火曜日, 11月 25, 2025
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学園都市黎明期の原風景【つくば建築散歩】1

筑波大学 大学会館

2022年は、筑波研究学園都市の開発建設に関する閣議了解、正確には国の省庁・機関を茨城県南部へ移転させる閣議了解(1967年)から55年、国家公務員宿舎の入居開始(1972年)から50年にあたる。半世紀にわたる都市の成長、成熟の中で、建設省(現国土交通省)、住宅・都市整備公団(現UR都市再生機構)などの公的機関が多くの建築物を手がけ、様々な建築家や設計事務所を採用したことで、筑波研究学園都市自体が都市開発と建築物の博物誌を醸成する結果となった。

現存するつくばの名建築を紹介する第1弾として7カ所を紹介する。しかしこれは「つくばでうまいラーメン屋はどこでしょうか」と問われるのとあまり変わりなく、あちらを立てたらこちらもか、建築ごとに好き嫌いの意見も分かれそうだ。

今回、つくば市在住の建築家であり、筑波大学名誉教授の鵜沢隆さんに建築物の紹介をお願いした。写真は、同じくつくば市在住の写真家として活躍する斎藤さだむさんが、書籍「つくば建築フォトファイル」に収録した竣工当時の撮影写真を提供していただいた。同書を出版するNPOつくば建築研究会からも、収録写真の使用について快諾をいただけた。

どこから始めたものかで迷った中、初回は槇総合計画事務所、槇文彦さんの設計による筑波大学大学会館とした。連載のスタイルとして、まず鵜沢名誉教授の建築紹介から始める。

筑波大大学会館講堂(同)

その後の大学の外観意匠決定付ける

【鵜沢名誉教授コメント】「筑波大学開学初期の中心的施設で、その外壁の暗い赤茶色の仕上げとキュービックなボリュームが、その後の各大学施設の外観意匠を決定付けた。大学諸施設に落ち着いた統一感は生まれたものの、全体的に沈鬱(ちんうつ)なキャンパスの印象をつくり出した点も否定できない。

キャンパスの中心的施設でありながら、学内のペデストリアンに対してのみ開かれた建築であるため、大学外部からのアクセスは不明瞭で、孤立した大学施設の印象は否めない。

そうしたネガティブな機能を補完するため、大学会館に接続し、大学の新たな玄関口となる空間の設計を大学本部から私が依頼された。こうして2006年に竣工したのが、開学30周年記念「総合交流会館」(あす2日付で紹介)である。

学内外の交流と大学の情報発信の象徴的な拠点として、大学会館の閉鎖的な空間とは対照的に、開放的な「ガラスボックス」を大学会館に貫入させる意匠となった。この施設の実現によって、学外からの車による直截的なアクセスが視覚化された」

キャンパスの顔

【建築散歩】旧東京教育大学を改称し、1973年に設置された筑波大学は、研究学園都市の研究学園地区内に4つのコアをゾーニングして整備された。そのうち中央コアと呼ばれる、文字通りキャンパスのセンターゾーンに、同じ槇文彦さんが設計し1974年に完成した大学会館が所在する。

中央コアは複数の建物が中庭を囲むように配置されており、学内行事に活用される会館のほか、外来者にも対応したレストランや商業店舗、宿泊機能が網羅されている。80年代に都市整備を所管していた住都公団(UR都市再生機構)の案内でキャンパスを訪ねた折、公団担当者は「東京大学との比較は無意味かもしれませんが、筑波大は、広く世界と交流し、物事を提案する人材育成を目指しています」と語っていた。

大学会館は、学生達がコミュニケーションを図り、内外への情報発信を行う空間であり、研究学園地区を貫くペデストリアンデッキからもキャンパスの「顔」としてたたずむ。用途は開放形だが、会館を含む中央コアの建物群は、さながら要塞のようにも見える。

大学会館と共に槇さんは体芸棟を設計した。壁面がガラスのブロックパネルで構成された体芸棟は、筑波山に向かって大学会館を目指す門の役割を果たす。

筑波大学体育芸術専門学群中央棟(同)

槇さんは、ヒルサイドテラス(東京都渋谷区、旧山手通り)、幕張メッセ、同新展示場・北ホール(千葉市)や朱鷺メッセ(新潟市)、横浜アイランドタワー(横浜市)、東京体育館等で知られるが、85年のつくば科学博Aブロック外国展示館、民間企業研究所といった、つくばでの建築も手がけている。(鴨志田隆之)

続く

➡つくば建築散歩2 鵜沢隆、筑波大学総合研究棟Dはこちら 
➡つくば建築散歩3 坂倉建築研究所、つくば国際会議場はこちら 
➡つくば建築散歩4 谷口吉生、つくばカピオはこちら 
➡つくば建築散歩5 伊東豊雄、南3駐車場はこちら 
➡つくば建築散歩6 妹島和世、ひたち野リフレはこちら 
➡つくば建築散歩7 磯崎新、つくばセンタービルはこちら (敬称略)

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つくば市で21日、公道を使った自動運転バスの走行テストを行う実証実験が始まった。ルートは、つくば駅から筑波大学構内を循環する約10キロの既存のバス路線で、所要時間は約40分。一般の乗客を乗せて1日4便の運行を来年1月23日まで続ける予定だ。同市は2027年度に、運転手不在の状態で、特定の条件下で完全な自動運転が可能となる「レベル4」の実現を目指している。 この実験は、昨年と今年1月に続いて3回目となる。今回はこれまでと同様、状況に応じて運転手が操作を行う「レベル2」での実施となる。 今回は、国の補助金を活用して関東鉄道が自動運転バス車両を新たに購入し、同社のバス路線「筑波大学循環」内のすべてのバス停に停車するなど、新たな取り組みも加わった。また、今年8月にはつくば市を代表として、筑波大学、関東鉄道、KDDIが「つくば自動運転社会実装推進事業コンソーシアム」を設立。民間5社の協力も得て実施されている。 今回使用されている車両は、名古屋市のベンチャー企業ティアフォーによる自動運転EVバス「ミニバス 2.0」。最高時速は70キロ、定員は28人だが、自動運転時は時速35キロ、定員16人で走行する。走行時には8台のカメラと13台のレーザーセンサーが周囲の状況を分析し、事前に設定した走行ルートに従って自動安全システムが交差点やカーブでの停止・発進、加減速などを行う。緊急時には乗車する運転士が手動運転で対応する。この日は通信トラブルが発生し、バス停での停車・発車時などで手動操作に切り替え運行した。 つくば市科学技術戦略課の中島央樹さんは、今回の実証実験について「国は、全国で自動運転サービスの実装を2025年度に50カ所、27年度に100カ所以上とする目標を掲げている。つくば市もこれに合わせ、27年10月に完全に運転手がいないレベル4の実装を目指している」とし、「昨年は6カ所のバス停のみ停車したが、今回は、路線バスと同じ動きをすることを目指し、29カ所すべてに停まるようにした。以前はつくばセンターのロータリー外側から発車していたものを、内側からの出発に変更した」と説明し、「つくば市に限らず、中心部と周辺地域の移動格差が課題となっている。つくばは車が主な移動手段で、交通渋滞や事故が問題になっているほか、交通事業者では運転手不足による減便などの課題もある。自動運転バスの運行を通じて公共交通を地域に根付かせ、こうした課題の解決につなげていきたい」と目標を語った。 同市は今年度当初予算で、国の国庫支出金を財源に、自動運転バスの購入費、自動運転地図作製費、レベル4通信費など約1億3400万円と、自動運転バス年間維持費約1370万円の計1億4770万円を計上した。今年度は実証実験とレベル4許認可申請、26年度は実証実験、27年は定常運行を目指している。(柴田大輔) https://youtu.be/FfSoeYhtxLI ◆乗車料金は無料。QRコードで希望の時間を事前予約する。事前予約がない場合は先着順となり、定員に達した場合は乗車できないことがある。詳しくはつくば市ホームページへ。