土曜日, 12月 27, 2025
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車検切れ公用車を公務で使用 土浦市

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土浦市役所

土浦市は27日、車検が切れた公用車1台を5月9日から9月25日まで4カ月半、市農林水産課が公務で使用していたと発表した。

市によると4カ月半の間に、同課の職員6人が37日間、39回公務で運行していた。運行距離は計1376キロ。車検切れの間、事故などはなかった。

9月25日に同課の職員が車を使用した際、車検証の写しを確認し、車検切れであることが分かった。

同車の車検については、管財課が4月10日ごろ農林水産課に文書で通知していたが、農林水産課が車検の手続きを失念してしまったという。

判明後、市はただちに同車の使用を中止。さらに市が所有するすべての車両の車検期間について改めて調査を実施したところ、車検切れで運行している公用車はほかには無かった。

再発防止策として同市は、公用車を管理する各課に対し、管財課が文書で車検満了日を通知するだけでなく、新たに庁内ネットワークで周知し、各課の課長にメールで通知した上で、各課から管財課に車検予約日の報告を義務付けるとしている。さらに運転日誌の表紙に車検の有効期間を掲示し、運転者の意識を改善するとした。

安藤真理子市長は「市民の信頼を損なうことになってしまい深くお詫びします。今回の事態を真摯(しんし)に受け止め、二度と同様の事案が発生しないよう迅速に改善に取り組みます」などとするコメントを発表した。

ガザ侵攻から1年 パレスチナにルーツ持つ女性が第3回イベント

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イベントを主催するラクマンさん(左)と松﨑さん

29日、つくばセンタービル

料理やアート、映画の上映を通じてパレスチナを知るイベント「パレスチナ・デイ」(パレスチナ・デイ・つくば主催)が29日、つくば駅前のつくばセンタービルにある市民活動拠点「コリドイオ」で開かれる。主催するのは、パレスチナ人の父を持つ、つくば市在住のラクマン来良さん(35)ら市民有志。今回で3回目の開催になる。

3月のイベント(2月27日付)には県内外から100人を超える来場者があった。「ガザ侵攻から1年。関心が薄まりつつあるのを感じるが、現地では攻撃が今も続き、多くの子どもや大人が犠牲になっている。まずはパレスチナという場所があると知ってほしい。関心につなげられたら」とラクマンさんは思いを込める。

活動する仲間が作ったポスターには、パレスチナに関するイラストがあしらわれている

父親が西岸地区に

ラクマンさんの父親は、パレスチナのヨルダン川西岸地区にあるカルキリアという街で自営業を営んでいる。父親とは昨日も電話で話をした。「カルキリアには一時的にイスラエル兵士が入り、住民を逮捕したり、殺害することもあった。今は比較的落ち着き、普通の生活ができているよう」だという。

ラクマンさんはパレスチナ人の父と日本人の母親のもとで1988年に埼玉県で生また。日本で育ち、15歳の時、初めてパレスチナを訪ねた。自身の文化を知ってほしいと願う父親の思いもあり、日本の中学を卒業後は、家族で5年間、隣国のヨルダンで過ごし、親族が暮らすパレスチナをしばしば訪ねた。そこで初めて見た風景に、ラクマンさんは衝撃を受けた。

現地はどこに行っても検問所があり、検問所を通過するたびに銃を持つイスラエル兵に身分を確認された。身分証のチェックだけでなく、家族の出自や職業、居住地、国籍の異なる両親がなぜ出会ったのかなどまで細かく詰問された。「イスラエルという国がパレスチナをコントロールしていた。これまで自分が生きてきた世界とは全然違う世界があった」と言い、「自分がパレスチナ人として扱われる中で、父から聞いていた『パレスチナ人には国がない』ということがどんな意味か実感した。自分たちは占領されている立場だと感じた」と振り返る。

20歳で日本に帰り、改めてパレスチナについて学んだ。入学した日本の大学ではパレスチナに関するサークルに入りイベント開催を通じて啓発活動を始めた。現在はドイツ人の夫とつくば市に暮らし、3人の子どもを育てている。

3月に開かれた第2回パレスチナ・デイの様子(パレスチナ・デイ・つくば提供)

ママ友と声を上げる

今回、イベントを一緒に主催するつくば市の松﨑直美さん(54)は、子どもの学校を通じて知り合った「ママ友」だ。松﨑さんはラクマンさんとの出会いを通じてパレスチナへの関心を深め、昨年10月のガザ侵攻後は、都内で行われた抗議デモにラクマンさんと何度も参加した。今年1月には、駐日パレスチナ常駐総代表部(東京都港区)で開かれたパレスチナの伝統模様をあしらった刺しゅうのワークショップに参加した。最近はつくばで松﨑さん自身がパレスチナ刺しゅうを広める活動をするなど(7月1日付)文化活動を通じて現地のことを伝えている。

「パレスチナ・デイ」は「自分たちが暮らすつくば市でも何かしたかった」というラクマンさんの思いに松﨑さんが協力し、昨年12月に立ち上がった企画だ。第1回はラクマンさんの自宅で開いた。活動を続ける中でつながった人たちとプラカードを手に街頭に立ち、パレスチナへの連帯を表す「スタンディング・デモ」を市内で行っている。

自分の家族と重なる

昨年10月に始まったイスラエルの武力侵攻の直後、ラクマンさんは心に深い傷を負った。「子ども達が殺されているのを映像で見る。たくさんの大人も傷ついている。彼らが自分の家族と重なる。自分の子どもだったらと考えると仕事が手につかず、うつ状態になり、カウンセリングを受けた」と明かす。しかし「自分がうつになっても何も変わらないし、パレスチナのために何もできない。何ができるか考えたときに、日本の人にパレスチナのことを知ってもらうことをしようと思った」

その後の複数回、ラクマンさんは自身の子どもを連れて親族が暮らすパレスチナを訪れている。「子どもには現地を見せたかった。親戚もたくさんいる。特殊な状況でも人はとても温かい。皆、また行きたいと言ってくれている」と話す。

ラクマンさんは、自身がパレスチナにルーツを持つ人間だからこそできることがあると考える。「日本人の考え方もわかるし、パレスチナ人がこれまでどんな目に遭い、何を思うのかを家族を通じて知ることができている」と話し、「パレスチナで起きていることは、国同士の戦争ではない。民族浄化、ジェノサイドが起きている。パレスチナという場所があると知ってほしいし、関心を持ってほしい。これからも、できることをやっていきたい」と語る。(柴田大輔)

◆イベント「パレスチナ・デイ」は29日(日)午前11時から午後6時まで、つくば市吾妻1-10-1、つくばセンタービル内の市民活動拠点コリドイオで開催。午前11時からは、ジャーナリスト古居みずえさんがパレスチナで撮影したドキュメンタリー映画「ぼくたちは見た」の上映会が、午後1時からは、アーティストKENさんがパレスチナをテーマに絵を描きながら、参加者とのお話会を開く。午後3時30分からは、ガザ出身の女性らによるパレスチナ料理教室が共催団体により開かれる。そのほかパレスチナに関するパネル展、文化、書籍の紹介、雑貨や軽食の販売などがある。上映会とアーティストKENさんの企画は3階大会議室で、参加費はそれぞれ1000円と500円。パレスチナ料理教室は1階調理室で、参加費は3500円。一部の参加は事前予約制。問い合わせは「パレスチナ・デイ・つくば」のインスタグラムへ。

喫茶店紹介番組を茨城県南でも!《遊民通信》97

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【コラム・田口哲郎】

前略

YouTubeでテレビ大阪制作の「片っ端から喫茶店」という番組を見ることができます。当然、茨城県では地上波放送はないのですが、YouTubeがあると、さまざまな地域の番組を見ることができるので便利です。この「片っ端から喫茶店」のコンセプトは番組公式ホームページに書かれています。

「実は、日本一喫茶店の多い都道府県でもある大阪。そんな大阪の宝とも言える膨大な喫茶店を、年齢も性別も職業も違う人々が巡るアンソロジー。こだわりの強いお店から、全くこだわりのないお店まで、東西南北片っ端から回っていきます」

コンセプト通り、いろいろなリポーターが全国一喫茶店の数が多い大阪を縦横無尽に巡り、「片っ端」から紹介します。この番組が対象とするのは、いわゆるシアトル系とか全国チェーン展開をしていない喫茶店(もしくは全国チェーン店の本店)です。

前にも書きましたが、純喫茶のようなお店は最初、ちょっと入りづらかったりします。中がよく見えないとか、お値段がどうなんだろう、とか。でも、テレビ番組で紹介してくれると、様子がよくわかるので、行きやすくなります。実際、私は大阪旅行したときに、「片っ端から喫茶店」を参考に、喫茶店に行きました。あの番組がなかったら行かなかったでしょう。

いま、昭和レトロがもてはやされて、喫茶店ブームになっています。「片っ端から喫茶店」以外にも、ずんの飯尾さんがテレビ東京で「飯尾和樹のずん喫茶」という番組をやっています。コンセプトは「喫茶店が大好きな“ずんの飯尾和樹”の喫茶店巡り旅。おいしいコーヒーに、マスターや常連さんと愉快なおしゃべり。入店から退店まで飯尾さん目線で楽しむ喫茶店番組」。

「いいじゃん!」のような番組の復活を!

J:COM茨城でも、コロナ前までは「いいじゃん!」という番組がありました。オジンオズボーンの高松さん、鈴木涼子さん、山城功児さんたちが地域の魅力を伝えるバライティーでした。残念ながら終了しましたが、いま、喫茶店に注目して、地域密着型バラエティーを復活させてほしいです。

茨城県南は郊外型住宅地が多いので、シアトル系や全国チェーンの喫茶店が多いでしょう。しかし、土浦、阿見、牛久、取手と歴史ある街があり、伝統を積み上げているつくばにも魅力的な喫茶店があるはずです。街を彩る喫茶店を巡って紹介し、住民が楽しく余暇を過ごすためのバラエティー番組の復活を強く希望します。ごきげんよう。

草々

(散歩好きの文明批評家)

県、つくば市立葛城小の元事務職員を停職処分 給食費など900万円不明

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茨城県庁

つくば市立葛城小学校に以前勤務していた学校事務職員の男性(45)が、2018年度から20年度までの間、現金を不適切に取り扱い、保護者から徴収した給食費及び児童会費計904万7990円を紛失したとして(23年11月21日付)、県は26日、男性職員を同日付けで、停職12カ月の懲戒処分としたと発表した。男性職員は、県が給与を負担する県費負担職員。

同小では当時、保護者から振り込まれた給食費などの学校徴収金を、徴収用の学校の預金口座から事務職員が現金で引き出し、市の口座に移していた。男性職員は現金を引き出した際、複数回にわたって一部を市の口座に移さず、職員室内の自分の机に保管していた。その間に計約900万円が不明となった。

さらに男性職員は、つくば市に提出する給食費納入報告書について、市の口座に移してないことを隠蔽するため、市に虚偽報告をしたとされる。

同市の森田充教育長は「市民に多大なご迷惑と不安をお掛けし深くお詫びします。市内の学校で学校徴収金に不明金を発生させたことについて誠に遺憾に思っています。今後このようなことが二度と起こらないよう管理体制を徹底します」などとするコメントを発表した。

野党共闘見直しへ 共産新人の間宮氏が立候補表明【衆院茨城6区】

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次期衆院選茨城6区から立候補することを表明した共産新人の間宮美知子氏=つくば市竹園、学園記者クラブ

次期衆院選 茨城6区(つくば、土浦市など6市区)に、共産党新人で元つくばみらい市議の間宮美知子氏(77)が26日記者会見し立候補を表明した。6区には前回2021年の衆院選小選挙区で当選した自民現職の国光あやの氏(45)、比例で復活当選した立憲県連代表の青山大人氏(45)が立候補する予定で、間宮氏は3人目となる。共産党は前回、6区で候補者擁立を見送り青山氏を応援していた。野党共闘の見直しにより、対決の構図が変わりそうだ。

共産党県委員会の上野高志委員長は「野党共闘の原点は、2015年9月の安保法制成立後、市民から起こった『市民と野党の共闘を』という願いからで、安保法制の廃止が原点」だとし「立憲民主党は(党首などで)この間、安保法制はすぐには廃止できない、政権を共産党と一緒に担うことはできない、自民党を右から支える維新との協力にも言及するなど、市民と野党の共闘に背を向けている」とし、今回は県内全7選挙区で立候補者の擁立を検討しているとした。前回擁立したのは4区と5区のみだった。

上野委員長はその上で①消費税を5%に減税、最低賃金を時給1500円以上、労働時間を1日7時間に短縮するなど物価高から暮らしと経済を立て直す②百里基地(小美玉市)が300~500億円の予算で基地強靭化を図る対象となり、同基地で米、豪、英、仏など外国の軍隊と共同訓練が行われているなど、大軍拡に反対し、戦争準備ではなく外交により平和を構築するーなどを訴え、比例区での議席増を軸に、県内の得票目標を12万6000票とするとした。

間宮氏は「岸田首相は政権を投げ出したが、これまで(裏金問題など)岸田政権の追及をしてきたのが(党機関紙の)『しんぶん赤旗』。正義を守る、不正を許さないという考えの下でやってきた。市議をやった中で、議員として意見表明をすることは大事だと思った。自民党政権は軍拡に走り、労働者を切り捨て、自分たちだけもうけて、懐にお金を入れている。この仕組みは間違っている」などと述べ、①学費無償化を目指し、大学の入学金を廃止する②価格保障や所得補償の充実など農業者が安定して生産を続けられる条件を整える➂年金削減の中止など社会保障と教育の拡充―などを訴えたいと話した。

間宮氏は東京都立大学卒、都内の中学校と茨城県内の養護学校で教員を務めた後、JICAのシニアボランティアとして中米3カ国で計8年間、自閉症児の教育普及に当たった。2020年からはつくばみらい市議を1期務めた。

回収量年10トン規模、ボート使い水中清掃も【霞ケ浦 水辺の足跡】下

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水中のごみを引き揚げる、有志による防塵艇身隊のボート

地元建設業者が若手を派遣

水辺基盤協会(本部美浦村、吉田幸二理事長)は2005年にNPOとして発足した。試行錯誤を繰り返しながら、春と秋の2回、湖畔でのごみ拾い活動を続け、清掃活動は「53 Pick Up!」の愛称で定着した。現在は約350人の活動参加者以外に、国土交通省や茨城県、沿岸自治体の協力も得られるようになり、湖畔だけでなく水中に没した廃棄物の引き揚げも行われるようになった。

「防塵挺身隊(ぼうじんていしんたい)という、ボートを使った水中清掃が2003年から行われている。長靴、長熊手、水中探査機など、専用の道具を活用することで、従来以上のごみを回収できるようになっている。引き揚げられたごみは陸上班が回収してデータ化も進めている。この機動力によって回収されるごみの量は年間で約10トンに上る。目を見張るのが流域にある地元建設業者のパワー。機材の提供や扱いだけでなく若手社員を自社研修として派遣してくれる。そんな企業が5社参加している」と理事長の吉田さん。

多種多様なごみが回収され、回収量は年間10トンにもなる

好きで拾っているわけじゃない

それでも清掃活動の手が届かない湖畔の堤防などには、まだ空き缶やビニール袋が散見される。一度の清掃の回収量よりも、霞ケ浦流域全体に活動意識が拡大していけば理想だと吉田さんは述べる。

「多くの場合、国がやってくれるだろう、県がなんとかするだろうという住民意識が強かったと思う。頼りきることでは力は発揮できない。逆に、流域の人々が最も手軽にできる環境保全活動がごみ拾いだと思う」

防塵挺身隊には活動規範を示す五カ条の総則があり、この総則に沿えた一説には彼らの本心がうかがえる。

「好きで拾っているわけじゃない。霞ケ浦で楽しい時間を過ごすため、わずかな時間を割いているだけ。議論を否定するわけじゃないが、口角泡を飛ばすよりも、ごみを拾ってストレス飛ばそう」

吉田さんは「皆が頑張った分だけ霞ケ浦がきれいになるし、頑張った分だけ湖沼の生き物たちも元気になるんですよ」と湖畔を眺める。

全国14の河川や湖沼に広がる

霞ケ浦で始まった清掃活動「53 Pick Up!」はその後、全国各地に広がり、愛知県の入鹿池、三重県の長良川下流域、高知県の波介川などで受け継がれ、30回を越えて継続しているという。

吉田さんは「『53 Pick Up!』は10年前から実行委員会を組織して主催しており、全国14の河川や湖沼で活動が繰り広げられている。霞ケ浦では定期的に年2回、防塵挺身隊は6回。台風の直後にも臨時に清掃する場合もある」と述べる。さらに「協会ではこれらを継続するほか、美浦村の清明川河口周辺に整備された植生浄化施設に育つ水生植物を利用した水質浄化試験もこのメンバーや参加者によって進められている」と活動の広がりを話す。

美浦村にある植生護岸と浄化水路

水質浄化実験には清明川から引き込む水路が活用されており、吉田代表は「水路の利用可能性として子供向けの自然観察会や釣り教室、水難事故の危険を知ってもらうための学習会などに拡張させたい」と話す。

節目の年

「滋賀県が提唱し実現した『世界の湖沼環境の保全に関する国際会議』(1984年)から今年は40年になる。これが世界湖沼会議に発展して、霞ケ浦では1995年と2018年に二度、湖沼会議が開かれた。何事も継続は力なり、明確な目的を持つ活動は、祭りの神輿のように長い時代を伝え続けられると考えている。バス釣りという遊び場を守るためには、実に単純で明快に、自ら動かなければいけないと思った」

吉田さんの言葉は楽しげに響くが、苦労と努力の足跡でもある。2025年は霞ケ浦で最初の世界湖沼会議が開かれて30年になる。水辺基盤協会もNPO発足から20年という節目を迎える。どこへ向けて足跡を残すか尋ねてみると「いろいろな話題や提案が話し合われているが、NPOだけで実現できるものでもなく…」と、苦笑いが返ってきた。(鴨志田隆之)

終わり

雪の音を撮る《写真だいすき》32

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なかなか雪の音は聞けない。特にこんな暑い地球になった今は。やっと昔の写真を探し出した。撮影は筆者

【コラム・オダギ秀】ボクが通っていた小学校は、木造2階建てではあったが、現代のあちこちの校舎からは想像がつかぬほど子供心にもオンボロで、風が強い日などは、走ってユサユサさせると校舎が倒れるから走ってはいけない、と真面目にきつく命じられていたほどであった。校舎には斜めに支え棒がついていた。

そんな校舎で何時間目かの授業の開始を待っていたある雪の日、教室に担任のS田先生が入ってきた。当時、S田先生は30過ぎだったろうか。ハンサムではなかったが、いわゆる熱血教師だったと思う。生徒みんなが嫌がった汲み取りトイレの便器を素手で洗った。

S田先生が宿直のときは(昔、先生は宿直という泊まりがけの日があった)、ボクらは大喜びで泊まりに行った。

さて、雪の日のことだ。S田先生は教室に入ってくると教室を見渡し、それから机の上のものをみんなしまえと言った。そして、雪の音を聞け、とボクらに命じた。「雪の音ぉ〜?」。そんなの聞こえないじゃないか、雪に音なんかあるのかよ、とみんな思った。

雪はしんしんと、オンボロの校舎を包んでいた。でも先生の命令だから、みんな黙って座り続けた。長い時間に感じた。

見えないものを撮れ

そのS田先生は、ボクらが卒業してからしばらくして、若くして亡くなられたと聞いた。校舎も、いつの間にか、立派な校舎に建て替えられた。ボクは大人になり、写真家として仕事をしていた。だが、自分の写真に、その背景がなかなか写らないな、と悩んでいた。目に見えぬ部分、写した外の部分を表現したいものだと思っていた。

たとえば、何か楽しいものや悲しい瞬間を撮る、美しいものを撮る、そんなときに、なぜなのかその外に何があるのかをより深く表現できれば、より楽しい、より悲しい、より美しい表現になるということなのだ。

そして、あるとき、ある瞬間、気がついた。S田先生が雪の音を聞けと言ったのは、このことだったのだと。聞こえないものを聞け、見えないものを撮れ、その外にある大切なものを表現しろということだったのだと。テクニックではない。こうすれば雪の音が聞こえるというノウハウではない。雪の音の外にある聞こえない音、見えるものの外の見えない大切なものを撮れということなのだ。

いまもボクは、雪の音が聞こえる写真を撮りたいと苦労している。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)

バス釣り仲間で清掃活動スタート【霞ケ浦 水辺の足跡】上

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NPO水辺基盤協会理事長の吉田幸二さん

霞ケ浦に船出していく土浦新港を活動拠点として、定期的な清掃活動に従事する人々がいる。活動団体の一つ「水辺基盤協会」(美浦村木原)は、バス釣りを楽しむ仲間達で1995年に始めたごみ拾いを継続させるため、2005年にNPOを立ち上げた。清掃活動スタートから29年、NPO設立から19年目の水辺の足跡をたどった。1995年は第6回世界湖沼会議がつくば、土浦などで開かれた年で、来年は30年になる。

参加費徴収しごみ拾い

協会理事長の吉田幸二さん(73)はもともと、東京に仕事と居を構え、週末や休日に霞ケ浦湖畔を訪れブラックバスを釣る暮らしを楽しんでいた。1990年代のことだ。

「当時、水質悪化や汚濁の話題をよく耳にした。それを裏付けるかのように、霞ケ浦のどこに行ってもごみが散乱していた。湖畔に来た人が捨てたものもあっただろうし、(流入河川の)桜川のずっと上流から流れ着いたものもあったでしょう。こういう場所で、しかも外来魚を釣っていると『あなたたちの仕業ではないのか』と言われた」

湖岸に流れ着いたごみを拾うバス釣り仲間

そこで、釣り仲間に声を掛け、理解を得られた人に集まってもらい、ごみ拾いを始めた。1995年2月に第1回目の清掃活動が行われ、土浦新港や行方市の霞ケ浦ふれあいランド周辺など場所を変えながら、霞ケ浦の何カ所かで継続的に、ごみの収集を展開した。

吉田代表は当時を振り返り「参加者を募って、彼らから参加費をとるという乱暴なことをした。もちろんバス釣りの人々すべての賛同を得られたわけではない。ただ、それを理解してくれる仲間とならば、持続した活動を続けられるという確信があった」

参加費の徴収は、裏話を聞くと乱暴でも何でもない。当時は民間人がごみ収集をしても、それを処理する予算がなかった。当時の建設省(国土交通省)にしても茨城県にしても、湖畔のごみ処理の事務分担に対するハードルが高く、沿岸自治体にしても予算を工面できるところはなかったという。活動仲間は参加費として自ら処理費を負担して産業廃棄物処理業者に引き取ってもらっていた。

土浦市で行われた清掃活動「53 Pick Up」の参加者ら

本腰で取り組む覚悟

吉田さんらの清掃活動が始まった1995年という年は、霞ケ浦をテーマとした第6回世界湖沼会議が10月に招致され、筑波研究学園都市や土浦市、霞ケ浦湖畔の各地で様々な研究発表や議論が展開された。第6回湖沼会議を機に、市民による水質改善の取り組みやごみ拾いなどが地域に浸透し、研究発表の情報やデータが役立てられる機会も増えた。

一方、吉田さんは「『あんたたちは、どうせブラックバスがいなくなったら霞ケ浦には来なくなるんだろう』などと毒づく人もいた」と当時を振り返り、「ブラックバスは強い適応能力を持つ魚だが外来種ゆえに嫌われ者だった。しかし、それがいなくなるという言葉の裏側に、本気で外来種を駆除し湖の汚濁や水質改善をやろうと考えている気迫までは感じられなかった」と話す。

さらに10年後、吉田さんはバス釣り愛好家にも本腰で取り組むべき覚悟が必要だと感じ、NPOの立ち上げを決めた。(鴨志田隆之)

続く

離婚届と結婚届《短いおはなし》31

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イラストは筆者

【ノベル・伊東葎花】

バツイチ同士の再婚で、彼も私も子供がいない。障害は何もない。
彼はちょっと頼りないけど優しい人だ。
一緒に暮らし始めて、あとは籍を入れるだけだった。

ところがここで問題が起きた。
彼の離婚届が、出されていなかった。つまり彼はまだ、離婚をしていない。

彼は別れた妻に電話をした。

「え? 出し忘れた? もう5年も経つんだぞ。忘れたって、何だよ」

不機嫌そうに電話を切った彼は、いらつきながら言った。

「だらしない奴なんだ。私が出すって言いながら忘れたんだって。しかもどこかへ失くしたらしい。本当にダメな奴なんだ。だから別れたんだ」

「それで、どうするの?」

「明日、うちに来るって。離婚届をその場で書いてもらうよ。会うのが嫌だったら、君は出かけてもいいよ」

彼はそう言ったけれど、私が留守の間に来られて、あちこち見られるのは嫌だ。
私は、2人の離婚届の署名に立ち会うことにした。

翌日、午後6時に来るはずの元妻は、30分を過ぎても来ない。

「ルーズなんだよ。だから別れたんだ。仕事が忙しいとか言って朝飯も作らないし、掃除もいい加減だし」

彼の元妻に対する悪口は、どんどんエスカレートする。
いつだって仕事優先で、妻としての役割を果たさなかったとか、車の運転が荒いとか、自分よりも高収入なのを鼻にかけていたとか。
聞けば聞くほど、彼が小さい男に見えてくる。

元妻は、6時40分を過ぎたころにやっと来た。

「ごめんなさい。遅れちゃって」

彼が言うほどだらしない印象はない。上品なスーツを着て、薄化粧だけど美人だった。

「忙しい時間にごめんなさいね。離婚届を書いたらすぐに帰りますから」

感じのいい人だった。

彼女の後ろから、小さな男の子が顔を出した。彼女は子供の頭をなでながら言った。

「この子を保育園に迎えに行って、遅くなってしまったの」

彼が驚いて聞いた。

「君の子供? 結婚したのか?」

「結婚するわけないでしょう。離婚してないんだから。さあ、ごあいさつして」

母親に促され、子供がかわいい声であいさつをした。

「はるきです。5歳です」

「5歳?」

彼が青ざめた。確かめるまでもなく、はるき君は彼にそっくりだ。

「別れた後で妊娠がわかったの。でもね、捨てないでくれってすがりつくあなたを追い出しておいて、妊娠したから帰ってきてなんて言えないじゃないの」

すがりついた? 彼が?

「出産準備や仕事の調整で忙しくて、離婚届出し忘れちゃったの」

彼女はそう言うと、素早く離婚届に名前を書いて印を押して帰った。

「じゃあ、あとはヨロシク」

離婚届を見つめながら、彼は明らかに動揺している。

「彼女、わざと離婚届を出さなかったんじゃない? あなたが帰ってくると思って」

「そうかな…」

「追いかけたら。あなた父親でしょう」

慌てて出て行く彼を見送って、私は離婚届を丸めて捨てた。

彼が元妻、いえ、妻の悪口を言い始めたときから、わずかな嫌悪感を拭いきれない。

それは放っておいた珈琲のシミみたいに、消えることはないだろう。
抽斗(ひきだし)にしまった婚姻届を出す日は、もう永遠に来ない。
ため息をつきながら捨てた。ゴミ箱の中で、離婚届と婚姻届がぶつかり合って弾けた。(作家)

「霞月楼所蔵品展」が開幕 土浦市民ギャラリー

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会場の様子。手前が一色五郎の作品2点、奥が屏風のレプリカ=同市大和町、アルカス土浦1階 土浦市民ギャラリー

29日はトークセッション

明治時代に創業し各時代の政治家、軍人、文化人らをもてなした土浦の老舗料亭「霞月楼」(同市中央、堀越恒夫代表)が所蔵する美術作品などの写真パネル約40点を一堂に展示する「霞月楼所蔵品展」(同実行委員会主催)が24日、土浦駅前の土浦市民ギャラリー(同市大和町、アルカス土浦1階)で始まった。会期は29日まで。初日は午後2時からオープンし、約40人が訪れた。

政治家、軍人、文化人らが通う

「霞月楼」は1889年(明治22年)に創業、130年以上の歴史を誇る。県内の政治家や実業家らの社交場として、また多くの文人や画家、書家らが逗留(とうりゅう)する創作の場としても栄え、画家の大川一男小川芋銭、竹久夢二、岡本一平などが残した作品が大切に継承されている。

1921年(大正10年)、阿見町に霞ケ浦海軍航空隊が発足すると、海軍の関係者らが訪れて連日にぎわい、東郷平八郎山本五十六もよく通った。1929年、飛行船ツェッペリン伯号が飛来した際は、乗客乗員を「霞月楼」で歓待した。

海軍予備学生の寄せ書き屏風レプリカも

展示されているのは、東郷平八郎、山本五十六、リンドバーグ、ツェッペリン伯号などにまつわる歴史資料と、著名作家の美術作品の写真パネルなど。土浦市出身の彫刻家、一色五郎の作品は「白鷺(しらさぎ)」の写真パネルのほか、「逆さだるま」と鳩の彫刻2点の現物を展示している。

太平洋戦争末期の1944年に「霞月楼」で開かれた海軍予備学生の送別の宴で、これから戦地に向かう予備学生らが寄せ書きした屏風(びょうぶ)は、同じ大きさのレプリカを展示。「征空萬里」、「回天」という勇ましい言葉や、当時人気だった芸者「春駒」の文字が見られる遺書のような屏風は、若者が命を賭した戦争の痛ましさを生々しく伝える歴史資料の一つだ。

「霞月楼」の堀越雄二さんは「当時祖父が予科練にいて、この寄せ書き屏風の存在を伝え聞いていたという人も訪れ、涙を浮かべて屏風を見ていた。このような歴史の1ページがあることを多くの人に知ってもらえれば。開催中は受付にいるので、解説もしますし、質問もいつでもお待ちしています」と話している。(田中めぐみ)

◆「霞月楼所蔵品展」は土浦市民ギャラリーで、9月24日(火)から29日(日)まで開催。開館時間は午前10時から午後6時まで。入場無料。

◆最終日の9月29日(日)午後1時から午後3時は同ギャラリーで、小説家の高野史緒さんと社会学者の清水亮さんによるトークセッション「ツェッペリン伯号と湖都・土浦を語る」が開かれる。入場無料。車で来場の際は駐車場が最大2時間無料。図書館、または市民ギャラリー受付で確認印が必要。

➡《霞月楼コレクション》の過去記事はこちら

障害があっても海外で夢をかなえる 米国で1年研修へ 八木郷太さん

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米国に研修に行くことが決まった八木郷太さん

国内初、公費の障害福祉サービス利用し

障害に対する啓発活動をする土浦の当事者団体「DETいばらき」(高橋成典代表)のメンバーで、水戸市の当事者団体「自立生活センターいろは」事務局長の八木郷太さん(28)が、重い障害のある人に公費でヘルパーを派遣する「重度訪問介護」を利用し、米国の障害者団体で約1年間、研修を受ける。長期間の国外滞在時に国内の福祉サービスの利用が認められるのは全国でも初めての事例。八木さんの挑戦が、障害者運動の歴史に新たな1ページを刻む。

土浦市内の飲食店で22日、DETいばらきの障害当事者メンバーやヘルパーらが集まり、米国に向かう八木さんの壮行会を開いた。会の冒頭で八木さんは「大変なことはまだあるが、楽しみたい」と話すと、同団体の代表の高橋さん(59)は「素晴らしい活動。たくさんのことを吸収して、次の時代につないで欲しい」と語った。

「DETいばらき」で活動する仲間たちとの壮行会で乾杯する八木さん(中央)

八木さんは中学3年の時、柔道の練習中の事故で脊椎を損傷し、首から下を全く動かせなくなった。現在は、ヘルパーによる24時間の介助を受けながら水戸市内で一人暮らしをする。自立生活センターいろはでは当事者として障害者の地域生活を支援し、DETいばらきでは障害への理解啓発に取り組んでいる。

米国で障害者のパレードに参加

八木さんは、海外で活動することを子どもの頃から夢見ていた。事故に遭った時は現実を受け止められず、何度も涙がこみ上げたという。その後は周囲に支えられ、「どんな重い障害があっても自分らしく生きることができる」という理念を掲げる障害者の自立生活運動に出合い、20歳からヘルパー制度を利用して一人暮らしを始めた。

一度は諦めかけた海外への夢が再燃したのは2017年。世界で初めて「障害者差別禁止法」が制定された米国での記念イベントに、日本全国の障害者や介助者らと参加した。現地では、米国以外の若者たちとも交流し、パレードにも参加した。さらに、保険制度改悪を阻止するため逮捕者を出すのもいとわず座り込む米国の当事者らに接し、「熱いムーブメントを肌で感じた。彼らと一緒に活動したいと思った」と振り返る。

2023年に日立市で開かれた「茨城県障害者権利条例」制定8周年を記念するパレードで先頭中央を歩く八木さん

「国内で前例がない」

八木さんに今年、渡米のチャンスが訪れた。障害者支援に取り組むダスキンによる「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」に応募し、八木さんが立てた、米国で運動を学ぶという研修計画が採択されたのだ。約1年間の八木さんの現地滞在費が助成されることになった。これで夢への扉が開くと思ったが大きな壁に突き当たる。米国で八木さんの生活を支えるヘルパーに支払う「介助料」は助成の対象外だった。

自分で体を動かすことができない八木さんの暮らしには、常にヘルパーの介助が必要になる。日本では、障害福祉サービス制度を利用することで、ほとんど自己負担なく24時間の介助サービスを受けることができる。しかし、1年に及ぶ長期の国外滞在に対し、サービスの支給決定権を持つ水戸市は当初「国内で前例がない」と態度を保留。のちに「国内に1年間不在となると、居住実態が日本から現地に移るため、ヘルパー制度を利用できなくなる」と八木さんに伝えた。

八木さんが受けている重度訪問介護は、半分を国が負担し、残りを茨城県と水戸市が負担している。ヘルパー派遣費用は年間で約2000万円。制度が適用されなければ、全額が八木さんの自己負担となる。現地でヘルパーを雇用すれば時給は約30ドル(日本円で4000円超)になる。個人でまかなえる金額ではなかった。「障害がなければ、現地滞在にかかる費用の助成だけで夢に向かうことができるはずなのに…」。計画を断念することも八木さんの頭をよぎった。

「DETいばらき」で活動する仲間たちと写る八木さん(左から3人目)

全国の障害者が動き、厚労省交渉

そこで動いたのが、全国で活動する障害者たちだった。調べると、1年未満の滞在であれば、国外にいても税金は日本に収める必要があるとわかった。納税するなら、制度も国内にいるのと同様に使えるべきだ―。これを根拠に当事者らが交渉すると厚生労働省は「海外滞在が1年未満の場合は転居届を提出する必要がなく、渡航前の市町村が引き続き居住地となると推定される。したがって、障害福祉サービスの利用は可能」との見解を示した。厚労省が認めたことで水戸市は八木さんに対して「国外滞在中でも1年未満であれば、今利用している介助サービスを継続して使用できる」と認めた。夢を実現するための大きな壁が取り去られた瞬間だった。

現地では、1日に必要な3人のヘルパーのうち、2人は日本から渡航するヘルパーが制度を利用する。もう1人は現地で雇用する予定だ。制度外となる現地雇用分のヘルパー費用は、クラウドファンディグで301人から寄せられた約500万円を充てる。

八木さんは「たくさんの方に助けられここまで来られた。絶対に1人では無理だった」と話し、「海外に憧れる障害がない人と同じように『海外で学びたい』という強い気持ちが私にはある。しかし夢を実現するための障壁が、障害者であることが理由になるのはフェアじゃない」と述べる。

「かつては障害者が一人暮らしするのが大変だった。それが今はヘルパー制度があることで可能になった。そしてようやく『海外へ』というところにきた」と当事者運動の積み重ねによる時代の変化を八木さんは実感する。

現地の障害者運動に飛び込みたい

米国では、西海岸カリフォルニア州のサン・ラファエル市にある障害者の自立生活を支援する当事者団体で、研修員として現地スタッフと共に活動し、団体の運営や権利擁護活動を学ぶ。早ければ11月中にも渡航する予定だ。八木さんが現地で一番やりたいのは「現地の障害者運動に飛び込むこと」だ。日々、現地の当事者と同じ空気を吸い、暮らしを共にする中で、障害者としての権利や権利意識をどのように獲得しているかを学び、障害者が生きる街や文化を体感したいと話す。7年前に感じた熱が、今も八木さんを突き動かしている。

「将来、若い障害者が今の時代を見て『昔は海外に行くのがこんなに大変だったんだね』と笑い話になるような社会になっていたらうれしい。障害者が健常者と同じように、どんどん海外を志せる社会になってほしい。自分の経験が、他の障害者にとって一歩を踏み出すきっかけになれば」と八木さんは語る。

厚労省障害福祉課は取材に対し、八木さんの事例を踏まえて「滞在期間が1年未満なら海外でも障害福祉サービスを利用できることを、全国の自治体に、事務連絡としてなるべく早期に、わかりやすい形で周知する」とした。(柴田大輔)

私の地球 ユキちゃんのこと《続・平熱日記》166

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絵は筆者

【コラム・斉藤裕之】夏の間過ごした弟の家の敷地には水の流れがある。ここより上にはもう民家はないので、いざという時には飲み水にもなるという。それとは別に水がしみだしている場所があって、そこにはふかふかのコケが一面に生えている。その中心に向かって飛び石が置いてあって、その先には小さな浅い池がある。

のぞいてみるとアカハライモリがいて、夏も後半だというのに小さなオタマジャクシが見える。「たぶんモリアオガエルだと思うよ」。この池を作って管理をしているのは義妹のユキちゃんだ。

夕食の時間には、食卓からちょうど山の端に沈む真っ赤な夕陽が見える。ユキちゃんはその夕焼けを見ると、居ても立ってもいられない様子でスマホを持って表に出ていく。「今日の空はきれいじゃった!」。次の日も同じように箸をおいて夕陽を見に行く。

そんなユキちゃんが去年の夏、たまたま寄った道の駅で見つけたメダカを古い石臼の中で飼い始めた。そして、今年の夏、百均で買ったという小さな金魚鉢には、もらってきたというメダカの子供が数匹泳いでいた。ユキちゃんはその金魚鉢を大事そうに抱えて、実に楽しそうにのぞいている。メダカの具合を確認したり、スポイトで汚れを吸い取ったり。

そして、たまたま寄った道の駅で、今度はメダカ用の水草と小さな巻貝を見つけた(最近道の駅でメダカは必須アイテム化しているようだ)。この巻貝は金魚鉢の汚れを食べてくれるらしい。

カタツムリと同じ雌雄同体で、2匹いれば増えるというのだ。茨城の私の家にもメダカがいるので、4匹いるうちの半分をもらって帰ろうと思っていたら、ある日、1つの殻が空っぽになって沈んでいるのにユキちゃんが気付いた。1匹だけ持って帰ってもしょうがないので、また増えたらもらうことにした。

夏の間、忙しい果樹園の仕事があるにもかかわらず、毎日おいしいごはんを作ってくれたユキちゃんに何かお礼をしよう。そう思っていたら、偶然、ピッタリのプレゼントを見つけた。淵が青くてひらひらした古い小さなガラスの金魚鉢。

アサギマダラが飛んでくるんよ!

茨城に戻って少しは涼しくなるかと思いきや、今年はいつまでも暑い。そこにユキちゃんから画像が届いた。プレゼントした金魚鉢が映っているようだが、よくわからない。「巻貝が1匹死んで2匹になったと思ったら、赤ちゃんがいっぱい生まれた!」とのコメント。

「秋になるとフジバカマが咲いて、そうしたらアサギマダラが飛んでくるんよ!」。ユキちゃんは、北から南へ千キロ以上も移動するというアサギマダラ蝶(チョウ)がもうすぐこの山の中の敷地に立ち寄るのを心待ちにしている。

画家、香月泰男(164話)は、生涯、山口県の三隅町を離れることなく画業に勤しんだ。そして、その小さな町が彼の空であり大地であり「私の地球」であると言った。まさに、この山の中の家はユキちゃんの地球だと思った。多分ユキちゃんは香月泰男の言葉を知らないと思うけど。(画家)

つくばFCが連勝 最終節を前に3位確定

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後半12分、今井が勝ち越しのゴールを挙げる(撮影/高橋浩一)

関東サッカーリーグ1部第17節、ジョイフル本田つくばFC対ヴェルフェ矢板(本拠地・栃木県矢板市)の試合が22日、つくば市山木のセキショウ・チャレンジスタジアムで開催され、つくばが2-1で勝利した。つくばはこれで7勝5分5敗、勝ち点を26に伸ばし3位をキープ。次の最終節は10月6日、セキショウ・チャレンジスタジアムで桐蔭横浜大学FCと対戦する。

第58回関東サッカーリーグ1部 第17節(9月22日、セキショウ・チャレンジスタジアム)
ジョイフル本田つくばFC 2-1 ヴェルフェ矢板
前半1-1
後半1-0

今節を終えて、つくばは5戦負けなしで2連勝と好調を維持。4位の南葛SCに対し勝ち点5差をつける一方、上位では首位のボンズ市原FCが勝ち点43、2位の東京23FCが同39に伸ばしており、つくばは3位が確定。JFL(日本サッカーリーグ)昇格の望みもすでに断たれた。敗れた矢板は勝ち点13で最下位を脱することができず、6年ぶりの関東1部で苦戦中だ。

前半5分、先制点を挙げた宮本(左から4人目)の周囲に選手が集まる

試合は前半5分につくばが先制。左サイドから仕掛けて相手守備を引き寄せたところで大きく右へ展開、MF河島雪大とのパス交換でDF石原大樹が抜け出し、ゴールライン際からマイナスのクロス。これをFW宮本英明が頭で叩き込んだ。

「石原ならあそこに出してくれるという共通理解があった。だからわざと入り過ぎず止まって待ち、思った通りのボールが来た。2人で1年間積み上げてきた形が出せた」と宮本。昨季はけがに悩まされたが、今季は良いコンディションを維持し、「自分の中で一番いいパフォーマンスを出せている」という。

前半、左サイドをドリブルで攻め込む郡司

この辺りの攻防について、左MFの郡司侑弥は「自分が中間ポジションを取ることで相手DFを中に寄せ、外にサイドバックが上がれるスペースを作るプランだった。だが相手は自分のサイドに蓋をしてきたので、右へ展開する形をとった」と解説。「相手の中央の守備が緩いときは、縦のドリブル突破やクロスなど、自分の持ち味も出すことができた」とも話す。

その後もつくばはチャンスを作るが追加点は得られず、34分に同点ゴールを奪われる。後がない矢板は球際をタイトにし、スピードに乗った攻撃で襲いかかってきた。「守備で相手にスペースを与えてしまい、失点場面ではパスの出し手へのプレッシャーが甘くなった」と副島秀治監督は悔やむ。

後半4分、カットインした郡司からのショートパスに、宮本が反転しながらシュートを放つ

後半は全体をコンパクトにし、相手にスペースを与えない形に修正。守備の背後を突いてロングボールに河島が飛び出すなど、攻撃のバリエーションも増やした。すると12分、つくばに勝ち越しゴールが生まれる。コーナーキックの流れからDF高橋琉偉が中央でシュートを放ち、相手GKがこぼしたボールをDF今井涼成が左足で決めた。今井は今季移籍し初ゴール。「セットプレーでの得点は僕の役割。常に狙っている。目の前にいいボールが来たので流し込んだだけ。うまく反応できてよかった」との振り返り。

勝ち越しのゴールを決めた今井

「もう少し点を取れるゲームだったが、相手も必死にプレーしてきた。隙を見せるとカウンターやセットプレーがあるので粘り強く守りながら、最後まで崩せるシーンをつくれた」と副島監督。「ホームの声援が後押しとなり、一人一人の積み重ねがゴールという結果になって表れた」という今日のようなゲームを、次の最終節でも期待したい。(池田充雄)

後半途中から左MFとして出場、突破力を生かして3本のシュートを放った岡島温希

食料の確保は安全保障の1丁目1番地《邑から日本を見る》168

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赤字でも続けるわが家の米づくり。やっと収穫

【コラム・先﨑千尋】今、国民の話題、関心事は米だ。スーパーで最近まで棚に安売りの米が並んでいた。しかしそれが様変わり。品薄に加えて、南海トラフ地震臨時情報を受けた買いだめなどで欠品が起こり、「1家族1袋限り」という表示が貼ってある。テレビでは、2時間かけて東京都心部から千葉県の「道の駅」まで買いに行く人や、米生産農家の携帯にひっきりなしに注文が入る情景などが映し出されている。

しかし、自民党の総裁選や立憲民主党の代表選を見ていると、米不足問題を正面からとらえ、解決策を提唱する人はいないようだ。

岸田首相も坂本農水大臣も「端境期だから仕方がない。そのうち新米が出てくれば落ち着く。民間業者には、持っている在庫を民間同士で融通し合うよう要請している。米の作況は平年並みなので、政府が保有している備蓄米を出す状況にはない」と、能天気なことを言うのみ。大阪府の吉村知事が備蓄米の放出を国に要請したくらいだ。「令和の米騒動」と言われているが、消費者もおとなしくしているので「騒動」にはなっていない。

では、なぜ米が足りないのか。米の消費量が生産量を上回っているからだ。昨年の生産量は661万トン。それに対して消費量は702万トンだから、差し引き約40万トン足りない計算になる。新米が出そろう10月になれば店頭での米不足は解消されるだろうが、早食いしているので、来年のこの時期にも同じ現象が起きることが目に見えている。

わが国は「瑞穂の国」と言われた。白いご飯を腹いっぱい食べることが庶民の夢だった。日本全体の水田をフルに使えば1400万トンは生産できると言われている。しかし、1970年から始まった米の生産調整(減反)政策によって、政府の予測以上に農家は米を作らなくなった。それでも政府は現在、減反ではなく、水田をつぶし、畑に転換する減田政策を進めている。

それだけではない。農水省の統計によれば、一昨年の米生産農家の時給はたったの10円にしかならない。これもすべての農家の平均なので、わが家のような5反歩しか作らない零細農家は赤字になっている。それでも続けているのは、先祖からの田んぼを荒らすわけにはいかない、子どもや親戚に自分の作った米を食べてもらいたい、などの理由による。だが、そう考えるのは我々の世代でおしまいのようだ。誰が1時間10円で働くか。

つい最近、農協の関係者に聞いたら、茨城県の農協が農家に渡す概算金(仮渡金)を、8月に決めた玄米60キロ当たり1万8000円(前年より5300円アップ)をさらに5000円足し、2万3000円にしたとか。これでやっと1990年代の水準に戻ったのだが、集荷業者の攻勢が強く、予定通り集まるか心配だと言う。農協の直売所で見たら玄米5キロで3500円と、随分高くなった。しかし、これでも茶碗1杯分が約40円。カップ麺が1個200円、菓子パンが1個140円などと比べると、米はまだまだ安い。

防衛力強化より食料の確保を

ではこれからどうするか。

国産米を将来にわたって確保するには、持続可能な稲作経営を国と国民(消費者)が保障することが最優先。生産者の労働コスト10円を、せめて労働者の最低賃金(時給1000円)並みにすることだ。労働コストを米価にまるまる転嫁すると消費者に与える影響が大きいので、諸外国で取り入れている農家の所得補償政策に舵(かじ)を切ることも必要になろう。さらに備蓄米を増やす。

「食料安保」と口では言うけれど、1カ月半分の備蓄米しかない日本。国は防衛力強化のために43兆円を使うと言っているが、国民の命を守るためなら、その1割でも食料に回せばいいではないか。食料の確保は安全保障の1丁目1番地である。(元瓜連町長)

利根川大花火大会を観覧して《見上げてごらん!》31

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主な有料観覧席と民間有料駐車場の事例(筆者提供)

【コラム・小泉裕司】「花火な旅2024」の前半戦が終了。台風の迷走やゲリラ雷雨など、今まで経験のない気象変化との戦いが続いた。9月から後半戦に突入、11月2日(土)の「土浦」まで、怒濤(どとう)のごとく「いばらきの秋花火」が続く。

ということで、今回は、秋花火開幕戦、9月14日(土)に境町の利根川河川敷で開催された第37回利根川大花火大会の所感を連ねたい。

秋の夜空に、スターマインや尺玉など迫力ある約3万発の花火が打ち上げられ、30万人の観客を魅了した。 土浦と大曲の両競技大会で内閣総理大臣賞の受賞歴を誇る野村花火工業(水戸市)、山崎煙火製造所(つくば市)、紅屋青木煙火店(長野県)、マルゴー(山梨県)の「4大花火師」が匠(たくみ)の技を披露。音楽は安室奈美恵さんの「ヒーロー」などで知られる作曲家、今井了介さんがすべてのプログラムを音楽プロデュースした。

通常、花火師が選曲も打ち上げもプログラムするが、いわば分業制を採用。今井さんが、スターマインや10号玉(尺玉)の競演すべてを選曲、各花火師はそれに合わせて打ち上げをプログラミングした。大会初の試みに、まずは敬意を表しよう。

駐車場予約システムの効果

花火大会主催者への取材で聞こえてくるのは、異常な混雑の中、安全を確保するための警備体制の強化など、人的にも費用的にも苦労が大きいというということ。花火会場のキャパシティは限界を超えており、これ以上観客が増えることは、正直、勘弁してほしいという。

特に地方の場合、移動は車中心となるため、会場への少ないアクセス道路に車が集中し、早い時間から渋滞が発生。打ち上げ開始までに会場に着けないとか、帰路は駐車場から出られないとか、出場後も渋滞で深夜着といった状況が各大会で発生している。

境町も、都市基盤や公共交通の脆弱(ぜいじゃく)さから、同様の状況があったという。これらの課題を打開するため、他の花火大会で実績を残す軒先(株)と駐車場シェアサービスを共同開発・実践した成果が認められ、今年度、第1回全国シェアリングシティ大賞2024(シェアリングエコノミー協会主催)の大賞を受賞した。

会場周辺の駐車場は、民間も公設もすべてネットからの事前予約制で有料。合計約4000台を収容する駐車場は、1台1万円以上と高額でも、会場近くから満車になったという。

私は今回も、渋滞に巻き込まれながらも空き駐車場を探して彷徨(ほうこう)することなく、予約した駐車場に到着した。不正駐車も見当たらないのは予約システムの効果だろう。同時に、主催者側のコスト削減と運営スタッフの負担軽減にも効果が生じているに違いない。

観覧席の高額化

観覧席は、近隣の大会に比較し、超高額な価格設定にもかかわらず、早期に完売。転売防止策とのことだが、今年も転売サイトはにぎやかだった。本大会初のラグジュアリー席は、打上現場の真っ正面最前列に2人用のリクライニングシートを設置、価格は8万円。それでも即時完売。こうした「境価格」は、他の大会からも注目されている。

マナー知らずの浴衣美女

観客の目の前で、打ち上がる花火を背に、時にはライトをつけて記念撮影に及ぶ迷惑集団が出現。何度もポーズを変えて、さらに交代して、最後は、みんなで集合写真に及ぶ。ここ数年の現象だが、やめるよう注意するのは私だけではない。周辺の観客や係員も参戦する。この行動自体がストレス、しかも二度と見られない花火作品を見逃すことになる。

今回も私の前のテーブルは、浴衣を着た外国語を話す男女4人が着席。とにかく落ち着きがなく、自撮りはもとより、男女のふれあいを繰り返す。我慢の限界が来たところで、遅れて到着した予約客に席の間違いを指摘され、目の前から消えた。

美しい花火を見ると、喜びや感動、興奮などの上向きな感情が喚起され、ポジティブな気分や心の開放が促進されると言われるが、こうして原稿を書いている最中も、思い出してイライラ感が募るばかり。この上は、ラグジュアリー席の購入しかないようだ。本日は、この辺で「打ち留めー」。「シュルシュルシュル どどーん」(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

子どもたちに多様な選択肢を 不登校支援団体が第3回合同説明会 23日つくば

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昨年つくば市内で開かれた「第2回不登校・多様な学び つながる“縁”日」の会場風景(不登校・多様な学びネットワーク提供)

1カ所増え県内3カ所で

不登校など学校に悩みを抱える子どもや保護者と、フリースクールや各自治体の教育相談室などの支援団体をつなぐイベントが、23日につくば市の市立桜総合体育館、10月19日に筑西市の県県西生涯学習センター、11月23日にひたちなか市のスポーツ&カルチャーしおかぜみなとで開かれる。

県内で活動する支援団体や保護者などでつくる「不登校・多様な学びネットワーク」が主催する。3回目の開催となる今年は、600人余りが来場した昨年より会場が1カ所増え、県内3カ所での開催となる。参加するのは、フリースクール、通信制学校など民間の支援団体75団体と、つくば市や土浦市など県内9市の教育相談機関で、それぞれ相談ブースを構えたり、資料を置いたりする。

ひとりで悩まないで

県南エリアリーダーの松崎貴志さん(松崎さん提供)

同ネットワークの県南エリアリーダーで、子どもが中学生のころ不登校を体験したつくば市の松崎貴志さん(44)は「ひとりで悩まないでほしい。身近に寄り添える場所があることを多くの方に伝えたい」と思いを述べる。自身の子どもに対しては、学校に行けない間も一緒に食卓を囲み、買い物など外出を共にするなど、無理をさせずに寄り添っていたという。

松崎さんは「みんな学校に行っている中で、学校に行けない自分は他の人とは違ってしまったと、子どもが苦しんでいた」と当時を振り返り、「子どもは、親や周りに迷惑をかけてしまっているのではと思ってしまったのかもしれない。不安の中で自分を苦しめていた」と語る。

そんな中で助けになったのが周囲のアドバイスだった。勧められた通信制の高校に進学し、そこで自分に合った学び方を選択し、現在は専門学校の卒業を控えて内定を得た企業への就職が決まり、社会に羽ばたこうとしている。松崎さんは「親である私は周りに伝えることで自分の気持ちが楽になった。家族だけで抱え込まずに誰かに相談してもらいたい」と話す。

参加団体の中には、感覚が繊細で刺激が苦手な子や発達・学習障害児などに対する支援団体、性的マイノリティの当事者団体など専門分野に特化した団体も複数参加している。専門家による講演会のほか、つくば会場では不登校の子を持つ保護者らによる座談会も予定されている。フリースクールに通う子どもたちによる手作りのゲームやグッズの販売、キッチンカーの出店など誰もが楽しめる企画も用意している。

松崎さんは「不登校に限らず、子育てに悩んでいる方にも来ていただきたい。行政の相談窓口もあるし、ほかにも寄り添い相談を受けてくれる団体がたくさんある。『これを聞いたら恥ずかしい?』と思わずに、困った時にはここに相談すれば少しは楽になるかなというところを見つけにきていただきたい」と言い、「不登校は決してダメではない。不登校だから学べないわけではなく、多様な学び方がある。それがイベントのキーワード。子ども達の選択肢を増やしてもらいたい。そのためにいろいろな人とつながってほしい」と話す。

◆「第3回不登校・多様な学びーつながる“縁”日」は▷9月23日(月・祝)=つくば市金田1608の桜総合体育館で午前10時から午後4時まで▷10月19日(土)=筑西市野殿1371の県政生涯学習センターで午前11時から午後4時まで▷11月23日(土)=ひたちなか市牛久保1-10-18のスポーツ&カルチャーしおかぜみなとで午前11時から午後4時まで。それぞれ入場無料。詳しくは特設サイトへ。

バードウォッチングにこと寄せて《文京町便り》32

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土浦藩校・郁文館の門=同市文京町

【コラム・原田博夫】今回は、私が米国および英国で経験した軽微な(体力勝負でない)アウトドア活動についてです。2度目の米国滞在中(1993年、ワシントンDC近くのバージニア州フェアファックス)、バードウォッチングの会に何度か参加しました。

土曜日の早朝(日の出直後)、大西洋岸の河口あるいは(バージニア州西部の)シェナンドー・バレー麓などの適当な駐車場に15名程度が集合した後、リーダーの誘導で、防水対応のシューズと携帯双眼鏡を片手に、森林、灌木(かんほく)や草地に静かに分け入るのです。

この経験で私が得たポイントは、鳥を探すにはむやみに辺りに目を向けるのではなく、さえずりや羽音のする方向に体と視線と双眼鏡を向ける、ということでした。

ベテランになれば、鳥のさえずりでその鳥の姿と名前を当てることができます。私も、カセットテープを入手して、車の運転中、語学テープをヒヤリングする要領でチャレンジし、帰国後も少し続けてみましたが、残念ながら、とてもその域には達しませんでした。要するに、鳥のさえずりは聞き分けられませんでした。

米国のバードウォッチングでは、もう一つ得難い体験をしました。熱心な会員の中には、自宅を野鳥の住み家にしつらえている方が少なくない、ということです。

そうした会員のお誘いで、ご自宅に案内されたとき、そのご自宅はさほど広いわけではないものの、家屋内部も庭もきちんと手入れされているだけでなく、いたるところに巣箱と水辺が配置されていて、野鳥がこれらを目指して絶えず飛来するのです。当家の方は日ごろからそれを眺め、かつ1年を通じた変化を楽しんでいるのです。

しかも、同好者に自分たちの「作品」を披露することで、それぞれの満足感・好奇心を高めているのです。

自宅を限定的に開放する試み

自宅を限定的ながらも開放するという試みは、英国でも、ガーデニングやフラワーアレンジメントの会で体験しました。

元々、かつての領主の館や庭園などはナショナルトラスト運動の対象になっていることもあり、広大でかなり解放されているのですが、それほどの由緒・来歴を持たない一般庶民のささやかな家屋や庭でも、こうした公開対象になっているのです。それは、自然およびその移ろいを楽しんでいる自分たちの「作品」を、同好者に見てもらいたいという気持ちの発露でもあります。

したがって、維持管理が行き届かなくなり、基準に達せずユニークさに欠けると判断されると、公開リストから外されてしまいます。

日本でも、野鳥の会、盆栽、菊づくりなど、歴史と伝統を誇る文化的なアウトドア活動は数多くあります。茶の湯の野点なども、そうした趣向かも知れません。古民家をカフェ・レストラン・宿泊施設などに改修し、こうした歴史的文化遺産の管理・説明を地元ボランティアが交代で担当することなども、地域資源や人材の再生・掘り起しにつながり、有意義でしょう。

しかし、それぞれの自宅などをいわば「作品」として(日にち・時間・対象者を)限定しながらも開放するという静謐(せいひつ)な試みも、地域再生という観点からももう少し普及してもいいのかもしれません。(専修大学名誉教授)

慶応大の学生10人 土浦・阿見の博物館など巡り 歴史語り継ぐ方法を調査

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土浦市立博物館を見学する学生たち=18日、同市中央

土浦市立博物館(同市中央)や予科練平和記念館(阿見町廻戸)などを巡り、歴史を語り継ぐ方法を調査しようと、18日から、慶応義塾大学の学生10人が土浦を訪れている。土浦市内に20日まで滞在し、街歩きをしながら史跡を見たり、地元の人にインタビューするなどしてフィールドワークの手法を学ぶ。最終日には同市中央のギャラリー、がばんクリエイティブルームで作業をし、体験したことをまとめる予定だ。

社会学者の清水亮さん企画

訪れたのは同大環境情報学部と総合政策学部の1~3年生10人。土浦や阿見町の戦中・戦後史をまとめた「『軍都』を生きる 霞ケ浦の生活史1919-1968」(岩波書店)=23年3月22日付=の著者である同大専任講師の清水亮さんが教育活動の一環として合宿を企画した。社会学を専門とする清水さんのゼミ生や、フィールドワーク法の授業を受講する学生など、調査手法を学びたい学生たちが参加した。清水さんは学生時代から自身も幾度となく土浦を訪れ、近現代史の調査を続けている(24年8月3日付)。

調査1日目となる18日には、明治、大正、昭和の調剤道具などが展示されている「奥井薬局」や、1929年に飛来した際の写真や資料が展示されている「ツェッペリン伯号記念館」、江戸時代後期の商家を活用した観光拠点「まちかど蔵」などを学生たちが巡って、街中にある小さな展示を見学。手作りの展示に取り組む人々に聞き取りをするなどし、土浦の街全体を博物館に見立てる「フィールドミュージアム」の可能性を探った。

午後には市立博物館を訪れ、歴史や文化を伝える資料を見学した。学生たちは一つ一つに足を止め、メモを取ったり写真撮影をしたりしながら、熱心に見入っていた。見学後は同館学芸員の野田礼子さんに展示の工夫や課題についてインタビューした。2日目となる19日には予科練平和記念館などを訪れ、学芸員の山下裕美子さんや、予科練戦没者の遺書や遺品などの資料を保存・収集する「海原会」の行方滋子さんにも話を聞いた。

災害、地方創生…それぞれの興味から

参加した3年生の福島優希さんは桜川市の出身で、防災教育に関心があり普段は全国各地で調査を行っている。地元の茨城についてもっと深く知りたいと考え、この合宿に参加した。調査で土浦を訪れるのは2回目だ。「土浦は水運の街。今は水害を避けて川辺には住まないことが多いが、土浦の昔の富裕層は川辺に住んでいたのが興味深く、もっと調べたいと思った」と災害の観点から着目し、関心を深めていた。

同じく3年生で静岡県出身の高久快さんは地方創生や地方の経済活性に関心を持っているという。土浦を訪れるのは初めてで「昔の街並みが残りつつ、昔と今とが融合している。『昭和レトロ』な雰囲気がいい」と話す。戦後、軍用地がどのように利用されてきたかに興味を持っており、調べたいという。

1年生の中沢遥花さんは図書館や、サードプレイスと呼ばれる自宅や学校、職場でもない第3の居場所に関心があり、合宿に参加した。「土浦は昔の雰囲気が残っており、歴史を感じられる街」と土浦の印象を語った。

五感で「生きた歴史」見つけて

同大の清水専任講師は「博物館などの展示は、それを作る人の努力と工夫があってできている。リスペクトの気持ちを持ってほしい」と活動の目的を話す。歴史をどのように語り継いでいくか、若い世代の視点で考えてほしいとし、「フィールドワークのノウハウやスキルというよりも、人との出会いを大切にし、そこに生きた歴史があることを学生たちに伝えたい。街中も、風景や地形など実際に歩いて分かることがある。教室での勉強や、書物を紐解いていく勉強とは違い、空間の中で五感を使って体験することを大事にしてほしい」と思いを語り、フィールドワークの楽しさを説く。(田中めぐみ)

◆社会学者の清水亮さんは、29日(日)午後1~3時、土浦市民ギャラリー(同市大和町、アルカス土浦1階)で開かれるトークセッション「ツェッペリン伯号と湖都・土浦を語る」に出演し、小説家の高野史緒さんと対談する。トークイベントに先立って24日(火)~29日(日)、同ギャラリーで「霞月楼所蔵品展」が開かれる。開館時間は午前10時から午後6時(初日は午後1時から開場)。いずれも入場無料。

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「愛」と「生命」を込める 筑波大大学院の姉弟2人展 つくば スタジオ’S

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姉の小松原佳織さん(右)と弟の優作さん(左)=つくば市二の宮、ギャラリー「スタジオ’S」

小松原佳織さん(25)と小松原優作さん(23)による二人展「いつものところ」が20日からつくば市二の宮のギャラリー、スタジオ’S(関彰商事つくば本社内)で始まった。2人は静岡県掛川市出身の姉弟で、それぞれ筑波大学芸術専門学群を卒業後、同大大学院に進学し絵画を研究している。佳織さんは「愛」を、優作さんは「生命」を、自然の中に見る光や色と共に作品に描き込む。油絵やアクリル画、手芸品など佳織さんが15点、優作さんが8点の作品を展示する。30日まで。

佳織さんがベージュ色の布製手提げバッグに描くのは、夕日に照らされるように赤やオレンジ、黄色に彩られた雲。部分的に盛り込まれた青や緑が色彩の鮮やかさを引き立てる。バッグの反対面には毛糸で表現した雲を縫い込んだ。「雲は、光の加減で見える色が変わっていく。人が感じる愛、心が動く瞬間を表現したい」と作品への思いを語る。「信仰」という作品では、ある作家の展覧会で見た、大型作品に引き込まれるように集まる観客を、無機質な四角形とそこに漂い集まる雲で表現した。

優作さんが描くのは「生命から感じる喜び、感謝、美しさ」。世界で続く戦争や貧困、差別を意識しながら日々の暮らしで感じる喜怒哀楽に心を寄せる。「生活の中で感じる命の大切さを作品に込めたい」と言う。よく足を運ぶというつくば市内の筑波実験植物園でみた光を描いたのが「植物園」。湿気がこもる温室に夕陽が差し込み、拡散する柔らかい光に包まれる植物に感じた生命の力強さを表現した。その他に、実家の台所で料理する母親の後ろ姿や、故郷に広がる田園風景に目を向ける父親を描いた作品が展示される。両親への感謝を込めたと話す。

小松原佳織さんの作品「信仰」

姉弟で先に絵を始めたのは、姉の佳織さん。漫画などの絵を書き写すことが好きだったという小学生のときに近所の絵画教室に通い始めた。後を追うように、2歳違いの優作さんも小学1年で同じ教室で絵を始めた。その後は姉の後を追うように、同じ高校、大学、大学院へと進学し、互いに刺激し合いながら絵を探究してきた。

佳織さんは絵を描くことの魅力を「悩んだときや自然を見たときに絵を描くことが多い。気持ちを消化できる。描き始めると、周りの音が聞こえなくなるほど集中する」と言い、優作さんは「描いていく中で、自分が好きなものや嫌いなものがわかっていく。自己理解が進むのが絵の魅力」だと話す。

市内の義務教育学校で非常勤講師として美術を教えたこともある佳織さんは「将来は教員になる予定。子どもたちの吸収力のすごさに驚くし、どうすればよりわかりやすく教えられるか考えるのも楽しい。いろいろな教材を生徒に提供できるよう、布染めや金継ぎなどにも挑戦したい」と言い、優作さんは、「今回の作品には、おがくずを絵の具に混ぜて凹凸を表現したものがある。今後はアクリル絵の具を多く使ったり、千代紙を主体的に使うなど表現方法を広げていきたい。将来は作品を販売していきたい」と意気込みを語る。

壁面に「愛」を貼って

会期中29日まで、鑑賞者が自由に手を加えられる作品制作コーナーをギャラリー内の6メートルほどの壁面に設置する。壁に貼り付けられた無地の大型模造紙に、来場者がそれぞれ「愛」を感じる場面や瞬間を書いた付箋を貼り付けていくと、最後に「何か」が浮かび上がる。「人が人へ持つ愛、感じる愛が私の作品作りの大きなテーマ。皆さんが感じる『愛』を一緒に貼り付けながら、一つの作品として展示を一緒に盛り上げていきたい。ぜひ、参加していただけたら」と佳織さんが呼びかける。(柴田大輔)

◆「小松原佳織・小松原優作 二人展『いつものところ』」は、9月20日(金)から30日(月)、つくば市二の宮1-23-6 関彰商事つくば本社内、スタジオ’Sで開催。開館は午前11時から午後5時まで。29(日)は午前10時から、作家によるギャラリートークが予定されている。入場無料。詳しくはスタジオ’Sのイベントホームページへ。

私を信頼し、私と話せ《電動車いすから見た景色》58

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車椅子に乗った筆者が電話口で話しているのに、相手から「介助者に代わってください」と言われている様子。イラストは筆者

【コラム・川端舞】時々、一本電話をかけるだけで疲弊することがある。それは、電話の相手が私の言葉を聞き取れなかった時ではなく、私の言葉を聞こうとしなかった時だ。

私が初めての場所に電話する時は、相手が言語障害の人とのコミュニケーションに慣れていない場合を考え、事前にできるだけ話したい内容を紙に書いておく。そして、もし相手が私の言葉を聞き取れなかったら、どのタイミングで通訳を入れてもらうかを、そばにいる介助者と打ち合わせてから電話をかける。

私が電話をかけると、たいてい相手は一瞬、沈黙する。困った表情を浮かべているのが、電話口からもよく分かる。その反応には慣れているので、私の言ったことを介助者に通訳してもらう。多くの場合は、介助者の通訳を入れることで、私と相手の会話が成立する。これが私なりの電話をかける方法だ。

しかし、時々、この方法が通用しない時がある。電話の相手が、私にではなく、介助者に話しかけてしまうのだ。そんな時は、電話のスピーカーで介助者も一緒に聞いているから、私に直接話してもらえばいいことを説明するのだが、ごくたまに、「では、ご本人ではなく、介助者に電話を代わってください」と言われてしまうことがある。

私が話したいことがあるから電話をかけているのに、介助者と話してどうするのだろう。私の言いたいことを介助者が全部把握している訳でもないのに。私を信頼してもらえていないようで、すごく悔しい。

障害者の生きた経験をなめるな

初めて私と話す人に、私の言葉を全て聞き取れとは言わない。ただ、私が「話したい」と言っているのだから、まずは私と話せ。あなたは言語障害のある人と初めて話すのかもしれないが、私は30年以上、言語障害と付き合っていて、どのタイミングで介助者の通訳を入れるのが効果的なのかも、あなたより熟知している。この社会の大半の人間は、言語障害のある者と話すのに慣れていないことも、私は嫌というほど知っている。

だから、介助者が隣にいる時に、あなたに電話をかけるのだ。言語障害のある者と話すことに慣れていて、聞き取れなかったら聞き返してくれると見込んだ相手に電話をかける時は、介助者と打ち合わせてから電話をかけるなどという、面倒なことはしない。

私は、自分に言語障害があることも、その時々でどのコミュニケーション方法が自分に一番合っているのかも、この社会で一番よく知っている。その上で、あなたに電話をかけているのだ。障害者をもっと信頼してほしい。(障害当事者)