火曜日, 10月 6, 2026
ホームつくば1年間難民生活を送り38度線を越えた【語り継ぐ 戦後81年】4

1年間難民生活を送り38度線を越えた【語り継ぐ 戦後81年】4

つくば市 河合弘子さん(91)

つくば市茎崎地区に住む河合弘子さん(91)は、1935(昭和10)年、京都府舞鶴市で生まれた。小学1年の時、一家で満州国に渡り、終戦から1年間、朝鮮半島で難民生活を送った。その後、38度線を歩いて超え、故郷に戻った。

父親は市役所職員で、母親は学校教員だった。父親が満州国(中国東北部)に赴任、太平洋戦争が始まる前年の1940年、父母と5歳の弘子さん、二つ下の妹の4人で満州国に渡った。

満州国最大の都市、奉天(現在は瀋陽)にあった日本軍の部隊の官舎に入り、翌1941年4月、日本人向けの奉天在満国民学校(小学校)1年生に入学した。

官舎があったのは、かつての清朝の首都、盛京を囲んだ城郭、奉天城の東側で、通りは、一方に、日本軍の部隊や満鉄、飛行場などが並んでいて、通りの向かい側に日本人の官舎と民間住宅、満州の集落などが並んでいた。

官舎は部隊の真ん前にあり、建物は、中庭を囲むように配置されていた。父親は軍事物資の輸送の仕事に携わり、母親は弘子さんが入学した国民学校の教員を務めた。家には、クーニャンと呼ばれた住み込みのお手伝いさんがいて、全部世話をしてくれた。

学校に入学した時から授業は教育勅語の暗唱ばかりだった。学校の敷地は広く、グラウンドの端には、行軍してきた兵隊が野営する場所があった。昼休みだけ、兵隊となわとびをしたり、鬼ごっこをしたり、童謡を一緒に歌ったりして遊んだ。ある日、1年生だった弘子さんを膝に抱いた兵隊が、歌いながら涙を流していた。兵隊さんは強いと思い込んで大きくなったので不思議だった。当時はなぜ泣いているのか分からなかったが、家族を置いて子供を残して出征したのではないかと思う。

奉天駅に集まり列車に乗った

1945年8月の早朝、日にちは覚えてないが、日本人の部隊関係者の家族は全員、奉天駅に集合するよう言われた。家を出る時、近所の友達にあいさつすらさせてもらえなかった。駅で父親と別れ、母親と弘子さんと妹、満州で生まれた4歳の弟の4人で臨時列車に乗った。列車は女性と子供ばかりで、各車両の前後に2人の兵隊が付いた。

どれくらい走ったか覚えてないが、列車が突然止まり、そのまま2時間ぐらい車内で待った。子供心にものすごく長く感じた。「日本が負けた」と言っているのを聞いた。そこは、朝鮮半島北部の平壌(ピョンヤン)だった。

夕方まで待ったが列車が動かないので、兵隊に誘導されて全員、列車から降り、駅の近くの学校の体育館に入った。日本人が通っていた学校だと言われたが、だれ一人いなかった。列車が何両編成で、何人乗っていたかわからないが、夏だったので体育館は蒸し暑く、足の踏み場もないくらいだった。夜には、白米のおにぎりとおつゆが出た。

体育館で過ごして3日目。全員、外に出なさいと言われ、起立して玉音放送を聞いた。座り込むお母さんや泣くお母さんもあった。昭和天皇の声が雑音と混じって聞こえ、弘子さんには何も分からなかった。

8月9日、満州国や朝鮮半島にソ連軍(当時)が侵攻し、駐留していた関東軍は敗走した。「奉天をいつ出たかは覚えてないが、体育館で3日過ごしたので、学校に着いたのは8月12日かと思う。後で考えれば、日本の敗戦が近いことをすでに分かっていて、女性と子供だけを先に日本に帰す列車に乗せたと思う」と振り返る。

シラミやチフスがまん延

学校の体育館は暑く、水道はあったが、風呂はなく、手を洗うことも十分にできなかった。1週間か10日ぐらいでシラミや発疹チフスがまん延し、大勢が高熱にうなされた。薬は無く、水で冷やすだけ。弘子さんも1週間ぐらい高熱にうなされ、うわごとを言い続けた。

大勢の女性と子供が亡くなり、死体をむしろに巻いて、職員用玄関の先のコンクリートの上に積んでいった。だんだん腐ってきて、汁が落ちるようになり、悪臭でいられなくなって、学校を出た。

髪を切り顔に炭を塗って寝た

2カ所目に行ったのは、ちょっといなかの方の日本企業の社宅だった。畳2畳にかまどと風呂場があり、8~10人ぐらいずつ分散して入った。奉天を出て初めて、手足を伸ばして眠ることができた。

何日かたった夜、ソ連兵が、朝鮮人の通訳を伴い、銃を持って入ってきた。通訳に「全員起きて立て」「並べ」と言われ、ソ連兵は銃を向けながら、見た感じがいい女性を連れて出た。薄暗い電球の下で銃が黒光りし、ソ連兵の目が緑色だったので余計に怖かった。朝になって、帰ってきた人もいたが、帰ってこなかった人もいた。

あくる日すぐ、付き添っていた兵隊に髪を切られ、鍋やかまどの炭を顔に塗って寝た。その後も5~6回、ソ連兵に入られ、いられなくなって、社宅を出た。

朝市が終わるのを待ってコメ粒を拾った

平壌市中の繁華街に出ると、ソ連兵は来なくなった。弘子さんの家族は飲食店の倉庫の2階に置いてもらった。8畳間に押し入れが一つあって、1畳に4~5人寝たので、50人近くの女性と子供がいたと思う。妹と弟が横になったらもう寝る隙間はなく、母親と弘子さんはほとんど座ったまま寝た。

平壌の市中には大洞江という大きな川が流れていて、奉天を出て初めて、水浴びができた。満州を出て初めてお風呂に入った気分だった。

奉天から一緒だった兵隊は、民間人の服に着替えていたが、ずっと付き添ってくれ、最初は食事なども手配してくれた。しかし食事情がだんだん悪くなり、ものを拾いに行くようになった。

市中には広い野原があって、毎朝、朝市が立ち、むしろを敷いた上にいろいろなものが並ぶ。升(ます)で量り売りをしているので、コメやコーリャンがこぼれていたり、野菜が落ちていたりした。弘子さんら子供たちは毎朝、朝市に行き、市が終わるのを待って、地面に落ちたコメ粒やコーリャン粒を拾った。お腹がすいた妹は、帰りに拾ったものを食べてしまうので、よくけんかした。市場では、朝鮮の人から「ちょっとおいで」と声を掛けられ、キムチをのせたご飯を食べさせてくれたこともあった。ありがたかった。

飲食店の倉庫には水道がなくて、朝起きて、水を汲みに行くのが日課だった。小さい子はビール瓶2本、9歳の弘子さんは3本抱えて、50メートルくらい離れた水道に水を汲みに行った。その後は、近くの豆腐屋におからが捨ててあるので、おからを取りに行って、コーリャンの粒が入った朝食のおつゆにおからを入れてもらった。おからが水分を吸ってふくらみ、腹持ちがよかった。

その後、大洞江に水浴びに行って、お昼を食べて昼寝する。夜になると飲食店の裏戸に行き、「何かあったらください」と頼んで回り、お客さんが残した残飯をもらった。「今は乞食と言う言葉は使わないけれど、そういう生活をして過ごしてきた」と弘子さんは振り返る。

1945年11月、4番目の男の子が生まれた。鹿児島出身の産婆さんがいて、母親はその人のところに行って出産したが、栄養失調ですぐに亡くなった。満州で生まれた3番目の弟も、5歳だった1946年2月、栄養失調で亡くなった。お腹がふくれて、目が落ち込んで、肌がどす黒くなっていた。

死んだ人を埋めにいくという話を聞いて、朝鮮の人に案内してもらい、遺体をトラックに乗せて、大きな深い穴に遺体を投げ捨てて埋めてもらった。葬式も出せず、手を合わて拝んだだけだった。

前の人の服を持って絶対に離すな

そんな生活が1年続いた1946年8月の早朝、奉天からずっと付き添ってくれていた兵隊から、急に「ご飯が済んだら皆で出発する」と言われ、倉庫を出た。とにかく朝早かった。いなか道を半日ぐらい歩いたころ、途中、雨水をためているところがあって、雨水を飲んで渇きをいやした。

駅ではなかったが、農村地帯の野原の真ん中にトロッコがあった。トロッコに乗って走り、着いた先が、38度線の山だった。当時38度線を境に、北側をソ連、南側を米国が占領していた。山のふもとは田畑が広がり、遠くに農家が見えた。田んぼのところどころに、刈り取った稲を置くわら小屋が建っていて、夕方まで、何人かずつに分かれて隠れた。

夕方ごろ、指揮を執っていた兵隊が隠れていた小屋にきて「今から38度線を逃げるから、前の人の服を持って絶対に離すな」「声を出したらいけない。もし聞こえたら銃殺される」「歩けなくなった人や子供がいたら置いて逃げるように」と言われた。

隠れている小屋から赤土の山が見えて、登っていく道が見えた。赤土を掘ってあるから道はところどころ崩れていた。弘子さんは、その横の田んぼのあぜ道を抜けて山に入った。けもの道を登り、とにかく前の人の服を離さないようにした。途中、泣いてしゃがんでいる子がいても目を背けて横を向くだけ。一言も声を掛けず通り過ぎた。

戦争はただ悲惨さだけが残る

暗いうちに山を下り、明け方までに38度線を越えた。やれやれと思ったが、着いた途端、置いてきた子供を探しにさっと引き返した母親もいた。近くの寺で1週間ほど泊めてもらった後、仁川(インチョン)に行った。仁川には大勢の日本人がいて、大きな貨物船に乗って帰国した。船底だったで、エンジンの音がうるさくて油臭くて船酔いしたのを覚えている。

博多港に着いて、貨物列車に乗り、父の実家がある舞鶴に戻った。貨物列車は屋根があって外が見られなかった。舞鶴の駅に着くと夜で、40分ぐらい歩いて、父の実家に戻った。

奉天駅で別れた父親は、2年遅れて帰国した。戦時中、仲良くしていた中国人の何軒かの家にかくまってもらい、逃げ回って生き延びたと聞いた。

帰国後、祖父が亡くなり、父親は実家の農業を継いだ。母親は舞鶴の中学校教員になり、定年まで務めた。

弘子さんは京都の学校を出た後、幼稚園の先生になり、23歳で教員の夫と結婚した。子育ての後、12年間、保育所に勤めた。夫が86歳で亡くなり、舞鶴で一人で暮らしていたが、88歳のとき息子夫婦が住むつくば市に転居してきた。

「戦争は何も残らない。ただ悲惨さだけが残る」と語り、「今の状況を見ると、ものすごく不安に感じる。戦争だけは反対し、平和の道をたどってほしい」と話す。(鈴木宏子)

終わり

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