【ノベル・伊東葎花】
バツイチ同士の再婚で、彼も私も子供がいない。障害は何もない。
彼はちょっと頼りないけど優しい人だ。
一緒に暮らし始めて、あとは籍を入れるだけだった。
ところがここで問題が起きた。
彼の離婚届が、出されていなかった。つまり彼はまだ、離婚をしていない。
彼は別れた妻に電話をした。
「え? 出し忘れた? もう5年も経つんだぞ。忘れたって、何だよ」
不機嫌そうに電話を切った彼は、いらつきながら言った。
「だらしない奴なんだ。私が出すって言いながら忘れたんだって。しかもどこかへ失くしたらしい。本当にダメな奴なんだ。だから別れたんだ」
「それで、どうするの?」
「明日、うちに来るって。離婚届をその場で書いてもらうよ。会うのが嫌だったら、君は出かけてもいいよ」
彼はそう言ったけれど、私が留守の間に来られて、あちこち見られるのは嫌だ。
私は、2人の離婚届の署名に立ち会うことにした。
翌日、午後6時に来るはずの元妻は、30分を過ぎても来ない。
「ルーズなんだよ。だから別れたんだ。仕事が忙しいとか言って朝飯も作らないし、掃除もいい加減だし」
彼の元妻に対する悪口は、どんどんエスカレートする。
いつだって仕事優先で、妻としての役割を果たさなかったとか、車の運転が荒いとか、自分よりも高収入なのを鼻にかけていたとか。
聞けば聞くほど、彼が小さい男に見えてくる。
元妻は、6時40分を過ぎたころにやっと来た。
「ごめんなさい。遅れちゃって」
彼が言うほどだらしない印象はない。上品なスーツを着て、薄化粧だけど美人だった。
「忙しい時間にごめんなさいね。離婚届を書いたらすぐに帰りますから」
感じのいい人だった。
彼女の後ろから、小さな男の子が顔を出した。彼女は子供の頭をなでながら言った。
「この子を保育園に迎えに行って、遅くなってしまったの」
彼が驚いて聞いた。
「君の子供? 結婚したのか?」
「結婚するわけないでしょう。離婚してないんだから。さあ、ごあいさつして」
母親に促され、子供がかわいい声であいさつをした。
「はるきです。5歳です」
「5歳?」
彼が青ざめた。確かめるまでもなく、はるき君は彼にそっくりだ。
「別れた後で妊娠がわかったの。でもね、捨てないでくれってすがりつくあなたを追い出しておいて、妊娠したから帰ってきてなんて言えないじゃないの」
すがりついた? 彼が?
「出産準備や仕事の調整で忙しくて、離婚届出し忘れちゃったの」
彼女はそう言うと、素早く離婚届に名前を書いて印を押して帰った。
「じゃあ、あとはヨロシク」
離婚届を見つめながら、彼は明らかに動揺している。
「彼女、わざと離婚届を出さなかったんじゃない? あなたが帰ってくると思って」
「そうかな…」
「追いかけたら。あなた父親でしょう」
慌てて出て行く彼を見送って、私は離婚届を丸めて捨てた。
彼が元妻、いえ、妻の悪口を言い始めたときから、わずかな嫌悪感を拭いきれない。
それは放っておいた珈琲のシミみたいに、消えることはないだろう。
抽斗(ひきだし)にしまった婚姻届を出す日は、もう永遠に来ない。
ため息をつきながら捨てた。ゴミ箱の中で、離婚届と婚姻届がぶつかり合って弾けた。(作家)