火曜日, 3月 31, 2026
ホームスポーツ「欲を出さないで頑張るしかない」 霞ケ浦 高橋監督【高校野球’21】

「欲を出さないで頑張るしかない」 霞ケ浦 高橋監督【高校野球’21】

一昨年の夏に優勝し、昨年の独自大会でも優勝(4校優勝)と、この夏は3連覇をかけて戦う霞ケ浦。昨秋は準決勝で鹿島学園に敗れ関東大会出場を逃した。春は好投手・樫村佳歩擁する水城に県大会初戦で逆転負けを喫している。高橋祐二監督(61)にチームの現状を余すことなく語ってもらった。

勝てる力あるが、もろさある

ー常総学院や土浦日大が入るゾーンです。組み合わせについて所感を伺いたいと思います。

高橋 特にありません。よそのチームを考える余裕がない。今年のチームは勝てる力はあるとは思うけど、簡単に負けるもろさもあり、霞ケ浦の本来の計算した、理詰めの野球が成立していません。監督を始めて12年目で初めて、決勝に行ってある程度こういうチームをつくればなんとか戦えると手応えをつかんで準決勝、決勝までは勝ち進んでいましたが、今年は21年目にして初めてその力がないかもしれません。強いチームを倒す力はもちろん秘めていますが、簡単に負ける可能性もある。そんなチームです。今年はピッチャーが計算できない。野手陣も戦力的には大して毎年変わらないと思うのですが、ものを考える力が不足しているとか、勝ち方を知らないとか、こちらにあまりついてきてくれていない部分が大きいのかもしれないですね。厳しいゾーンではありますが、同一ブロックでシードの土浦日大にしても常総学院にしても戦えないとは思っていませんが、目の前の相手、一戦一戦を戦っていくしかないのかなと。大それたことは言えない状況ですね。

ー現有戦力の分析をお願いします。歴代チームと比べてどうでしょうか。

高橋 1年生の夏に甲子園に行った飯塚恒介(3年)と宮崎莉汰(3年)がチームの完全な柱になり引っ張っていくような形が理想なのですが、そうなっておりません。飯塚についてはそれに近い存在にはなってきていますが、宮崎は全くですね。本来甲子園に行けなくても1年生から起用してきた選手は例年3年生になると完全な柱になってきました。ピッチャーでも野手でもそうですが今年はそうなっていません。戦力的には例年と変わりませんが、内面的な部分が相当弱いです。

1年夏からチームを支える飯塚選手。通算本塁打は30本を超える

ー技術的な部分ではなく、あくまで内面的な部分ですか。

高橋 内容的な部分がダメだから技術的な部分に影響を及ぼすのだと思います。チームの中心にならないといけない存在なのになっていない。3年生と2年生は持っている技量を引き出すだけの頭がないのか心がないのか、非常に残念ですね。僕自身は毎年チームづくりの仕方は変えていません。僕としてはある程度ここまでできたらなという指標のようなものがあるんですけど、今年のチームはそこまで届いていません。今年の子たちはチームワークが良いとは言えません。自分だけが良ければそれで良いという風に感じ取れる部分がある。霞ケ浦の野球って基本的に一人の力がなくても、糸だって100本あればロープになる。一本が細くても束になれば強くなるという野球なんですよ。それが今年は全くそうなっていません。例年同じようにチームづくりをしていても、根本的なところは押さえた上で、その年の3年生の性格によってチームカラーが出ます。今年は根本的なところを押さえられないまま最後の夏を迎えることになってしまいました。あめを使ってもむちを使っても通用しませんでした。

コロナが心に影響、例年とは違う

ーそれはコロナの期間を経験した影響からですか。

高橋 2年生はコロナの影響があるかもしれないですね。やっぱり一番大事な4月から6月にかけての時期に霞ケ浦高校野球部として感じなければならないことを感じてこないで、やってこなければならないことをやれないでいて、去年の1年間を過ごしたってことが今の2年生にとっては非常に影響を及ぼしているので、ちょっとピントがずれているところがある気がしますね。やっぱりこれだけたくさん練習をやって試合をこなしてきているのだから、全ては想定内のことで進んでいかないといけないといけないのに、今年はエッと驚くような考えられないプレーが起きる。監督が選手を掌握できていません。そういうチームはダメだね。これがコロナの期間が影響してこうなったのか、どうして今年はこうなのか答えは出ていません。来年どうなるか、これからは毎年そうなのかもしれませんね。ほかの強豪校の監督と意見交換すると、どこの監督とも「コロナが選手の心の成長に何か影響しているのかもしれないですね。例年とは違いますよね。」という話になります。高校生活をしていく中で一番大事な時を失ってしまった子たちですからね。

ー春の県大会は初戦で水城に敗れました。注目投手の樫村佳歩君と対戦してみてどうでしたか。

高橋 良いボールでした。もう1回やりたいね。リードしていたのに余裕がなくて守備から崩れて一気に6失点。そういうところが例年のチームと違う。守り勝てなくてビッグイニングをつくってしまうから。本当に何が起きるか分からない。

ここに来て山名が急成長

ーピッチャーについて伺います。春に背番号1だった渡邊夏一投手(2年)はどんな状態ですか。

高橋 当然期待値は高くて水城戦で先発したように春は主戦で投げていましたよ。でも、打者に向かっていけない。なおかつ打たれてしまうので自信を喪失して余計に気持ちが乗ってこない。本人が一番そのことを分かっていると思うので、期待のままにずるずるとベンチに入れてしまうよりは、一回奮起を促してどれだけ爆発できるかというのを見ていこうという考えではいますが、どうなるか大会まで分かりません。

エースとして期待される山名投手

ーそれでは夏の主戦投手は誰に?

高橋 山名健心(3年)です。唯一の救いはここに来て山名が急成長したということです。先日の東京の強豪校や山梨の強豪校と良いピッチングを披露して、山名が今一番自信を持っていますね。僕が見ていてもこれだったら勝負できるなと。あの時のピッチングが本番で出せるかどうかですね。ストレート自体も良くなりましたけれど、変化球が格段に良くなりました。

ー長身右腕の赤羽蓮投手(2年)はどうですか。

高橋 赤羽は成長がゆっくりですが、本人の自覚も徐々に出てきて成長を感じます。ベンチにも入りますね。

2年生の長身右腕、赤羽投手

ー付属ボーイズでエースとして活躍していた木村優人選手(1年)はどうですか。

高橋 本人がピッチャー志望ですからピッチャーをやらせているのですが、そこそこきっちりと投げますけれど、まだピッチャーらしいピッチャーではないです。素材としては学年では一番良いと思います。夏にはベンチに入ります。野手としての可能性も感じます。

ーベンチ入りするピッチャーは全部で何人ですか。

高橋 山名、木村、山田、赤羽、飯塚です。

ー1年生の木村君が2番手候補なのですか。

高橋 一番良いボール投げますからね。それに野球を知っています。ポテンシャルは兄(翔大・東洋大4年)にも負けていないですよ。

1年生ながら投打に能力が高い木村選手。2番手投手として早くも期待される

ー飯塚選手も投げるのですね。

高橋 まあ投げることはないでしょうけど、緊急登板なんてことも想定しています。もう1枚どうしようかと今考えているところです。

ー調子が上向きの選手を挙げるとしたら誰ですか。

高橋 ピッチャーは完全に山名ですね。野手ですか。野手はどうでしょう。見当たりませんね。

ー一番打っているのは誰ですか。

高橋 それは間違いなく飯塚ですね。パンチ力がありますね。30本くらいは打ったんじゃないかな。専大松戸の深沢君からも打ちました。

ー春の大会以降はどんなところと練習試合をしてどんな結果でしたか。

高橋 4月中に強豪校と複数試合を組んでいましたが、県外とは禁止となって、県内のチームとやらせてもらいました。水戸一、藤代、土浦日大、石岡一、下妻一。後は土浦市内大会ですね。下妻一以外とは全敗でした。水戸一には0対2でしたね。石井陽向君にものの見事に完封されました。素晴らしい。石岡一には0対6でやられました。植村塁君が一番良いと思いましたね。ものが違う。石岡一は本当に強いです。4月5月は県内の公立高校にたくさん負けました。6月に入って健大高崎と前橋育英に勝たせていただいてから徐々に調子が上向きになってきました。そして先日は東海大菅生と二松学舎と良いゲームをやらせていただいて。東海大甲府とは1対2で負けましたが、山名が完投して5安打。非常に良いゲームができて自信になったと思います。こんな良いピッチャーがいるのかと村中監督に言われたくらいです。本当に素晴らしい内容でしたので。

3連覇がかかった大会

ー監督の中では勝ち上がるイメージプランは出来上がっていますか。一昨年なんかはもう勝ち上がるプランをおっしゃっていただいて、そのとおりに投手起用されて優勝できましたが。

高橋 組み合わせが決まったら毎年ここで誰が投げようというプランを立てるのですが、今年はそういうのがないですね。本当にどうしたらいいかが分からない。こんな年は初めてです。エースを初戦からぶつけるしかないのかなと思います。でも球数制限があるからエースだけでいくと、1試合150球を4試合で、1週間のうちに600球投げることになって制限オーバーしてしまうんですよ。移行期間ではありますけど、その辺を考慮しないといけませんね。先のことを考えるのではなくて、目の前の試合を勝つと考えた時に、この投手で負けても仕方ないと思って起用するしかないかもしれませんね。今までの年とは違います。今まで2回甲子園に行っていますが、いずれも秋春の関東大会に行っていない年なんですよね。今年も関東大会に行っていないから、そういう意味では良いジンクスが共通するのですが、実績のない年の戦い方と今年の戦い方はどう考えても違うんですよね。

ー最後に、夏に向けて意気込みを語っていただきたいのですが。

高橋 それはもちろん甲子園を目指していますよ。去年の独自大会は優勝(大会はベスト4で終了)しましたし、一昨年の選手権は優勝していますので、夏はまだ2年間負けていません。3連覇がかかった大会なので今年も優勝を目指していますが、本当にうちは初戦で負けるかもしれません。チームがこういう状況なので欲を出さないで頑張るしかないですね。

ーどういう戦いになるのか楽しみにしています。(聞き手・伊達康)

監督インタビュー終わり

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【コラム・1年 H.O】フィクションには、人間を一時的に現実世界の憂慮から離す力がある、と私は思っている。 学校で、哲学部とともに文芸部にも所属する私は、小説などのフィクション作品を作る担い手であり、フィクション作品を鑑賞する立場でもある。そんな私がフィクションに触れるのは、自分の感じたい感情のため、あるいは作品づくりの勉強をするためというのが主な理由だ。ただ、その根底にあるのは、フィクションという空想の世界に一時的に没入して、悩んでいることから離れたい、もしくは他の人にも自分の作品で嫌なことを一時的に忘れてほしいという思いだと思う。 なぜ私たちはフィクションを求めるのだろうか。私たちの身の回りでは、さまざまな出来事が起こっている。わざわざ架空のものを求める必要性は何なのか、と私はふと思うこともある。おそらく、フィクションを必要とせず、普段ほとんど接することがない、という人もいるだろう。 ここでは、改めて私たちがなぜフィクションを求めるのか、私の経験などをもとに考えていきたい。この文章を読みながら、あなたも一緒に考えてみてはいかがだろうか。 「作られたストーリー」だからこそ可能なこと フィクションを読む理由の一つとして、冒頭でも述べた通り、自分の感じたい感情のためというのがあると思う。これは私がフィクションを求める大きな理由だ。 ある日のこと、私はクラスの人からお菓子をもらったのがうれしかったので、親にその旨のLINEを送った。また、その日返却されたテストの結果が良かったので、その点数も送った。しかし、全て送った後に何か違和感を感じて、自分が今開いているトークルームを確認してみると、それはクラスのトークルームだった...!  慌てて消そうとしたため、間違って「送信取り消し」ではなく「削除」という自分の端末からだけ消去する選択肢をしてしまい、送ったメッセージは消せず。今となっては話のネタだが、その当時は絶望的な気持ちだった。そんな嫌な現実を忘れるために選んだのが、コメディー作品を読むことだ。自分がいる場所から一時的にフィクションの世界に没入して、登場人物たちによって繰り広げられる面白劇を眺める。そうすることで、絶望の記憶が楽しい記憶で塗り替えられていく。結局、出来事が起きてからすぐコメディーを読んだおかげで、この思い出は割と早くに笑い話へと変化した。 上記の例では、誤送信から発生した「現実を忘れたい」「楽しいことを考えたい」という感情を満たすため、笑えるコメディーを読んでいる。 それ以外にも、一般的に、ワクワクしたい時にファンタジーを、キュンキュンしたい時に恋愛ものを、肝試し感覚で恐怖を感じたい時にはホラーを読むことが多い。自分が感じたい感情を感じる時、フィクションは割と効果的な気もする。 ここで少し、なぜ私が自分の感じたい感情を感じるとき、フィクションを求めるのか考えてみたい。 フィクションの大きな特徴として、「虚構性」が挙げられる。完全に作者の手によって作られるため、その世界は私たちが生きている現実世界そのままではない。また、フィクションには「決められたストーリー」がある。 では、その虚構性と決められたストーリーにより、どういった効果があるのだろうか? まず、とある作品を読むことによって、ある程度特定の感情を感じることができるというのがあると思う。作者の手によって、フィクション、特に大衆向けのものは作者の意図した感情を抱かせるような作りをしている。例えば、ファンタジーもので、優しい姫が王子に婚約破棄される話はどうだろう。心優しい有能な姫は国のために一生懸命働いていたが、王子に浮気されて国外追放されてしまう。途方に暮れる姫だったが、追放された先の王子が姫を助け、2人はやがて恋に落ちる。そして、姫がやってきた国は豊かになり、姫は優しい王子と結婚する。一方で、姫を追放した王子は姫の恩恵を失い、責任を取らされて全ての地位を失う。 この例において、読者の感情の流れとして意図されているのは 冒頭(姫が王子に婚約破棄される) ・姫を追放した王子への怒り ・姫が救われてほしいという願望 中盤(姫が追放された先の王子に助けられ、恋に落ちる) ・姫が助けられたことによる満足・幸福感 ・姫と王子の恋が成就してほしいという願望 ラスト(姫が王子と結婚・追放した王子が地位を失う) ・姫と王子の恋が成就したことによる満足・幸福感 ・追放した王子が報いを受けたことによるスカッと感 (※ただし、ここで挙げた感情は意図されている感情の一部) といったものだろう。 ここで、フィクションが私たちの感情にもたらす効果をもう一つ挙げてみる。現実世界とは違う世界で話が展開されるため「安心しつつフィクションの世界と感情を楽しむことができる」ということだ。登場人物に感情移入して笑ったり涙を流したりはするが、その登場人物と私は同一人物ではない。一方、ノンフィクションはあくまでも現実世界の話であり、どこかに「これは現実だ」という意識がある。つまり、私たちはフィクションを現実とは違うものとみなし、その分、思う存分感情を味わうことができるのだ。 ここまでの話を一度まとめてみる。フィクションには虚構性があるため、特定の感情を感じるために作られたストーリーを、現実世界の出来事だという意識を持たずに、「自分の求める感情のため」に読むことができる。これは、ノンフィクションにはない特徴だ。 もちろん、自分の感じたい感情を感じる手段は他にもある。SNSはその一つの例だと思う。でも、私にとって、フィクションは自分が求める感情を感じるための一つの大きな手段であり、自分の心を支えるための薬とも言えるかもしれない。 人と人をつなげるフィクション ここまでは、私の経験をもとにして、フィクションを求める理由の一つである、自分の求める感情のためについて考えてみた。しかし、これ以外の理由からフィクションを求める人もいる。ここで一度、先ほどとはまた違った角度から、フィクションを求める理由を考えていきたい。 一般的に、フィクションは、複数人が見ることが可能な形式になっていることが多い。そのため、フィクションは人と人の間で共有可能という特徴がある。すなわち「共有性」があると言えるだろう。これが存在することによって、人と人はつながることができる。フィクションは、人と人をつなげるのだ。それが、「人とのつながりのため」という、フィクションを求める理由の一つになる。 フィクションが人をつなげることについて、もう少し深く考えてみよう。 人同士がフィクションを通してつながる時、そのつながりには種類があると思う。つながりによって、その特有さや強度が異なるのだ。フィクションを見た時に生じるであろうそれぞれのつながりを、以下で考えてみる。 一つ目のつながりは、同じものを知っているということだと思う。同じ本を読むことで、そこで登場する人々、発生する出来事、ストーリーなどを共有することができる。 フィクションが生み出す二つ目のつながりは、同じ感情を同じ流れで感じたということではないかと思う。これは、作者の意図した感情を読んでいる側に感じさせるようなフィクションの場合に言える。先ほど「優しい姫が王子に婚約破棄される話」の例でも述べたが、フィクション、特に大衆向けの話は意図した感情の流れを発生させるようなものが多い。フィクション特有のつながりは、これによって生まれるのではないかと私は思う。 まず、フィクション以外の感情の共有について少し見てみる。「同じものが好き」というのは、「好き」という感情を好きな者同士で感じていることであり、そこにつながりは発生する。しかし、その場合共有しているのは単一の感情のみであり、つながりは薄いような気がする。 同じフィクションを読んだ場合は、共有しているのは一つの感情だけではない。主人公が不幸に遭った時は悲しみや同情、主人公が幸せになった時は幸福感や満足感を感じるなど、一つのストーリーの中でも様々な感情を感じる。しかもその感情には一定の流れがある。それにより、フィクションを読むことは様々な感情を同じ流れで感じたという、他のものではなかなか起こりづらい体験の共有ができるのだ。これは一つの感情を共有している時よりも、より強力なつながりだと思う。しかも同じフィクションを読めば同じ体験が共有できるのだから、手軽なリンクでもある。 ただ、ここで二つ目のつながり、「同じ感情を同じ流れで感じた」というものについて考えてみると、いくつか例外的なフィクションが出てくる。それは、決まった感情の流れを意図していない作品だ。この間の授業で、芥川龍之介の「羅生門」を学んだのだが、その受け取り方は生徒によって多種多様だった。その場合、同じ感情を同じ流れで感じたというつながりは発生しない。では、その他に何かリンクはないのだろうか。 私が思うに、フィクションの場合、もはや同じ感情を共有していなくとも、フィクションを媒介として人と人の内面をつなげることができるような気がする。フィクションに対する感想交換を通じて、社会的規範に縛られず、ありのままの自分を知ってもらえるのではないか、と思う。 一つのニュースについて意見を交換するとき、その意見は無意識的、もしくは意識的に社会的規範に縛られる。常識や一般的な倫理感から、「こんなことはあり得ない」「倫理的にいけない」と、社会規範から外れる意見はセーブされやすくなる。意見は国籍や所属団体によっても変化するだろう。しかし、それが現実世界ではなくフィクションについて感想を交換するとき、意見の束縛は減るのではないだろうか。 フィクションは虚構の世界の話だ。だから、その世界の物事について感想を述べるとき、「これは現実世界のことではない」と割り切って話すことができる。社会的規範や立場に縛られることなく、登場人物になりきったり、自分だったらもっとこういう世界がいい、と考えることができる。それは、現実の物事に対する意見と比較して、さらにその人自身の考え方に近く、内面を映し出していると言えるのではないだろうか。フィクションは、人の思考を社会的なしがらみから解放し、より自由な意見を表せるようにする。そうすることで、感想を交換した人同士は、ただニュースなどについて意見を交換するより、その人の内面を知ることができる。フィクションには、人と人の内面を繋ぐ力があるのだ。 私は、「感想交換を通じて、自分の内面を共有できる」というのが、フィクションが生み出す三つ目の強いつながりになるのではないかと思う。 最後に この文章では、フィクションを求める理由を「自分の感じたい感情のため」と「人とのつながりのため」の二つに絞り、深く掘り下げてみた。「なぜフィクションを求めるのか」という問いへの答えは、人によって違うだろう。また、同じ人であっても、時と場合によって変化もするだろう。今回考えてみた理由二つのうち、どちらも当てはまらない人や、フィクションを見ない、という人もいると思う。ぜひ、私が今回この文章で私にとってのフィクションを求める理由を考えたように、あなたもあなた自身にとっての理由を考えてみるのはいかがだろうか。 最後に、尋ねよう。「あなたはなぜフィクションを求めるのか?」

アストロプラネッツ、茨城ダービーでゴールデンゴールズに勝利

プロ野球独立リーグ・ルートインBCリーグの開幕を前に、茨城アストロプラネッツ(AP)は28日、笠間市箱田の笠間市民球場で、社会人クラブチームの茨城ゴールデンゴールズ(GG)とオープン戦を行い12-2で勝利した。茨城APの今季開幕戦は4月5日エイジェックスタジアム(栃木県宇都宮市)で、ホーム開幕戦は翌6日ノーブルホームスタジアム水戸(水戸市見川町)で行われ、対戦相手は2戦とも栃木ゴールデンブレーブスになる。 【2026シーズンオープン戦】茨城アストロプラネッツ-茨城ゴールデンゴールズ(3月28日、笠間市民球場)茨城GG 000001010 2茨城AP 30021123X 12 茨城APは先発投手の川平真也が5回を投げ被安打1、6奪三振、1四球と試合をつくった。攻撃では初回に5安打を固めて3点を先制。4回以降も得点を重ね、救援投手を打ち崩した。 初回に右前打で先制点を挙げた木村泰賀は下妻市出身、常磐大高では31本塁打を挙げた強打者だ。仙台大を卒業し今季、茨城APに加入。高校ではサード、大学ではレフトを守ったが、今年はセカンドにも挑戦中だ。「プロに行くなら内野で勝負しようと考えた。特にセカンドは守備範囲も広く、一つ一つの打球に他のポジションの選手と連携して動かなくてはいけない」と、守備を鍛え直している最中だという。 「今季は新たに18選手が加入し、レギュラーも去年から6人が入れ替わった。サインプレーやフォーメーションなどは一からつくり直しの部分もあるが、八木健史ヘッドコーチの加入や北原翔捕手の兼任コーチ就任でスタッフが充実し、よりスムーズな指導ができている」と話すのは巽慎吾投手兼任監督。「能力ある選手たちがそろい、実力を発揮してリーグ優勝を目指すとともに、昨年はゼロだったドラフト指名にも選手を送り込みたい。一人でも多く上のステージへ上がれるよう全力でサポートする」と意気込む。 注目選手の一人が捕手の草場悠。大阪の名門・履正社高の出身で、50メートル走5.9秒、遠投100メートルなど肩と足にストロングポイントを持つ選手だ。今季は打率3割、10本塁打、30盗塁を目標とし、主将にも就任した。「2年目なので気持ちも新たにチームを引っ張ってくれというメッセージだと受け止めている。年の近い選手も多いので楽しくやらせてもらっている」と話す。 それぞれの日本一目指す 茨城APと茨城GGの対戦は今回初めて実現した。スタッフや選手同士の交流は以前からあり、機会をうかがっていたという。「個々のレベルの違いはあるが、いま持っている実力を出すことができた。ぜひまた再戦したい」と茨城GGの樋口亮介・助監督。「どこへ行っても茨城と言うと欽ちゃん球団(茨城GGの初代監督はタレントの萩本欽一さん)の名が上がる。その知名度はすごい。うちも頑張らなくては」と巽監督。「ここ数年は全国大会を逃してきたが、今年こそ力をつけて全国へ行き、カテゴリーは違ってもプラネッツと一緒に茨城の野球を盛り上げていきたい」と樋口助監督は返す。なお、茨城GGは今年チーム創設20周年を迎え、去年からは女子チームも活動を始め、躍進が期待される。(池田充雄)