月曜日, 10月 19, 2026
ホームつくば大和ハウスが開発 つくば駅近くの公務員宿舎跡地

大和ハウスが開発 つくば駅近くの公務員宿舎跡地

TXつくば駅から西へ徒歩3分の「つくば市吾妻地区」開発を大和ハウス工業(本社大阪市)が担当することになった。「70街区」とも呼ばれる同地区は約5.7ヘクタールの広さがあり、国家公務員宿舎が建っていた。つくば駅近くにある一等地の開発主体が決まったことで、数年先、同地域の風景は大きく変わることになる。

70街区の面積は国有地5.4ヘクタールと市有地0.3ヘクタール。財務省関東財務局とつくば市は数年前から民間への売却手続きを進めていたが、5月末、関東財務局が大和ハウスに売却することになったと発表した。開発提案を審査して購入先を絞り、最高値を提示した企業に売却する「二段階一般競争入札」方式を採用したものの、跡地取得に応募したのは大和ハウスだけだったという。

70街区の位置(つくば市提供)

施設完成は2033年半ば

大和ハウスの提案概要によると、公務員宿舎跡地には①スーパーシティ実装センター(1.1ヘクタール)②分譲マンション(2.1ヘクタール)③戸建住宅(0.6ヘクタール)④賃貸マンション(1.5ヘクタール)―などが建ち並ぶ。実装センターはつくば市の都市構想を取り入れた2階建ての施設で、「(物販店など)生活利便施設、研究機関、スタートアップ企業、ベンチャー企業、その他業務施設などを誘導する」という。

居住区は、15階建て分譲マンション(570戸)、3階建て賃貸マンション12棟(200戸)、戸建て住宅(27戸)から成り、約800戸の住宅が供給される。提案概要には「マンション敷地内に新しく広場と交流拠点を設け、住民や市民の憩いの場だけでなく、街区単位で表現できる社会実装の場とする」と記載されている。

関東財務局は落札価格について「6月19日までに正式な売買契約を結ぶ。それまでは公表できない」とし、現時点では明らかにしていない。大和ハウスによると、公務員宿舎取り壊しや開発用地整備などに時間がかかり、全施設が完成するのは7年先の2033年半ばになる。総事業費については、今後建築資材や人件費の上昇が予想されることから、概数を開示することも避けている。

70街区の現状(つくば市提供)

存在感増す大和ハウス

大和ハウスは2025年4月、「研究学園駅南の大規模開発」(4月2日付)を開始、TX駅から徒歩9分の大区画(15.5ヘクタール)に、高層マンション、商業施設、研究機関、教育施設などを整備する事業に着手した。また、2025年3月には「つくば駅前の複合施設が完成」(3月27日付)、オフィスと各種店舗が入る商業棟をオープンさせた。これらに加え、つくば駅近くの「70街区」開発も担当することになり、つくば市内における同社の存在感が増している。(坂本栄)

➡吾妻70街区の過去記事はこちら
▽吾妻70街区にイノベーション拠点など誘導(21年10月26日付)
▽7事業者が提案、イノベーション拠点誘導に厳しい意見も(22年3月22日付)
▽吾妻70街区に近未来都市?スーパーシティって何(22年8月4日付)
▽都市計画変更手続き始まる(22年10月11日付)
▽スーパーシティ実証街区へ 開発事業者を公募(25年7月22日)

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