【ノベル・伊東葎花】
朝から雨が降っていたので仕事を休んだ。
怠け者だと思わないでほしい。雨の日は、出かけたくない。
なぜなら、見えてしまうから。
歩道橋の下や踏切の前、橋のたもと、交差点の真ん中。
成仏できない霊たちが、私を見つけて傘の中に入ってくる。
「ねえ、お願い、助けて」
私は霊媒師ではないし、どうすることもできない。
ただひたすら、気づかないふりで歩くしかない。
それはとても辛く、苦しい時間だ。
身体中が重くなり、この上なく憂鬱(ゆううつ)になる。
出かけないと決めた日に限って、母から連絡が入る。
「咲ちゃん、具合が悪いの。すぐに帰ってきて」
母はいつも私を頼る。家を出てひとり暮らしを始めても、母は私を束縛する。
仕方がないので、ため息まじりに家を出る。
霊が見えると傘を閉じて耳をふさいだ。
おかげで家に着いたときにはびしょ濡れで、まるで私の方が幽霊みたいだった。
「ああ、帰ってきてくれたのね。さっきから頭が痛くて」
母は、ソファーに力なく座っていた。
どうせ私を呼び戻す口実と知りながら、「大丈夫?」と声をかける。
母は私にすがり、決まって繰り返す。
「咲ちゃん、帰ってきてよ。私はこの家を出られないんだから」
「無理だよ」
「じゃあせめて、今日泊まって行って。寂しくて耐えられない」
「いやよ。再婚相手がいるのに泊まれないわ」
「あんな人、気にしなくていいのよ」
「気にするわ。私はあの人が来たから家を出たのよ」
母はだるそうに頭を抱えた。雨がますます強くなってきた。
窓の外に何人もの霊が、ずぶぬれで私を見ている。
玄関を開ける音がした。再婚相手が帰ってきたようだ。
「お母さん、私帰るね。あの人が帰ってきたみたいだから」
「行かないで。あの人とふたりにしないで」
母は私にすがった。
再婚相手が、きしむような鈍い音を立ててリビングに入ってきた。
青い顔で、乱れた髪をかきあげて私をにらんだ。
「咲さん、来てたの? まあ、元々ここはあなたの家だから自由だけど、来るなら連絡くらい欲しいわね」
「ごめんなさい。ちょっと、忘れ物を取りに」
「あら、それならお母さんの位牌(いはい)も、一緒に持っていってくれないかしら。あれがあると落ち着かなくて。何だかいつも見られている気がするのよ」
父の再婚相手は、いかにも体調が悪そうにため息をついた。
無理もない。この人のまわりにはいつも、母の霊が憑(と)りついているのだから。
「雨の日は気分が悪いわ」
そう言って座り込んだあの人の後ろで、母の霊が私に訴える。
『ねえ、お願い、この人を追い出して。お願い、助けて』
ああ、これだから雨の日は…
(作家)