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四半世紀前のモンゴル訪問で思ったこと 《文京町便り》15

【コラム・原田博夫】1996年10月末~11月初め、モンゴル国を初めて訪れた。外務省の対モンゴル知的支援プログラムで、同国の税制調査を依頼されたからである。そもそもは、同国が日本との租税条約(二重課税の調整)を求めていたことにある。日本としては、その要請の課題を専門家に調査してもらい、その報告に基づいて判断したいという趣旨だった。

現地では、政治体制が変わり市場経済が導入されたばかりで、基本的な社会インフラは旧体制(社会主義)のままだった。

訪問先の官庁街やウランバートルホテルは市の中央広場に面する中層ビル群で、建物内には羊肉の匂いも感じられたが、建物それ自体は風格もありしっかりした造りだった。実はこれらのビル群は、日本人捕虜により1945年から2年間の抑留生活で多くの犠牲を出しながら建設されたもので、ソ連の指導で建設した建築物よりきちんとした出来だ、と現地の人も口々に語っていた。

そんな中での現地での税制調査だが、基本的な情報収集にはかなり難渋した。そもそも、紙が貴重品なのである。したがって、現地担当者は数字を挙げて説明するのだが、その資料(紙)の余部は無い、コピーはできない(そもそもコピー機が無い)、と言う。

したがって、当方は先方の説明を書き留めるしかしない。この時の報告書は、同行した大田弘子さん(当時:埼玉大学助教授、経済財政担当大臣2006年~08年などを経て、2022年9月以降は政策研究大学院大学学長)が、帰りの機中でパソコン相手に手際よく整理してくれたおかげで、何とか記憶と印象が消え去る前にまとめることができた。

携帯電話がすでに日本以上に普及

結論は、日本とモンゴルの間の彼我の差も大きく、経済交流が不十分な中での租税条約は時期尚早、だった。

その後、国際協力機構(JICA)が1998年から20年余にわたって近代的な徴税システムの基盤づくりに協力し、その結果、フレルスフ・モンゴル大統領が来日時(2022年11月)に、岸田首相との間で取り交わした「戦略的パートナーシップのための共同声明」Ⅱ(経済・経済協力)2(投資・ビジネス環境の整備)に、1項目「両国の租税条約締結に向けた意見交換の実施」が入っている。四半世紀前の調査事項がなお継続していることに、ある種の感慨を覚えた。

当時の私にとって印象的だったウランバートル市街の風景は、携帯電話がその時点ですでに(日本以上に)普及していることだった。固定電話は設置されていたが、公衆電話はほとんどなかった。当時の私の印象では、日本では公衆電話網・ボックスが全国に設置されていて、テレホンカードで電話をかけることができた。そうした観点からは、携帯電話の必然性は相対的に低かった。

翻って、公衆電話網が普及していないモンゴルなどでは、携帯電話の利便性は高いし、普及に弾みがついていると想像できた。ちょうど、銀行口座の無い低開発国の一般庶民にとって、携帯電話(スマホ)による決済システム(キャッシュレス決済など)への親和性が高いのと同じである。他方、銀行による決済システムが定着している日本ではデジタル通貨などへのチャレンジが今なお停滞気味であるのと、対照的である。

社会インフラの整備状況、テクノロジーの可能性と普及の交錯・逆転を実感した次第である。(専修大学名誉教授)

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