火曜日, 4月 22, 2025
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パリ五輪男子サッカーの大岩監督、関彰商事で帰国報告会

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パリ五輪の報告をする大岩監督

パリ五輪男子サッカー日本代表U-23の大岩剛監督(52)が帰国し、スポーツアドバイザーを務める関彰商事つくばオフィス(同市二の宮)で13日、帰国報告会が開かれた。大岩監督率いる日本代表は、優勝したスペインに決勝リーグで敗れたものの、予選リーグでパラグアイ、マリ、イスラエルを撃破し、予選3連勝という好成績を残した。

大岩監督は「たくさんの応援を感謝したい。思うような結果は残せなかったかもしれないが、責任を持って戦った。とてもレベルの高い大会だったので、自分もチームも成長することが出来た。2年半活動し、準備し、自信をもって攻撃するチームづくりをしてきた。その結果として、予選リーグを全勝、(決勝で)優勝したスペインとも互角の戦いが出来た。この経験を通し、今後の日本サッカー界に良い影響を与えて行きたい」と述べた。

報告会には関正樹社長ほか社員約50人が集まった。関社長は「最終的にはスペインに敗れたが、結果ではないところで、楽しませてもらった。本当にお疲れ様でした。日本サッカー界を引っ張ってゆく大岩さんの活躍を、関彰グループ全員で応援して行きたい」と話した。

関社長は帰国報告会の進行役もつとめた。社員2人から、パリ五輪の空気や緊張感はどのようなものだったかなどの質問があり、大岩監督は「鹿島時代のアジア・チャンピオンリーグや五輪アジア予選の時の方が緊張感はあった。五輪に出場しなければならないというプレッシャーは大きかったので、パリに入ってからは緊張感よりもやってやろうという前向きな気持ちが強く、選手にもそれが伝わり良い試合が出来た。それでも本当はプレッシャーがあったようで、何もしなくても体重が5キロ落ちた」と語った。

「選手は2年半で成長した。この指導の実績をサッカー界に落とし込むという責任がある」とも話し、試合が終わった後の感想として「終わった後は負けた悔しさがあり、寂しかったり悲しかったりだったが、余韻は1時間ぐらいだった。リーグ戦に戻る準備もあったので、すぐに解散式をした。開放感はあっというまで終わった」などと付け加えた。

大岩監督は静岡県出身、静岡市立清水商業高校、筑波大学を経て、選手として名古屋グランパス、ジュビロ磐田、鹿島アントラーズなどでプレーした。その後、、鹿島のコーチ、2021年にはU-21日本代表の監督に就任した。関彰商事では2020年からスポーツアドバイザーに就任している。(榎田智司)

開拓団が逃げた後の居留地でソ連兵の残飯をあさった【語り継ぐ 戦後79年】5

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松浦幹司さん

つくば市 松浦幹司さん

市民講座「楽々大学」を主催するNPO法人スマイル・ステーション代表のつくば市、松浦幹司さん(87)は、旧満州(中国東北部)で生まれ、9歳だった終戦翌年、家族4人で引き揚げてきた。「このような体験はこれからの人たちに二度としてほしくない」と語る。

1937(昭和12)年、旧満州国(中国東北部)の首都、新京(現在は長春)で生まれた。盧溝橋事件が起きた年で、この後、日本軍は上海に攻め込み、翌38年、南京大虐殺といわれる南京事件が起こる。

松浦さんの両親とも山口県出身。新聞記者だった父親が、新聞社が満州に支社をつくるというのをきっかけに家族で満州に渡った。父親は一旗揚げようと、その後新聞社を辞め、満州でさまざまな事業を手掛けた。

40歳を過ぎた父に召集令状

1944年、戦況が悪化し満州国を実質的に統治していた関東軍が戦力を南方に移していたため、後を埋めるのに、40歳を過ぎた父親にも召集令状がきた。出征先はハイラルというソ連国境に近い町。父親は陸軍病院の事務方として勤務した。

松浦さんが小学2年だった1945年7月、父親がいるハイラルで夏休みを過ごそうと、母と1歳の妹と3人で、父のいるハイラルに出掛けた。ハイラルに近いマンチョウリという町が鉄道の終着駅にソ連の赤い列車が入るからと、見に行くのが楽しみだった。

父親が住む軍の官舎で夏休みの2カ月間を過ごすつもりだったから、衣類はカーキ色の半ズボンと上着のシャツ、帽子ぐらい。冬服は持っておらず、荷物もあまりなかった。

ハイラルの日本人学校は夏休みが無かったため、松浦さんはハイラルで小学校に通ったが、教室での勉強はあまりなく、軍隊の練兵場などの草取りに駆り出された。

ソ連が攻めてきた

ソ連が侵攻した8月9日は、午前2時ごろに父親が軍事演習だと言って呼び出され、軍用のトランクを持って出掛けて行った。

明け方、街中の方でドーン、ドーンという爆発音がして黒い煙が上がり始めた。父親は軍事演習だと言って出掛けたので、残された家族で「演習にしては派手だね」と話したのを覚えている。

そのうちラジオで、ソ連が攻めてきたことが分かった。慌てたが、どうしていいか分からない。そのうちに軍から「ハイラルの駅に集まれ。荷物は1人1個」という指示がきて、着の身着のまま駅に向かった。

駅で何時間か待ち、列車が入ってきた。民間人は後回し、軍人とその家族が優先され、母と妹と3人で列車に乗った。軍人も乗り、父親が家族がいる車両に来てしばらく一緒に過ごした。

軍は、ハルピンに向かって南下する途中のコウアンレイ(興安嶺)という山脈に陣を張って防戦するつもりだったので、チチハルで降りた。父親はここで分かれると言い、形見として軍の双眼鏡を渡してくれた。

家族はハルピンまで南下し、列車を下りた。ハルピン駅の近くには西本願寺があって、軍人の家族200~300人が寺の大広間に集められた。

日本が負けた

8月15日は寺で迎えた。大事な放送があるというので皆庭に出て、玉音放送が始まった、何を言っているのが雑音ではっきり聞き取れなかったが、大人たちが泣き出して、ぼそぼそと、日本が負けたというようなことが伝わってきた。小学2年だったので当時、負けたということがどういうことなのか、よく分からなかった。

何日か後、西本願寺はソ連兵の管理下になり、家族を引率してきた日本兵は武装解除となった。あすは日本に帰すという噂はいっぱい立って、皆それを期待していたが、そのような動きにはならなかった。

ある日、汽車に乗れと言われ、これで日本に帰れるのかなと思っていたら、ハルピン郊外の日本人開拓団が住んでいた居留地に移された。ソ連侵攻で開拓団は逃げ、空(から)になった居留地の一つだった。

コーリャンのおにぎりが1日1個

そこで冬を越すことになったが、食料はコーリャンのおにぎりが1人1日1個配られるだけだった。ソ連軍は開拓団の学校に駐屯し、野外で食事をした。食べ物はジャガイモのふかしたものと黒パンなど粗末なものだったが、日本人の子供たちは食事が終わるのを周りで待って、パンくずとか食べ残した残飯をあさった記憶がある。

栄養失調と赤痢、腸チフスなどの疫病で、毎日のように子供や老人が亡くなった。200~300人いた軍人家族の3割は亡くなったと思う。仲間が亡くなると庭に穴を掘って埋め、そのたびに皆で手を合わせた記憶がある。

母親は結婚前、看護師をしていて、多少医療の知識があり、浣腸の道具などを持っていた。赤痢になると命はないとわかっており、当時、便に血が混じったら教えなさいと言われた。血が混じっても、石鹸を溶いた石鹸液を浣腸で入れて、洗い出すしかなかった。

母親は、居留地での苦労がたたったのか、帰国してからひどい喘息を患い、当時の話を聞くことも出来ず52歳で亡くなった。

長春に戻っていい

中国では当時、毛沢東率いる中国共産党軍と蒋介石率いる国民党軍のせめぎ合いがあった。毛沢東の後ろにはソ連、蒋介石の後ろには米国がついていて、どちらも勝ったり負けたりしていた。1945年末か46年始めの冬、居留地をたまたま蒋介石が治めたときだと思う。日本人は長春(満州国崩壊により新京から改称)まで南下していいということになり、ハルピンから貨物車で向かった。長春には自宅があったが、戻ってみると、留守をしている間に中国人に取られて、入ることもできなかった。

終戦後も長春には何十万人という日本人が残っていたので、知り合いの日本人の家に転がり込み、点々とした。日本人が住むマンションは、階段の登り口に柵をつくってソ連兵や中国人が入れないようにしてあった。夜、ソ連兵の悪い連中が襲ってくると、皆で一斗缶を叩いた。ソ連兵が来たぞという合図となり、一斗缶を叩く音が広がって、しばらくするとソ連の憲兵が来て悪い兵隊を追い散らしくれた。

長春では収入が無かったので、転がり込んだマンションの台所でそら豆を揚げて、中国人に売って歩くのが子供の役割だった。揚げた後の油で石鹸をつくってまた中国人に売って歩いた。日本人同士、そういう知恵を出して助け合った。

中国共産党軍と国民党軍の行ったり来たりのやりとりは新京でも何度かあった。ドンパチにはあまりならず、相手の兵力を見て、危ないと思ったら一晩のうちに逃げてしまう。銃声もそんなにせず、ポン、ポン、ポンとした間に入れ替わった。共産党軍が勝った次の日の朝は、新京の目抜き通りのビルに毛沢東とスターリンの大きな写真が貼られ、逆に国民党軍が勝つと、蒋介石と米トルーマン大統領の写真が目抜き通りビルに飾られた。そういう入れ替えが1回か2回あったのを体験した。

父親と再開

長春に着いて2、3カ月後、父親と再会した。父は何人かの負傷兵を連れて面倒を見ながら南下していた。元気な日本兵はソ連軍に連れていかれたが、父は負傷者の面倒を見る部署だったから、シベリア抑留を免れた。長春の施設に負傷兵を収容し、父はそこで役目を終え、日本に帰国するまでの約半年間、一緒に過ごした。

1946年10月、引き揚げが決まり、長春から渤海に面するコロ島(葫芦島)まで、屋根のない無蓋車に乗って向かった。駅に停車するごとに中国人が物取りに来て「持ってるものを出せ」と脅されたが、皆で助け合いながらしのいだ。

コロ島では米軍の輸送船の船底に荷物と一緒に乗った。リバティ号という名前だった。船から九州の山々が見えた時、大人たちがデッキに出て泣いていた光景が目に焼き付いている。

佐世保に着くと、疫病にかかってないかを見るため2週間留め置かれた。どうやって連絡を取ったか分からないが、山口から祖父が迎えに来ていて、父の実家に向かった。

「満州から親子4人、1人も欠けることなく帰ってこられたのは珍しいと思う。どうして全員無事だったのか分からない。たまたまだったと思う」と松浦さん。

今、79年前を振り返って「辺見庸の『1937』という小説があって、日本人はずるずる(戦争に)行ってしまって、今なお、ずるずる生きているのではないかと警告を発している。今、いろんな情勢を考えると、まさしくその現象が起きつつあると思う」と語る。

年金の国民負担分は所得税に切り替えよ《ひょうたんの眼》71

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宝篋山と筑波山(筆者撮影)

【コラム・高橋恵一】公的年金の財政検証結果が厚生労働省から公表され、2057年度(33年後)の給付水準は、夫婦2人のモデル世帯で、その時の現役世代の平均収入月額41万8000円の50.4%(所得代替率)、21万1000円給付と試算され、現在の年金制度が前提としている所得代替率50%を確保できるとされました。

検証の前提は、実質経済成長率が-0.1%、合計特殊出生率が1.36(2023年は1.26)、会社員の夫と専業主婦のモデル世帯です。

まず、検証の前提ですが、実質経済成長率はこれまでの30年間の趨勢を採用し、今後は、女性、高齢者の労働参加と外国人の増加なのですが、いずれも現在の日本の低賃金層であり、所得に連動する保険料に対応する年金支給額ですから、低賃金を解消しない限り、給付水準は低下することになります。

さらに、低賃金構造の継続は、個人消費支出を押さえ、今後も経済成長の長期低迷が続くことになります。今回の、超高齢社会のピークを含むこれからの30年余を乗り切る年金財政検証は、楽観的な100年安心という政府公約のつじつま合わせに過ぎません。

検証では、給与所得以外の基礎年金(国民年金)のみの加入者世帯については、夫婦で10万7000円(所得代替率25.5%)と算出されました。支給年金から、住民税と後期高齢者医療制度の保険料、介護保険料などが差し引かれます。市町村などによって異なりますが、概ね各人2万円くらいになります。

モデル世帯に当てはめれば、夫婦の手元に残るのは6万円程度になります。単身だと3万円程度、1日1000円、とても生活できる額ではありません。

基礎年金については、年金制度として、現時点でも破綻していると言わざるを得なく、その対応策が提案されていますが、その多くは、厚生年金の加入条件を緩くして、厚生年金加入者を増やそうとする案です。厚生年金の第3号被保険者制度の撤廃もその1つです。しかし、年金の支給額は、加入期間と年金保険納付額に左右されますから、2057年度までの改善には間に合いません。

厚生年金の雇用者負担分は法人税に

近代国家において、高齢者と就労収入を得られないあるいは少ない人への年金支給は、医療、子供への教育と並んで、国家が責任を負う基本的な社会保障です。

社会保険料の天引き後の手取額が、生活保護費を下回る年金など、国民として多くの義務・役割を果たしてきた高齢者への社会保障とは言えません。基礎年金の保険料を所得税に切り替えるべきでしょう。加入者負担の保険料を合計して、所得税に振り替えれば他の財源に影響しません。

財政の大原則は、必要配分と応能負担。保険料負担を所得税負担にすれば、トータルの国民負担に変更はなく、負担が減額になる個人が出ますが、累進税率が公平に適用されていれば、不服のある人はいないはずです。つまり国民負担の増額にはなりません。同じ理由で、厚生年金の雇用者負担分は、法人税に振り替えたらよいと思います。(地歴好きの土浦人)

軍隊調の規則づくめ、普通の子が学童疎開児になった【語り継ぐ 戦後79年】4

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山田実さん

つくば市 山田実さん

つくば市に住む元農水省農業生物資源研究所の研究者、山田実さん(91)は、満州事変翌年の1931(昭和7)年、東京・小岩で生まれ、学童集団疎開と東京大空襲を経験した。戦争体験者の一人として「正義の戦争は国が言うもの。僕は不正義の平和の方がいい」と話す。山田ゆきよさん(88)=8月12日付=とは夫婦。

実さんが生まれた小岩は荒川の東側にあり、周囲は田んぼとハス田と野菜畑だった。荒川を境に西は東京下町の住宅密集地。後の東京大空襲で川の西側は焼け野原になってしまう。

小学1年生になった1939年、中国全土で戦争が拡大し、13歳年上の一番上の兄が兵隊にとられていった。

戦争が始まったんだよ

3年生だった1941年、太平洋戦争が始まった。12月8日朝、ラジオから大本営発表のニュースがあった。「何か始まっちゃったのかな」と言うと、「戦争が始まったんだよ」と兄。うすら寒い曇った朝だったと今でも覚えている。

後で調べて分かったことだが、真珠湾攻撃を始める前の11月20日、戦後、首相になった芦田均衆院議員が、戦争が始まると空襲があるので、大都市の子供たちを計画的に戦禍から避難させるよう求めていたことが分かった。

4年生になった翌年の4月18日昼間、学校で授業中、初めて空襲警報が鳴り、すぐ講堂に集められた。「静かにしろ」と言われたので皆、静かにじっと待ち、そのうち警報が解除。農業地帯だった小岩の町に被害はなかった。これが「ドゥーリトル空襲」と呼ばれた日本本土初の空襲だった。米海軍のドゥーリトル中佐を先頭に、航空母艦から爆撃機が飛び立ち、東京、名古屋、大阪などを爆撃した。

山形県に集団疎開

6年生だった1944年7月、サイパン島で日本軍が陥落すると、本土が空襲されると予想して、小学3年生から6年生まで、いなかのある子は縁故疎開、そうでない子は集団疎開が始まった。

翌月の8月9日、3年生から6年生までが登校班ごとに集まって夜行列車に乗り、上野駅から日本海側にある山形県鶴岡市、あつみ温泉の温泉宿に向かった。夕方、学校に集められたので、いつもの通学路を歩いた。途中まで母親が送ってくれて、ちょっと振り返ると、涙をのみ込むように上を向いていた母の姿を今でも思い出す。

疎開先には、25人程度の登校班二つに、20歳前後の若い娘が寮母として付いてきてくれて、子供たちの掃除や洗濯をやってくれ、病気になれば面倒を見てくれた。

軍隊帰りの先生が罰

大きな旅館だった。生活は、始めのうちはどこか修学旅行にでも行ったような気分だったが、軍隊調の規則づくめの生活で、たちまちこれは大変なもんだと分かった。

野間宏の「真空地帯」という小説は、社会から隔絶された軍隊の中は真空地帯だ、真空地帯に入って人は兵隊になると書く。実さんは「真空地帯」をもじって学童疎開について「普通の児童が疎開に行って学童疎開の児童になった」という。異常な生活体験をしなくてはならなかった。

食事は3食をわりと食べられたが、間食がなく、親に持ってこさせられた薬をおやつ代わりに食べて腹を壊した子もいた。生活は規則づくめ。実さんは6年生だったから班長をやらされ、偉そうなことを言った覚えがある。

面白いこともあった。秋になった時、温泉の裏山に山栗がなっていた。皆で採って、温泉の熱いところに浸して皆で食べた。それを軍隊帰りの先生に見つかって「けしからん、お前たちは」と叱られた。ところがこっちは食いたい盛り、寮母さんとそっとまたやって、一緒に食べた覚えがある。

食べ物のことが第一番だった。他の班の子が深夜、調理場に入って盗み食いをした。見つかって軍隊帰りの先生に、罰として班の全員が、近くにあった川に夜2時間ほど浸からされたという事件もあった。

ある晩、自習時間に口笛を吹いた子がいた。軍隊帰りの先生が隣の部屋にいて口笛を聞き、「山田、来い。お前の班に口笛を吹いた者がいる。だれだ」と怒鳴った。こっちは身に覚えもないし口笛を聞いた覚えもないので黙って座っていたら「はっきり言え」と言われ、箸箱で頭を殴られた。しょうがなくて「僕がやりました」と言ったら許してくれた。その後、廊下の隅で寮母さんと2人で泣いたのを覚えている。

冬は吹雪になると、3重に戸があっても隙間から粉雪が入り込むような厳しい寒さだった。旅館から海に向かってガラス窓があって吹雪の方を見ると、毎朝、ぞろぞろ歩く人の列があった。あの人たち何なんだろうと宿の人にそっと聞いたら「あれは朝鮮人だよ。こちらに長屋があるだろう。反対側にある炭鉱に働きに行かされているんだよ」と教えてくれた。

戦後、そのことを確かめようといくつか調べたが、朝鮮人部落があったこと、働かされていたこと、炭鉱が閉鎖になったこと、日本から立ち去ったことなど町の記録に無かった。改めて思い出し、町に尋ねたところ「記録はない」と言われた。しかし「僕は見たよ、温泉町のお年寄りに聞いてくれ」と言ったら町の職員はちゃんと行って調べてくれて「そういう証言がありました。戦争中のことをよく覚えてますね」と言われた。

焼夷弾が柳の花火のように落ちてきた

6年生は全員、翌1945年2月28日に疎開先を離れた。駅まで見送りに来たのは寮母さんだけだった。東京に帰ったのが3月1日。途中、印象的だったのは日本海側は雪ばかり、それが夜行列車で帰ってきてちょうど那須の辺りで実に明るい陽射しになり、太陽が輝いてると子供心に思った。

東京に帰ってきてからは体を壊し家にいた。胃腸をやられていたので、ほっとして体調を崩したんだと思う。

帰って間もない3月9日の夜、空襲警報が鳴った。何となく騒がしく、庭に出てみたら、B29が飛んでいて焼夷弾を落としていた。焼夷弾1個1個、まるで柳の花火のように落ちてくる。母親に「かあちゃん空襲ってこんなの?」と聞いたら、「いつもと違う」という答えだった。それが一般市民を対象にした3月10日の東京大空襲だった。10万人が死亡し、100万人が罹災したとされる。

翌10日午後、かかりつけの医者に行ったら、待合室は人でいっぱい。空襲に遭った人たちが手当てを受けに来ていた。看護師に「実君、君は明日」と言われ、家に戻った。

ガリ版刷りの修了証書

3月24日は小学校(国民学校)の卒業式だった。学校に行こうとしたら空襲警報が鳴り、卒業式はやらなかった。後で画用紙の半分にガリ版刷りで印刷された修了証書をもらった。

土まで焼けて真っ茶色だった

4月から中学生になった実さんは、荒川の西にあった中学校(旧制中学)に総武線で通った。荒川の橋を渡ると東京は焼け野原、何もなかった。普通火事の跡は焼けぼっくいが残って黒く見えるが、東京は土まで焼けて真っ茶色だった。赤くなったトタンがあちこちに散乱していた。総武線は山手線の上の3階部分を走る。何もなくなって真っ平になってしまったので、列車から東京湾が見えた。

入学した中学校は鉄筋コンクリート造で山の崖のそばにあったため焼けずに済んだ。また空襲があるといけないので、周りから赤いトタンを集めてきて、屋上に並べた覚えがある。

空襲は4月と5月の山の手大空襲など、その後何度もあった。中学1年生ながら「こんなに焼けちゃって日本の空軍も大したことないし、どうなるのかな」と、何となく厭戦(えんせん)気分というか、立派な兵隊になろうなんて気は起らなかった。8月6日の広島原爆投下は薄々、なんだかひどい爆弾が落ちたようだと人づてに聞いた。

8月15日、家のラジオの調子が悪くて、昼にあった天皇のポツダム宣言受諾放送は聞かなかった。放送が終わった後、2軒隣のおじさんが出てきて「実君、戦争に負けたよ」と教えてくれた。勇ましい少年じゃなかったから「あー終わったか。そうだ、もう(電球の光が外に漏れないように覆っていた)電球の黒い布をはずしていいんだ、夜でも電気をこうこうとして本を読めるんだ」と思ったという。ほっとしただけだった。

現在、6年ほど前から毎年11月、つくば市内の小学6年生に戦争体験を話している。「子供たちは僕たちがとんでもない経験をしたということを皆しっかり受け止めてくれる」と話し、「治安維持法ができたのは1925(大正14)年、敗戦が1945(昭和20)年、その間20年かかっている。今僕たちはどの辺にいるか、自ら世の中を見て、真剣に考える必要があるかもしれない」と語る。(鈴木宏子)

土浦一高は地元中学生に遠い存在?《竹林亭日乗》19

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散歩中に見付けた 玉虫(写真は筆者)

【コラム・片岡英明】土浦の中学生は市内に全日制県立高校が5校あり、高校受験には恵まれていた。それが、土浦一高の付属中設置以降大きく変わった。今回はその現状と受験生への応援策を考えたい。ただし、附属中設置の是非については論じない。

2024年の高校受験では、土浦市立中学8校の卒業生1103人のうち、426人(全卒業生の38.6%)が市内の5県立高校に入学。その人数と比率は、つくば市の市立中卒業生2174人が市内の県立高3校に入った人数302人(同13.9%)に比べると、土浦の比率はつくばの約3倍になる。

土浦の中卒生が進学した県立高を多い順に見ると、①土浦三高115人、②土浦湖北110人、③土浦工業99人、④土浦二高84人、⑤石岡一高・二高各35人、⑥土浦一高(定時)28人、⑦牛久栄進25人、⑧土浦一高18人、⑨竹園高16人―となる。

土浦一高は20年まで8学級を募集していたが、附属中学設置に伴い、21年には7学級、22年、23年には6学級になり、24年からは4学級に減った。地域の伝統校として学習面で成果を上げていた土浦一高は、今や土浦の中学生にとってはランク8位の遠い存在となった。

県は近年、地域の伝統校の定員を削減し、受験生を悩ませている。23年で見ると、土浦の中卒生の土浦一高入学はたった37名だった。

そこで我々は、24年の高校募集を4学級にすると、地元土浦からの入学者が20名ぐらいになると心配し、6学級体制を維持するよう県に求めた。しかし、付属中を併設しても中学用の校舎は建てないとの理由で、中学+高校=24学級体制は変えないとして、高校は4学級に削減された。

上の3パラグラフで示したように、今年、土浦の市立中から土浦一高に進んだ生徒が18人とは、ある意味ショックである。

土浦在住者の高校受験の悩み

土浦一高に入学する市町村別出身者(24年)は、つくば70人、牛久27人、土浦18人、かすみがうら11人、取手8人、阿見・守谷各6人―などとなっている。高校4学級移行を受け、土浦の受験生は土浦一高を敬遠し、牛久よりも入学数が少なかった。県は、土浦の受験生の悩みを汲み取ってほしい。

24年、土浦一高附属中Ⅰ期生80人が内部進学した。土浦一高への高入生に附属中からの内進生を加えると、つくばが高入生70人+内進生29人=99人、牛久が同27人+同10人=37人、土浦が同18人+同26人=44人と、土浦は牛久よりも多い。

土浦一高入学後3年間の学習で十分間に合うのに、土浦の中学生には定員が削減された土浦一高を避ける傾向が生まれているのだろうか? 受験生は伝統校の学びをもっと信頼してほしい。

しかし、「高校からでも大丈夫」との励ましも、土浦一高が内進生に焦点を当てた教育をするならば、高入生の学びは不安になる。今後、①高校を6学級に戻す、②附属中校舎を建て、教育環境を改善する、③入学後は内進生・高入生全員に青春・学び・進路に配慮した教育をする―ことを検討してほしい。(元高校教師、つくば市の小中学生の高校進学を考える会代表)

溶鉱炉を流したように焼夷弾が落ちてくる、本当に恐ろしかった【語り継ぐ 戦後79年】3

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山田ゆきよさん

つくば市 山田ゆきよさん

つくば市に住む元音楽教師、山田ゆきよさん(88)は三重県出身。小学4年生になった1945年4月から8月、米軍の爆撃を受け、怖い思いをした。「どんな理由があっても戦争はやってはいけない」という。

1936(昭和11)年、三重県鈴鹿市神戸(かんべ)町で生まれた。父親は旧制中学の教師をしていた。町にはシュークリームを売るお菓子屋、パン屋、肉屋と何でもあったが、1941年12月、太平洋戦争が始まると、店頭からものが消えた。駄菓子屋にあったのは、原料が日本でとれる酢こんぶだけ。あとは全部、店頭から無くなった。早々にコメの配給制が始まり、食べ物一切が配給となった。

煤を持ってきて学校を迷彩柄に

1944年末ごろから日本各地のまちがB29の爆撃を受けるようになった。45年4月、4年生の新学期が始まると、二つの仕事が待っていた。一つは、2人1組になって校庭のどこかに防空壕を掘る仕事。しかし防空壕はまったく役に立たなかった。もう一つ、家から煤(すす)を持ってきなさいと言われた。あの頃は木を燃やして料理をしていたのでどの家にも煤があった。それをバケツに入れて持ってきて水をかけて真っ黒にした。通っていた国民学校は三重県内でも有数のクリーム色のおしゃれな学校だった。敵機から見えないようにと、煤で学校の壁を迷彩柄になるよう、まだら模様に塗った。「よく考えてみたら黄色と黒の迷彩柄なのでその方が目立っておかしな話だと思った」と話す。

その頃から、米軍の爆撃で家を失い疎開してくる人の姿を見るようになった。縁故疎開と学童疎開があって、家を失った人はまず親戚を頼って縁故疎開に来た。工業地帯で海軍の燃料工場などがあった四日市で空襲があり、ゆきよさんの家にも縁故疎開が来た。夜遅く、家族8人が四日市からぞろぞろやってきて「うちはあんたんとこの親戚や」と言ってきた。普段付き合いは全くなかったが、家に入れ、しばらく一緒に暮らした。

知らない子供がある日突然、クラスにいることがあった。親戚を頼って縁故疎開してきた子で、都会の子だから、着ているものや髪型も違って、とてもおしゃれな感じがした。見たこともないようなきれいなリボンを頭に載せていた子もいた。

田舎に縁故がない子供たちは集団疎開をした。名古屋から来た子たちは、神戸町の寺に集団疎開し、寺にピアノがないので、音楽の時間だけいつも2列に並んでゆきよさんたちの学校に来た。学校では「あの子たちは家が無くなってしまって来ているんだよ」と聞いた。

頭の上に降り注いでくるようだった

6月から7月になると、三重県は頻繁に米爆撃機B29の爆撃を受けた。北から、桑名、四日市、津、松阪、伊勢の五つの町がB29のじゅうたん爆撃を受け、焼夷弾で焼かれた。

ゆきよさんがいた神戸町は、津と四日市の間にある。夜、焼夷弾が落ちてくると、津と四日市はそれぞれ20キロぐらい離れていたが、焼夷弾が頭の上に降り注いでくるようたった。「見上げると、最初は上の方でピカっと小さな赤い火が見える。それがだんだんと、釣り鐘のような形で溶鉱炉をそのまま流したように落ちてくる。四日市の時も津の時も、頭の上から落ちてきたような感じ。本当に恐ろしかった。それはすごい景色だった」と振り返る。

爆弾が18発落ちて男の子が死んだ

1945年6月、神戸町から少し離れた村の住職だった祖父が亡くなった。当時父は、生徒を連れて軍需工場で武器をつくる手伝いをしていたため神戸町を離れることができず、寺を空(から)にするわけにいかないと、母親が姉と下の子を連れて父親の実家の寺に移った。60軒ほどの小さい農村にある寺だった。

8月初め、夏休みなので、たまたま母のいる寺に行っていた時、爆弾が近くに18発ほど落ちた。隣の津に軍需工場があり弾がそれたと見られた。田園地帯なので、まさかこんなところに爆弾が落ちるとは夢にも思わなかった。終戦間際、米軍のB29は低いところを通った。音がすごくて、近づくとザーと音がして、ガラガラガラ、ドッスーンとひどい音がした。防空頭巾などかぶっている暇はなくて、その辺にあった座布団を頭からかぶって、下の弟と妹を、母と姉が手をひいて逃げた。

ちょうど3軒家が並んでいたところの3軒目に爆弾が落ちた。男の子たち3人が外で遊んでいて逃げたが、そのうち小学3年の1人が破片に当たって死んだ。B29が行ってしまってから、見て回ったら、あちこちの田んぼにすり鉢状に穴が空いていた。小さい川に細い石の一本橋があって、その上に爆弾が落ち、一本橋は衝撃で100メートルくらい跳ね上がって、民家の屋根を突き破り、床を突き破って、地面にめり込んでいた。

ヤルタ会談合意と原爆開発がビラに

終戦間際になると、空からよく米軍のビラがまかれた。1945年8月初めごろ、米軍が落としたビラを、寺の隣の男の子が拾い、こんなのが落ちてたよと持ってきてくれた。表に米兵とソ連兵が握手してる写真があって、裏面には「アメリカが強力な爆弾(原子爆弾)をつくった。早く降参しないと大変なことになるぞ」と書いてあった。「そういうビラは隣組の組長がすぐに回収して皆の目に触れないようにしていた。私と男の子しか見てないと思う」。

言論統制も敷かれていた。近くに独り住まいの元気のいいおばあさんがいて、近所の人と雑談している中、ふっと言ったことを、だれかが言い付けて警察に引っ張られた。「こんなにぎょうさん死ぬのに、それでもお米が足らんやがな」と言っただけだった。その頃は日本が戦争で負けているのを何となく知っていたが、おばあさんはそう言っただけで警察に連れて行かれ一晩留置された。警察では「誰が言ったのか」ということを厳しくとがめられたという。「誰も言わへんがな。わしがそう思ったから言ったんやがな」と通して、翌日帰ってきた。うっかりものも言えない、そんな時代だった。

8月15日、夏休みだったが、全員集まりなさいと言われ、学校に集められた。教室に入ると、先生は「日本は戦争に負けました」と言い、黒板に、支那(中国)、朝鮮と書いて、一番下に日本と書き「日本は一番下になりました」と言った。ちょっと悲しい気持ちになったが、正直ほっとしたのを覚えている。

戦後79年経ち、若い人たちに「戦争がどういうものか、できるだけ過去の戦争について知ってほしい」という。「戦争を始める時『わが同胞を助けるため』とよく言うが、こういう理由だからとか、戦争は理屈じゃない。今の日本を見ていると、だんだん私たちが若い頃体験したような空気になってきている」と話す。(鈴木宏子)

「農業者」と「農家さん」《邑から日本を見る》165

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涌井義郎さんの堆肥作り体験会

【コラム・先﨑千尋】今、一般に農業生産に携わっている人のことは「農業者」と呼ばれている。農に関連している人たちは農家のことを「農家さん」と、さん付けで呼ぶことが多い。では、農業生産者は果たして「業者」なのか。農家にどうして「さん」を付けるのか。私はこの呼称にずっと違和感を抱いてきた。

水戸市内原町にある鯉渕学園で有機農業を教え、定年前にそこを辞め、2011年に有機農家を育てる研修農場「あしたを拓く有機農業塾」を立ち上げた涌井義郎さんは、近著『未来の食と環境を守れ-有機農家からの提案』(新日本出版社)でこの2つの表現に異議を唱えており、「そうだ、そうだ」と思いながら読んだ。

涌井さんによれば、もともと農は生業(なりわい)。農家のくらしは、業すなわち一般的な理解で言う経済活動だけで成立しているわけではない。生産された農産物の一部は自家消費に使われ、隣人や親戚にも配られる。生産活動で用いられる資材も堆肥や敷き藁(わら)などのように自給することもある。ちょっとした道具も手づくりできる。

このような家族農業が生業。日本の農家の95%を占めている。そうした農家を一括(くく)りに「農業者」と呼んでいいのか。そう、涌井さんは訴えている。

「農家さん」も同じだ。職業に「家」を付けるのは、作曲家、画家、作家など1つの領域を専門とする人のことだ。鍛冶屋、豆腐屋、下駄屋、床屋など「屋」を付ける職業もある。今はそれらの職業はだいぶ廃れているが、農村では、多くは農業との兼業だった記憶がある。

相手を呼称で言う場合、豆腐屋さん、床屋さんとは言うが、画家さん、作曲家さんなどと言うだろうか。「農家さん」だけは別格なのか。

農民や漁民の「民」の語に蔑(さげす)みが含まれてはいないだろうか、「さん」を付け、農家の評価を底上げしようとしている善意が現れているのではないか、それが涌井さんの見立てだ。私も「農家さん」と言われると、こそばゆい感じがしてならない。「農家」だけでいい。断じて、農業者ではないのだ。

「百姓」という言葉

百姓という言葉もある。永く差別用語として使われてきた。私は学生時代、旧友と口論していて「どん百姓」とののしられたことを、今でも鮮明に覚えている。私の知人で名刺に「百姓」と入れている人を何人も知っている。姓は「かばね」と読み、特定の技術職あるいはその技術・技能を代々伝える家系のことを言った。農民でありながら、同時に様々な仕事を兼ねる人々が百姓だった。むしろ誇るべき言葉だった。それがいつの間にか逆転してしまった。

涌井さんは自分自身の経験をもとに、本書で「有機農業に舵(かじ)を切った現在の農政に対して、担い手となる有機農家を育てるために技術指導者を増やせ。そのために1兆円以上の農家育成予算を」などと提言している。有機農業の将来に対してどのような絵を描いても、誰がそれを担うのかが基本。それが抜けていれば絵にかいた餅になりかねない、というのが涌井さんの主張だ。

その他、本書では有機農業の技術など学ぶことが多い。涌井さんは2019年に、地域生産の有機農産物と国産無添加食品のオーガニック直売所を笠間市に開店している。(元瓜連町長)

有機農家が作ったオーガニックの店

傍観者に行動呼び掛ける案も 筑波大生ら 痴漢・盗撮被害防止ポスターを作り直すイベント

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オリジナルのポスター原案を制作する参加者

つくばエクスプレス(TX)の駅構内などに貼られている痴漢や盗撮の被害防止を訴えるポスターを作り直し、新たにオリジナルのポスターを制作しようというイベント「ちかん、盗撮 誰のせい?」が10日、つくば駅前のつくばセンタービルで開かれ(7月31日付)、中学生や大学生、社会人など男女10人がそれぞれ、ポスターの原案を制作した。現場に居合わせた第3者ができる5つの行動をポスターに記載する案が複数の参加者から出された。

5つの行動は①被害者の知り合いのふりをして声を掛けるなど「加害者の気をそらす」②自分の安全が確保できるなら加害者に注意するなど「直接介入する」➂警察や駅員に知らせるなど「周囲に助けを求める」④スマホで映像や音声を撮るなど「被害の証拠を残す」⑤後で被害者に声を掛けたり通報を助けるなど「後で対応する」ーの5つ。居合わせた人がただ見ているだけでなく行動する人(アクティブ・バイスタンダー)になることで、痴漢や盗撮などの抑止につながるとされている。

イベントを主催した筑波大3年の上田咲希乃さん(21)は「被害者と加害者だけに限定せず、傍観者が自分たちの問題としてとらえ、行動していくというポスターが結構見受けられたのが良かった」と話した。

イベントは、TX駅構内に掲示されているポスターに「スカートを履いている時が危険」「夜道の一人歩きを避ける」と書かれているなど、被害者に自衛を求める価値観に違和感を感じた上田さんが呼び掛け、9人でプロジェクトを立ち上げ、開催した。

臨床心理学や犯罪心理学が専門で実際に性犯罪者の治療に取り組んでいる原田隆之筑波大教授、ポスターを制作したつくば警察署、つくば市ダイバーシティ推進室、性暴力や性差別を無くす取り組みをしている慶応大学の学生団体などが参加した。

中学生や大学生らは、原田教授やつくば警察署の担当者などから話を聞いた後、それぞれオリジナルのポスターの原案制作に挑戦した。

上田さんは「きょう制作してもらったポスターを参考に、今後、2点か3点のポスターを改めて制作して、9月下旬か10月初めを目途につくば警察署に持っていきたい」と話し、つくば警察署生活安全課の植野真人係長は「筑波大生が自分たちの視点で作ってくれるなら、県警本部に上げたい」としている。(鈴木宏子)

大東亜共栄圏信じ、国を守りアジアのためという気持ちだった【語り継ぐ 戦後79年】2

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自宅で戦争体験を話す木村嘉一郎さん

つくば市 木村嘉一郎さん

つくば市臼井に住む木村嘉一郎さん(95)は太平洋戦争末期の1944年、東京陸軍少年飛行兵学校の第19期生となった。日本を中心にしてアジアの国々が栄える大東亜共栄圏の構想を強く信じて、この戦争は日本の国を守ると同時にアジアのためという気持ちだったので、兵隊に行くことは当然の義務だと思っていたという。

13歳の時に乙種海軍飛行予科練習生を受験、目の検査で不合格となり悔しい思いをしていたので、兵学校に入ったことは誇りだった。戦争で死ぬという感覚はなかった。

入校後は学業や鍛錬に厳しい生活を送ったが、比較的楽しい生活だったと振り返る。

学校でのスケジュールは朝5時30分に起床し点呼と体操と掃除。6時40分 朝食をとり自習。8時 服装検査。8時15分 学科教育。12時 昼食。13時 術科教育。15時15分 運動。17時 入浴と夕食。18時30分 自習。21時 点呼。21時30分 消灯というものだった。生徒は、軍人の身分である兵籍に編入され、木村さんは月給として5円50銭の支給を受けていた。

ほとんど外出がなかったので戦況も世界情勢も全くわからず、上官にあたる中隊長が話をするぐらいだった。そんな中でも1945年3月10日の東京大空襲や、戦闘機のエンジンをつくっていた三鷹の中島飛行機武蔵製作所が米爆撃機B29の標的になったことなどは耳に入ってきた。

8月15日、突然の玉音放送を全校生徒で聞くことになる。内容は分からなかったが、戦争が終わったことだけは理解できた。内務班に戻り上官の話で、ポツダム宣言を受諾し全面降伏をしたことを知った。自分のことよりも、国家は、日本は、どうなるのかという人が多く、個人のことを話す人は少なかった。

1週間で世界は変わった

8月21日、学校は解散となり、実家に帰ることになった。10カ月ぶりに戻り安堵もあったが、今後の見通しも立たず仕事もできず、ただ呆然(ぼうぜん)と日々を送っていた。地区内では35人が兵隊に行き、13人の戦没者があった。満州に行って行方不明の者もいた。

木村さんの住む六所地区(つくば市臼井)でも戦争中、山林に戦闘機が落ちる事件があった。地元の大人たちは米軍が落ちたのかと思い、竹やりをもって落ちた場所に向かったが、日本兵だったので皆で助けたという話を聞いた。

終戦を迎えて8日目の23日の夜、神社の境内で盆踊りをすることになったので見に出掛けた。よその集落の人も加わり、盛大に行われ、明るく楽しそうな様子だった。木村さんは「わずか1週間で状況は変わったのか」と信じがたかった。

「身内に不幸があった状況なら、まったく気に留めず、こんなに楽しんでいいのだろうか。この人たちはどんな気持ちで戦争を考えていたのか」と思ったが、人々のこの姿は、今日を強く生きるという現れだったと解釈した。

当時の農村は、自分の家に本などはなく、新聞を購読している人も少なかったので、社会情勢をあまり知らなかった。「敗戦の打撃は年長で教養ある者ほど大きく、若い人たちは早く新しい時代の流れに乗ることができたのだと思う」と語る。

木村さんは戦後、地域のリーダーとして10年もの間、区長を務めた。60を過ぎて独学で地域の歴史の勉強を始め、今もノートに記録を続けている。毎年、木村さんの研究や歴史の話を聞きたいと、地区の人や話を聞きつけた人が集まってくる。

地元の六所児童館で開かれた歴史勉強会。木村さんの話を聞きに地元の人たちが集まる

木村さんは「今なお、世界中で戦争の話を聞く。戦争の記憶のある者がその実情を若い世代に伝えていく必要がある」と話す。(榎田智司)

人生暇つぶし《続・平熱日記》163

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】もう何年も同じ風景のままの本棚。その中のずっしり重い○○画報という女性雑誌を手に取ってみたのは、妻が亡くなってしばらく経ってからのこと。「あこがれの軽井沢で…」という大きな文字が目立つ表紙。巻頭には緑に囲まれたモダンな平屋の建物の写真。

それは文化学院の創設者、西村伊作の別荘。この当時の西村家の財力からするとむしろ質素にも見える別荘は、実は当代きっての文化人であり教育者だった伊作氏の軽井沢や別荘建築に対する理想や思いが詰まっている。

この雑誌を読んだせいかはわからないけれども、妻がしきりと軽井沢へ行きたいと言い出したのは亡くなる数週間前ぐらいだったか。それまで一度も旅行をせがんだりしたことはなかったし、軽井沢に行ったことさえなかったのに。

てっきり日帰り旅行だと思ったら宿泊をしたいという。それはちょっと無理だと家族の誰もが思ったのだけれども、本人は行く気満々というか行ける気満々だった。結局、在宅医療に来てくれるお医者さんに説得されて軽井沢行きはかなわなかった。

行ってみるか軽井沢

ところで、長女の義理のお母さん、姑さんはとても元気な人で、今も海外旅行の添乗員をしていて1年の半分ぐらいは日本にいない。そのお母さんが、この夏に長女家族と軽井沢に避暑に行くからと私も誘ってくれた。正確には北軽井沢。上田出身のお母さんはその辺りの事情に詳しく、「軽井沢は実は結構暑いのよ」と、より標高の高い北軽井沢推し。

私自身は避暑などという概念すらなく、夏はとにかく暑いのが好きで、海や山を駆けずり回っていたい方だったのだが、このところの尋常ではない暑さと年齢のせいか、それからつけっぱなしのクーラーにも罪悪感を覚えたりして、夏は涼しいところで過ごしたいというふうに考えが変わってきた。

ある夜のこと。まだ起きる時間ではなかったが目が覚めたので、紙粘土で文化学院の旧校舎を作って描くことにした。実は、私はお茶の水の文化学院に日曜日の社会人対象の絵画講座の講師として長いこと通っていた。入口の大きなアーチが印象的な西洋風の洒落た建物だった(多くの文化人を輩出した自由で独創的な学び舎も時代の波には勝てず約百年の歴史に幕を下ろした)。

ネットで校舎の画像を見ながら、当時を懐かしく思い出す。フランスから帰ってきたばかりの私を文化学院に紹介してくださったのは当時の大学の恩師。そういえば先生は晩年を軽井沢で過ごされた(まきストーブのまき割りに行くという口約束をしたきりになってしまった)。

フランスから帰って来てちょうど30年。この夏、彼の地ではオリンピックが開かれている。開会式の様子を見ながら、懐かしい風景を思い出す。聖火の灯されたチュイルリー公園では、嫌がる妻と観覧車に乗ったっけ…。

そして、当時学院長だった西村八知先生のエスプリに富んだ名言がふと頭をよぎった。「人生暇つぶしだから…」。行ってみるか軽井沢、暇つぶしに。夏の浅間山を妻に見せるつもりで。(画家) 

学校説明会に338組約700人 普通科新設のつくばサイエンス高 2学科併願可

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16教室に分かれ教室に設置された大画面のディスプレイで説明を聞く中学3年生と保護者ら=つくば市谷田部、つくばサイエンス高校

来春、普通科が新設され科学技術科と2学科になる県立つくばサイエンス高校(つくば市谷田部、石塚照美校長)で10日、夏の学校説明会が開かれた。つくば市や近隣の中学3年生と保護者など338組から参加申し込みがあり、約700人の親子連れが参加した。

人口増が続くつくば市で高校不足が指摘される中、同校は改編から2年連続で定員割れとなっていた。普通科新設により来春の志願者がどのくらいになるかが注目されている(5月24日付 )。

説明会では、普通科も科学技術科と同様、地元の国公立大学や都内の有力私立大学(GMARCH=ジーマーチ)への進学を目指すことのほか、入学願書出願時に普通科と科学技術科をそれぞれ第1志望、第2志望などとして出願できることが新たに示された。

在校生らの説明を聞きながら、パソコンを操作し3D CADでロボットを作る体験をする参加者

石塚校長は、県内初の特徴として①科学技術科がある②ノーベル物理学賞受賞者の小林誠高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授が9日、同校の名誉校長に就任し、講演会などの特別授業がある➂現在2人いるサイエンスアドバイザーがさらに増える④普通科、科学技術科両方の志願が可能で、第1志望を科学技術科、第2志望を普通科などにできる、などと話した。

ほかに、普通科は「総合的な探求の時間」の代わりに1年次は「理数探求基礎」、2年次は「理数探求」を履修し、探求の過程を通して課題解決するために必要な基本的な資質や能力を養う、修学旅行は今年は沖縄だが来年は台湾に行くーなどと述べた。

参加者が多いことから、説明会は2グループに分かれて開催。参加者は16教室に分かれ、各教室に設置された大型のディスプレイで石塚校長らの説明や学校生活の様子を聞くなどした。

続いて校内の施設を見て回り、分析機器や顕微鏡など実験機器などが整った校内で、在校生らの案内を受けながら、ロボットを作る操作をパソコンで体験したり、ドローンの操作を見学したり、気象衛星の観測データを受信したりする様子を見るなどした。

在校生(左)から気象衛星の観測データを受信する方法について説明を受ける中学3年生ら

つくば市内から母親と参加した男子中学生は「兄が(同高の)3年生で、学校の雰囲気がいいと聞いているので、普通科に入りたい」と話し、同じつくば市内の女子生徒は「第一志望は科学技術科。ちょっと難しそうだけど、ワクワクの方が勝っている。楽しそう」と話していた。牛久市から参加した男子生徒は「ロボットか、情報処理か迷っている。願書を出すまでに考えたい」などと話していた。

石塚校長は「皆さん、目を輝かせて説明会を聞き、施設をご覧いただいた。反応は良かったと思う」と話し、県教育庁高校教育改革推進室の増子靖啓室長は「普通科をつくるので、魅力ある学校を見ていただければ」と話していた。

次回の学校説明会は10月12日実施される予定。(鈴木宏子)

豊かだった満州の記憶 鮮明に【語り継ぐ 戦後79年】1

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満州での体験について語る奥島雅子さん=阿見町、レプラコーン若栗

阿見町 奥島雅子さん

阿見町でミニデイサービスの事業所「レプラコーン若栗」を管理する奥島雅子さん(93)。1931(昭和6)年、東京都江東区生まれ。戦時中のことを鮮明に覚えている。米屋を営む家で、雅子さんは8人きょうだいの末っ子だった。3歳の時に父が亡くなり、11歳の時に母も亡くしたが、25歳上の兄が家業を継ぎ、親代わりとなって雅子さんを育てた。

亀戸にあった実家は米屋だったため米蔵もあり、ネズミに困るほどたくさんの米があったが、1940年に配給制が始まると蔵は空になり、配給もわずかだったことから雅子さんたちきょうだいも食べ物に困るようになった。「配給でもらえるのはほんの少し。これでどうやって家族全員食べるのかと。お芋を入れたりしてなんとか食べてはいたが、栄養失調だったと思う」と話す。

満鉄の兄に連れられ満州へ

長男の兄は本来徴兵される年齢ではなかったが、兵隊として中国南方へ配属された。2番目の兄は満州事変をきっかけに徴兵されて満州(中国東北部)に渡っていたが、その後除隊。次男で後を継ぐ必要がないからと南満州鉄道に就職していた。2人とも実家の米屋の配達で車の運転ができたため、前線に行くことなく無事だった。1944年の秋、雅子さんが14歳のころ、満州へ行っていた兄が日本に一時帰国して、食べるに食べられない状況を見かね、雅子さんと姉を満州に連れて行くことにした。急なことだったが雅子さんは急いで荷物をまとめ、リュックを背負って東京駅から下関まで1日かけて汽車に乗り、下関の港から船で釜山に渡った。

汽車の中で一人に一つ蒸しパンが渡されたが、雅子さんは食べずに取っておいた。釜山から列車で満州の撫順(ぶじゅん)駅に到着すると、満鉄の人が車で迎えに来てくれ、社宅まで送ってくれた。「社宅には紺と白のじゅうたんがありびっくりした。取っておいた蒸しパンを姉が蒸して温めなおしたら、バターを塗って、紅茶にお砂糖を入れて出してくれた。感動どころか、驚いてひっくり返った。なんでバターやお砂糖があるのかと」

撫順での暮らしは豊かだった。社宅はコンクリート造り3階建て。冬はマイナス10度以下になるが、ボイラーがあって室内は暖かく暮らしやすかった。「豚肉の切り身やみかんなどなんでもあった。栄養が取れるようになり、満州で体ができた」。学校にも通った。日本人専用車に乗って30分から40分ほどかけて通学した。教科書も日本で勉強していた内容と同じだったが、中国語の授業があることが違っていた。

雅子さんと姉は撫順で落ち着いた暮らしをしていたが、1945年3月、東京大空襲があり、亀戸にあった米屋の実家は燃えてしまった。姉たちは金庫にあったお金を懐に入れて逃げ、あたり一面が火の海になる中、川に入ってやりすごしたと聞いた。家族全員、無事だった。「焼け出されて(足立区にあった)隠居所に越したよ、という手紙をもらって(実家が燃えたことを)知った。着る物もなく困るだろうと浴衣や靴下、炒った大豆のカンカンを行李(こうり)2つ分入れて日本に送ったけれど、1つだけしか届かなかった」。

押し入れに隠れて寝た

1945年8月、ソ連が満州に攻め入ってきた。国民党軍と八路軍(中国共産党軍)の撃ち合いも始まり、爆撃音が聞こえていた。「どこまでが正規軍(国民党軍)でどこまでが八路軍かも分からない。ソ連軍を恐れて、夜は押し入れに隠れて寝るようになり、夜は近所中の男の人が警備をした。撃ち合いになると流れ弾に当たらないように壁にくっついた。とにかく自分を頼るしかない。家族と離れないようにしていた」と話す。学校は閉鎖になり、不安の中、家で兄の勉強ノートなどを読んで過ごす日々が続いた。

1年間残留し、1946年10月27日、東京に帰ることになり、撫順市から港がある葫芦島(ころとう)市まで屋根のない汽車で向かった。途中で盗賊に襲われるグループもあったが、雅子さんたちは無事だった。葫芦島からは日本語を話せるアメリカ兵が誘導し、「ごはん食べた?」と日本語で聞かれ、雅子さんは驚いた。

「みんな緊張していたが、ボートが陸を離れると大人も笑顔になった」と話す。船の中で亡くなる人がおり、水葬となった。乗り込んだ人の中でお経を上げる人がおり、船長が板を斜めにして海に遺体を流した。「お経を上げてくれる優しい人がいてよかったと思った」。

東京に戻り、亀戸の駅前に立つと、「180度見渡す限りなんにもない。引き揚げ船の中で、東京のここが焼けていると地図を見せて教えてもらっていたが、何もかも変わっていた」。しかし「自分はけがもない、手足もそろっている。こんなにありがたいことってない」と境遇に感謝する。

工夫が身に付いた

結婚し、都内で空調工事などを手掛ける会社「奥島工業」を夫と2人で切り盛りした。女性が現場に入ることが少なかった昭和30年代に、病弱だった夫を助け、雅子さん自ら2トントラックのハンドルを握り、搬送や経理の仕事をした。仕事で中国に何度も行き、満州時代に覚えた中国語を勉強し直した。60代で女性起業家の異業種交流会の代表を務めた。退職後、阿見町が気に入り移り住んだ。

「無い無いばかりだった時、兄も姉もなんでも自分で作っていた。無い物は自分で作るという習慣ができている。足りないものばかりだったから、今は誰かが来たらいつでも何かを食べさせる。経験したことが知恵として残っていて、不自由だから自分で直したり、ものづくりしたりが染みついている」と話す。(田中めぐみ)

阿見町の雪印メグミルク工場《日本一の湖のほとりにある街の話》26

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イラストは筆者

【コラム・若田部哲】「日本一」。良い響きですね。家庭用のバターやマーガリン、チーズなどの生産量で日本一を誇る、雪印メグミルク株式会社。同社の阿見工場では、高度にオートメーション化された工場の見学会を開催しています。今回は、阿見工場総務課の植村さんに、工場の特徴や見学時の見どころについて、お話を伺いました。

さて、雪印メグミルクの様々な製品のうち、プロセスチーズやマーガリンは、ほとんどこの阿見工場で生産されていることをご存じでしょうか。製品の入れ替えなどにより多少の推移はありつつも、丸いパッケージでおなじみの「6Pチーズ」や、「パンにはやっぱり『ネオソフト』」をはじめとする約200種類の製品は、この茨城は阿見の地で生産されているのです!

日本における生乳の最大生産地といえば北海道。産地のそばに工場を建設した方がよいのでは?と植村さんに伺うと、近年物流が整備されたため、最大の消費地である東京へのアクセス性の良さ、ロジスティクス的観点から、以前は神奈川県(横浜、海老名)と兵庫県(伊丹)にあった3つの工場を集約化したのが、この阿見工場なのだそうです。

そうした説明の後、実際に工場を拝見すると、驚くのはその製造のスピード感! 「6Pチーズ」の丸い箱やマーガリンの列が、片時も途切れることなく、目まぐるしい速さで流れていきます。個別の包装からダンボール詰め、トラックでの物流までが、高度に一体化して設計されていることが実感できます。

国際基準の衛生・品質管理

この東京ドーム3個分にもなる広大な工場敷地では、国際基準にのっとった衛生・品質管理が徹底されています。衛生管理の基本として、入場前の手洗いの様子が展示されますが、実に30秒の時間をかけた入念な内容。同じ手順で実際に手を洗ってみると、実に長いことに驚き! また、作業環境に求められる衛生基準により、2種類の異なる性質の作業着を着用するなど、細かな配慮を行っているそうです。

さらに、品質管理部門では、日々生産される製品の「官能検査」を行っています。官能検査は、製品の風味、におい、組織などについて調べる検査で、機械を使って評価することが難しいそうです。毎月実施している「官能訓練」で力量が確認された作業者だけが「官能検査」に従事でき、この部門にお勤めの方は、ごくわずかな食味の変化も感じ取れるよう、人工甘味料や刺激物を検査前に控えるなど、徹底しているとのこと!

さて、こうして日々生産される「6Pチーズ」、青い箱のプレーン味だけで、1日当たりの生産量は積み重ねると333メートルの東京タワーなんと10棟分! さらにマーガリンは、1日で8848メートルのエベレストと同じほどになるそうです。ちょっと想像がつかない規模に、めまいを覚えるとともに、この茨城から全国に、長年愛されるロングセラー商品が生産され、運ばれていくことがうれしくなります。

最後に、植村さんに工場見学の見どころを伺ったところ「衛生・品質管理の力の入れ方や、普段何気なく食べているチーズ・マーガリンがどのように作られているか、ぜひ見ていただけたら。見学の最後には試食もあるので、ぜひ当社製品の味わいを楽しんでください」とのお話でした。日ごろ慣れ親しんでいる味を支える、高度な技術を体感できるこの工場見学は、1名から随時受付。茨城で繰り広げられる日本一の生産現場を、皆様、ぜひご覧ください。(土浦市職員)

<注> 本コラムは「周長」日本一の湖、霞ケ浦と筑波山周辺の様々な魅力を伝えるものです。

<取材協力> 雪印メグミルク株式会社

➡これまで紹介した場所はこちら

筑波大生が夏休みの宿題応援 小学生50人が絵と習字を学ぶ スタジオ’S

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最後は1人で「笑顔」を書き上げた杉本圭さん(右)

筑波大で芸術を学ぶ学生が小学生に絵画と書道を教える企画「夏休み宿題応援 in つくば」が9日、つくば市吾妻の県つくば美術館で開かれた。関彰商事(本社・筑西市、つくば市 関正樹社長)が運営するギャラリー「スタジオ’S」が、筑波大と連携して開催したイベントで、2018年から始まった。この日は午前9時半と11時から書道教室、午後1時と3時に絵画教室が開かれ、つくば市をはじめ、土浦や牛久市などから50人の小学生が参加した。

午前9時から始まった書道教室には5人の小学生らが参加した。講師を務めた書道専攻の筑波大生4人は「大きく書くと元気よく書けて、書きやすいよ」「腕全体を使って書こう」など、それぞれマンツーマンでアドバイスした。

半紙に「笑顔」の文字を書き上げたつくば市の小学4年 杉浦圭さん(10)は「先生の教え方がわかりやすかった。今までに書いたことのない漢字に挑戦した。丁寧に教えてもらえてうまく書けた。楽しかった」とホッとした表情を浮かべた。昨年に引き続き2回目の参加となった牛久市の小学3年 上田桃華さん(8)は「去年は絵画で参加した。ほめてもらえてうれしかった。今年も楽しみにしていた」と思いを語った。

講師を務めた筑波大大学院2年の髙橋杏奈さん(24)は「うまく伝わるように言葉を選んだり、例えを使ったり、子どもの目線で考えるようにした」と話し、同大学院2年の内野陽菜さん(24)は「文字を等間隔で書いたり、偏とつくりの高さをそろえたりするときれいに見えるなどのコツを伝えた。プレッシャーにならないよう、書くことを楽しく学んでもらえるよう心掛けた」と語った。

書道と絵画を対象とした今回の企画は、2016年から毎年開催しているスタジオ’Sによる子ども向け企画「キッズアート体験」で好評だった2つの科目に特化し、18年から始まった。20年からは県近代美術館が協力している。

関彰商事広報の石井雅也さんは「ここに来れば大学生と一緒に宿題もできるとリピーターも多い企画。地域の方が心身ともに健やかに暮らしていただけるよう活動していきたい」と思いを話した。(柴田大輔)

パリ五輪開会式で見えたフランスという国《遊民通信》94

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【コラム・田口哲郎】

前略

パリオリンピックでの日本人選手の活躍に胸が躍りますね。

さて、今回のオリンピックは開会式が特に話題になりました。開会式会場をセーヌ川とその河岸にするということからして、期待感がありました。セーヌ川というのは舞台になるほどのコンテンツを持っているんですね。

確かにパリの名所の多くはセーヌ川の周りにあります。パリの街の中心を南北に分けるように流れていて、中洲がシテ島といって、パリ最古の都市部です。東京に当てはめると、山手線の内側の中央線がセーヌ川になると思います。

東京もお堀がありますが、隅田川が流れていたら、歴史や景観はずいぶん変わっていたでしょうね。河岸の右と左で街の特徴が違っているというのも有名ですね。左岸にはソルボンヌ大学があったカルチェ・ラタンがあり、庶民的な学生街。右岸にはルーブル美術館や高級ブティックなどがあり、ブルジョワの雰囲気といった具合です。

開会式演出も、フランスの歴史

人びとを驚かせたのは、開会式の舞台だけではありませんでした。演出もフランスらしかったのではないでしょうか。物議をかもしたのは、フランス革命の監獄として有名なコンシェルジュリーの窓から生首を持ったマリー・アントワネットが姿を見せたシーン。

そして、古代ギリシャの酒の神、ディオニュソスに扮(ふん)した青い中年男性がキリスト教の最後の晩餐(ばんさん)を模したと思われるテーブルに寝そべり、さらに晩餐のテーブルにはずらりとドラァグクイーンという女装した男性が並んでいる場面。

オリンピックの開会式としてどうなのか、品性、あらゆる価値観を持つ人たちへの配慮が焦点として問題となり、組織委員会は公式ページからこうしたシーンの動画を削除したそうです。

今回の演出は公式なオリンピック運営組織の許可があって催行されたことに違いありません。シーンの賛否はともかくとして、なぜこれらのシーンが表現されたのかを考える必要がある気がします。

ご存知のように、フランスは革命があって王政から共和政に劇的に移行しました。フランスは現在共和国で第五共和政です。ヴェルサイユ華やかだったのはルイ14世の時代で王政でした。第五が示しているように、革命後、王政が復活したり、皇帝ナポレオンが君臨した帝政があったりと、複雑な政治変化の末に現在の共和政に至っています。

仏共和国はあの「自由、博愛、平等」の精神を礎にしています。現在のフランスは一概には言えませんが、カトリック教会や貴族制に代表される伝統的な体制を批判して成立したのです。歴史的経緯を踏まえると、あの過激とも思える演出も、さもありなんと思えなくもないです。どう感じるかは人それぞれですが。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

星田弘司県議が立候補へ つくば市長選

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星田弘司氏

任期満了に伴って10月20日告示、27日投開票で行われるつくば市長選に、県議の星田弘司氏(50)が立候補する意向を固めたことが8日までに分かった。市議選と同日で行われる同市長選には、現職の五十嵐立青氏(46)がすでに立候補を表明している。

取材に対し星田氏は「現在のつくば市は人口も増え、もっとポテンシャルを生かして十分に飛躍できると思っている。企業誘致にしても、もっと職を生んで、人を引きつける企業を誘致するなど、つくばブランドを生かした取り組みができる。ふるさと納税にしても毎年10億円近く流出している。国や県と連携し、世界に発信するダイナミックな行政運営ができるのがつくば市だと思っている」と話す。

立候補の動機については「洞峰公園のやりとりが象徴しているように、県との連携が十分でない。無償譲渡だが毎年膨大な管理費がかかる。知事との直接のやりとりが一度もできず、直談判もせず、譲渡を受けており、連携不足、調整力不足を感じた」とし「10年先を見据え、これからのつくば市を考えた時、今やらないとつくば市は単なる地方都市になってしまう」と話した。

今月4日、後援会役員会を開き、立候補の意向を諮り、役員会の了承を得た。近く立候補を表明したいとしている。

星田氏はつくば市出身、県立水海道一高、東海大学卒。英シェフィールド・ハラム大学大学院修士課程修了。つくば市議2期を経て、現在県議4期。自民党県支部連合会遊説局長などを務める。

つくばのおそば屋さん2店《ご飯は世界を救う》63

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イラストは筆者

【コラム・川浪せつ子】今回はつくば市の西大通りに面したおそば屋さん2店です。創業45年の「かしわや」さん(つくば市春日)と創業50年の「増田屋」さん(同)。私はつくば市(旧谷田部町)在住42年なのに、今年7月初めて入りました。大通りからどうやって入店したらよいのか? いつか行ってみよう~ と思って40年も過ぎたわけです。

どちらのお店にも、丼ものとおそばかうどん付き定食があります。おいしそうだし、お手軽価格で2つの味が楽しめる。でも残念なことが…。太ってしまったのです。ラーメンライスみたいなメニューですから。

そして思ったこと。40~50年前、この周辺には建設現場がたくさんありました。そこで働いてくれた方々は体力勝負で、ご飯をたくさん食べたのだろうなぁ、と。私がこの地で初めてラーメンを食べたとき、あのしょっぱさはショックでした。汗をたくさんかいて働く方には必要だったのでしょう。最近はそんなにしょっぱくないのよね。

具が8つのおかめうどん

「かしわや」さんのメニュー見ていたら、「おかめうどん」見つけました。家の近くにもおそば屋さんあるけど、コレはない。グルメの息子も知らないと。私が高校生時代の学校帰り、おなかが空いてよく食べました。それ以来食べていないかも。もう懐かしくて。でも、なんで「おかめ」?

調べてみると、江戸時代、うどんやそばの上に「おかめ」(女性の顔)のように、具をトッピングしたのが始まり?とか。今回食べたのには、「だて巻、なると、おふ、白かまぼこ、ピンクかまぼこ、わかめ、かにかまぼこ、絹さや」の8種類。将棋での「おかめ八目」とか?

よく分かりませんが、うどん以外にいろいろなトッピング、これはアリ!(イラストレーター)

「つながり」がテーマの水草展 筑波実験植物園で8日から

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「水草を楽しんでください」と国立科学博物館の田中法生さん=つくば市天久保

岩礁、ため池、マングローブなど再現

「水草展―水草がつなげる世界」が8日から、つくば市天久保、国立科学博物館 筑波実験植物園で始まる。多様な水環境の中で他の生物や環境とつながり、進化してきた水草に焦点を当てた企画展だ。水草と生き物、環境、人とをつなげる水辺の世界をさまざまな角度から紹介する。過去最多となる約250種の水草を展示しており、そのうち3、4割が絶滅危惧種だという。

会場の一つ、研修展示館では、アマモ場や岩礁、水田、ため池、マングローブなど、水草と生物が生み出すさまざまな環境を再現してそのつながりを解説する。水草を使って水面に巣を作るカイツブリや水草に産卵するマルガタゲンゴロウなど水草を利用する生き物を紹介する。世界で最も小さい陸上植物であるミジンコウキクサの顕微鏡観察などもできる。

研修展示館の様子

人と水草のつながりは深く、人々はかつて農業などに水草を利用してきた。だが農業の高度化や農薬の使用などにより、それまで共存していた水草とのつながりが失われつつある。そうした中、再び共存の道を探ろうと新たな動きが始まっている。企画展では、これまでとこれからの人と水草とのつながりの多様性を紹介。水草を使った身近な食品や生活雑貨なども展示する。

ほかに、食虫水草ムジナモやタヌキモを顕微鏡で見ながらえさをあげる体験や、岩礁の海草の根元に生息する生き物の観察、実際に触ったり観察したりして水に浮く仕組みを学ぶ水草タッチプールなど、体験型展示も目玉の一つ。

教育棟では「水草の美しさを楽しむ」をテーマに、日本を代表する水槽レイアウトのプロが作製した数々の水草水槽を展示する。来場者が自由に水槽に草を植えて大きな水草水槽を作る企画やオリジナルのアクアリウム(飼育水槽)を作るワークショップもある。

日本を代表するプロレイアウターが作製した数々の水草水槽が展示されている教育棟

同館研究員の田中法生さんは「バラやランに比べるとマイナーだが、まずは水草を楽しんでほしい。生物としての水草の面白さを知ることが、水草を守ることにつながる」と来園を呼び掛ける。

2011年から始まった水草展の開催は3年ぶり6回目。つくば市と周辺地域の水草の分布も紹介しているが、水質の変化や外来種の影響により前回の3年前の展示と比べて一部の品種が消失したという。一方で今年4月、姿を消していた水草の一種、ヒルムシロがつくば市二の宮、洞峰公園の土の中から見つかった。

展示される約250種のうち絶滅危惧種が3、4割を占めることについて田中さんは「(水草が)育つ環境があれば復活できる種がある。まだ間に合う」と話す。(泉水真紀)

◆企画展「水草展―水草がつなげる世界」は18日(日)まで、つくば市天久保4-1-1、国立科学博物館 筑波実験植物園で開催。開園時間は午前9時~午後5時(入園は4時30分まで)。会期中無休。入園料は一般320円、高校生以下と65歳以上、障害者などは無料。問い合わせは電話029-851-5159(同館)。詳細は同館ホームページまで。

公的年金、家族のあり方、女性の働き方 《ハチドリ暮らし》40

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写真は筆者

【コラム・山口京子】新聞に載っていた遺族厚生年金の見直し案を見て、公的年金や家族のあり方と女性の働き方を振り返って考えてみました。

1961年、自営業などを対象とする国民年金制度が誕生し、それまでの公務員や労働者の年金制度とともに国民皆年金が実現しました。1986年、年金制度を統合し基礎年金制度がつくられました。その際の改正の一つに、厚生年金に加入している夫(妻)に扶養されている妻(夫)は、保険料を納めなくても第3号被保険者になる仕組みがありました。

この制度が想定する家族モデルは、「会社員の夫と専業主婦の妻、そして2人の子ども」です。ところが、このモデルは1990年代に様変わりします。

その背景にはバブルが崩壊し、長期の不況、不良債権処理、労働者派遣法の改正、非正規労働者の増加などがあったのでしょう。家族の形は多様化しますし、夫の賃金が頭打ちになったり、引き下げられたりするなか、妻が働かないと家計が破綻する事態が進行しました。

あるエピソードがあります。家計のやり繰りが大変になった妻が、外で働きたいと言ったとき、夫は働くのはいいけれど、家族に迷惑をかけないようにと、くぎを刺したというのです。1970年~80年代は、働いている女性でも結婚が決まれば寿退社という風潮で、家庭を守ることが女性の仕事だという性別役割分担意識が根強く、家計補助として働くとしても家事は手抜きしないというプレッシャーがかかっていました。

男女の賃金格差是正が必要

現在は共働きが多数派になりましたが、共働きの形は、正社員同士か、正社員と非正規社員か、非正規社員同士か、様々です。また、業種による賃金格差や男女の賃金格差も家計に深く影響します。妻の収入は家計補助というより、夫婦が共に働かないと家計が回らないのが実態でしょう。

国税庁の民間給与実態調査によると、年収200万円以下で働く人が1000万人を超えています。その多くが女性です。扶養される範囲に調整するケースもありますが、扶養の範囲を超えて働いていても、夫より収入が少ないため、家事育児にちゃんと協力してと強く言えないことがストレスだという妻の相談を受けることがあります。家族が気持ちよく暮らせるように、共有できる役割とルール作りを話し合えたらと願います。

年金の額は現役時代に納めた保険料と納付期間で変わってきます。今すべきことは、働く人の賃金を引き上げる、男女の賃金格差是正の取り組みに本気になる、規制緩和の流れで改正されてきた労働者派遣法を見直す―ことだと思うのですが…。(消費生活アドバイザー)

懸念相次ぐ中、市全域で実証実験始まる オンデマンド型移動期日前投票 つくば市

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車いすで移動投票車に乗り込む五十嵐心音さん

市議会や市選挙管理委員会から懸念が相次ぐ中(6月3日付同25日付)、今年10月のつくば市長選・市議選での実施を目指し、市内全域を対象とした「オンデマンド型移動期日前投票」の実証実験が6日始まった。

9日までの4日間、申し込みがあった37人を対象に、投票箱を積んだワゴン車2台が自宅前まで出向くなどし、車内で模擬投票が実施される。4日間の実証実験の事業費はシステムの小規模改修が約200万円、車両の手配が約220万円の計420万円という。

自分で立ったり歩いたりすることが困難な市内の要介護3 ~5の高齢者と身体障害者など計3072人に案内を出して参加を募り、1.2%の37人から申し込みがあった。内訳は要介護3と4の高齢者が15人、身体障害者が22人。

同市は今年1月、高齢者が多い市北部の臼井、筑波地区で最初の実証実験を行った。3月時点では、両地区で実施する計画で予算を計上したが、公平性の観点から市議会や市選管から懸念が出て、6月議会では、市全域の移動困難な高齢者や障害者計約4000人にタクシー券を配布することが決まった。

一方、ワゴン車が自宅に出向く同期日前投票に対してはこれまで、市選管から2度も「時期尚早」だとする見解が出されている。これに対し五十嵐立青市長は、スーパーシティの看板事業だったインターネット投票導入につながるステップだと位置づけ、今回の市全域での実証実験となった。

移動投票車の車内の様子

今回、自宅に出向く車両は、市内の介護タクシー事業者が所有するワゴン車のリフト付き福祉車両とした。2台が市北部と南部に分かれて37人の自宅などを回る。車いす利用者は、後方からリフトに乗って車いすのまま車内に入れるようになっている。ワゴン車の運転手は介護ヘルパーの資格を持ち、乗り降りをサポートする。

移動投票所となるワゴン車では1台に付きそれぞれ、投票管理者1人、投票立会人2人、受付1人、補助1人の計5人が立ち会う。パソコン1台が設置され、ネットの利用で選挙人名簿を確認などする。文字を書くのが困難な場合は代理投票も行う。1月の実証実験で試された立会人ロボット「オリヒメ」は今回採用を見送った。

市選管からは、各所10分間という移動投票所の設置時間が厳守できるかなどの指摘があったことから、1カ所に付き30分間の予備時間を確保する。さらに次の移動投票所の設置時間に間に合わない場合を想定し、ワゴン車1台を待機させる。1月の実証実験では自力で歩ける人がほとんどだったため所要時間を計測しなかったが、今回は各所で時間を計測する。

自宅敷地内にワゴン車を駐車できるスペースがない場合は、乗用車タイプの福祉車両が送迎などする。

10月の本番で実施することが決まった場合は、改めて参加者を募集するが、現在のワゴン車2台体制の場合、期日前投票が実施される6日間で最大84軒くらいを回ることができるという。

6日、実証実験に参加した同市洞下の五十嵐心音さん(18)の自宅前には投票箱を積んだワゴン車が到着し、五十嵐さんは介助を受けながら無事投票を済ませた。心音さんは腕や手に機能障害があり、歩くことやしゃべることが困難だ。母親の純子さん(47)によると、音声を合成する機器を利用して心音さんと意思疎通を図っている。「選挙が出来る18歳になって、本人から選挙をやってみたいという意思の確認がとれたので、今回の模擬投票に参加することになった。あきらめてしまう人は多いけれど、出来ることはチャレンジしていきたい」と話した。介護タクシーの利用について純子さんは「介護タクシーはまだ利用したことはないが、機会があれば使ってみたい」と付け加えた。

五十嵐さん宅では、市選挙管理委員のほか五十嵐立青市長も同行し実証実験を見守った。五十嵐市長は「今回はスムーズな運営が出来てとても良かった。あきらめてしまう人が多い中、意思表示をし、参加できるというのはとても大事なこと。市としてはこういう機会をどんどんつくっていきたい」と話した。

今回の実証実験の結果は市選管に報告する。10月の市長選・市議選で実施するか否かの最終判断は、9月2日開催の市選挙管理委員会で改めて協議される。