火曜日, 6月 16, 2026
ホームつくば軍隊調の規則づくめ、普通の子が学童疎開児になった【語り継ぐ 戦後79年】4

軍隊調の規則づくめ、普通の子が学童疎開児になった【語り継ぐ 戦後79年】4

つくば市 山田実さん

つくば市に住む元農水省農業生物資源研究所の研究者、山田実さん(91)は、満州事変翌年の1931(昭和7)年、東京・小岩で生まれ、学童集団疎開と東京大空襲を経験した。戦争体験者の一人として「正義の戦争は国が言うもの。僕は不正義の平和の方がいい」と話す。山田ゆきよさん(88)=8月12日付=とは夫婦。

実さんが生まれた小岩は荒川の東側にあり、周囲は田んぼとハス田と野菜畑だった。荒川を境に西は東京下町の住宅密集地。後の東京大空襲で川の西側は焼け野原になってしまう。

小学1年生になった1939年、中国全土で戦争が拡大し、13歳年上の一番上の兄が兵隊にとられていった。

戦争が始まったんだよ

3年生だった1941年、太平洋戦争が始まった。12月8日朝、ラジオから大本営発表のニュースがあった。「何か始まっちゃったのかな」と言うと、「戦争が始まったんだよ」と兄。うすら寒い曇った朝だったと今でも覚えている。

後で調べて分かったことだが、真珠湾攻撃を始める前の11月20日、戦後、首相になった芦田均衆院議員が、戦争が始まると空襲があるので、大都市の子供たちを計画的に戦禍から避難させるよう求めていたことが分かった。

4年生になった翌年の4月18日昼間、学校で授業中、初めて空襲警報が鳴り、すぐ講堂に集められた。「静かにしろ」と言われたので皆、静かにじっと待ち、そのうち警報が解除。農業地帯だった小岩の町に被害はなかった。これが「ドゥーリトル空襲」と呼ばれた日本本土初の空襲だった。米海軍のドゥーリトル中佐を先頭に、航空母艦から爆撃機が飛び立ち、東京、名古屋、大阪などを爆撃した。

山形県に集団疎開

6年生だった1944年7月、サイパン島で日本軍が陥落すると、本土が空襲されると予想して、小学3年生から6年生まで、いなかのある子は縁故疎開、そうでない子は集団疎開が始まった。

翌月の8月9日、3年生から6年生までが登校班ごとに集まって夜行列車に乗り、上野駅から日本海側にある山形県鶴岡市、あつみ温泉の温泉宿に向かった。夕方、学校に集められたので、いつもの通学路を歩いた。途中まで母親が送ってくれて、ちょっと振り返ると、涙をのみ込むように上を向いていた母の姿を今でも思い出す。

疎開先には、25人程度の登校班二つに、20歳前後の若い娘が寮母として付いてきてくれて、子供たちの掃除や洗濯をやってくれ、病気になれば面倒を見てくれた。

軍隊帰りの先生が罰

大きな旅館だった。生活は、始めのうちはどこか修学旅行にでも行ったような気分だったが、軍隊調の規則づくめの生活で、たちまちこれは大変なもんだと分かった。

野間宏の「真空地帯」という小説は、社会から隔絶された軍隊の中は真空地帯だ、真空地帯に入って人は兵隊になると書く。実さんは「真空地帯」をもじって学童疎開について「普通の児童が疎開に行って学童疎開の児童になった」という。異常な生活体験をしなくてはならなかった。

食事は3食をわりと食べられたが、間食がなく、親に持ってこさせられた薬をおやつ代わりに食べて腹を壊した子もいた。生活は規則づくめ。実さんは6年生だったから班長をやらされ、偉そうなことを言った覚えがある。

面白いこともあった。秋になった時、温泉の裏山に山栗がなっていた。皆で採って、温泉の熱いところに浸して皆で食べた。それを軍隊帰りの先生に見つかって「けしからん、お前たちは」と叱られた。ところがこっちは食いたい盛り、寮母さんとそっとまたやって、一緒に食べた覚えがある。

食べ物のことが第一番だった。他の班の子が深夜、調理場に入って盗み食いをした。見つかって軍隊帰りの先生に、罰として班の全員が、近くにあった川に夜2時間ほど浸からされたという事件もあった。

ある晩、自習時間に口笛を吹いた子がいた。軍隊帰りの先生が隣の部屋にいて口笛を聞き、「山田、来い。お前の班に口笛を吹いた者がいる。だれだ」と怒鳴った。こっちは身に覚えもないし口笛を聞いた覚えもないので黙って座っていたら「はっきり言え」と言われ、箸箱で頭を殴られた。しょうがなくて「僕がやりました」と言ったら許してくれた。その後、廊下の隅で寮母さんと2人で泣いたのを覚えている。

冬は吹雪になると、3重に戸があっても隙間から粉雪が入り込むような厳しい寒さだった。旅館から海に向かってガラス窓があって吹雪の方を見ると、毎朝、ぞろぞろ歩く人の列があった。あの人たち何なんだろうと宿の人にそっと聞いたら「あれは朝鮮人だよ。こちらに長屋があるだろう。反対側にある炭鉱に働きに行かされているんだよ」と教えてくれた。

戦後、そのことを確かめようといくつか調べたが、朝鮮人部落があったこと、働かされていたこと、炭鉱が閉鎖になったこと、日本から立ち去ったことなど町の記録に無かった。改めて思い出し、町に尋ねたところ「記録はない」と言われた。しかし「僕は見たよ、温泉町のお年寄りに聞いてくれ」と言ったら町の職員はちゃんと行って調べてくれて「そういう証言がありました。戦争中のことをよく覚えてますね」と言われた。

焼夷弾が柳の花火のように落ちてきた

6年生は全員、翌1945年2月28日に疎開先を離れた。駅まで見送りに来たのは寮母さんだけだった。東京に帰ったのが3月1日。途中、印象的だったのは日本海側は雪ばかり、それが夜行列車で帰ってきてちょうど那須の辺りで実に明るい陽射しになり、太陽が輝いてると子供心に思った。

東京に帰ってきてからは体を壊し家にいた。胃腸をやられていたので、ほっとして体調を崩したんだと思う。

帰って間もない3月9日の夜、空襲警報が鳴った。何となく騒がしく、庭に出てみたら、B29が飛んでいて焼夷弾を落としていた。焼夷弾1個1個、まるで柳の花火のように落ちてくる。母親に「かあちゃん空襲ってこんなの?」と聞いたら、「いつもと違う」という答えだった。それが一般市民を対象にした3月10日の東京大空襲だった。10万人が死亡し、100万人が罹災したとされる。

翌10日午後、かかりつけの医者に行ったら、待合室は人でいっぱい。空襲に遭った人たちが手当てを受けに来ていた。看護師に「実君、君は明日」と言われ、家に戻った。

ガリ版刷りの修了証書

3月24日は小学校(国民学校)の卒業式だった。学校に行こうとしたら空襲警報が鳴り、卒業式はやらなかった。後で画用紙の半分にガリ版刷りで印刷された修了証書をもらった。

土まで焼けて真っ茶色だった

4月から中学生になった実さんは、荒川の西にあった中学校(旧制中学)に総武線で通った。荒川の橋を渡ると東京は焼け野原、何もなかった。普通火事の跡は焼けぼっくいが残って黒く見えるが、東京は土まで焼けて真っ茶色だった。赤くなったトタンがあちこちに散乱していた。総武線は山手線の上の3階部分を走る。何もなくなって真っ平になってしまったので、列車から東京湾が見えた。

入学した中学校は鉄筋コンクリート造で山の崖のそばにあったため焼けずに済んだ。また空襲があるといけないので、周りから赤いトタンを集めてきて、屋上に並べた覚えがある。

空襲は4月と5月の山の手大空襲など、その後何度もあった。中学1年生ながら「こんなに焼けちゃって日本の空軍も大したことないし、どうなるのかな」と、何となく厭戦(えんせん)気分というか、立派な兵隊になろうなんて気は起らなかった。8月6日の広島原爆投下は薄々、なんだかひどい爆弾が落ちたようだと人づてに聞いた。

8月15日、家のラジオの調子が悪くて、昼にあった天皇のポツダム宣言受諾放送は聞かなかった。放送が終わった後、2軒隣のおじさんが出てきて「実君、戦争に負けたよ」と教えてくれた。勇ましい少年じゃなかったから「あー終わったか。そうだ、もう(電球の光が外に漏れないように覆っていた)電球の黒い布をはずしていいんだ、夜でも電気をこうこうとして本を読めるんだ」と思ったという。ほっとしただけだった。

現在、6年ほど前から毎年11月、つくば市内の小学6年生に戦争体験を話している。「子供たちは僕たちがとんでもない経験をしたということを皆しっかり受け止めてくれる」と話し、「治安維持法ができたのは1925(大正14)年、敗戦が1945(昭和20)年、その間20年かかっている。今僕たちはどの辺にいるか、自ら世の中を見て、真剣に考える必要があるかもしれない」と語る。(鈴木宏子)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

3 コメント

3 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

マリリン・モンロ一は生きている《映画探偵団》101

【コラム・冠木新市】つくば駅のバス停留所ベンチから見上げるセンタービルの景色が好きだ。正確にはホテル日航つくばだが、ここにはマリリン・モンロ一が生きている。設計者の磯崎新は、モンロ一の身体をかたどったモンロ一定規を作り、このビルにモンロ一の身体の曲線(モンロ一カ一ブ)を組み込んだ。だからセンタービルは、マリリン・モンロ一の象徴ともいえる。 モンロ一が好きな人は、センタービルが好きだと思う。だが、ここで問題がある。映画の金髪で少しおバカさんのキャラクタ一が好きか?女優モンロ一の生き方が好きか?で分かれると思う。私はどちらも好きなのだが、映画のキャラクタ一が嫌いな人は、センタービルは苦手なのではなかろうか。 今年6月1日、モンロ一は生誕100周年を迎えた。1月に「北条芸者ロマンの唄が聞こえる」を公演したあと、モンロ一のイベントを予定していたが、急きょサンフランシスコ講和条約75周年記念の詩劇コンサート「憎しみは愛によって止む」が飛び込んで来て、企画を延期することにした。 私がモンロ一を評価するのは、演技は別にして、原水爆を嫌悪した女優だからだ。また、同じ役どころしか与えない映画会社に抵抗して、モンロ一プロダクションを作り、独自に映画製作に乗り出したことだ。「モンロ一は戦う芸術家」なのである。 1954年、新婚旅行で来日した際、広島で原爆ドームから原爆記念館、原爆傷害調査委員会を訪れ、何度もため息をついたという。米国が落とした原爆の現実を知り、反対の思いを抱いたと思われる。 M・モンローの「バス停留所」 モンロ一プロダクションの第1作は「バス停留所」(1956)だ。クラブ歌手シェリーが酒場で唄う場面があるが、ヘタクソなのだ。いや、ヘタに唄っているのだ。ヘタクソに唄うことがどれほど難しいことか。モンロ一の演技力に驚かされる。 また、作品中に自分の人生を暗示してもいる。シェリーは同僚に1枚の地図を見せる。そこには赤い一本の線が引かれ、生まれた場所から、ハリウッドまで一直線で結ばれている。シェリーはハリウッドの女優を目指していた。しかし、ラストではその路線を拒否し、牧童の妻になる道を選ぶ。 もう一つ語っておこう。「バス停留所」は、山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズに強く影響を与えている。第1作で、おいちゃん(森川信)が寅さん(渥美清)にげんこつを加える場面が出てくる。これの元ネタと思える場面が「バス停留所」にある。さらに、寅さんと恋仲になるクラブ歌手リリー(浅丘ルリ子)の元ネタは「バス停留所」のシェリーではないのか。 磯崎新と山田洋次は東大同級生 となると、日本的なものは排除して造られたセンタービルには、寅さんの影がほのめく。磯崎新と山田洋次は東大で同級生だった。センタービルのモンロ一と寅さんはオーバーラップしている。 渥美清は浅草六区の小屋出身の芸人。浅草六区の礎を作った根岸浜吉は旧筑波町の小田出身。筑波と浅草は歴史的に縁がある。つくばエクスプレスで浅草と結ばれている。35年近くセンタービル付近を観察していると、つくばは浅草化して庶民的な雰囲気になってきているように感じてならない。 つくば駅バス停留所で待ち合わせしていて、そんな妄想が次々と湧いてきた。これから、「世界のつくばセンタービル物語/マリリン・モンロ一は生きている」(仮)の打ち合わせがある。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家) <映画とお話:つくばセンタービルについて>・日時:6月27日(土)午後1時〜3時、参加費無料・場所:つくばカピオ小会議室2・主催:一般社団法人スマイルアップ推進委員会・次回作のスタッフ・キャスト募集中

つくばエリアの「独立」を考える《吾妻カガミ》220

【コラム・坂本栄】人口が増えている「つくばエリア」は人口が減っている県から独立し、独自の行政区を結成したらどうか、と私は考えています。5月、この持論を補強する情報が二つ飛び込んできました。一つは、つくば市の人口が水戸市を抜いたというニュース。もう一つは、日本経済新聞電子版の「政令市が道府県から独立…」というタイトルの記事です。 下り坂の県と上り坂のつくば つくば市の人口が水戸市を上回ったとの国勢調査速報は、皆さんご存知と思います。本サイトの記事「つくば市の人口、水戸市を抜いて…」(5月29日掲載)によれば、「つくば市の昨年10月1日時点での人口は26万8991人となり、水戸市の26万5773人を3218人上回って、県内一に…」なりました。 同じ調査で分かった県全体の人口減、つくば市の人口増(水戸とつくばの人口逆転はこのシンボリックな表現)は、水戸を拠点にして県全体を見ている県庁をおかしな行動に走らせています。少子化を踏まえて県立高のリストラを進める県が、つくばエリアの児童増に目配りせず、同エリア内での県立高新設を渋るのもその一つでしょう。 私はこういった傾向を「下り坂の県」と「上り坂の市」と定義、139「…のおはなし」(22年8月15日掲載)の中で、「県と市が置かれている状況と方向が違うのだから、つくば市は県から『独立』したらどうか」と提案しました。さらに、202「つくばの県立高問題は動く?」(25年2月17日掲載)では、「…『上り坂』のつくば市を中核とする人口50万人以上の政令指定都市を設け、『下り坂』の県から『独立』するアプローチも考えられます」と書きました。 政令指定都市による独立構想でイメージしていたのは、神奈川県における横浜市(県庁所在市)や宮城県における仙台市(同)などの大都市です。つくば市に県庁は存在しませんが、県庁所在市は政令指定都市の必要条件ではありません。 「特別市」という独立の形 驚いたのは、日経電子版の「政令市が道府県から独立、『特別市』再び議論…」(2026年5月27日19:00)という見出しの記事です。そのリードでは「地方制度調査会(地制調)は2027年度中にも『特別自治市(特別市)』の制度に関する答申をまとめる。…大都市を県から独立した位置づけにする特別市について税のあり方などを検討する」と報じています。 県内の政令指定都市(人口要件50万以上)は県の行政下に置かれますが、「特別市」の行政権限は県から切り離され、より強い形で独立できるそうです。国レベルでいえば、イタリア国内にあるバチカン市国のイメージでしょうか。川崎市(非県庁所在市)の福田紀彦市長のコメント「地域での核となる都市を成長させ、多極分散型を実現することで日本全体にも効果を還元できる」は、とても説得力がありました。 つくばエリア(県の分類では、つくば、土浦、つくばみらい、守谷、牛久、常総、下妻の7市)の人口は合計約70万ですから、政令指定都市になる条件を満たしています。でもそこにとどまらず、一気に「特別市」に移行(県から完全に独立)、北関東の「核都市」を目指すのも面白いと思います。(経済ジャーナリスト、坂本栄)

名門バレエダンサーが直接指導 子供たちが基本動作に挑戦 つくば

アジアを代表する名門「香港バレエ団」所属のバレエダンサーが直接指導する「セキショウこどもバレエ教室」が13日、つくば市天久保、筑波大学中央体育館で催され、つくば市などに住む4歳から12歳の子供たち46人が初心者クラスと経験者クラスに分かれてバレエのレッスンを受けた。 バレエを通じて体を動かす楽しさを体感してもらおうと、関彰商事(本社 筑西市・つくば市、関正樹社長)が主催した。同社とつくば市が締結している「SDGsの推進に係る包括連携協定」に基づく事業として初めて開催し、同市が後援した。 同バレエ団に所属する香港出身のへネス・ユンさん(29)と、つくば市出身の関剛多さん(25)が来日し、優雅な演技を子供たちの間近で披露したり、基本動作を手ほどきしたり、音楽に合わせて一緒に踊るなどした。 初心者クラスには30人が参加。子供たちは、両足のかかとを付けてつま先を左右に開いてまっすぐ立つ「一番ポーズ」と呼ばれる基本姿勢に挑戦したり、つま先で立って小幅で足踏みしながら回ったり、ひざとつま先を伸ばして片足を上げるなど、バレエの基本動作に挑み、最後に、基本動作を組み合わせて音楽に合わせて踊るなどした。 友達3人で参加した市立竹園西小6年の筒井英(はな)さん(12)は「Kポップのダンスをやっているので、柔軟体操に生かしたいと参加した。つま先立ちが難しかったが、やってみたら興味がもてた」などと話していた。 子どもたちとの質問の時間も設けられ「きれいな姿勢を保つこつはありますか」との子供たちの質問に、へネスさんは「毎日毎日練習していると、きれいな姿勢になってくる。きれいな姿勢をしてないと体が痛くなることもある」などと答えていた。 指導した関さんは「バレエを通して、体を動かすことが楽しいと子供たちに伝えることができたら」と語り、へネスさんは「何かに興味をもつということは、楽しみだけでなく、自分の性格を知ったり、大人になった時の自分の芯をつくるものでもあると思う」と話していた。(鈴木宏子)

2026年初夏の裏磐梯《鳥撮り三昧》10

【コラム・海老原信一】4月下旬~5月中旬の3度の裏磐梯通いが、今シーズンの高原探鳥の始まりになりました。昨冬は雪が少なめでしたが、今冬はそれ以上に少なめでした。例年なら、残雪が低木を地面に押し付け、暖かくなった陽射しで雪が緩み、木々が軽くなった雪を跳ね上げる。その「バサッ」という音で季節の変わり目を感じたものです。 ところが、今年は大分勝手が違っていました。森に残雪はなく、木々は早くも薄緑の葉を茂らせ、森の見通しは効かない―すでに初夏そのものです。そうなると、不安が頭をもたげます。これじゃ~鳥が見えない、少し距離をとっての観察ができない、葉の茂る中からひょいと現れたらレンズを向ける暇もない、と。 その上、「今シーズンの夏鳥の飛来が少ない気がするなあ」との鳥見仲間の声も聞こえてきて、不安が一層募ります。森の入り口に立つとキビタキのさえずりが響いてくるはずなのにそれもなかったし、コサメビタキなどの姿も見ない、アオジがやぶ中を歩き回る姿もなかったし、と。 肩にした機材を重く感じながら、両側の緑が濃くなりつつある森の中の野鳥を探して、定められた散策路をいつもの観察場所へと向かいます。そこは森の高台に近く、視界が開けて木々の中腹が視線の高さに近いので、野鳥たちを見上げないで観察できる「よい場所」なのです。 14年ぶりに会えたノジコ さて、3度通った結果ですが、3度とも不安がそのままの結果となりました。今回ほど鳥たちの観察数が少なかった裏磐梯通いは、初体験です。さえずり声が聞こえないのは、「飛来数が少ないから縄張り争いが必要ないのだろうか」なんて考えました。 それでも、オオルリ、クロツグミ、コムクドリと、それぞれ一度だけですが会えました。それに、キビタキ、コサメビタキ、サンショウクイ、ゴジュウカラ、アカゲラ、オオアカゲラ、アオゲラ、ニュウナイスズメなども、数は少ないなりに観察できました。一方、ウグイスの元気さは別格です。あの「ホウー、ホケキョ」を聞くと元気が出ます。身を絞るようにしてさえずる様子は、生きるための必死さを感じます。 今回の裏磐梯行で最もうれしかったのは、14年ぶりに観察・撮影できた種に会えたことです。それはノジコ。アオジによく似た種で、降雪の比較的多い平地や山地の林に生息する種で、裏磐梯以外では奥日光で観察した記憶があります。「もう会えないだろう」と思っていただけに、うれしさは格別でした。(写真家)