土曜日, 4月 12, 2025
ホームつくば軍隊調の規則づくめ、普通の子が学童疎開児になった【語り継ぐ 戦後79年】4

軍隊調の規則づくめ、普通の子が学童疎開児になった【語り継ぐ 戦後79年】4

つくば市 山田実さん

つくば市に住む元農水省農業生物資源研究所の研究者、山田実さん(91)は、満州事変翌年の1931(昭和7)年、東京・小岩で生まれ、学童集団疎開と東京大空襲を経験した。戦争体験者の一人として「正義の戦争は国が言うもの。僕は不正義の平和の方がいい」と話す。山田ゆきよさん(88)=8月12日付=とは夫婦。

実さんが生まれた小岩は荒川の東側にあり、周囲は田んぼとハス田と野菜畑だった。荒川を境に西は東京下町の住宅密集地。後の東京大空襲で川の西側は焼け野原になってしまう。

小学1年生になった1939年、中国全土で戦争が拡大し、13歳年上の一番上の兄が兵隊にとられていった。

戦争が始まったんだよ

3年生だった1941年、太平洋戦争が始まった。12月8日朝、ラジオから大本営発表のニュースがあった。「何か始まっちゃったのかな」と言うと、「戦争が始まったんだよ」と兄。うすら寒い曇った朝だったと今でも覚えている。

後で調べて分かったことだが、真珠湾攻撃を始める前の11月20日、戦後、首相になった芦田均衆院議員が、戦争が始まると空襲があるので、大都市の子供たちを計画的に戦禍から避難させるよう求めていたことが分かった。

4年生になった翌年の4月18日昼間、学校で授業中、初めて空襲警報が鳴り、すぐ講堂に集められた。「静かにしろ」と言われたので皆、静かにじっと待ち、そのうち警報が解除。農業地帯だった小岩の町に被害はなかった。これが「ドゥーリトル空襲」と呼ばれた日本本土初の空襲だった。米海軍のドゥーリトル中佐を先頭に、航空母艦から爆撃機が飛び立ち、東京、名古屋、大阪などを爆撃した。

山形県に集団疎開

6年生だった1944年7月、サイパン島で日本軍が陥落すると、本土が空襲されると予想して、小学3年生から6年生まで、いなかのある子は縁故疎開、そうでない子は集団疎開が始まった。

翌月の8月9日、3年生から6年生までが登校班ごとに集まって夜行列車に乗り、上野駅から日本海側にある山形県鶴岡市、あつみ温泉の温泉宿に向かった。夕方、学校に集められたので、いつもの通学路を歩いた。途中まで母親が送ってくれて、ちょっと振り返ると、涙をのみ込むように上を向いていた母の姿を今でも思い出す。

疎開先には、25人程度の登校班二つに、20歳前後の若い娘が寮母として付いてきてくれて、子供たちの掃除や洗濯をやってくれ、病気になれば面倒を見てくれた。

軍隊帰りの先生が罰

大きな旅館だった。生活は、始めのうちはどこか修学旅行にでも行ったような気分だったが、軍隊調の規則づくめの生活で、たちまちこれは大変なもんだと分かった。

野間宏の「真空地帯」という小説は、社会から隔絶された軍隊の中は真空地帯だ、真空地帯に入って人は兵隊になると書く。実さんは「真空地帯」をもじって学童疎開について「普通の児童が疎開に行って学童疎開の児童になった」という。異常な生活体験をしなくてはならなかった。

食事は3食をわりと食べられたが、間食がなく、親に持ってこさせられた薬をおやつ代わりに食べて腹を壊した子もいた。生活は規則づくめ。実さんは6年生だったから班長をやらされ、偉そうなことを言った覚えがある。

面白いこともあった。秋になった時、温泉の裏山に山栗がなっていた。皆で採って、温泉の熱いところに浸して皆で食べた。それを軍隊帰りの先生に見つかって「けしからん、お前たちは」と叱られた。ところがこっちは食いたい盛り、寮母さんとそっとまたやって、一緒に食べた覚えがある。

食べ物のことが第一番だった。他の班の子が深夜、調理場に入って盗み食いをした。見つかって軍隊帰りの先生に、罰として班の全員が、近くにあった川に夜2時間ほど浸からされたという事件もあった。

ある晩、自習時間に口笛を吹いた子がいた。軍隊帰りの先生が隣の部屋にいて口笛を聞き、「山田、来い。お前の班に口笛を吹いた者がいる。だれだ」と怒鳴った。こっちは身に覚えもないし口笛を聞いた覚えもないので黙って座っていたら「はっきり言え」と言われ、箸箱で頭を殴られた。しょうがなくて「僕がやりました」と言ったら許してくれた。その後、廊下の隅で寮母さんと2人で泣いたのを覚えている。

冬は吹雪になると、3重に戸があっても隙間から粉雪が入り込むような厳しい寒さだった。旅館から海に向かってガラス窓があって吹雪の方を見ると、毎朝、ぞろぞろ歩く人の列があった。あの人たち何なんだろうと宿の人にそっと聞いたら「あれは朝鮮人だよ。こちらに長屋があるだろう。反対側にある炭鉱に働きに行かされているんだよ」と教えてくれた。

戦後、そのことを確かめようといくつか調べたが、朝鮮人部落があったこと、働かされていたこと、炭鉱が閉鎖になったこと、日本から立ち去ったことなど町の記録に無かった。改めて思い出し、町に尋ねたところ「記録はない」と言われた。しかし「僕は見たよ、温泉町のお年寄りに聞いてくれ」と言ったら町の職員はちゃんと行って調べてくれて「そういう証言がありました。戦争中のことをよく覚えてますね」と言われた。

焼夷弾が柳の花火のように落ちてきた

6年生は全員、翌1945年2月28日に疎開先を離れた。駅まで見送りに来たのは寮母さんだけだった。東京に帰ったのが3月1日。途中、印象的だったのは日本海側は雪ばかり、それが夜行列車で帰ってきてちょうど那須の辺りで実に明るい陽射しになり、太陽が輝いてると子供心に思った。

東京に帰ってきてからは体を壊し家にいた。胃腸をやられていたので、ほっとして体調を崩したんだと思う。

帰って間もない3月9日の夜、空襲警報が鳴った。何となく騒がしく、庭に出てみたら、B29が飛んでいて焼夷弾を落としていた。焼夷弾1個1個、まるで柳の花火のように落ちてくる。母親に「かあちゃん空襲ってこんなの?」と聞いたら、「いつもと違う」という答えだった。それが一般市民を対象にした3月10日の東京大空襲だった。10万人が死亡し、100万人が罹災したとされる。

翌10日午後、かかりつけの医者に行ったら、待合室は人でいっぱい。空襲に遭った人たちが手当てを受けに来ていた。看護師に「実君、君は明日」と言われ、家に戻った。

ガリ版刷りの修了証書

3月24日は小学校(国民学校)の卒業式だった。学校に行こうとしたら空襲警報が鳴り、卒業式はやらなかった。後で画用紙の半分にガリ版刷りで印刷された修了証書をもらった。

土まで焼けて真っ茶色だった

4月から中学生になった実さんは、荒川の西にあった中学校(旧制中学)に総武線で通った。荒川の橋を渡ると東京は焼け野原、何もなかった。普通火事の跡は焼けぼっくいが残って黒く見えるが、東京は土まで焼けて真っ茶色だった。赤くなったトタンがあちこちに散乱していた。総武線は山手線の上の3階部分を走る。何もなくなって真っ平になってしまったので、列車から東京湾が見えた。

入学した中学校は鉄筋コンクリート造で山の崖のそばにあったため焼けずに済んだ。また空襲があるといけないので、周りから赤いトタンを集めてきて、屋上に並べた覚えがある。

空襲は4月と5月の山の手大空襲など、その後何度もあった。中学1年生ながら「こんなに焼けちゃって日本の空軍も大したことないし、どうなるのかな」と、何となく厭戦(えんせん)気分というか、立派な兵隊になろうなんて気は起らなかった。8月6日の広島原爆投下は薄々、なんだかひどい爆弾が落ちたようだと人づてに聞いた。

8月15日、家のラジオの調子が悪くて、昼にあった天皇のポツダム宣言受諾放送は聞かなかった。放送が終わった後、2軒隣のおじさんが出てきて「実君、戦争に負けたよ」と教えてくれた。勇ましい少年じゃなかったから「あー終わったか。そうだ、もう(電球の光が外に漏れないように覆っていた)電球の黒い布をはずしていいんだ、夜でも電気をこうこうとして本を読めるんだ」と思ったという。ほっとしただけだった。

現在、6年ほど前から毎年11月、つくば市内の小学6年生に戦争体験を話している。「子供たちは僕たちがとんでもない経験をしたということを皆しっかり受け止めてくれる」と話し、「治安維持法ができたのは1925(大正14)年、敗戦が1945(昭和20)年、その間20年かかっている。今僕たちはどの辺にいるか、自ら世の中を見て、真剣に考える必要があるかもしれない」と語る。(鈴木宏子)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

1コメント

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

1 Comment
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

残念だった県教育長の3月議会答弁《竹林亭日乗》27

【コラム・片岡英明】3月18日、茨城県議会の予算特別委員会で、山本美和議員(つくば市区)の県立高校定員に関する質問の様子を中継で見た(現在も視聴可)。 2022年11月議会で、当時の森作教育長が「進路選択に影響が出ないように県立高の募集定員の計画を示す」と答弁。その後、牛久栄進高の学級増、筑波高の進学クラス設置、つくばサイエンス高の普通科設置などの改善があったので、3月議会での県側答弁に期待していた。 つくば市の高校の特殊性 柳橋教育長はこの中で、①2019年改革プラン策定以降、県内各エリアの生徒数に応じて県立高募集定員の調整を行う方針である、②つくばエリアでは生徒数が増加する-この基本点を説明した。 また、つくば市からの入学者が多い土浦・牛久・下妻を加えた「拡大つくばエリア」で考えた場合、定員増は必要ないとも答弁した。つくばエリアは生徒増が見込まれるのに、エリアでの定員増は必要ないとの言葉は残念であった。山本県議の質問の背景には子どもたちの願いがある。その声に耳を傾けてほしかった。 なぜ、つくば市の多くの生徒がエリア外の隣接3市に通学するのか? つくば市内に県立高が少ないからである。今でも8学級募集の並木高(今は中高一貫)があれば、これほどの問題にはなっていない。TX開通によって生徒が増えたことで問題が顕在化した。 「拡大つくばエリア」という飛躍 柳橋教育長による説明の組み立ても気になった。まず、つくばエリアの生徒増を語り、次に「つくば市」のつくばエリア外への通学状況を説明し、そこから「拡大つくばエリア」の設定へと飛躍した。 「つくば市」を語るのであれば、構造的に県立高が不足しているつくば市の必要学級数(県平均水準)を計算してほしい。県立高を2校新設する必要性が判明する。 さらに、「拡大つくばエリア」を設定するのであれば、県全体の12エリアについても再試算する必要がある。私たちの会の試算では「土浦を除いた元の土浦エリア」で、新たに定員不足が発生する。 生徒が増えているつくばエリアに、生徒が減っている隣接3市を加え、「学級増必要なし」との試算には疑問がある。私たちは計算ではなく、現実から出発している。これからも、つくばエリアの受験生の願いを教育長に届けたい。 地域にとって魅力ある県立高を 生徒が増えるつくばエリアに学級増は必要ないと、ブランコで言えば「いったん限界まで振り切った」答弁は我々を驚かせたが、これはつくばエリアの定員を考える契機にもなった。 現状は、TX沿線に県立高新設が必要なのは明らかである。受験生の小さな声に耳を傾けると、振り切ったブランコはしかるべきところに落ち着くような気がする。 多くの生徒の関心は、募集定員だけではなく、各県立高の魅力や通学方法にも広がっている。県教育庁は、つくばの定員問題を早期に解決して、地域にとっての魅力ある県立高づくりに力を注いでほしい。(元高校教員、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)

協議会スタート 洞峰公園の管理・運営方針など提言へ つくば市

2024年2月、県からつくば市に無償譲渡された洞峰公園(つくば市二の宮、約20ヘクタール)の今後の管理・運営方針などを市に提言する同市の「洞峰公園管理・運営協議会」(委員長・藤田直子筑波大芸術系環境デザイン領域教授)が11日スタートした。同日、第1回協議会が市役所で開かれ、昨年6月に同公園で開催した市営化スターティングイベントのような協議会のスターティングイベントを、今年6月ごろに開催することなどを決めた。 当初予定より1年遅れの設置となった(1月3日付)。委員は16人で、生物多様性や環境教育、まちづくりなどの学識経験者5人、洞峰公園などで活動する住民団体の関係者2人、公園を管理する委託事業者1人、造園会社の団体関係者1人、県と市の行政関係者7人で構成する。委員の任期は2年。 都市公園法の規定に基づき公園利用者の利便の向上を図るため必要な協議を行う協議会で、同公園の生物多様性の保全方針、公園施設の維持管理と更新方針、公園施設の運営方針などを、市長に随時、提言する。 協議会の組織の構成は、16人の委員による「委員会」と、公募市民がテーマごとに各テーブルに分かれて意見を出し合う「分科会」の2層構造となり、分科会で出た市民の意見をもとに委員会が協議して市長に提言する。 分科会は①生態系保全など「環境」②施設の維持管理と更新など「施設管理・運営」➂子育てと子どもの遊び場など「教育」の3つの分科会をつくる案が事務局案として出されている。6月ごろのイベント開催後、各分科会ごとに市民の公募を開始する予定で、応募があった市内外の市民全員が参加できるようにする。 分科会の運営方法は、テーマ別に市民が各テーブルに分かれて意見を出し合う。各テーブルでは筑波大の学生が司会者役となるほか、学識経験者の協議会委員1~2人が各分科会全体のまとめ役となる。今年度のスケジュールは、各分科会をそれぞれ1回、計3回程度開催する予定だ。 議会の2025年度予算は委員の謝礼などが計240万円。一方、分科会に応募する市民には無償で参加してもらう。 11日の協議会では併せて、公募で参加する市民が分科会に参加できなくなった場合などに意見を書き込める場などとして、筑波大発ベンチャー企業が開発した意見交換プラットフォームを活用することなども報告された。 協議会の設置に向けては昨年3月に、市長や議会議員、学識経験者など9人による準備会を設置して、3月、4月、12月の計3回準備会を開き、協議会の組織や運営方法などについて非公開で協議してきた。 市が県から洞峰公園の無償譲渡を受けるにあたってはこれまで、県が負担していた公園の維持管理費が新たに市の負担になることから維持管理費の負担軽減ほか、体育館・プール、新都市記念館など施設の長寿命化費用の負担軽減などが、市議会や市民説明会などで指摘されてきた。(鈴木宏子)

霞ケ浦用水のパイプラインはずれ水が流出 川の土手が一部崩落 つくば市北条

市発注の河川改修工事中 つくば市北条、八幡(はちまん)川の川岸で7日午後1時ごろ、工事受注業者が同市発注の河川改修工事を行っていたところ、土の中に埋まっていた霞ケ浦用水の農業用パイプラインの接続部分がはずれ、パイプラインの中にたまっていた水が流出して、川の土手の斜面の一部が長さ約10メートル、高さ3~4メートルにわたって崩落した。9日、同市が発表した。 霞ケ浦用水は霞ケ浦から水を取水し、農業用水などを県南西に供給している。事故があったパイプラインは霞ケ浦用水土地改良区が管理し、筑波土地改良区が用水を利用して、同市北条と小田地区に農業用水を供給している。事故時は田植え前だったため水は供給されておらず、今月21日から田んぼに水を張るため通水する予定だった。現場では9日からパイプラインの復旧工事が始まり、21日の通水開始までには復旧する見込みという。 八幡川は桜川の支流。市道路整備課によると、八幡川では昨年9月から今年6月までの工期で、川の氾濫を防ぐため川幅を広げる工事を行っていた。7日は同市北条、大池公園野球場近くの右岸で、川の土手の土を斜めに削ってコンクリートブロックを敷設する工事を行っていたところ、川岸の土手の土の中に埋まっていた霞ケ浦用水のパイプラインの接続部分がはずれ、水が流出した。流出した水の量は不明。 埋設されているパイプライン近くの土を削ったことから、パイプラインにかかっていた土の圧力が減り、接続部分がはずれたとみられるという。パイプラインの埋設位置について市と工事業者はあらかじめ把握しており、市は、なぜはずれたのかについて原因を調べるとしている。川の改修工事の再開は現時点で未定という。 崩落した八幡川の土手に隣接している大池公園野球場について、市は7日から、野球場の利用を制限している。安全が確認され次第、早急に利用を再開できるようにする。 再発防止策として市は、市と受注業者の双方で周辺状況を把握し安全管理を徹底した上で、施工にあたっては細心の注意を払って作業を進めるとし、市発注工事を受注している全業者に注意喚起を徹底するとしている。

湖岸線日本一 霞ケ浦沿岸15市町村の魅力を一堂に 土浦市職員がイラスト展

若田部哲さん 土浦市職員、若田部哲さん(49)のイラスト展「日本一の湖の ほとりにある 街の話」が8日から、土浦駅前の土浦市民ギャラリーで開かれている。土浦市やつくば市など湖岸線の長さ日本一の霞ケ浦沿岸と筑波山周辺15市町村の名所や特産品、祭りなど地域の魅力を、計150点のイラストで紹介している。 若田部さんはNEWSつくばのコラム欄で2022年7月から毎月1回、「日本一の湖のほとりにある街の話」と題して、霞ケ浦沿岸地域の魅力をイラストと記事で紹介し今年3月までに計32回連載している。今回はNEWSつくばに掲載されたイラストも含め一堂に展示している。 展示作品は、稲敷市の大杉神社、阿見町の予科練平和記念館、つくば市のペデストリアンデッキ(遊歩道)など。大杉神社はかつて、巨大な杉の木が霞ケ浦のどこからでも見えて航路標識の役割を果たしたと言われていることから、空を覆うように杉の木を描いている。予科練は「戦争を経験した方々がおり、今という平和な時代がある」という同館学芸員の言葉をイラストに添えている。ペデストリアンデッキは松見公園、つくばセンタービル、洞峰公園それぞれの風景を描いている。大学時代に都市計画を学んだ経験からペデストリアンデッキは、「歩く」という人間の基本的な行為を安全に楽しめて人と人が交わるところという思いを込めている。 休日などに土浦市内や霞ケ浦周辺を巡り、実際に足を運んで、現地で話を聞いて感じた魅力を、各市町村それぞれ10点ずつ紹介している。いずれも色鮮やかな版画のような作品で、現地で撮った写真をもとに手描きで輪郭線を描き、パソコンに取り込んで着色している。イラストの大きさはいずれも縦横18センチ×27センチ、色合いはグレーをベースに、いずれも2色の濃淡で表現している。グレーは全作品に統一して用い、15市町村のつながりを感じられるようになっている。 若田部さんは筑波大大学院芸術研究科修了後、建築設計事務所に勤務し、2009年に土浦市職員になった。これまで土浦市内の昭和レトロな老舗を紹介するイラストと記事を常陽新聞(2017年に休刊)に連載などしてきた。霞ケ浦沿岸地域に着目したのは2017年に滋賀県の琵琶湖のほとりで開催された全国市町村職員研修会に参加したことがきっかけ。各地の自治体職員に霞ケ浦を紹介したところ、琵琶湖に次いで2番目の大きさなのに霞ケ浦を知らない職員が多かった。アピールするなら日本一のものと考え、霞ケ浦の湖岸線の長さが日本一であることから「日本一の湖のほとりにある街の話」と題するホームページを2019年に開設した。すでに300点以上のイラストを描き、発信している。 若田部さんは「自身が住む街を振り返ることはなかなかなかったり、見過ごしている場所もあると思うので、こんな場所があるということをご覧いただければ」と話し、「イラストで巡る霞ケ浦、筑波山の旅という展示なので、改めて行ってみたいというところがあったらぜひ実際に訪れていただければ」と語る。(鈴木宏子) ◆イラスト展「日本一の湖の ほとりにある 街の話」は8日(火)~20日(日)、土浦市大和町1-1 アルカス土浦1階 土浦市民ギャラリーで開催。入場無料。若田部さんのホームぺージはこちら。NEWSつくばのコラムはこちら。