火曜日, 4月 21, 2026
ホームつくばつくばから全国へ 「ヴィーガン」で「クィア」の2人が贈るレシピ集(上)

つくばから全国へ 「ヴィーガン」で「クィア」の2人が贈るレシピ集(上)

悩み、孤独を感じる人へのエンパワーメントに

動物由来の食べ物を摂ったり、製品を身につけたりしない「ヴィーガン」を身近に感じてもらおうと、つくば市在住のユミさん(27)と、パートナーで韓国出身の大学院生ヨニイさん(25)によるヴィーガン料理のレシピ集「韓国フェミめし:光州とヴィーガンを巡って」(全32ページ)が3月に出版された。ヨニイさんの故郷・韓国の文化紹介とともに、ヴィーガン風にアレンジした韓国料理が9品掲載されている。

出版元は同市天久保のブックカフェ「本と喫茶サッフォー」(23年9月18日付)で、個人や小規模の団体が少部数で製作する「ZINE(ジン)」と呼ばれる小冊子だ。SNSや口コミで広がり発売1カ月で2刷を迎えた。現在までに関東を中心に全国19書店で取り扱われている。

日々の食卓をSNSで発信

2人はヴィーガンであるとともに性的マイノリティの当事者であることを公表し、「ハンガン・ヴィーガン」というユニット名で日々の様子をSNSで発信している。自身の属性への周囲の無理解から悩みを抱えてきたと言い、今回の出版を「私たちの普通の暮らしを知ってもらうことで、悩み、孤独を感じる人たちへのエンパワーメントにつなげたい」と話す。

自宅で料理をするヨニイさん(右)を手伝うユミさん

2人のSNSには日々の食卓が紹介される。調理を担うヨニイさんは「冬は鍋が多かった。タンパク質は豆腐、厚揚げ、がんもどき。だし汁をカツオから昆布にしたり、肉の代わりに豆腐にしたり工夫している」と話す。ユミさんは「ヴィーガンになって肉料理が多い韓国料理から遠ざかっていた。でも、ヨニイと出会ってまた食べられるようになった。『ヴィーガンでも韓国料理ができるんだ』って感動している」と笑顔を浮かべる。

自分の感覚はおかしくない

ユミさんは大学4年でヴィーガンになった。戸惑ったのが食事だった。「(当時)ナッツを乗せたサラダしか食べなかった。1週間後には体も心も辛くなってしまって…」。その後、ヴィーガン料理のあるレストランや本で情報を得ながらメニューを覚えるが、「当時は情報が少なかった。何を食べていいかわからなかった私のような人は、今もいるはず」と話す。今回の冊子では「家庭で作れる普通のヴィーガン料理を紹介したかった」という。だが2人にはもう1つ、冊子に込めた想いがある。「ヴィーガンであることで孤独にならなくていいんだよ」と、当事者たちを励ますことだ。ユミさんがこう話す。

「私はヴィーガンの人と出会えず、ずっと孤独を感じてました。肉を食べないと『ヤバい人』になったのではと思われることもある。でも肉を食べなくても生きていくことはできる。SNSや映画で他のヴィーガンの暮らしを知ることで、『自分の感覚はおかしくない』と思えた。だから私たちも、普通の人が普通にヴィーガンでいる様子を見てもらい、同じ考えを持つ人のエンパワーメントになるものを作りたかった」

2人はヴィーガンレシピで作った韓国料理のビビンパを、毎月第3日曜日に「本と喫茶サッフォー」で提供している

社会問題が身近に

ユミさんがヴィーガンになったきっかけは、大学時代に短期留学した台湾での経験だ。それまで食べていた好物のガチョウが、目の前を楽しそうに歩いていた。とてもきれいで可愛い。「犬や猫など可愛いペットは食べてはいけないのに、なぜガチョウは食べていいと勝手に思っていたのだろう」と疑問が湧いてきた。いろいろ勉強するうちに「動物は軽率に食べていいものではない」と感じ、ヴィーガンの食生活へと移っていったという。

ヨニイさんはある映画がヴィーガンへの考えを深めるきっかけになった。食用や衣類、実験用にされる「殺していい動物」と、ペットなどの「殺してはいけない動物」を取り上げた映画で、人間の考え一つで動物の命の価値が決まることに疑問を感じた。劣悪な管理下にある動物の実情についても知ることになった。「殺していい動物といけない動物の間に引かれる線は何なのか。勉強する中で、自分が殺せないなら食べるのはやめたい」と考えるようになった。

「動物への差別」を意識したユミさんの関心は、社会の中にある他の差別や環境問題へと広がった。「私はヴィーガンであることで社会問題に関心を持った。暮らしの中にある様々な差別に意識的になることで社会は変化すると思っている。多くの人が日常にある課題に問題意識を持つのがいいはず。今回の本は、その入り口になればという思いもあった」と語る。ヨニイさんは「差別は構造の問題。そこに対してもっと関わっていきたい」と言う。

「ビビンパは韓国語で『混ぜご飯』という意味。よく混ぜて食べるのが美味しいんですよ」とヨニイさん

おばあちゃんの味を再現

掲載するレシピは9品。その中に、韓国に暮らすヨニイさんの祖母と母の得意料理が3品ずつ並んでいる。

「ヴィーガンになると、家族と同じものが食べられなくなるんじゃないかと心配がある。そこでつまずいてしまう人もいる。でもヴィーガンになっても家族のレシピは繋いでいけるし、家族の伝統は守れるんだと言いたかった」とユミさん。

ヨニイさんは「レシピには、大好きなおばあちゃんが作る、私が好きな料理も選んだ。最近、レシピ集を見てくれた在日コリアンの方々から『私のおばあちゃんも(掲載されている)カボチャのスープを作ってくれたんですよ』と感想をいただいてうれしかった」と話す。

「社会人として残業しながら働いていると、社会問題に関心を持ち続けるのも自炊するのも難しい。外食は高いし、料理する時間を作れる人は限られる。自分ができる範囲で、気負わずにできれば。まずは一食から。その時にこのレシピが役に立てばうれしい」とユミさんは、これから一歩を踏み出そうとする読者に語り掛ける。

記者が作ってみた

「ヴィーガン料理、なんだか難しそう…」と漠然と感じていた記者が「韓国フェミめし」を参考に韓国の海苔巻き「キンパ」を作ってみた。ヴィーガン料理を作るのも、食べるのもこれが初めて。レシピに従い、さいの目に切った厚揚げと油揚げを油で揚げて、炒めたにんじん、にんにくスライス、生レタスを海苔に広げたご飯の上に並べていく。甘辛い韓国味噌「サムジャン」を適量垂らして巻きすで巻くと完成だ。

記者が作った韓国海苔巻き「キンパ」

米を炊く以外、正味30分程の調理時間。一口サイズに切り分けて口に運ぶと、よく揚がった厚揚げは鶏の唐揚げのような味と食感。サムジャンの旨味と合わさり食べ応えも十分だ。味にも感激したが、手軽さに驚いた。(柴田大輔)

続く

◆「韓国フェミめし:光州とヴィーガンを巡って」は880円(消費税込み)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

地域のゴミ拾い《デザインを考える》31

【コラム・三橋俊雄】1月に地域の「こども会議」を開催しました。「こども会議」とは、地域の子どもたちが集まり、自分たちの生活や地域について意見を出し合う場です。子ども自身が地域の一員として考え、発言し、提案していくことを目的としています。 参加者は、小学4年生から高校生までの子ども12名と大人7名の計19名でした。テーマは、前回の会議で子どもたちから提案されていた「地域のゴミ拾い」です。 交流センターに集合した子どもたちは、「こども会議」の象徴であるグリーンのビブスを身につけ、北風の吹く中、トングとゴミ袋を手に2つのコースに分かれて歩き始めました。 初めは道路を見ても、ゴミのポイ捨てはほとんどないように見えました。しかし子どもたちは草地ややぶの奥まで入り込み、ペットボトルや空き缶、プラスチック片、手袋、さらには捨てられた電化製品のファンヒーターまで拾い集めました。 わずか40分という短い時間にもかかわらず、地域にはこれほど多くのゴミが潜んでいたことが分かり、子どもたちも私たち大人も驚きと新たな発見がありました。 活動後は、集めたゴミを使って、みんなで「ゴミ・アート」を制作しました(上の写真)。 環境教育につなげる試み ゴミ拾いを体験した子どもたちからは、「思ったよりゴミが多くてびっくりした」「いっぱい拾えて気持ちよかった」「どんどんきれいになってうれしい」「飲みかけのペットボトルがあった」「草の中に小さいゴミがあって驚いた」「風に飛ばされてむずかしかった」など、さまざまな感想が寄せられました。 今回の子どもたちによる「ゴミ拾い」は、単なる清掃活動ではありません。自分の住む地域を「自分ごと」として捉えるための、大切な第一歩でした。また、ゴミを拾うという行為は、環境を守るための最も身近な市民参加のかたちでもあります。どこにどんなゴミが多いのか、なぜそこにゴミが集まるのかを観察することで、子どもたちが社会を知り、社会に目を向けるきっかけにもなりました。 さらに、拾ったゴミを使った「ゴミ・アート」は、ゴミの存在を可視化し、環境教育につなげる試みでもありました。一見価値がないと思われていたゴミが、子どもたちの手によって新しい形や意味をもつ作品へと生まれ変わっていきます。その過程は、体験から得た気づきや、ものの見方を変える力、発想を広げる力を育てる機会にもなったのではないかと思います。 こども会議によるこのような取り組みは、子どもたちが未来の地域を担う市民として育っていくための小さなきっかけにもなります。自分たちの行動が地域を変えることにつながるという体験は、子どもたちの自信となり、次の行動への原動力にもなるはずです。(ソーシャルデザイナー)

土浦港周辺「観光・レクレーション拠点」整備 《吾妻カガミ》218

【コラム・坂本栄】4月初めに土浦市が主導する霞ケ浦土浦港周辺「観光・レクレーション拠点」整備計画の詳細が明らかになり、その事業を担当する企業名も公表されると期待していました。ところが、記事「公募は仕切り直し…」(4月2日付)にあるように、事業を任せられる企業が存在しないことが分かり、この整備計画のスタートは先延ばしになりました。 総合ホテル→保養マンション→? 総面積9.4ヘクタールの整備区画の中心には、元々、土浦京成ホテルが建っていました。宿泊・宴会・結婚式ができる総合ホテルでしたが、2007年春に撤退しました。その跡地を不動産開発会社が買い取り、富裕層向けリゾート型マンションの建設を計画していました。ところが2008年秋のリーマンショックで資金難に陥り、このプロジェクトは中止されました。 そこで2010年秋、湖畔に不似合いな施設が造られるのは困ると土浦市が判断、マンション用地と京成ホテルの関連会社「ラクスマリーナ」(ヨット・ボート保管施設や遊覧船を運営する会社)を市が買い取り、「観光客が訪れる魅力ある空間」「湖岸の観光・レクレーションの拠点」にしようと、具体策を練ってきました。 いろいろ考えた末に起案したのが、市の整備計画に関心がある企業から事業計画を提案してもらい、その中からベストの案を出してきた企業を選定、提案内容が市の条件を満たせば、そこに整備を任せるという手続きでした。行政や業界では「公募型プロポーザル」と呼ばれています。 計画区画内には県が管理する港施設が2つ(A地区+B地区=4.3ヘクタール)あることから、この公募-審査-選定には県も参加、事業を任せる企業を絞り込む会合が3月中下旬に開かれました。冒頭述べたように、私はこの選定会で整備を担当する企業が選ばれ、計画の全体イメージを描いたイラストが発表されるだろうと楽しみにしていました。 公募企業の企画評価は不合格 ところが、選定結果は大々的には公表されず、「事業者を選定できなかった」と市議にメールで伝え、その2日後、「最後に残った事業者は合格点以下だった」と市のHPに載せるという控えめなものでした。担当者の無念さが伝わってきます。 公募には3社が応じたものの、2社は資格要件を満たさず、残った1社が審査対象になったそうです。しかし、その企画内容評価(210点満点)は102.31点にとどまり、審査会が設定した最低基準(126点)以下でした。100点満点で計算すると49点ですから、不可(60点未満)=不合格です。 この点数から2つのことが読み取れます。①市が「観光・レクレーションの拠点」の姿や形にこだわり審査基準が厳し過ぎたのではないか②市と県が設定した整備条件が企業側には魅力に欠けていたのではないか―といった点です。 市の担当者は、整備計画をスクラップすることはせず、今回と同じ公募型プロポーザル方式を使って再トライすると言っています。提案への評価方法を少し変えたり、今回公募に応じた事業者とは別の事業者に声を掛けることも考えており、民間の力を使って霞ヶ浦湖畔を整備する方針は変えないそうです。 整備条件をチャーミングに! そこで提案です。賃貸を条件としている市有地(B地区、4.0ヘクタール)を事業者に売却する選択肢も加えたらどうでしょう。また、指定管理者制を条件としている市営「りんりんポート」(C地区、1.1ヘクタール)も事業者が取得できるようにしたらどうでしょう。いずれも市の関与を減らし、事業者の経営自由度をアップさせる方策です。 市の担当者によると、審査に残った企業の「事業計画内容」と「にぎわいづくり」はマアマアだったものの、「事業実現性」がイマイチだったそうです。ということは、体力と頭脳がある企業を誘致する必要があります。それには整備条件がチャーミングでなければなりません。(経済ジャーナリスト)

フル女子優勝は県勢の沼田夏楠さん かすみがうらマラソン

昨年を大きく上回る2万人がエントリー 第36回かすみがうらマラソン兼国際ブラインドマラソン2025(土浦市など主催)は16日、土浦市川口の川口運動公園J:COMフィールド土浦を発着点として開催された。フルマラソン女子では地元茨城県東海村の沼田夏楠さん(34)が2時間44分30秒で初優勝を飾った。フルマラソン、10マイル(約16キロ)、5キロ各部門のエントリー総数は2万0625人で、昨年の1万5832人を約4800人上回った。 フルマラソン女子の沼田さんは2位に3分20秒の大差をつけて優勝した。前半は男子の集団に入って飛ばし、後半はペースを落としながら粘った。「ハーフ過ぎあたりで、これ以上押したらつぶれると思い、あえて集団を離れた。後半は追い風になるのも知っていたので、前の選手に付いて抜いてを繰り返しながら自然に走れた」と沼田さん。スタート時点の気温は約22度で雲もなく、強い日差しに気温はますます上昇。「暑いのは得意。もっと暑くなれと思いながら走った」。数日前から意図的に摂取水分量を増やし、マラソン中も全ての給水所で水を取った。「目標は2時間45分を切ること。寒くても暑くても達成したいと思っていた。切れて満足」と、充実した表情を見せた。 沼田さんはひたちなか市出身。田彦中で陸上競技を始め、名門の茨城キリスト教学園高に進み、高3のとき卒業記念で出場した勝田マラソンで優勝。茨城大を経て実業団の日立製作所に入団。現在は笠松走友会で市民ランナーとして活動しながら、マラソンやトレイルの魅力をSNSで発信している。 フルマラソン男子は蜂須賀源さん(31)が2時間20分24秒で優勝。「暑さがある中、前半は集中しすぎず体力を温存した。25キロあたりから自然にペースが上がり、ついてくる選手がいなかったので、このまま最後まで押していこうと考えた」という。「1キロ1キロ、無理せず自分のペースで頑張っていれば、やがてゴールにたどり着く。それがマラソン。だが力みが出るときつくなる。最後はゴールはまだかまだかと思いながら走っていた」 蜂須賀さんは国学院大で箱根駅伝に3回出場、4年時は主将も務めた。実業団ではコニカミノルタで活躍し、昨年から千葉県立流山おおたかの森高校教諭。クラス担任として、また陸上競技部顧問として、生徒たちに背中を見せる気持ちでこの大会に参加した。「生徒たちの背中を押すため、タイムよりもインパクトがある順位にこだわった。自分のベストを尽くせば優勝できる自信はあった。自分の人生を自ら豊かに切り開く生徒を育てたい」と話す。 5キロ男子は1位の佐々木詩音さん(26)、2位の柱欽也さん(38)がコースレコードを塗り替えた。「かすみがうらは初めて。風が強いと聞いていたが強くなく、晴れて走りやすかった。チームメートと助け合い、引っ張り合いながらいいレースができた」と佐々木さん。「フルマラソンと10マイルは出たことがあるが、今年はスピードをつけたいと初めて5キロに出た。最後まで優勝争いを演じ、粘りの強化ができた。2位は悔しいが達成感はある」と柱さん。 同3位は伊藤遼佑さん(29)。この部門では常連で、昨年の15分52秒より33秒タイムを縮めたが、大会新の2人にはかなわなかった。「極力ついていこうと粘ったが、3キロあたりから離された。優勝が目標だったが、少なくとも今の力を出しきることはできた」と納得の表情。 そのほか、主な成績は以下の通り。敬称略 【フルマラソン男子】1位 蜂須賀 源(千葉県・ONESHIP)2時間20分24秒2位 三野貴史(33、千葉県・松戸市陸協)2時間21分10秒3位 滑 和也(39、埼玉県・作.AC北海道)2移管21分49秒【フルマラソン女子】1位 沼田夏楠(34、茨城県)2時間44分30秒 2位 沿道知佐(37、東京都・PACERTRACKCLUB)2時間47分50秒3位 舛田果那(37、石川県)2時間48分08秒 【10マイル男子】1位 大野聖登(千葉県・順天堂大学)48分56秒2位 出仙龍之介(25、東京都・警視庁)49分10秒3位 山城弘弐(24、東京都・警視庁)49分25秒 【10マイル女子】1位 小野寺美麗(21、宮城県・石巻専修大学)1時間00分43秒2位 小輪瀬明希(20、東京都)1時間00分48秒3位 西島百香(28、東京都・ステラキャンプ)1時間03分36秒 【5キロ男子】1位 佐々木詩音(26、東京都・警視庁)14分46秒2位 柱 欽也(38、東京都・警視庁)14分49秒3位 伊藤遼佑(29、筑西市・つくばウェルネス整形外科)15分19秒【5キロ女子】1位 片桐紫音(23、埼玉県・埼玉医科大学G)17分42秒2位 ハル・ティファニー(29、東京都・Namban)17分53秒3位 米津利奈(33、東京都・ディべロップ)18分25秒

土浦の花火100年の紡ぎ(4)《見上げてごらん!》51

【コラム・小泉裕司】戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の統治下にあった1945年10月、火薬類の製造は全面禁止となった。再び製造・販売が許可されたのは、3年後の1948年8月1日である。同日、東京・両国では「川開き花火」が8年ぶりに再開された。のちにこの日は「花火の日」に制定されている。さらに同年9月22日には、戦後初の競技会とされる「第1回全国花火コンクール」が隅田川で開催された。 このコンクールの目的は、花火師同士が切磋琢磨(せっさたくま)し、色彩や造形美といった品質を極限まで高めることにあった。同時に、もう一つ重要な役割を担っていた。それは、花火の輸出振興を目的とした「プロモーションの場」である。海外バイヤーに対し、「日本の花火は世界一である」ことを示すショールームとしての機能を果たしていたのだ。 終戦からわずか3年。深刻な物資不足とインフレに直面していた当時の日本にとって、外貨獲得は至上命題であった。繊維製品や雑貨と並び、伝統技術の結晶である花火もまた、戦略的な輸出品として位置づけられていく。 茨城が誇る「輸出花火」の輝き こうした国策の流れは茨城にも波及する。1953年の「いはらき新聞」によれば、野手火工や茨城火工があった下妻地方では、特産の玩具花火が同地方の出荷額第3位を記録した。輸出先は南米にまで及び、まさに輸出産業の花形であった。 土浦火工もまた、輸出に心血を注いだ企業の一つである。海外の環境に対応するため、防水スプレーを塗布するなどの工夫を重ね、アメリカを中心に各国へ花火を送り出した。 こうした功績が評価され、1961年には「土浦の花火」大会の最高賞として通商産業大臣賞が授与された。さらに1962年から10年間、大会名称に「輸出振興」の冠が付されたことは、高度経済成長期という時代を象徴している。 進駐軍を魅了した「日本の花火」 一方で、土浦の花火には興味深い記録が残る。火薬製造が禁止されていたはずの1946年9月30日に、すでに「第14回大会」が開催されていたというのである。1948年の両国花火再開よりも、実に2年早い。 背景にあったのは進駐軍の存在だ。当時、米軍は独立記念日などにキャンプ地で花火を打ち上げており、国内の催事でも司令官の裁量で許可が下りる場合があった。1946年、水戸に置かれたGHQ茨城軍政部に着任したリンボー少佐は、故郷のナイアガラの滝を懐かしみ、花火の打ち上げを要望したという。 これを受けて県内の花火師が招集され、土浦観光協会の主催により、9年ぶりの大会が実現した。リンボー少佐ら幹部将校30人余りが、友末知事ら県幹部とともに観覧したと伝えられている。日本の花火に魅了されたGHQが花火師たちの訴えに耳を傾けたことが、1948年の製造解禁を後押ししたとも言われている。 歴史の転換点を経て しかし1970年代に入ると、転機が訪れる。人件費の高騰や円高、さらに安価な中国製花火の台頭により、花火の輸出は次第に縮小していった。 現在の「土浦全国花火競技大会」は、輸出振興よりも芸術文化の継承や観光振興の側面が強い。しかし、その根底には「日本の匠(たくみ)の技で世界を魅了し、国を豊かにする」という、戦後を駆け抜けた花火師たちの熱い志が、今も確かに息づいている。本日はこれにて、打ち留めー。(花火鑑賞士、元土浦市副市長) <参考文献>「下妻市史」(下妻市史編さん委員会、1995年刊)「日本の花火のあゆみ」(武藤輝彦、あずさ書店、2000年刊)「花火の事典」(新井充、東京堂出版、2016年刊)「花火と土浦」(土浦市、2018年)「花火師たちの記憶/DVD」(㈲茨城ビデオパック、2025年完成)