【ノベル・伊東葎花】
家の近くに、暗やみ坂と呼ばれる坂があった。
鬱蒼(うっそう)とした樹木が空を隠し、昼でも真っ暗だ。
「暗やみ坂は、一気に駆け上がれ。途中で止まれば闇に取り込まれてしまう」
そんな言い伝えがあった。
体力があり余った小学生の僕にとっては何でもないことだ。毎日一気に駆け上がった。
暗闇などまるで怖くなかった。
ある日、転校生がやってきた。
青白い顔の痩せた女の子で、梢子という名前だった。
方向が一緒だったので、何となく一緒に帰ることになった。
いつものように暗やみ坂を通ろうとしたら、梢子が立ち止まった。
「真っ暗で怖い」
「大丈夫。短い坂だし、一気に駆け上がろう」
僕は、梢子の腕をつかんで走った。
僕にとっては易しい坂だけど、梢子は半分の辺りで立ち止まった。
「吉田君、待って。苦しい。走れない」
「だめだ。止まったらだめなんだ」
僕は梢子の手を放して、一気に駆け上がった。
しばらく経っても、梢子は上がってこない。
おーいと呼んでも返事はない。きっと怖くて下りたんだ。
少し心配だったけど、僕はそのまま家に帰った。
翌日、梢子は何でもないように登校した。
「きのう大丈夫だった?」
「全然平気よ」
梢子は笑った。昨日よりもずいぶん元気だ。そして驚いたことに、あれほど怖がっていた暗やみ坂を、止まらず一気に駆け上がった。
「吉田君、競争しよう」
梢子は活発な女の子に変わり、僕たちは毎日一緒に帰った。最高の友達になった。
その後、暗やみ坂は閉鎖された。
隣に整備された道が出来て誰も通らなくなり「通行止め」の看板が立てられた。
僕は高校生になっていた。
「あれ、吉田君?」
駅で、女子高に通う梢子に声をかけられた。久しぶりの再会だった。
「暗やみ坂を通って帰ろうよ」と梢子が言った。
「あそこは通行止めだろ」
「平気よ。看板があるだけで、何も変わってないわ。私、たまに通るのよ」
梢子は躊躇(ちゅうちょ)なく暗やみ坂に入って行き「競争だよ」と、走り出した。
僕も走った。久し振りの暗やみ坂は、不気味だった。
途中で、飛び出した木の枝に足を取られた。しまった。動けない。
「待って」
梢子は構わず駆け上がる。あの日の僕みたいに。
僕の体は、何かに引きずられてどんどん林の奥に入っていく。
声も出せない。深い闇の中に、僕の体は放り込まれた。
ふと、柔らかいものに触れた。
小さな子供の手だ。
「やっと来てくれたね。吉田君」
青白い顔の子供は、幼いころの梢子だった。
あの日僕が置き去りにした梢子だ。
「どうして? 梢子はずっと一緒にいたじゃないか」
「あれはニセモノだよ。これからは、吉田君のニセモノが代わりに学校へ行くの。だから大丈夫。何も変わらない」
闇が僕を呑み込んでいく。もう動けない。
「おーい、吉田君」
ニセモノの梢子が、僕の名を呼んでいる。
本物の僕と、本物の梢子が、闇の中でそれを聞いていた。
(作家)