火曜日, 12月 2, 2025
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つくばの宿舎で「区切り」の慰霊祭 震災12年

東日本大震災から12年の11日、つくば市並木の公務員宿舎で、福島県双葉町からの避難者ら約30人による慰霊祭が開かれた。2020年以来となる。双葉町は、原発事故による避難指示で、全町民が避難を余儀なくされてきた。

この日、双葉町出身の谷津田光治さん(81)と妻の美保子さんが暮らす自宅前に設けられた祭壇に、集まった一人ずつが線香をたむけ、手を合わせた。参列したのは同町から避難してきた住民のほか、毎週火曜日に近所の公園で行われるグラウンドゴルフや、以前行われていた月命日や夏祭りなどに参加し、親睦を深めてきた同市内の学生や地域住民たち。この日は、現在他県に暮らす人も多数訪れ、旧交を温めた。

慰霊祭に参加した双葉町の人々とつくば市民ら

宿舎には、双葉町民を中心に、福島から避難してきた47世帯が暮らしてきた。同町民による自治会も発足し、避難先に新たな地域社会を築いてきた。近年は、同市内や周辺地域、福島県などへ転居する世帯が増え、現在は谷津田さん夫妻を含めて4世帯が暮らしている。谷津田さんも今月末でつくばを後にし、故郷に近い南相馬市へと転居する。

交流の筑波大学関係者らも参列

運動の指導などを通じて谷津田さんらと交流し、学生にも避難者との交流の機会を設けてきた筑波大学名誉教授で体操コーチング論が専門の長谷川聖修さん(66)は「12年間本当にお世話になりました。福島の皆さんとはこの場所がなければ出会うことがなかった。慰霊祭ということでは一区切りがつくけれど、これからもよろしくお願いします」と気持ちを述べた。

長谷川さんの教え子で、北海道から参加した工藤実里さん(25)は、学生時代の交流を思い返しながら、「会いたい、帰ってきたいと思える場所。これまで皆さんが築き、守ってきた場所で出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。ここでの経験は財産。これからも色々な形で関わりたい」と話すと、涙を拭った。

秋田県から訪れた高橋康彦さんは自身の結婚を報告した。かつて月命日の際に振る舞われたカレーライスの思い出に触れながら、「長谷川先生のゼミ生として体操で関わり、皆さんと会う日常が人生の楽しみでした。今日は、皆さんにハッピーニュースを届けることができた。これからもいいニュースを届けられたら」と笑顔で語った。

2017年から、毎週グラウンドゴルフに参加するつくば市の柄津玲子さん(86)は「避難者の方の講演を聞いたのが参加のきっかけ。大切な出会いをたくさんいただきました」とこれまでを振り返った。

地震が起きた午後2時46分を前に、参列者に向けて谷津田さんは「私の知人にも津波で亡くなった人がいます」と震災当時を振り返るとともに、つくばでの12年間を思い返しながら今回の慰霊祭を「一つの区切り」とした。その上で、「「皆様、12年間の御礼を申し上げます。今後も、皆様が元気で、長くお付き合いをしていただけることを切に願っています」と参列者に呼びかけた。

宿舎に暮らす他の住民も、茨城県内外への転居を予定している。昨年3月の時点で、つくば市内には112人の双葉町からの避難者が暮らしていた。(柴田大輔)

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「来年はもっとバージョンアップ」 関彰商事とハノイ工科大 スポンサー契約を更新

日本商工会議所が関心 関彰商事(本社 筑西市・つくば市、関正樹社長)つくば本社で28日、同社が包括連携協定を結ぶベトナム・ハノイ工科大学とのスポンサー契約更新の調印式が催された。関社長は「ハノイ工科大学とは10年の付き合いがあるが、来年はもっとバージョンアップいきたい。今回、日本商工会議所が関心をもってくれたことが成果。日本とベトナムの架け橋になれるようがんばっていきたい」と話した。 調印式には同大からヴー・ヴァン・イエム副学長ら3人が出席し、同社社員らがベトナムの国旗を持って一行を出迎えた。関社長は「壁は日本語、さらに多くの学生が日本企業で活躍できることと、この事業が持続していくことを期待している」と述べた。 同大からは、優秀な学生に奨学金を出し最終的に日本企業に貢献してもらうことや、高校生の交換留学を進めることなど二つの提案があった。 同社は2016年にハノイ市に事務所を開設し、ベトナムでの事業をスタートした。グループの人材派遣会社である「セキショウキャリアプラス」が、今年第12回目の合同企業説明会「セキショウ ジョブ フェア」をハノイ工科大学で開催。日系企業によるベトナム人大卒エンジニアなど高度外国人材採用や、ベトナム人求職者の就労をサポートしている。18年にはハノイ工科大学を支援するスポンサー契約を結び、継続している。 同大は1956年に設立されたベトナム初の技術系総合国立大学で、同国の理科系大学では最難関とされる。学生数は4万人以上を超え、1学年600人余りが日本語を学ぶ。11月2日と3日に同大で開催されたジョブフェアには2000人以上が参加している。日本では東京工業大学、慶応大学などが姉妹校となっている。 同社の寄付金により同大に建設中の日本とベトナムの文化交流施設「越日スペース」は、来年8月に完成が予定されている。施設は2階建てで、日本語学習や関連セミナー、文化交流などのイベントが開催されることになっている。(榎田智司)