火曜日, 10月 6, 2026
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軍隊調の規則づくめ、普通の子が学童疎開児になった【語り継ぐ 戦後79年】4

つくば市 山田実さん

つくば市に住む元農水省農業生物資源研究所の研究者、山田実さん(91)は、満州事変翌年の1931(昭和7)年、東京・小岩で生まれ、学童集団疎開と東京大空襲を経験した。戦争体験者の一人として「正義の戦争は国が言うもの。僕は不正義の平和の方がいい」と話す。山田ゆきよさん(88)=8月12日付=とは夫婦。

実さんが生まれた小岩は荒川の東側にあり、周囲は田んぼとハス田と野菜畑だった。荒川を境に西は東京下町の住宅密集地。後の東京大空襲で川の西側は焼け野原になってしまう。

小学1年生になった1939年、中国全土で戦争が拡大し、13歳年上の一番上の兄が兵隊にとられていった。

戦争が始まったんだよ

3年生だった1941年、太平洋戦争が始まった。12月8日朝、ラジオから大本営発表のニュースがあった。「何か始まっちゃったのかな」と言うと、「戦争が始まったんだよ」と兄。うすら寒い曇った朝だったと今でも覚えている。

後で調べて分かったことだが、真珠湾攻撃を始める前の11月20日、戦後、首相になった芦田均衆院議員が、戦争が始まると空襲があるので、大都市の子供たちを計画的に戦禍から避難させるよう求めていたことが分かった。

4年生になった翌年の4月18日昼間、学校で授業中、初めて空襲警報が鳴り、すぐ講堂に集められた。「静かにしろ」と言われたので皆、静かにじっと待ち、そのうち警報が解除。農業地帯だった小岩の町に被害はなかった。これが「ドゥーリトル空襲」と呼ばれた日本本土初の空襲だった。米海軍のドゥーリトル中佐を先頭に、航空母艦から爆撃機が飛び立ち、東京、名古屋、大阪などを爆撃した。

山形県に集団疎開

6年生だった1944年7月、サイパン島で日本軍が陥落すると、本土が空襲されると予想して、小学3年生から6年生まで、いなかのある子は縁故疎開、そうでない子は集団疎開が始まった。

翌月の8月9日、3年生から6年生までが登校班ごとに集まって夜行列車に乗り、上野駅から日本海側にある山形県鶴岡市、あつみ温泉の温泉宿に向かった。夕方、学校に集められたので、いつもの通学路を歩いた。途中まで母親が送ってくれて、ちょっと振り返ると、涙をのみ込むように上を向いていた母の姿を今でも思い出す。

疎開先には、25人程度の登校班二つに、20歳前後の若い娘が寮母として付いてきてくれて、子供たちの掃除や洗濯をやってくれ、病気になれば面倒を見てくれた。

軍隊帰りの先生が罰

大きな旅館だった。生活は、始めのうちはどこか修学旅行にでも行ったような気分だったが、軍隊調の規則づくめの生活で、たちまちこれは大変なもんだと分かった。

野間宏の「真空地帯」という小説は、社会から隔絶された軍隊の中は真空地帯だ、真空地帯に入って人は兵隊になると書く。実さんは「真空地帯」をもじって学童疎開について「普通の児童が疎開に行って学童疎開の児童になった」という。異常な生活体験をしなくてはならなかった。

食事は3食をわりと食べられたが、間食がなく、親に持ってこさせられた薬をおやつ代わりに食べて腹を壊した子もいた。生活は規則づくめ。実さんは6年生だったから班長をやらされ、偉そうなことを言った覚えがある。

面白いこともあった。秋になった時、温泉の裏山に山栗がなっていた。皆で採って、温泉の熱いところに浸して皆で食べた。それを軍隊帰りの先生に見つかって「けしからん、お前たちは」と叱られた。ところがこっちは食いたい盛り、寮母さんとそっとまたやって、一緒に食べた覚えがある。

食べ物のことが第一番だった。他の班の子が深夜、調理場に入って盗み食いをした。見つかって軍隊帰りの先生に、罰として班の全員が、近くにあった川に夜2時間ほど浸からされたという事件もあった。

ある晩、自習時間に口笛を吹いた子がいた。軍隊帰りの先生が隣の部屋にいて口笛を聞き、「山田、来い。お前の班に口笛を吹いた者がいる。だれだ」と怒鳴った。こっちは身に覚えもないし口笛を聞いた覚えもないので黙って座っていたら「はっきり言え」と言われ、箸箱で頭を殴られた。しょうがなくて「僕がやりました」と言ったら許してくれた。その後、廊下の隅で寮母さんと2人で泣いたのを覚えている。

冬は吹雪になると、3重に戸があっても隙間から粉雪が入り込むような厳しい寒さだった。旅館から海に向かってガラス窓があって吹雪の方を見ると、毎朝、ぞろぞろ歩く人の列があった。あの人たち何なんだろうと宿の人にそっと聞いたら「あれは朝鮮人だよ。こちらに長屋があるだろう。反対側にある炭鉱に働きに行かされているんだよ」と教えてくれた。

戦後、そのことを確かめようといくつか調べたが、朝鮮人部落があったこと、働かされていたこと、炭鉱が閉鎖になったこと、日本から立ち去ったことなど町の記録に無かった。改めて思い出し、町に尋ねたところ「記録はない」と言われた。しかし「僕は見たよ、温泉町のお年寄りに聞いてくれ」と言ったら町の職員はちゃんと行って調べてくれて「そういう証言がありました。戦争中のことをよく覚えてますね」と言われた。

焼夷弾が柳の花火のように落ちてきた

6年生は全員、翌1945年2月28日に疎開先を離れた。駅まで見送りに来たのは寮母さんだけだった。東京に帰ったのが3月1日。途中、印象的だったのは日本海側は雪ばかり、それが夜行列車で帰ってきてちょうど那須の辺りで実に明るい陽射しになり、太陽が輝いてると子供心に思った。

東京に帰ってきてからは体を壊し家にいた。胃腸をやられていたので、ほっとして体調を崩したんだと思う。

帰って間もない3月9日の夜、空襲警報が鳴った。何となく騒がしく、庭に出てみたら、B29が飛んでいて焼夷弾を落としていた。焼夷弾1個1個、まるで柳の花火のように落ちてくる。母親に「かあちゃん空襲ってこんなの?」と聞いたら、「いつもと違う」という答えだった。それが一般市民を対象にした3月10日の東京大空襲だった。10万人が死亡し、100万人が罹災したとされる。

翌10日午後、かかりつけの医者に行ったら、待合室は人でいっぱい。空襲に遭った人たちが手当てを受けに来ていた。看護師に「実君、君は明日」と言われ、家に戻った。

ガリ版刷りの修了証書

3月24日は小学校(国民学校)の卒業式だった。学校に行こうとしたら空襲警報が鳴り、卒業式はやらなかった。後で画用紙の半分にガリ版刷りで印刷された修了証書をもらった。

土まで焼けて真っ茶色だった

4月から中学生になった実さんは、荒川の西にあった中学校(旧制中学)に総武線で通った。荒川の橋を渡ると東京は焼け野原、何もなかった。普通火事の跡は焼けぼっくいが残って黒く見えるが、東京は土まで焼けて真っ茶色だった。赤くなったトタンがあちこちに散乱していた。総武線は山手線の上の3階部分を走る。何もなくなって真っ平になってしまったので、列車から東京湾が見えた。

入学した中学校は鉄筋コンクリート造で山の崖のそばにあったため焼けずに済んだ。また空襲があるといけないので、周りから赤いトタンを集めてきて、屋上に並べた覚えがある。

空襲は4月と5月の山の手大空襲など、その後何度もあった。中学1年生ながら「こんなに焼けちゃって日本の空軍も大したことないし、どうなるのかな」と、何となく厭戦(えんせん)気分というか、立派な兵隊になろうなんて気は起らなかった。8月6日の広島原爆投下は薄々、なんだかひどい爆弾が落ちたようだと人づてに聞いた。

8月15日、家のラジオの調子が悪くて、昼にあった天皇のポツダム宣言受諾放送は聞かなかった。放送が終わった後、2軒隣のおじさんが出てきて「実君、戦争に負けたよ」と教えてくれた。勇ましい少年じゃなかったから「あー終わったか。そうだ、もう(電球の光が外に漏れないように覆っていた)電球の黒い布をはずしていいんだ、夜でも電気をこうこうとして本を読めるんだ」と思ったという。ほっとしただけだった。

現在、6年ほど前から毎年11月、つくば市内の小学6年生に戦争体験を話している。「子供たちは僕たちがとんでもない経験をしたということを皆しっかり受け止めてくれる」と話し、「治安維持法ができたのは1925(大正14)年、敗戦が1945(昭和20)年、その間20年かかっている。今僕たちはどの辺にいるか、自ら世の中を見て、真剣に考える必要があるかもしれない」と語る。(鈴木宏子)

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