【コラム・田口哲郎】
前略
日に日に腸の調子が良くなってくると、だんだん気持ちに余裕ができた。自分がいる病床の周りのことに関心が向くようになる。同室ではないが、廊下を挟んで向かいの個室には長期にわたって入院している患者が入っている。長患いということは病気が軽くないのだが、意識がはっきりしていて、歩き回れる人もいるようだ。
私のベッドは出入り口に近いので、他の病室の様子がよく聞こえる。向かいの個室の患者は高齢男性である。声が大きいので、元気そうなのだが、どうやら腹部の腫瘍をとる手術を行い、そのまま療養しているようだ。その患者は夜になると何度かナースコールを鳴らす。
看護師が駆けつけて、どうしたのか聞くと、「娘がそこにいるだろう?」と必ず言う。看護師が娘さんは今はいないと答えると、そうか帰ったのか、と納得する。同じやり取りが毎夜、繰り返されていた。
昼間、私が談話スペースにある自動販売機に水を買いに行くとき、ナース・ステイションのカウンターで、男性が「娘が来るはずなんだが」と看護師に聞いていた。看護師は娘さんが来る予定は今日ないよ、と丁寧に応対していた。私は声だけで知っていた男性の姿を初めて見た。やさしそうで、気さくな感じである。私の入院中、その男性がステイションで同じようなやりとりをしているのに何度か遭遇した。
家族的な人の存在
その男性患者がどんな病気なのか詳しく知る由もないし、家族関係がどうなのかもわからない。でも、男性が娘さんを待っているのは事実である。至れり尽くせりの医療を受けて、体は回復しているが、元気になってくると、心もはっきりとしてきて、体と同じように癒しを求めるのかもしれない。
ふと、人間にとって必要なものは何なのかを考えた。真っ先に浮かぶのは、衣食住であろう。それが満たされて、もし病気になっても、健康が回復し、必要になってくるのは家族あるいは家族的な人の存在なのかもしれない。
私は男性がさびしそうだとか、哀れだとかは思わなかったが、それでも早く娘さんに会えれば良いと思った。結局、私が入院している間、娘さんは現れなかったのである。ごきげんよう。
草々
(散歩好きの文明批評家)