【コラム・小泉裕司】今回は戦後の競技大会を牽引した功労者を取り上げたい。最初は、このコラムで何度も紹介した北島義一だが、その経歴は以下のようになる。
土浦創業の北島煙火
▽1936年 霞ケ浦湖畔の岡本埋立地で「北島煙火店」として創業
▽1945年 社名を「土浦火工株式会社」に変更
▽1946年 全国に先駆け、中断されていた土浦の花火を復活
▽戦後の競技大会化で強力なリーダシップを発揮
▽1955~73年 北海道から中部地方まで広く事業を展開
▽高度成長期の旺盛な需要に応え、各地の花火大会を受注
▽両国(現・隅田川)の花火大会で開催された日本一決定戦で優勝
▽輝かしい実績により「土浦の花火」の名声を全国的なものに
下妻の野手煙火
土浦全国花火競技大会が産声を上げたころ、土浦の花火文化を支えていた煙火業者がいたことをご存じだろうか? 1932年発行の『土浦商工會史』の業種別人名録「煙火の部」に唯一登録されているのは、田宿町(現大手町)の野手勝一氏。のちに野手煙火土浦支店を担う人物だ。
野手家は、下妻で明治中期から花火作りを学び、代々煙火業に携わってきた家系である。1933年に下妻町(現下妻市)に野手煙火工場を設立。1962年に社名を野手火工株式会社(社長・野手保)へと改めた。
歴史は古く、1926年に桜川畔で開催された第2回全国煙火共進會の打揚番組(写真)を見ると、「尺玉の部」に初代・野手喜一郎氏と二代目・勇治氏、「八寸玉の部」には勝一氏の名が刻まれている。

その後も、第54回、第55回大会で最高賞の通商産業大臣賞を連続受賞するなど、野手家はめざましい功績を残した。しかし、経営上の課題や後継者問題といった時代の荒波もあり、2013年、惜しまれつつも、その長い歴史に幕を下ろした。
土浦市は、1961年の第30回記念大会で、大会の発展に寄与した花火師として、北島氏らとともに勝一氏を表彰している。野手家は土浦の花火の草創期を支えた功労者であり、その歴史を語るうえで欠かすことのできないキーパーソンなのである。
北島の師匠、青木義作
大正末から第2次大戦にかけて、土浦や笠間をはじめ、全国各地で花火大会が大きな盛り上がりを見せた。このころは、のちに北島氏が師事する「花火の神様」青木儀作氏ら、花火史に名を残す名工たちが次々登場した時代でもあった。
しかし、1937年に日中戦争が勃発すると状況は一変する。火薬製造の取り締まりが厳しくなり、笠間、大曲、両国の大会など、大きな大会が次々と中止に追い込まれた。
こうした中、土浦市発行の「花火と土浦」の年表によれば、詳細は不明ながら、戦前の土浦では1940年まで開催されたと記録されている。これについて、筆者も当時の新聞記事などを調べたが、裏付けとなる事実は確認できていない。
戦火が激しくなると、細々と続けてきた花火も1941年には中止に追い込まれ、花火師たちも戦場へ駆り出されるなど、日本の花火史上、もっとも長く厳しい「失われた5年間」が訪れたのである。
「みんなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりつくっていたら きっと戦争なんて起きなかったんだな」。花火を愛した放浪のちぎり絵作家・山下清画伯が残したこの名言を添え、本日はこれにて、打ち留めー。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)
<参考文献>
「土浦商工会史」(土浦商工会事務所、1932年刊)
「茨城の諸職」(茨城県教育委員会、1989年刊)
「日本の花火のあゆみ」(武藤輝彦、あずさ書店、2000年刊)
「大曲の花火 100年の魅力」(秋田魁新報社、2010年刊)
「花火と土浦」(土浦市、2018年)






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