水曜日, 4月 1, 2026
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性的マイノリティ学生を支援するガイドブック 筑波大の研究者らが作成

誰もが安心できる大学に

大学が、性的マイノリティ学生を支援するためのガイドブック「LGBTQ学生支援指標」を、筑波大学人間系助教の河野禎之さん(45)らによる研究グループが作成した。当事者学生や支援者、専門家から聞き取った経験談などをもとに今年3月に発表した同グループの論文を土台とし、大学内の場面に応じて必要な支援の指針となる47の指標と、課題の具体例を解説する17のコラムからなっている。

研究・作成にあたったのは筑波大助教の河野さんと、同大人間系研究員の渡邉歩さん(35)、同大人文社会系助教の土井裕人さん(48)、立命館大人間科学研究科准教授の佐藤洋輔さん(33)ら4人の研究者。今後、国内の大学が支援方針を策定する際の指針にしたい狙いがある。

河野さんと土井さんは2015年に、国内の大学として初となる性的マイノリティ学生支援の基本理念と対応ガイドラインを筑波大学で作成した経験がある。その後、大学関係者有志のネットワーク「大学ダイバーシティ・アライアンス」をつくり、性的マイノリティ支援の情報を共有するなど取り組みを進めてきた。河野さんは「すべての学生、教職員、大学関係者がそれぞれに尊重され、安心して過ごすことができる大学キャンパスの実現につながることを心から願っている」と思いを語る。

ガイドブックは、A5判、40ページ。大学の「組織」「場」「学生」の三つに分けて構成され、「組織」は大学での学生支援に関する方針や体制に関する7つの指標、「場」は大学の施設や設備、意識啓発、居場所に関するハード、ソフトの環境面に関する12の指標、「学生」は入学してから卒業後までの生活、授業、行事、就活支援など学生のあらゆる場面に関する28の指標が記載されている。

指標は質問形式で、「差別を禁止しているか?」「性的マイノリティの相談担当者は専門的な研修・訓練を受けているか?」など大学が組織として定めるべき事柄や、トイレや寮、更衣室などの学内施設の課題、本人の同意なしに性的指向や性自認を周囲に暴露する「アウティング」やハラスメントに関する防止策などがある。各指標のチェック欄も設けられ、大学は、各項目に付された補足と望まれる取り組み事例をもとに、学内の現状をチェックし改善に繋げられる仕組みになっている。

例えばトイレの利用に関しては、「学生がトイレ利用で困難が生じる際、本人から申し出があれば大学と本人が協議し出来る限り柔軟な対応を行っているか」「多目的トイレなど性別に関係なく利用できるトイレの設置場所を一覧や地図として公開しているか」など2つの指標を設け、発展型として「本人がどのトイレを利用したら居心地が良いか、悪いかを大学が一緒に検討する」「施設を新設または大規模改修する場合、性別に関係なく利用できる多目的トイレなどを設置する方針をもつ」などを提案している。

(左から)筑波大学人間系助教の河野禎之さん、同人間系研究員の渡邉歩さん、同人文社会系助教の土井裕人さん、立命館大人間科学研究科准教授の佐藤洋輔さん(提供は各研究者)

当事者の声を重視する

「支援はしたい。でも、実際に何から始めればいいのかわからない」―

性的マイノリティへの関心が高まり、全国の大学で当事者学生への支援が広がる中で、このような声が上がっているという。河野さんは「(当事者の学生を支援する上で)具体的に必要なこと、大切になる基準となる考え方が大学間で共有されていない現状がある。共有できる指標が必要と考えた」と、制作のきっかけを話す。

一連の研究活動の中で河野さんらが重視してきたのが、「当事者の声や意見を反映すること」だという。学内で当事者学生との交流を重ねる土井さんは、「学生の意識の変化は大きい。(支援する大学側の)認識がずれると、取り組み自体が当事者のニーズに合わなくなる」と話す。学生の変化について土井さんは、「学生が(自身の性を)自己規定する際に、ノンバイナリー(自認する性が男女に当てはまらない)という言い方をするようになっている。支援にあたる人の中には『LGBTの4種類でいい』と認識する人もいるが、それでは困る。当事者像は常に変わりうる。きちんと変化を見極めなければ支援が的外れになりかねない。ガイドブックは、いかに学生に寄り添えるかを重視し、大切にした」と話す。

差別や偏見に対し科学的情報示す

また、ガイドブックに込めた思いとして河野さんは「性的マイノリティに対するバッシングがあり、そこで言われる偏見や誤解に対して科学的な情報を提供したかった」と話す。その具体的な対応を、さまざまな事例をもとにコラムとしてまとめたのが、性的マイノリティの学生支援に取り組んできた渡邉さんだ。

近年、誤った認識のもとで差別的に取り上げられるトイレや入浴施設の利用やカミングアウト、性自認などのテーマに対する意見と対策を、実例を踏まえて取り上げながら、「当事者抜きで語る」ことの問題性や、課題は学生個人の問題ではなく、環境を作る大学側に根本があると指摘する。「インタビュー調査を通じて、他者に恋愛感情を抱かなかったり、性的なアイデンティティを持たなかったりするなど、多様な当事者の声を聞いた。そうした学生の意見を踏まえたからこその表現をしている。多数派と少数派の間で権力勾配がある中で、権力を持つ側が人を単純化して理解することはしたくなかった」とし、「バッシングも含めて、質問に対して、担当する職員ができるだけ理論的に返答するための根拠資料として使えるようにも書いた」と話す。

学生にも読んでもらいたい

土井さんはガイドブックの作成は、「『大学がきちんと課題に取り組んでいる』と、学生に伝える」意味もあると話す。「学生が感じる息苦しさは周囲の学生との関係だけでなく、社会状況にも依存する。(少数者を排除する)トランプ大統領の政策に辛さを感じる学生もいる。学生には『我々は、活動を後戻りさせないように計算して取り組んでいる』と伝えている。ガイドブックは学生の安心感につながる大事な機能、役割がある。今後、大学としてマイノリティ性が問題にならない環境をどう作っていけるのかが重要」だと指摘する。

心理学の面から課題に取り組む佐藤さんは、「偏った理解が浸透することで、学生が傷つく可能性がある。LGBTQ学生支援で忘れてはならないのは、当事者の学生が安心し、自分らしい学生生活を送れる環境を整えること。そのためには学生との対話を重ね、大学が実情にあった支援を実施することが必要になる。大学には何かしたいと思う学生、教職員がたくさんいる。思いを持つ人たちがつながり利用できる媒体として、このガイドブックを役立ててもらいたい」と語る。(柴田大輔)

◆「LGBTQ学生支援指標ー大学における性的マイノリティ学生の支援に向けた環境整備に関する 47の指標活用ガイドブック」は筑波大学人間系ウェブサイト内の専用ページで無料で公開されている。

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年代や職業を問わず、多くの方々の参加をお待ちしています。▽日時 4月26日(日) ▽内容・第1部「ロジカフェ」 午前9時30分開場・受付/午前10時~午後0時10分 ロジカフェ/午後0時20分解散・第2部「エモカフェ」 午後1時開場・受付/午後1時20分~午後4時 エモカフェ/午後4時10分解散▽場所 がばんクリエイティブルーム2階 土浦市中央1丁目13-52▽参加申込方法 参加申込フォームよりお申し込みください▽申込締切 4月20日(月)▽問い合わせ先 電話 029-822-0137(平日午前10時~午後3時30分、土浦一高哲学部顧問 飯島)▽詳細は告知ページへ。

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県立土浦一高・附属中学校のプラニク・ヨゲンドラ(通称よぎ)校長(48)が31日退任する。インド出身の同氏は、県立高校長公募で採用され、副校長1年と校長3年を勤めた。任期は4年。インタビューに応じた同氏は「土浦とのご縁ができたので、今後できればこの地に貢献したい」と述べた。 よぎ氏はインドの大都市ムンバイ郊外で生まれ、地元の大学で数学、大学院で経済学を学び、18歳でIT企業に就職した。2001年に日本へ派遣され、12年に帰化した。みずほ銀行国際事務部や楽天銀行企画本部での勤務を経て、インド料理店の実家がある江戸川区の区議も務めた。 2022年、「学生の国際性を伸ばし、学校改革にも臨める人材」を求めていた大井川知事の面接を受け、日本初の外国出身県立学校長として採用され、県内きっての進学校、土浦一高に着任した。 東大20人・医学部20人合格へ 県から与えられたミッション=有力大学合格者増=については、学年主任らとともに2年先に東大20人・医学部20人(現役)合格の目標を立てた。過去2年間は東大・医学部への現役合格者を増やした。今年は目標まで届かなかったが「土浦一高には、数年先に東大40人・医学部40人合格とともに、海外を含め多様な進路を実現する力がある」と述べた。 進学指導以外で注力したことは「同じ公募採用の太田垣 竜ケ崎一高校長と、生徒・教員情報を管理する校務DXシステムを考案し、これが県の予算で来年完成する」「一部教員から反対意見もあった修学旅行を復活させ、高2生を台湾に送り出した」「企業の協力を得て『探求学習』を重視、授業では育たない自己肯定感や事業分析力を育てた」「一高伝統の『文武両道』を踏まえ、体育系や文系のクラブ活動を活性化した」などを挙げた。 常に生徒の身近に インタビューでは、生徒育成のための6カ年進路支援計画がまだ作成中であることが頭にあったのか、あと2年だけでも校長職にとどまれば、校長としての成果を見届けられたとの思いが伝わってきた。 また「私の(県立高改革に対する)考え方は、一部の教員や教員OBの目線とは違っていた。それでも常に生徒の身近にいて、生徒の声を聞きながら、生徒ファーストの意識でさまざまな企画を前に進めた」と述べ、「納入業者と交渉し、校内自動販売機の全商品について30円値引きも実現した」とほほ笑んだ。 「いずれ政治の仕事に」 退任後についてよぎ氏は「6月に東京で日本企業とインド企業の『マッチング・イベント』を開く計画を進めている。当面は、インドに進出したい日本企業、日本に進出したいインド企業をつなぐ仕事をしたい。いずれもハードルが高いがそのお手伝いができたらと思う」と述べた。 さらに「いずれ政治の仕事に戻りたい。予算と権限がない議員ではなく、両方を持っているプレジデント(首長)を目指す。教育でも行政でも、改革には予算と権限が必要だからだ」と、地域振興への思いをにじませた。(坂本栄)

好きな「もの」や嫌いな「もの」とは何なのか《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》8

【コラム・1年 秋山節】好きなものと嫌いなものは誰にでもある。私にももちろんある。極端なぐらいに。私が嫌っているものが、誰かの好きなものでもある。好き嫌いとは他者を傷つけるものではないのだろうか。そんな懸念が浮かんだ。 嫌いなものがあるのはなぜか? そして乗り越えることはできるのか? これらの疑問に、このコラムの分析を通じて解答することを試みたい。ただし、分析では「もの」(物や者を指す)に対する好き、嫌いのみを対象としている。人に向ける好き嫌いと「もの」に向ける好き嫌いは性質が異なるため、家族や友人などの対人関係の好き嫌いは扱わない。 1 私の好きな「もの」と嫌いな「もの」好きなものと嫌いなものの分析をするために、私自身の例を出すことを許していただきたい。心理的な行動を観察しやすいからだ。 1.1 好きなものについて実際にどんな「もの」を私は好きだと認識しているのだろうか。一部に過ぎないが、列挙してみよう。 ・吉松隆氏(作曲家) ・現代音楽(音楽のジャンル) ・ウィッチウォッチ(漫画/アニメ) 音楽に偏っていて申し訳ないばかりだが、どうして私は好きになったのだろうか。その過程でどんなことを思ったのかを述べてみる。 まず吉松隆氏について。私は作曲を行っていて、彼は作曲を独学で学んだということが、今の私と共通している(といいが)。私は共感し、目標としているのだ。なお吉松氏は確かに人であるが、家族や友人などの対人関係とは異なるので、ここでは「もの=者」に対する好き嫌いとして扱うことができる。 続いて現代音楽について。現代音楽は大ざっぱに言うと、現代版クラシック音楽といったところだ。人によって現代音楽の定義やそもそも定義するのかということで、見解が分かれるところだが、むしろ私にとっては現代音楽の語は重要だ。理由はいくつかあるが、一つはコンサートに行く度に、録音を聞くたびに発見があり面白いということ。時間をかけて音楽のいろいろな部分を聞き込んでいけるのが魅力だ。また、型破りや常識破りが常識になっているので、作曲家がどんなことを考えて書いているのかやどういった構造になっているのかなど、考えるべきことがたくさんある。一歩足を踏み入れるとなかなか抜け出せないもので、是非ともその一歩を読者の皆様にも踏み入れていただきたいと思っている。最後の一つは、全くこれまでとは異なったもので、ある人とは違う音楽を聞きたかったということだ。ただ、誤解のないように申し上げると、音楽に優劣をつける気はないし、このネガティブな面は全て私の私見で、その上もはや克服されているということだ。つまり、出会い、内容、自分の置かれた環境が総合的に作用した結果、現代音楽が好きなものとして認識されるに至ったのだ。 そして、ウィッチウォッチについて。これは、週刊少年ジャンプで連載されている漫画で、アニメ化もされている作品である。私は偶然スマートフォンでこのアニメを見つけた。高校入学当初の不安定な心理において、この作品の笑いあり涙ありの内容が支えになった。特に、このアニメを見ている人が他にもいると知ったとき、非常にうれしかったことを覚えている。人との交流を実感できたのだ。特殊な条件下で救いとなった作品である。 1.2 嫌いなものについて好きなものと違い、嫌いな「もの」といって浮かぶものは案外少ない。 ・「ある音楽」 ・蟹(かに) 「ある音楽」は嫌いなものとして認識されているが、実際に聞いてみると、むしろ好きなものに近いように思われることもある。このように矛盾した状況において、かつて嫌いな理由をこじつけたことがあったが、納得することはできなかった。実は、好きなものについてで述べたように、ある人が聞いていたから好きではなかったのだ。こう考えたとき、非常に腑に落ちる感覚があった。即ち、私が嫌いだったものは「ある音楽」そのものではなく、その人が聞いている音楽だったということだ。 蟹はかつては北海道から送ってもらうほど好きだったが、今では匂いや味を思い出すとどうしても食べる気が起こらない。 今挙げた二つの例では、接近を忌避したいという感情がいずれも生まれている。 1.3 好きなものと嫌いなものに共通する背景こうして見たいくつかの例を、私が感じた感情を基に分類してみると、次のようになる。 A 好き  a 強い 現代音楽、ウィッチウォッチ  b 弱い 吉松隆 B 嫌い  a 強い  「ある音楽」  b 弱い 蟹 何がこの違いを生んでいるのだろうか? その原因について次の章で考察を進めていこう 2 人間関係と好き嫌いの関係について 2.1 好きでも嫌いでもない「もの」私はアマゾンの密林の名前も知らない果物が好きだろうか? そんなことはない。知らないものを好きになることも嫌いになることもできない。つまり、知らない状態から知っている状態への遷移が、好きと嫌いの境界を調べるうえで必要なことになる。 好きなものと嫌いなものが生まれるまでの段階は次に掲げる図のようなものだと考えられる。 何らかのきっかけで知らない「もの」が知っている「もの」に変化する。契機は私の例を見て分かるように、どんなものであってもよい。そして、その「もの」に対する接触時間によって好き・嫌いが明確に定まるか、好き嫌いがほとんどない(好き嫌いが明確に定まらない)かに分離する。もちろん知らないものは知らないままで、好き嫌いは存在しない。 ただここで注意しなければならないのは、接触時間によって好き嫌いが明確に定まるかが決まるということである。心理学では単純接触効果と呼ばれ、日本心理学会によると「ある刺激に触れれば触れるほど,それを好きになっていく現象」(*脚注)である。接触時間が長ければ、ある物事の情報が常に入ってくるので、好きか嫌いかが明確に定まるという意味での関心が持続し、短ければ反対の結果をもたらす。つまり、接触時間が変化するとそれに伴って好き嫌いが明確に定まるかどうかも変化するということである。接触時間によって関心が変化した私の例をあげてみよう。私はかつてハリーポッターシリーズを何度も読み返していたが、今や設定もあまり覚えていないほどである。 ここで問題になるのは、どうして一瞬の邂逅(かいこう)から、長い接触時間が得られるのかということだ。私はその原因を人間関係に求められると考えている。まずは人間関係の考察から始め、続いて好きと嫌いとその程度を人間関係と関連づけて考えることにする。 2.2 人間関係の強度と種類人間関係は様々だが、どれだけ相手との強いつながりがあるかという観点では異なっている。相手とのつながりの度合い、言い換えると人間関係の強度は、相手と会っている時間によって数値的に考えると良い。強度が最も高いのは、家族や友人だ。反対に、通学バスで会う人々は、その時間が極めて短く、強度は低い。 一方で人間関係は、どのようなことを感じるかによって、異なる二つに類型化しうる。 1. ポジティブ 2. ネガティブ x. 流動的 この定義は大枠を示したに過ぎず、なぜポジティブやネガティブだと感じるのかは人によって異なる。私の場合は、相手との関係が対等だと認識したときにポジティブな関係と感じ、相手との関係が対等ではない、つまりは上下関係を感じたときにはネガティブな関係と感じる。また、二つの型の他に流動的という例外を設けた。それは、初めて会ったばかりの相手の場合は、人間関係が構築されるのに時間を要するため、その間は人間関係の分類は定まらないからである。 2.3 人間関係と好き嫌いの関係私は好きと嫌いが生まれる要因は、「もの」の背後にある人間関係がその人物にとってどのようなものなのかに依存すると考えている。 まずは人間関係の強度と好き嫌いの度合いについて見てみよう。図1で示したように、接触時間が短いと、好き嫌いはほとんどなくなる。そのため、好き嫌いそのものに踏み込む前に、接触時間と人間関係の関係を明確にする必要がある。 人間関係の強度が高ければ高いほど、つまり、よく会う相手との人間関係ほど、「もの」について、継続的に情報をもたらしやすくなる。長い接触時間が得られ、ある「もの」に「関心」があるままでいることができるのは人間関係の強度が高いからである。このことから、人間関係の強度と好き嫌いの度合いには、いわば比例関係があることになる。人間関係の強度を横軸に、好き嫌いの度合いを縦軸に取って、グラフで整理することができる。 そして、このグラフは人間関係の強度と好き嫌いの度合いだけを示し、好きか嫌いかは示していないので、好きな「もの」と嫌いな「もの」は人間関係そのものやその捉え方によって、同じ度合いのまま入れ替わる可能性を示唆している。 続いて、人間関係の分類と好き嫌いはどのように関わっているのかを考察しよう。人間関係のそれぞれの分類について、好き嫌いと組み合わせて考えてみる。 まず、ポジティブな人間関係について。大原則は、相手の考えを受け入れるということである。相手の考えを受け入れるということは、相手の好きな「もの」を好きだと捉えるようになるということである。また、これは相手にも言えることで、人間関係という相互関係の中で好きな「もの」が構築されていくと考えられる。 一方、ネガティヴな人間関係では、相手の考えを否定しようとする。そのため、相手の好きな「もの」を嫌いになる。 流動的な人間関係では、上の二つのことの両方が生じるだろう。 以上の二つが組み合わさることで、曖昧に見えた好きと嫌いの境界線がいわば画定されるということである。先に述べた好きと嫌いの具体例を再掲する。 A 好き  a 強い 現代音楽、ウィッチウォッチ  b 弱い 吉松隆 B 嫌い  a...