【ノベル・伊東葎花】
ずっと部屋に籠(こも)っていたけれど、いい陽気になってきたから家を出た。
コロナも5類になったし、食料もなくなってきた。
ずっと引き籠ってもいられない。
まだ少し肌寒かったので、パーカーのフードを目深に被(かぶ)った。
マスクもまだ外せない。
住宅街を歩いていると、庭先の芝桜がきれいな家を見つけた。
淡いピンクが一面に広がって、なんて美しい。
可愛(かわい)いな。春だな。
思わず見とれていたら、垣根のあいだから家主が現れた。
「何か御用ですか?」
「あっ、いや、芝桜がきれいだったもので」
家主が睨(にら)むので、俺はそそくさとその場を後にした。
世知辛い世の中だ。うっかり他人の家も覗(のぞ)けない。
公園に行った。公園の花なら、いくら見ても文句は言われない。
チューリップが見事だ。
近くの幼稚園児が集団で遊びに来ている。
「お花、きれいだね」
近くにいた子に話しかけると、すかさず先生が飛んできた。
「さあ、園に帰りますよ」と、さらうように園児を連れて行った。
世知辛い世の中だ。子どもに話しかけただけなのに。
せっかくだから写真でも撮ろう。
俺はスマホを取り出して、チューリップの写真を撮った。
すると、向かい側にいた若い女がチューリップを跨(また)いでやってきた。
「ちょっと、今撮りましたよね」
「ああ、花の写真を撮ったが」
「私のこと、撮りましたよね。盗撮ですよね」
「いや、たまたまあなたが入ってしまっただけで、撮ったわけでは…」
「消してください。今すぐ消して」
「分かったよ。消すよ」
せっかくきれいに撮れたチューリップの写真を消した。
世知辛い世の中だ。写真を撮っただけなのに。
なぜだろう。蜘蛛(くも)の子を散らしたように、みんな公園を出て行った。
別にいい。逆にせいせいする。
誰もいなくなった公園のベンチに座った。
日差しが暖かいので、フードを取った。
そうか。このフードとマスクとサングラスのせいだ。
すっかり不審者扱いされてしまったのだ。
何だ、そうか。
俺は、マスクとサングラスをポケットにしまって立ち上がった。
「ちょっとすみません」
男が話しかけてきた。
ほら、フードとマスクとサングラスを取ったら、さっそく話しかけられた。
人恋しかった俺は、にこやかに振り向いた。
「はい、何でしょう」
立っていたのは警察官だった。
警察官は俺の名前を呼んで、強い力で腕をつかんだ。
ああ、そうだった。
俺、指名手配されていたんだった。
ずっと隠れていたのに、春の陽気のせいで捕まっちまった。
あーあ、世知辛い世の中だ。(作家)