日曜日, 7月 26, 2026
ホームつくばバス廃線後利用者3倍 住民主体で送迎サービス【公共交通を考える】3

バス廃線後利用者3倍 住民主体で送迎サービス【公共交通を考える】3

水曜日の午前10時50分、つくば市下広岡の住宅団地、桜ニュータウンのほぼ中心にある市広岡交流センターの駐車場に、買い物バッグを手にした高齢の女性たちが集まってくる。ショッピングカートを押してくる人もいる。

桜ニュータウン高齢者等送迎システム「さくら」(中澤哲夫代表)が運行している「土浦イオン買い物乗合」で、毎週水曜日にワゴン車や乗用車に同乗して4キロ離れた大型商業施設、イオンモール土浦に向かう。利用者は思い思いに買い物やランチを楽しんで車に戻り、午後1時に桜ニュータウンに帰る。運転者は重い荷物と一緒に利用者を自宅まで送り届けている。

時々利用しているという87歳の女性は「山口県から娘の家に引っ越してきたので知った人がいなくて寂しかったが、買い物乗合を使うようになって顔なじみの人ができた。車内でのおしゃべりが楽しくて‥」。「夫と買い物に行くと急かされて落ち着かない。買い物乗合はゆっくり買い物できてストレス解消にもなる」という人も。

予約の必要はなく、料金は1回100円。乗車する時に運転者に支払う。毎週3~5人が利用し、そのうちの9割が女性だという。

キロ20円、土日祝日問わず朝8時から夕6時

高齢者等送迎システム「さくら」は、バス廃線問題に立ち上がった自治会の下部組織「桜ニュータウンのこれからを考える会」が、廃線問題が持ち上がる前の2020年に、高齢化が著しい桜ニュータウンには共助によるサボート体制が必要とスタートさせた。

65歳以上の高齢者と障害者、運転免許を返納した人が対象で、自家用車で利用者の自宅と目的地の間を往復する。第2種免許がなくても送迎できる国の制度を活用している。会員制の組織で、桜ニュータウンに住んでいる利用会員と協力会員(運転者)、賛助会員で構成されている。運行を開始した20年4月は新型コロナの流行が拡大した時期だったが、20人が利用会員となり、コロナ禍でも送迎は休みなく続けられてきた。

同団地とつくば駅を結ぶ路線バス「桜ニュータウン線」が廃止されると、外出が不便になった住民が送迎システムに関心を寄せ、利用会員は3倍の63人に増えた。運行開始から今年11月29日までの利用者は延べ507人を数える。行き先で多いのが病院または診療所だという。運転者は10人。すべて住民が担当している。

運転者のスケジュール表

土日祝日を問わず午前8時から午後6時まで運行し、片道15キロの範囲で利用できる。予約方法は、利用会員が、自宅に届いた1カ月間の運転者10人のスケジュール表を見て、希望する時間帯が空いている運転者に電話する。利用者が増えたことで申し込みが重なり、予約が取れないなどのトラブルは今のところない。

料金はガソリン代としてキロ20円に設定され、例えば片道7キロの場合は往復で280円という低料金で運行されている。月初めに前月分を事務局が集金し、送迎実績に応じて運転者に支払う仕組み。予約不要で乗り合いの「土浦イオン買い物乗合」は、利用するたびに運転者に支払う。賛助会員からの会費や寄付金を活用し、送迎中の事故を補償する保険に加入している。

バスが消えるなんて想像してなかった

利用会員の男性(80)は「桜ニュータウンの欠点は交通の不便さで、高齢者にとってますます増える病院通いは、診療費よりも交通費の方が高くなることがしばしば。これを救ってくれたのが『送迎システムさくら』で助かっている」という。

代表の金子和雄さんは「長年この地域に住んできて路線バスが消えるなんて想像もしていなかった。公共交通の利用者は減少傾向で、いまはバスがある地域の人も『自分の身に降り掛かるかもしれない』と考えてほしい。だれもが他人任せにせず、地域の交通について考えるとき」だと話した。(橋立多美)

続く

➡「公共交通を考える」の過去記事はこちら

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

1コメント

1 Comment
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

中国の歴史と人材・知恵に向き合うには?《文京町便り》54

【コラム・原田博夫】第2次天安門事件(1989年6月)後の90年代初頭、鄧小平が外交・安全保障関係組織に発したとされる「24字戦略」(6つの四文字熟語)の中では、4番目の「韜光養晦」(とうこうようかい=力を隠して周りを油断させ、その間に力を蓄える)が人口に膾炙(かいしゃ)している。 それ以来、中国外交のこの基本路線は、江沢民、胡錦涛らの後継政権に引き継がれてきた、と私は見ていた。中国政治に疎いこともあり、「大国・礼節の国」中国の最高権力者には節度と余裕はあるのだと、その低姿勢ぶりに感心したものである。 ところが事態はそうは単純ではなく、この韜光養晦路線は、文字通り、一朝事ある時までの偽装だったようだ。事実、2008年の北京オリンピックの成功や、同年のリーマン・ショック後の世界経済低迷を中国経済が下支えしたことで、中国内の国粋主義的ナショナリズムが覚醒された。 2009年7月、日本に対中親和・対米離反の民主党政権が登場したとみるや、10年9月には、尖閣諸島周辺の領海で、中国漁船が海保巡視船に意図的に衝突する事案が発生した。尖閣諸島はその後、当時の石原都知事の購入宣言(12年4月)を受けて国有化された。そして同年11月には、胡錦濤国家主席が中国共産党第18回代表大会で「中国は海洋強国になる」と宣言するに至った。 こうした準備段階を経て、2013年3月に跡を継いだ習近平は、対外的には慎重な鄧小平路線をかなぐり捨て、中華思想満載の「中国の夢」の実現を掲げ、「一帯一路」戦略を進め、果ては「戦狼外交」を展開している。こうした攻撃的な外交スタイルは、3期目に入って政権基盤の固まった習近平体制になってから展開され始めたというより、中国の伝統的な対外発信のスタイルと見たほうがいい。 大戦中には宋美齢が反日演説 1933年2月に国際連盟からの脱退を表明した松岡洋右・主席全権(後に外相)のスピーチと、太平洋戦争中(1943年)に全米各地で演説した宋美齢(中華民国総統・蒋介石の夫人)のスピーチは、全く対照的である。ファナティックな松岡演説は当時の日本国民の多くには胸のすく思いだったようだが、対外的には日本の選択肢を狭め、外交的孤立(ナチス・ドイツとの運命共同体)をもたらした。 これ対して宋美齢演説は、対日批判を見事な英語で展開し、米国の対日批判感情を引き上げ、日本への圧力をさらに高める効果があった。その時点でのそれぞれの国内的な評価は双方とも同等かもしれないが、国際的なインパクトおよびその後の影響は比較にならない。 歴史と人材・知恵の宝庫、中国を相手にするときは、当面の対処だけではなく、中期的な視点と影響を見据えて取り組まなくてはならない、と自戒したい。(専修大学名誉教授)

霞ケ浦が優勝、決勝で常総学院を倒す【高校野球茨城’26】

第108回全国高等学校野球選手権茨城大会は最終日の25日、ノーブルホームスタジアム水戸で決勝戦が行われ、霞ケ浦が常総学院を9-7で破り、2年ぶり4回目の優勝を飾った。同校は8月5日から兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開催される全国大会に出場する。 25日 決勝戦 ノーブルホームスタジアム水戸霞 ケ 浦 001141110 9常総学院 000020500 7 終盤、追い上げる常総学院を霞ケ浦が突き放した。「茨城の高校野球を牽引してきた常総学院を破って甲子園へ行くという願いを達成できてうれしい。常総は決勝では負けないという印象があったが、3度目の挑戦で勝てたのは感慨深い」と霞ケ浦の高橋祐二監督。 霞ケ浦の先制点は3回。先頭の7番・菊地勇一が常総学院の先発・高橋幸聖から中前打を放ち、8番・渡邉航太の犠打と9番・相田歩希の死球で1死一・二塁、1番・加藤龍の中前打で生還した。4回には5番・秋山櫻介、6番・野口空真、菊地の3連打で1点を追加した。 5回には常総学院の2番手・箕輪蒼を攻め立てた。先頭の村上が右中間へ二塁打を放ち、3番・佐藤大亜の犠打は箕輪が野選(フィルダースチョイス)、4番・西野結太は死球で無死満塁。2死後、菊地の右前打で2点を加え、渡邉の左翼線二塁打でさらに2点を加えた。 霞ケ浦の先発投手は準決勝に続き小林将大。1、2回は順調に抑えたが3回、2四球で1死一・二塁としたところで稲山幸汰に交代。「調子は悪くなかったのでもう少し引っ張りたかったが、安打ではなく四球で出した走者だったので替えた」と高橋監督。このピンチを稲山はたった1球で三ゴロ併殺に切り抜けた。 常総学院の反撃は5回。1番・水口煌太朗の中前打、2番・荒生結太の内野安打、3番・吉澤颯大の内野安打で1死満塁、4番・幸田元希の中前打で2点を返した。7回には4安打と1四球で2点を加えなおも2死満塁、ここで水口の三ゴロは一塁への悪送球を呼び一挙3点を追加した。 この時点でスコアは8-7とわずか1点差。次の得点が流れを大きく左右する。ここで大事な仕事を果たしたのが霞ケ浦の菊地だ。8回表2死二塁の場面、常総学院の4人目、坂本篤睦から中前打を放ち1点を追加。カウント2-2からの5球目、やや内寄りのカーブを捉えた。「まっすぐを狙っていたが、カウントを取りに来たのは2球ともカーブだったので、狙わずに来た球を打った。少し詰まったが飛んだコースが良かった。稲山がねばり強く投げていたので、楽にしてやろうと思った」と菊地の振り返り。菊地はこの日5打数4安打4打点の活躍。「もともとポテンシャルは高いが気持ちが前に出てこない選手だった。一度メンバーから外すことで奮起を促した。今日大活躍してくれてうれしい」と高橋監督。 次はいよいよ甲子園。霞ケ浦は一昨年の大会で初の1勝を挙げた。今年はそれを上回る成績を目標にしているという。「いままで通り、目の前の一つ一つの試合に集中し、守備からリズムをつくって全員野球でやっていく」と村上主将は意気込む。(池田充雄)

素人の私が竹細工の指導員に《宍塚の里山》138

【コラム・松島忠久】神奈川県川崎市多摩区の生田緑地に、1967年に開園した野外博物館「川崎市立日本民家園」があります。私の母、祖母ともに農村出身で、家はもちろん古い農家作りでしたので、古民家を集めた民家園にはしょっちゅう出入りしていました。 1972年、近隣の古老が講師となり、民具作り講座(わら細工、機織り、竹細工)が民家園で開かれ、私はわら細工に参加しました。講座終了後、「これらの技術は今廃れているが、ある時期は多くの庶民がやっていた仕事だ。何とかこれを残そうではないか」ということになり、幾人かの同志が発起人となり、翌年「民具製作技術保存会(略称 民技会)」を立ち上げました。 初期の会員は30人ぐらい。ところが、多くの人がわら細工(一部は機織り希望)で、竹細工希望者はゼロということもあり、竹細工の講師(本職は籠屋さん)が寂しそうな顔をしていました。そこで私は「ここで竹細工を始めれば1対1で教われるぞ」と考え、竹細工を教わることにしました。 ここで言う竹細工とは竹トンボや竹馬作りではなく、本格的な籠(かご)や笊(ざる)編みです。先生が用意した材料で籠を編むのは簡単ですが、その材料を用意するのが大難関。籠屋に弟子入りして毎日練習をしても、自在に裂けるようになるまで3年かかるということでした。 でも竹細工グループは私1人。サボることはできず、家でも練習して、2年後には午前中に下準備「竹拵(そろ)え」が終わり、午後から「籠編み」をし、何とか1人で籠が作れるようになりました。さらに数年して、初心者が会員に教えるようになり、数年前まで続きました。 「民具の作り方」シリーズを出版 半世紀以上経った今、民技会の会員数は100人弱。うち竹細工グループは約40人と最大グループになり、多くの人が私よりうまく作れるようになっています。その間、各地の古老から聞き取りをし、「民具の作り方」シリーズとして50冊以上の本を出版し、今では民技会は全国の民具関係者に知られるようになりました。 1987年、勤務していた研究所のつくば移転に伴い、私はつくばに単身赴任しました。その後、「宍塚の自然と歴史の会」を知って入会しましたが、毎日曜日には指導のため、川崎に行かねばならなかったこともあり、宍塚の会の方は長い間、幽霊会員でした。 同会がある土浦市は霞ケ浦に面しており、実用品を作る籠屋さんが何人か健在だったので、定年後に教わろうと思いましたが、高齢などのため次々と廃業しました。私が定年を迎えた1995年には、教えられるのは私1人となり、あちこちの公民館から講師依頼が来るという異常事態となりました。 70歳代まではなんとか応じていましたが、手先の力が無くなり、80歳で竹細工をやめました。現在、近隣で竹細工を生業としている人は2人の女性のみとなっています。(宍塚の自然と歴史の会 会員)

黄色い花の絨毯 霧ケ峰・車山《鳥撮り三昧》15

【コラム・海老原信一】20数年前、長野県に住む娘の誘いで、母、妻、息子、娘、私の5人で霧ケ峰の車山を訪れた。そのとき、頂上のロープウエイ駅で下車したら、目の前に見たことのない黄色い花が広がっていた。背丈の低い草地の斜面を埋める「黄色い絨毯(じゅうたん)」だった。 圧倒されて見入っていると、絨毯の中に出ている岩の上で、軽やかにさえずる小鳥を発見。黄色い花はニッコウキスゲ(ゼンテイカ)、小鳥はビンズイと分かったが、まさか毎年、ここを訪れることになるとは…。 その後も黄色い花を思い描き、記憶だけを頼りに車を走らせた。ナビを持たないドライブで目的地に着いたときは、妙な達成感がある。そこには黄色い花畑が広がり、ビンズイだけでなく、カッコウ、オオジシギ、ホオアカ、ノビタキ、ウグイス、アオジ、コヨシキリなどが迎えてくれた。 グライダーの滑空場もあり、パイロットたちは鳥とは違う「飛ぶ楽しさ」も見せてくれた。彼らは一様に日焼けをしていて、「上空は日焼けしやすいんです」と、楽しそうだった シーズンを避け、のんびり鳥撮り 通い続けるうち、ある変化に気付いた。黄色い絨毯の広がりが狭くなっている。そのうち、草原に電気柵が据えられようになった。花が鹿の食害で減っており、柵は予防策ということ。ここでも生態系バランスが崩れている。でも、電気柵は冬期入り前に取り外され、黄色い絨毯は順調に復活しているようだ。 通い始めのころはそれほどでもなかった「鳥見・撮影」人が、花が減少し始めたころから目立つようになった。それがどうも気になった私は、黄色い花の季節を避けるようになっていた。花の季節は鳥たちの繁殖期と重なり、花を取り込んだ撮影は巣に出入りする鳥たちに圧力を掛ける。このことも撮影を避ける一因になった。 シーズンを避けると花は少なくなるが、人の数も少なくなり、のんびりと鳥を見て鳥たちの表情を楽しめるよさがある。そんなスタイルが私には合っているようで、飽きることなく鳥撮りが続いている。(写真家)