【コラム・阿部きよ子】NPO法人「宍塚の自然と歴史の会」では会発足当時から、宍塚とその周辺の地元の方々から、高度成長期以前の暮らしの様子をお聞きして記録し、2冊の本にまとめました。今回はその中から、山林の利用、特に松の利用について紹介します。
松は肥料分のない土でも岩の間でも育つ木です。菌根菌(きんこんきん)と共生しているおかげだそうです。松が多いということは、痩せた土を意味します。江戸時代の地層の花粉分析では松の花粉が最も多いのですが、縄文時代の地層からは松花粉は出ていません。人々が里山の木、草、落ち葉などを利用した中で、土が痩せ、松に適する土壌に変化したのでしょう。
松は昔の農業と暮らしに欠かせない木でした。大木は頑丈な建築用材として切り出されました。山で切って運び出すのに牛を使った話も聞きました。私たちの会が修築した「百年亭」では、11メートル長さの梁(はり)と床材は松が使われています。宍塚のある旧家で1間(1.8メートル)幅の板戸を拝見したことがありますが、この板が取れる松は一体どんな太さだったのかとびっくりしました。
私がこの里山を歩きはじめた1970年代、「松葉とるべからず」とかかれた木札を見かけたことがありました。松葉は燃料にするほか、野菜の苗床の材料として不可欠なものだったそうです。
松葉を集めたら縄を3本横に並べた上に茅(ススキ)を敷き、集めた松葉を乗せて丸めて束ねます。それが1把(わ)。6把で1駄(だ=馬に乗せる荷物の単位、米俵だと2表が1駄)。家族数に応じて、1年分60駄とか、決まった量を木小屋に蓄えていたそうです。冬に落ち葉かきをしやすいように、8月下旬から下草刈りをし、枝下ろしもして、運び出していました。その結果、当時の松林は遠くまで見通せて、はだしで歩けたそうです。
根は油気が多く、火力の強い燃料となったので、伐採された松の根株も使われました。松の根を掘り起こす「ぼくぶち」の権利を山主から買った人たちは、根本の回りを掘って、横むきの根を1本残し、そこに藤蔓(つる)の縄をかけてぐるぐる回し、下に向かう棒根を抜き取ったそうです。一株の根っこで薪5、6把の量になりました。
今後の里山の在り方を探る
この伐根方法を、里山に通う法政大の学生たちが、地元のお年寄りから実地で教えていただき、休耕畑の開墾をしたことがありました。松林はきのこの宝庫で、特に若い松林に生えるハツタケは多くの人たちに好まれました。実生の3年目くらいの松は正月の門松にちょうどよく、東京の花屋に出荷した人もいたそうです。
1970年代後半に松枯れが広がり、林の景観は変わりました。里山の木は昔のように個々の住民の暮らしに不可欠なものではなくなりましたが、CO₂の削減、酸素の供給、水の保持、多様な生き物をはぐくむなど、万人にとって重要な役割を持つようになってきました。昔を振り返りつつ、今後の里山の在り方を探っていきたいと思います。(宍塚の自然と歴史の会 会員)