【ノベル・伊東葎花】
子どもの頃から、枕元に「朝寝坊さん」がいます。
夜になるとやってきて、優しい声で子守唄を歌うのです。
毎晩ぐっすり眠ります。
目覚まし時計をこっそり止めるのも「朝寝坊さん」の仕業です。
だから私は、毎日寝坊をします。
「起きなさい、何度言ったら起きるのよ。まったくあなたは」
母の声は、なんて耳障りでしょう。
私は目を閉じて、「朝寝坊さん」の歌声に酔いしれます。
5回くらい起こされて渋々起き上がると、「朝寝坊さん」の歌はゆっくりフェイドアウトして、やがて風のように、どこか遠くへ行ってしまうのです。
おかげで私は、ほぼ毎日遅刻です。
「こら、おまえ、また遅刻か」
先生に毎日怒られます。友達もあきれています。
だけど平気です。「朝寝坊さん」の歌声が、私にとって一番なのです。
「学生のうちはいいけど、社会人になったらどうするの? あなたを一生起こしてあげることなんか出来ないのよ」
母は朝からガミガミうるさいです。耳をふさいでやりすごします。
私は起きられないのではありません。起きないのです。
「朝寝坊さん」と離れたくないのです。
「朝寝坊さん」は、昼間はどこにいるのでしょう。
梅の花がもうすぐ咲きそうなことに、気がついているかしら。
翌日、いつものように寝坊をした私は、陽が高くなっていることに気づきました。
いつまでたっても母が起こしに来ないから、お昼になってしまったのです。
遅刻のレベルを超えています。いつものガミガミが聞こえないのも不便なものです。
「お母さん?」
リビングにもキッチンにも母はいません。
部屋へ行ってみると、布団を被って寝ているのです。
「お母さん、何で起こしてくれないの? もうお昼だよ」
母は、布団をもぞもぞさせながら、しゃがれた声で言いました。
「起きる必要ないだろう。だってあんた、仕事もせずに寝ているだけじゃないか。これ以上あたしの年金を当てにしないでちょうだい」
そう言って布団から顔を出した母を見て、私は腰が抜けるほど驚きました。
母の髪は真っ白で、顔はしわくちゃのおばあさんでした。
そして鏡を見たら、私自身も驚くほど年を取っていたのです。
「お母さん、私、どうしちゃったの! ねえ、お母さん。起きてよ」
母は起きません。母の枕元で「朝寝坊さん」が不気味に笑っていました。
「朝寝坊さん」が、私たちの時間を奪ってしまったのです。
気持ちよく眠っている間に、数十年もの時間を失ってしまったのです。
私は耳を塞ぎました。「朝寝坊さん」の歌は、まるでレクイエムのようでした。
* *
目覚まし時計が鳴りました。
ハッとして起きると、いつもの朝でした。
私は、元の中学生に戻っていました。
「あら珍しく早起きね。雪でも降らなきゃいいけど」
母は、ちゃんと太った黒髪の、いつもの母でした。
それっきり「朝寝坊さん」は姿を消しました。
他の誰かの心に住み着いたのかもしれません。
うららかな春が、やがてやってきます。どうかご用心を。
(作家)