火曜日, 9月 9, 2025
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【アングル土浦市長選】3 寄付講座で黒字転換の霞ケ浦医療センター 「再編統合」のリスト入り

【相澤冬樹】県も市も、当事者の病院も声をそろえ、「寝耳に水だった」と振り返る。厚生労働省が9月26日、診療実績が少ないなどとして、再編統合の検討が必要な全国424の公立・公的病院名を公表した際、リストに霞ケ浦医療センター(土浦市下高津)の名があったため、周囲に動揺と戸惑いが広がった。

院長メッセージを発信

以来1カ月、利用者や住民から問い合わせが寄せられる同センターでは、情報を収集し、県、市との協議を繰り返す中で、ようやく事態の輪郭が飲みこめてきた。今月末に鈴木祥司院長(56)名で「患者」と「院内」向けに、今後とも病院の役割を「しっかり行っていく」旨、メッセージを発する準備が整った。

それによれば、今回の公表は厚労省が強制力を持って病院の再編・統合を進めるものではなく、県が主導する地域医療構想会議で議論し、地域の中での病院の役割を明らかにするのが目的と受け止めている。同構想は2025年の医療需要と病床の必要量を見通し、分担や連携などによって医療提供の体制を実現するための施策をまとめるもの。会議は県内9保健所ごとに設置され、土浦地域医療構想会議(委員長・小原芳道土浦市医師会長)は同市と石岡市、かすみがうら市をエリアとし、行政、医療・福祉関係者など約20人で構成される。

土浦市などによれば、同会議ではこれまで、全国で下位から2番目の医師不足の茨城県にあって、同市へは鹿行地域などから患者が押し寄せ、産婦人科病院のない石岡市からの流入も顕著になっている現状を踏まえ、病院機能の分化と連携が議論されてきた。高次医療について同センターと土浦協同病院に加え、近隣の筑波大学付属病院、東京医大茨城医療センターのそれぞれの持つ機能に合わせた体制の構築を議論してきた。

霞ケ浦医療センターは2004年、それまでの国立病院から独立行政法人に改組となり、会計上「独立採算」となって経営がひっ迫、40人以上いた常勤医が2010年には18人まで減って、経常収支も悪化した。廃院も取りざたされ、地元住民から病院支援の陳情運動が起こり、同市が総理大臣あて意見書を提出する事態にまでなった。

地方自治体からの支援を可能にする地方財政法の改正を受け、同市は12年、同センター内に筑波大学大学院の研究科を置く「寄付講座」を設けた。土浦地域臨床医療センターと呼ばれるもので、医療者の研究と教育の役割も担っている。

同市によれば12年度からの5年間は2億6600万円を寄付、17年度から第2期に入り、2年間で1億5400万円を寄付した。教員(医師)数でいえば、教授3人、講師2人の派遣を受け入れたことになる。19年度からは筑波大学のフラッグシップホスピタル(地域拠点病院)にも指定された。

これらの取り組みの結果、病院収支は改善、18年度は経常収支が黒字となった。同年度の医師数は常勤医39人、非常勤8人で以前の水準に戻した。手術件数は2287件で07年1189件の倍近くになった。

1年で対応策とりまとめ

土浦協同病院が16年、同市おおつ野に病床数800の新病院を建設して移転して以降、同市の桜川以南の住民には同センターが存在感を増している。鈴木院長によれば「霞ケ浦医療センターは土浦の市民病院的な役割を担い、急性期の患者だけを診るのではなく、二次救急から在宅医療・介護までをマネジメントできる医療者のリーダーを育成してきた」という。

海軍病院の名残りをとどめる東郷平八郎の書を前に取材に応じる鈴木祥司院長

地域医療構想会議においても「再編統合」の話にはならない。団塊世代がそろって後期高齢者となる「2025年問題」を越えて、高齢者人口が総人口の3分の1を超えると推計される「2040年問題」に向け、同センターの機能転換についての議論に踏み込んでいた。課題となっている周産期患者の受け入れ拡大などのため、病院の改築も目論んでいた。そんな矢先の厚労省の発表だった。

「よくよく聞いてみると、公表の根拠は2017年6月単月の診療実績によるものだった。病床の絶対数で差のある土浦協同病院との単純比較には納得できない点もあった」と鈴木院長。これまでの取り組みには自信をもっているが、病院の建て替え話は仕切り直しを迫られた格好だ。医療費削減を至上命題とする国からの資金投入が期待できないなか、自治体が再編策に反発しても財政負担を伴う施策を打ち出せるか、同会議を通じ対応策は来年9月までにまとめることになる。

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何もしない夏《続・平熱日記》184

【コラム・斉藤裕之】辺りが薄明るくなってくると最初の1匹が鳴き始める。それに応えて「カナカナ…」と仲間のヒグラシが鳴き始める。サンダルを履いてなだらかな砂利道を下る。数メートル先を白く丸まったパクの尻尾が進む。しばらく行くと道は2つに分かれる。その先の田んぼから聞こえるのはフロッグコーラス。 本当にかの合唱曲のようなコンダクターがいて、最初の1匹が「キキッ、キキッ」というような少し高い声を出すと、続いて一斉に「ケロケロケロケロ…」と合唱が始まる。広い田んぼにはいくつかのコーラスグループがあるようで、こちらの合唱団が鳴き始めてしばらくすると離れた所の合唱団が輪唱で追いかける。 この夏も山口の弟の家で過ごした。山の中にある家を一歩出ると、メススリという小さなハエが鬱陶(うっとう)しく顔の周りを飛び交う。メススリという名前の由来の通り、人の涙をすすりにくるという。 湧き出る水辺にはイモリの赤ちゃんがいた。イモリはが脱皮するということも初めて知った。モリアオガエルの目は金色だった。薪(まき)小屋の上にたわわになっているサルナシの実を見つけた。初めて食べたのはチャンバラ貝。ふたの部分に刀のような突起がある。田んぼで白と黒の大きな鳥を見かける。もしやと思ったらやっぱりコウノトリだった。 日本海の小さな港。堤防から覗(のぞ)いた海面には葉っぱ? 黒く体の色を変えたイカの赤ちゃんの群れがぷかぷか浮いていた。 初めて訪れた中古レコード店。私の漠然とした要望にサクサクっと店主さんが選んでくれた数枚のレコード。どんな曲だろう。それから廃材でポストを10個余り作った。パクを皮膚病の治療もかねて瀬戸内海で3回泳がせた。あまり海も泳ぎも好きではなさそうだったが…。 それから山の中にぽつんとある「ロバの本屋」に行った。小さな納屋のような建物を改装した店内に入ると、犬のビクターが出迎えてくれた。必要最小限に手を加えられた内装や古い棚やテーブル、店主さんのセンスで選ばれた本や文房具、糸や布の手芸用品が並ぶ。ちょうど終わった作品展「かみさまのようなもの」の陶器のオブジェがそのまま置いてあった。 また絵を描きたくなった 還暦を過ぎた弟は潔く大工をやめることにしたらしい。私はといえば未練がましく絵を描き続けていこうと思っている。正直、足腰や目、歯、見てくれは年相応にくたびれてきたのを感じることもあるけれども、ときどき中身は若い頃とさほど変わっていないように感じることがある。無知で未熟なままの…。 木製の古い窓から真っ青な夏空の見えるカフェスペースで、べったりと寄り添うビクターを撫(な)でながらコーヒーをすすった。また絵を描きたくなった。ロバの本屋に訪れてよかったと思った。 夕方、アブラゼミやニイニイゼミに代わってヒグラシが鳴き始めた。今日も暑い1日だったが、山の中の家は夕方になると涼しい風が吹いて夜は布団を被(かぶ)らないと寒いくらいだった。何もしない夏は何もないわけでもなかった。(画家)

吉田光男さんの随筆集「おとな日和」《邑から日本を見る》186

【コラム・先﨑千尋】水戸芸術館の設立と運営に尽力した水戸芸術振興財団元副理事長の吉田光男さんが亡くなって3年。このほど吉田さんの随筆集『おとな日和』が発刊され、私は佐川文庫を主宰する佐川千鶴さんを介して手にした。品格のある装丁とタイトルがいい。 吉田さんは私の高校の10年先輩で、水戸市内などで手広くガソリンスタンドやレンタカー・カーリースなどを経営している吉田石油のオーナーだった。粗野な私にとっては別世界の人で、生前にお目にかかることはなかった。元水戸市長の佐川一信さんの懐刀で、水戸芸術館の設立と運営に大きな役割を果たした人、という程度の知識しかなかった。 本書は「おとな日和」「芸術館開館に向けて」「日々雑感」など6章から成る。吉田さんが生前に書き残した随筆などをまとめたもので、軽妙洒脱な文が読む者を魅了する。 「水戸を日本一の文化都市に」 茨城県は今でも魅力度ランキング最下位の常連。水戸も「殿様」と「納豆」しかなく、文化果つるところ。その水戸を日本一の文化都市にしようと意気投合したのが吉田さんと佐川さんだ。ともに学問・芸術好きで、水戸学だの殿様などを評価しないこと、水戸に何かを付け加えなかったら水戸はダメだと焦っていること、などが共通点だったという。その新しい何かが水戸芸術館だった。 水戸芸術館は建築家の磯崎新の設計。遠くからも見える、正四面体を重ねてできた三重螺旋(らせん)の塔。それに、音楽ホール、演劇ホール、美術館の3つのホールが、緑の芝生を囲む形に配置されている。広場では縁日や野外劇などが行われ、暮れにはベートーヴェンの「第九」の演奏が名物になっている。 ホールはそれぞれ専用で、貸しホールにはせず、すべて独自のプログラムが組まれる。容れ物ができればそれでいいというのではなく、佐川市長は芸術館の運営に市の総予算の1%を充て、吉田秀和さんを初代館長にした。小澤征爾、森英恵、小口達夫などの超一流メンバーが集い、それぞれが水戸のために渾身の力を込めて一肌脱いでいる。 水戸芸術館管弦楽団は、世界中に散っている日本人演奏家の精鋭を集めて組織され、コンサートの切符はなかなか手に入らない。「芸術の梁山泊」が水戸芸術館だ。吉田さんは「日本にカジノを作っても、誰もその故に日本を尊敬する人はいない。政治の品性は一国の文化の程を決めてしまう」と書いている。 無類の本好き、骨董好き 本書を読んでわかったことだが、わが国の公害問題研究の第一人者である宇井純は、小学校時代、吉田さんと同級生だった。石岡市八郷地区で百姓暮らしをしている筧次郎さんは水戸の生まれであることは知っていたが、吉田さんの家の近くの人で、筧さんの野菜を食べていたという。 吉田さんは無類の本好きで、いつも本を読んでいた。本書にも古今東西の文献の引用が随所にさりげなく出てくる。水戸にゆかりのある作家の立花隆は「知の巨人」と言われていたが、吉田さんも知の巨人と言っていいのではないか。 また、無類の骨董好きでもある。この秋、水戸市泉町に開館するテツ・アートプラザ内の「クヴェル美術館」で、吉田さんが収集したシルクロードの仏教美術や陶磁器のコレクションが展示されるというので楽しみだ。なお、本書は非売品。水戸市内の図書館などで閲覧できる。(文中一部敬称略) (元瓜連町長)