、当時を思うと言葉が出なくなり、涙が流れる。
戦後は、国民学校高等科を出て、その後、家の手伝いをして過ごした。ヤミ米が流出していたため、多くの農家と同じように調査が入ったりしたそうだ。
1952(昭和27)年、北条地区の宮田家に嫁入りし、一男一女をもうける。「戦争を体験した人はみな、90歳以上になってしまった。戦争は本当に怖かった。戦後はだんだんおいしい物も食べられるようになった。やはり平和が一番だ。そういう時代がずっと続いて欲しい」と昔を振り返りながら語る。(榎田智司)
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