月曜日, 8月 24, 2026
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高円宮妃久子殿下「根付コレクションと写真展」《文京町便り》55

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根付コレクション・写真展冊子の表紙

【コラム・原田博夫】8月上中旬、「高円宮妃久子殿下 根付(ねつけ)コレクションと写真展:『旅する根付』-『茶の本』120年目の夏に」が、茨城県天心記念五浦美術館で開催されました。通例では展覧会前に開催される特別内覧会が写真展の中日(10日)に設定され、妃殿下ご来臨でのレセプションも水戸市内で開催されました。私も参列する機会を得、根付芸術の魅力を堪能しました。

根付は、着物が衣装だった時代、印籠(いんろう)・煙草(タバコ)入れ・巾着(きんちゃく)などを腰につるすときの紐(ひも)の先端に付ける小さな細工物でしたが、「江戸の粋」を象徴する洒落(しゃれ)具としてはやり、文化文政年間(1804~30年)に最盛期を迎え、遊び心あふれる実用品として身分を問わず広く愛用されたようです。

しかし、明治になり洋風化が進むと、日本社会では根付の役割は急速に失われました。対して海外では、世界的にも類を見ない「小宇宙の芸術」として評価されました。とりわけボストン美術館が収集した根付コレクションには、日本人好みの小ぶりな根付が多く所蔵されています。同美術館の中国・日本美術部長だった岡倉天心の鑑識眼や見識が反映していると推察されます。

根付は、現代では着物の装身具としては役割を終えるも、家財のアクセントとして新たな意義が見いだされ、「掌(てのひら)におさまる美術品」として洋の東西を問わず評価されているようです。

収集した古根付などは約500

内覧会とレセプションで妃殿下は、「高円宮コレクションは、故高円宮殿下の発議で始まったと言われるけれど、そうではなく、妃殿下が最初に関心を持ち、それを故高円宮殿下もお認めくださったことから収集が始まった」と、懐かしいエピソードとして紹介されました。内覧会での妃殿下ご自身のご説明も、事前の準備や段取りを超えた熱のこもったもので、周りの関係者は進行にハラハラドキドキでした。

妃殿下ご自身が、博士論文「根付コレクションの研究-高円宮コレクションを中心に」で、2011年度に大阪芸術大学から博士号を取得されているだけのことはある、と得心した次第です。

妃殿下のお話では、収集した古根付・現代根付・印籠など約500点は、2011年より数次にわたって東京国立博物館に「根付:高円宮コレクション」として寄贈しているそうです。今回の天心記念五浦美術館の展示では、そのうちから現代根付を中心に約200点が選定されていました。いずれ機会を見て、東京国立博物館でじっくりと再拝見したいものだ、と思った次第です。(専修大学名誉教授)

「まつりつくば」始まる 来年は9月下旬開催

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土浦学園線をパレードするねぶた

つくば市最大の祭り「まつりつくば」(つくば市など主催)が22日、つくば駅周辺で始まり、大勢の市民でにぎわった。暑さ対策のため、来年から9月下旬に開催することが決まっており、今年が最後の夏の祭りとなる。来年は9月25日(土)、26日(日)に開催する予定だ。

市観光推進課は「伝統を守る上でも夏祭りとして実施したいという意見もあったが、昨今、夏の高温傾向が続いており、近年は(熱中症などによる)緊急搬送が何件もあった。命に関わる問題があるとして来年は9月25、26日に開催する」と話す。

最後の夏祭りとなる今年のまつりつくばは初日の22日午後4時から、車両が通行止めとなった同駅近くの土浦学園線で、つくば音頭などのオープニングパレードが催された。午後5時半過ぎ、大ねぶたと中小ねぶたが、開催前に雨が降ったためビニールをかぶって登場した。万博山車のほか、市内各地区のみこしが掛け声と共に通りをパレード。午後6時半にはねぶたの照明がつき、祭りは最高潮に達した。

パレードの様子

まつりは23日までの2日間、つくば駅周辺の土浦学園線やつくばセンター広場、中央公園、竹園公園などを会場に、みこしや山車のパレードのほか、コンサート、大道芸フェスティバルなどがにぎやかに催される。トナリエつくば前の「うきうき広場」では今年から「つくば蚤の市」が加わった。

この日のつくば市は最高気温が30.1度の真夏日。湿度も高く熱中症が心配されたため、市は、昨年まで1カ所しかなかった簡易クーラー付の「涼み所」テントを6カ所に増やしたり、まつりのサイトで会場の気温情報を発信するなどした。

熱中症対策として開場に設置された涼み所のテント

同市吾妻に住む50代の白井陽子さんは「ねぶたを楽しみにきた。6年ぶりに来たが、規模が大きくなっていて、パレードも出店も人がいっぱいだった。人口も増え、にぎやかなつくば市になってくれてうれしいことだと思う」と話し、来年から9月開催になることについては「涼しく良いのではないか」と答えていた。9月開催については歓迎する意見があった一方、参加者からは「時期が違うので同じように出来ないかも知れない」という声も上がった。(榎田智司)

ご当地電子マネー「土浦パトレイバーWAON」発行 イオン

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発行記念お披露目会で、WAONカードのデザインを披露する土浦市の安藤市長(左)とイオンリテールの森下茨城事業部長=22日、イオンモール土浦

0.1%寄付し地域の子育て応援

総合スーパー、イオンなどを運営するイオンリテール(千葉市、吉澤廣幸社長)は22日、土浦市の子育てを応援するご当地電子マネー「土浦市×パトレイバー子育て応援WAON(ワオン)」の発行を開始した。同電子マネーによる総利用金額の0.1%を、イオンが負担して土浦市に寄付し、同市は子育て応援事業に活用する。

同WAONのカードには、表面にアニメ「機動警察パトレイバー」に登場する作業ロボットのパトレイバーと、土浦研究所で開発されたライバルのグリフォンが、土浦の街並みを背景に対峙する姿が描かれている。裏面は、土浦城址の亀城公園や土浦全国花火競技大会、霞ケ浦など同市を象徴する風景がデザインされている。

同市とイオンが今年3月に締結した包括・地域連携協定に基づく取り組みの一環で、イオンがご当地電子マネーの発行を土浦市に提案した。デザインは土浦市長推しのパトレイバーに決まったという。

カードの表面(イオンリテール提供)

ご当地WAONは、イオンが発行している電子マネーの中で、自治体の地域貢献に役立てる寄付付きのもの。島根県大田市の「石見銀山WAON」を2009年に発行したのをスタートに、現在、全国で203種類が発行され、今年2月までに約36億円が全国の自治体に寄付されている。

県内では▽寄付金を若者の活動活性化や国際交流に役立てる茨城県の「大好きいばらきWAON」▽スポーツシティを推進する事業に役立てる笠間市の「かさまWAON」▽子供・若者応援プロジェクトに活用する東海村の「とうかいむらWAON」▽にぎわい創出に活用する水戸市の「水戸偕楽園花火WAON」(今年4月発行開始)があり、「土浦パトレイバーWAON」は県内5番目。2025年度分として茨城県に約326万円、笠間市に約18万円、東海村に約4万8000円が寄付されている。

同WAONはイオンのほか、ドラッグストアー、コンビニ、飲食店、自販機など全国160万店以上で利用できる。例えば北海道や沖縄の店舗でも、土浦パトレイバーWAONで買い物をすれば、0.1%が土浦市に寄付される。

カード「かっこいい」

22日、同市上高津、イオンモール土浦で、土浦市のイメージキャラクター「つちまる」と、WAONの公式キャラクター「ハッピーワオン」が参加して発行記念お披露目会が催された。土浦市の安藤真理子市長は「デザインをパトレイバーにしていただき、今日のお披露目会もパトレイバーのファンの方に来ていただいている。ぜひたくさん使っていただきたい。寄付金は、土浦で子育てして良かったと思えることに使わせていただきたい」などと話した。イオンリテール北関東・新潟カンパニーの森下陽介茨城事業部長は「パトレイバーは今年、漫画完結以来32年ぶりに新作が発表され、アニメが劇場公開されるなど盛り上がっているので、機運に乗り、土浦市の地域振興に役立てていただければありがたい」などと話した。

第1番目としてカードにチャージする安藤市長(右)

お披露目会に参加し、この日「土浦パトレイバーWAON」をつくった土浦市内に住む30代男性は「買い物に来て、たまたまお披露目会を知り参加した。パトレイバーは第1作目から知っていて、グリフォンが土浦研究所で開発されたことも知っている。かっこいいカードだと思う」などと話していた。

◆「土浦市×パトレイバー子育て応援WAON」のカードは県内のイオンとイオンスタイルで350円で購入できる。スマートフォンでの発行は無料。利用者は買い物金額200円ごとに1ポイント(1円相当)が付与され、WAONに交換して利用できる。詳しくはこちら

恐竜の島、どこよりも高い島… 夏休みの小学生 粘土で巨大な島づくりに挑戦

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完成した島の前で記念写真を撮る小学生と筑波大生ら

つくばで夏休み造形教室

夏休み中の小学生が、計600キロの粘土を使って、長さ5メートルの巨大な海に浮かぶ島づくりに挑戦する「夏休み造形教室」が21日、つくば市二の宮のギャラリー、スタジオ’Sで開かれた。子供たちは、彫刻家の川島史也 筑波大助教(36)と、同大で芸術を学ぶ大学生らにアドバイスを受けながら、恐竜の島、どこよりも高い島など、オリジナルの島を作り上げた。

同ギャラリーを運営する関彰商事(本社筑西市・つくば市、関正樹社長)と筑波大学との連携による芸術活動「スタジオ’S with T」による取り組みで、昨年は、粘土で巨大な塔をつくった。今年は午前と午後の2部制で、午前は18人、午後は16人、計34人の小学生が市内外から参加した。

川島助教が「昨年は塔、今年は島、どちらもトウと読めますね」と前置きし、「海に浮かぶ島を自由な発想で作ってもらいたい。土台が大事で確認しながら進めてください」と呼び掛けると、参加者は2班に分かれ作り始めた。

粘土はひと固まりが4キロ近くあり、小さな子供たちは重そうに運んでいた。子供たちはリゾート地、神社、恐竜の島、高い塔、高い山などを、パートごとに加工し、大学生のサポートを受け熱心に作業を進め、長さ5メートルの島が二つ、徐々に出来上がった。

川島助教(左)のアドバイスを受けながら島をつくる子供たち

市内から参加した小学4年の大曽根彩乃さん(10)は、高い山を作った。高くなるにつれ粘土が崩れてしまうことがあったが、大学生が土台を補強して完成した。大曽根さんは「誰よりも高くしたいのでどんどん積み上げていった。図工の授業は好きなので、将来はお姉さんたちのいる大学に行けたらいい」と話した。

小学6年の子供と来場したつくば市在住の高柳憲二さんは「みんなが楽しそうにやっているのがとても良い。子供の想像力は素晴らしいものがあって、それがよく表現されている」と語った。

子供たちの作業を手伝った同大大学院1年の田村将吾さん(23)は「普段は彫刻を作っている。子供と一緒に作業をするとこちらも楽しくなる。子供たちの自由な発想に驚かされる。今日の活動は自分の制作の参考になるのではないか」と話した。

作品から少し離れて、途中経過を確認する参加者

川島助教は「創作の場面で細かいところに目がいってしまうことがある。土台や基礎が大事だということをわかってもらえると良い。途中で作業を止めて、確認する作業も必要だ。作品自体のリズムをとらえてほしい」などと語った。

完成後、全員で作品と共に記念写真を撮影。出来上がった巨大な島は最終的に壊し、元の粘土箱に収納した。(榎田智司)

筑波山から霞ケ浦へつながる「水と緑の骨格」《宍塚の里山》139

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宍塚の大池(写真は筆者)

【コラム・森本信生】宍塚の里山(土浦市)を守る意義は、宍塚を一つの孤立した自然地域として捉えるだけでは、不十分だ。筑波山―宍塚、そして霞ケ浦へとつながる「水と緑のネットワーク」に位置づけてこそ、その価値が明確になる。

宍塚の里山は、森林、谷津田、畑、草原、ため池、水路など、さまざまな環境が組み合わされた多様な生物が生息する生態系である。例えばサシバのような猛禽(もうきん)は、営巣する森林だけではなく、餌となるカエルや昆虫が生息する水田や草地が必要だ。宍塚の生物多様性は、こうした異なる環境のつながりによって支えられている。

さらに宍塚は、筑波山系の森林、土浦・つくば地域の農地、霞ケ浦をつなぐ「水と緑の骨格」の重要な一部である。道路や宅地などによって分断され、孤立すれば、生き物の移動や遺伝的交流が妨げられる。宍塚を守ることは、地域全体の生態系ネットワークを維持することになる。

水のつながりも重要だ。宍塚に降った雨は、森林や土壌に浸透し、谷津、ため池、水田、水路などを経て霞ケ浦につながっていく。宍塚だけで霞ケ浦の水環境が決まるわけではないが、流域の森林、湿地、水田、ため池などを健全に保つ必要がある。里山は雨水を一時的に蓄え、ゆっくりと流す「グリーンインフラ」として、水循環や洪水緩和にも貢献している。

また、里山では自然と農業が一体となっている。森林から供給される水、ため池や水路が農業を支える一方、農業によって維持される水田や草地が、多くの生物の生息場所となっている。自然が農業を支え、農業が里山の自然を支えるという相互関係が存在する。

「自然遺産」「文化的景観」

宍塚の価値は自然だけにとどまらない。上高津貝塚や宍塚古墳群などが示すように、人々が自然と関わりながら暮らしてきた長い歴史がある。自然、農業、歴史、文化を一体として捉えれば、宍塚は「自然遺産」であると同時に、人と自然との関わりが刻まれた「文化的景観」でもある。

さらに、宍塚は生物、水、農業、歴史、人々の暮らしを総合的に学べる教育・研究の場であり、自然観察や農業体験、保全活動を通して、農家、住民、NPO、学校、研究者、行政などを結びつける地域コミュニティの場でもある。

したがって、宍塚を「土浦市に残された一つの里山」とだけ捉えるのは、その価値を小さく捉えすぎている。宍塚は、筑波山からつくば・土浦を経て霞ケ浦へとつながる水と緑のネットワークの中で、生物多様性、水循環、農業、歴史文化、教育、地域社会を結びつける重要な結節点となっている。

宍塚を守ることは、宍塚という一地点を守ることではない。筑波山から霞ケ浦へとつながる地域の「水と緑の骨格」を堅持し、人と自然が共生する流域の基盤を次世代に引き継ぐことである。その意味で、宍塚の里山の保全は、土浦・つくばの自然を守るだけでなく、霞ヶ浦流域全体の持続可能性を支える取り組みといえよう。(宍塚の自然と歴史の会 理事長)

消防職員を停職5カ月 土浦市 同僚と飲酒後、酒気帯び運転

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土浦市役所

土浦市は21日、酒気帯び運転により、市消防本部土浦消防署の男性消防職員(55)を停職5カ月の懲戒処分にしたと発表した。

職員は消防司令で、今年4月18日午前4時ごろ、土浦市内で、酒気帯び運転で検挙され、7月31日、運転免許取消と罰金40万円の略式命令を受けた。その後、市職員の処分などを調査する分限懲戒審査委員会で審議し、処分が決まった。

市消防総務課によると、消防職員は、仕事が休みだった4月17日午後5時30分ごろから翌18日午前3時ごろまで、同じく仕事が休みの同僚3人と市内の複数の飲食店で飲酒した。同僚2人は途中でタクシーなどで帰宅し、1人は徒歩で帰宅した。お開きになった午前3時ごろ、運転代行業者に連絡し、飲食店近くの駐車場に止めてある自家用車の車内で寝て待っていたが、その後、起きて、自家用車を運転した。市内交差点の停止線付近で停車し、眠り込んだところを、警察官による職務質問を受け、酒気帯び運転が分かった。

市消防本部の調べに対し職員は酒気帯び運転を認めているという。

安藤真理子市長は「法令を遵守すべき立場にある公務員としてあってはならない行為であり、市民の信頼を損なったことを深くお詫びします。二度とこのようなことがないよう職員の綱紀の保持、法令順守を一層徹底し信頼回復に努めます」などとするコメントを発表した。

着工から半年、レストランで初の説明会 住民「不信感増しただけ」【つくば市に日本最大級のデータセンター】

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つくば市大穂で建設中のデータセンター

つくば市大穂に建設が計画されている国内最大級のデータセンターに対し、周辺住民から、排熱や騒音、水などについて不安の声が出ている問題で、開発事業者の外資系物流不動産会社、グッドマンジャパン(東京都千代田区、グレゴリー・グッドマン社長)が、17、18、19日夜にそれぞれ住民説明会を開いた。今年2月の着工から半年たって初の説明会になった。

一方、説明会はレストランなどで開かれ、フルコースの食事と手土産が用意された。地元住民からは「説明会というより接待ではないか。飲食させて、文句を言わせず、丸め込もうとしているようにしか思えない」と反発の声が出ている。

説明会は17、18日の2日間は近隣のレストランで実施され、19日はつくば国際会議場で実施された。いずれも食事と手土産が用意された。18日、レストランで開かれた説明会に参加した女性によると、食事は、ローストビーフ、ピラフ、サラダ、アイスクリームなどが出されたという。女性は「食事には一切、手を付けなかった」と話した。

さらに説明会への参加は、協力会社などが事前に配布した日付指定の案内状を持参していなければ入場できなかった。3日目の19日は、近隣住民4人と市議2人が参加を申し入れたが入場を断られ、押し問答になった。NEWSつくばも18、19日に説明会の取材を申し込んだが、マスコミ関係者の入場はできないと断られた。

18日の説明会に参加した女性によると「(現地に開発のお知らせ掲示板が出てから)これまで3年間、住民説明会が一度も開催されなかったことについて質問したら、アジア担当責任者という人が通訳付きで『心からお詫び申し上げる』と繰り返し『過去にできなかった理由より、これからで評価してほしい』と言うだけだった」と説明会の様子を話した。懸念されている排熱問題については住民の質問に対しアジア担当責任者は「排熱は水冷で、最上階から大気に向けて(水蒸気を)放出する。つくばの過去20年の気象を検証していて、検証結果をつくば市に上げる」などと話したという。この女性は「納得する説明は得られなかった」として、翌19日の説明会にも参加を求めたが、入場を断られた。

初の説明会について別の女性は「グッドマンは地域社会と共生すると言っているが、不安が払しょくされないどころか、不信感が増しただけ」と憤りをあらわにした。

「一切返事がない」

一方、これまで住民説明会の開催を求めてきた住民団体「データセンターから市民を守る会」の柳町弘幸会長(6月8日付)は、「説明会をレストランでやる意味が分からないし、(近くに住んでいるのに説明会の案内状が届かず、もっと離れた住民に案内状が届いたなど)案内状を配布した対象者の人選も根拠も分からない。案内を受け取った方でも、このような重要な説明会をレストランで行うことに不信感をもち参加しなかった方もいる」とし、「守る会では現在、説明会開催を求める周辺住民約600人の署名を集めた。6月29日にグッドマンジャパンと協力会社、日本データセンター協会に、説明会開催を求める要望書を送ったが、私たちの要望に対してグッドマンジャパンからも協力会社からも一切、返事がない。守る会としてはこれからも説明会の開催を要求していきたい」と語った。

つくばのデータセンターは、市土地開発公社が売却した同市大穂の46ヘクタールに、グッドマンジャパンが、国内最大級となる受電容量1000メガワット(100万キロワット)のデータセンター群を建設する計画。今年2月、1棟目となる50メガワット(5万キロワット)の建設工事が始まった。1棟目は、地上4階建て、高さ38メートルで、2028年1月末に完成する予定だ。

つくば市内の研究機関に勤務し地球温暖化対策を研究する歌川学さんは、1000メガワット(100万キロワット)のデータセンターが稼働すれば、人口26万人規模のつくば市全体で現在使用されている電力消費量の3倍以上を大穂のデータセンター1カ所で使用し、現在、市全体で排出されている2倍の二酸化炭素を排出し、市全体の排熱量の2倍の排熱がデータセンター1カ所から排出されると見込まれるとし、気象条件によって、排熱で猛暑日が増加し熱中症が増える恐れがあるなどと指摘している(5月19日付20日付)。(鈴木宏子)

土浦一高哲学部のコラム集「放課後の哲学」が書籍化 NEWSつくばで連載

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つくば市内の書店を訪問する哲学部部長の大和田哲汰さん(右)と部員の菊地璃子さん

土浦一高哲学部が今年3月から4月にかけてNEWSつくばで連載したコラム「放課後の哲学」が一冊の本になった。9月から全国の書店で一般販売が始まる。版元はあっぷる出版社(東京都千代田区、渡辺弘一郎代表)。「放課後の哲学」は、部員一人ひとりが日々の暮らしの中で感じた違和感や葛藤を、等身大の言葉でつづったコラム集だ。

当サイトに掲載した哲学部員9人と顧問教諭による10本のリレーコラムのうち、書籍には部員の8本を収録した。このほか新たに執筆を希望した部員らによる書き下ろし5本と、3人の卒業生が在校時代をそれぞれ振り返った「あの時の放課後」、2人が卒業後の現在を見つめる「その後の放課後」、書籍化のきっかけにもなった学外での市民向け哲学カフェ「語るカフェ」を支える地域住民による「地方都市の『語るカフェ』」など、全22本のコラムで構成される。

「放課後の哲学」の表紙(右)と裏表紙の書影

四六判208ページ。表紙を彩る蛇行した虹色の線は、哲学部部長で2年生の大和田哲太さん(17)が自身のコラム「好きな『もの』や嫌いな『もの』とは何なのか」の挿絵として描いた「人間関係の強度」と「好き嫌いの度合い」を図式化したものが基になっている。オーケストラ曲を自ら作曲するなど音楽にも取り組む大和田さんが、人と人との関係を独自の図で表現したものだ。

連載時、読者からは「部員たちによる一生懸命な文章から熱量が伝わってくる」「錯綜したり、混乱したりしている文章が生身の若者丸出しでいい」「自分も若い頃に感じていた、将来への漠然とした不安な気持ちを思い起こした」などの感想がSNSを通じて多数寄せられ、書籍化を望む声も寄せられていた。

生徒自ら書店を巡りPR

8月、発売を前に、哲学部の生徒たちは地元のつくば市や土浦市の書店を訪ね、自ら本のPRを始めた。

リブロ トナリエキュートつくば店では、多和田店長から売り場作りについて説明を受けた

「私たちが書いた本です。ぜひ、よろしくお願いします」。10日、つくば市内の書店、リブロ トナリエキュートつくば店を訪ねた大和田さんは同書の書影が印刷されたチラシを店長の多和田遥さんに手渡し、本の内容や哲学部の活動について説明した。

受け取った多和田店長は「著者が出版物を持って書店をあいさつに回ることはこれまでもあったが、高校生が来たのは初めて。なかなかできないことだし、熱量が伝わってくる。高校に哲学部があるのも全国的に珍しい取り組みで、とても関心がある。力になりたいと思っている」と応じた。哲学部では8月、つくば、土浦市内の書店、合わせて8軒を数日間かけて回る予定だ。

大和田さんは「書籍化されると聞いて、まず驚いた。部員全員で一生懸命取り組んだ結果だし、さまざまな関係者のおかげでもある」と話す。実際に書店を訪ねてみて、「自分たちの取り組みを人に伝えることの大変さも改めて感じた。ただ熱量があるだけでも伝わらない」と感じたと話す。

コーチャンフォーつくば店で店舗責任者に本の説明をする大和田さん

対話を重ねて文章に

「放課後の哲学」は、生徒がそれぞれ書いた完成原稿を持ち寄って始まった連載ではない。連載開始までの約5カ月間、生徒たちは「編集カフェ」と称して毎週月曜の昼休みに学校の図書室に集まり、それぞれが書いた原稿を読み合った。書き手が何を伝えたいのかを聞き、一人ひとりが意見を出す。それを受けて書き手が再び文章に向き合い、書き足したり書き直したりする。哲学部が活動の中で大切にしてきた「対話」を重ねながら、一つ一つのコラムを形にしていった。

生徒自身が書店を訪ねることについて、顧問の飯島一也教諭は、単なる販売促進とは異なる意味があると話す。 「自己表現の一環として、どのような思いで本をつくったのかを書店の方に話すことも、哲学部の活動として意味があるのではないかと考えた。本を書いた思いを皆さんに知っていただく、そうした行動の一環として、生徒自身が書店に出向くことに意味があると話し合った」という。

哲学部は学校の外でも、市民と一つのテーマについて語り合う哲学カフェ「語るカフェ」を、市内のイベントスペースで開いている。2024年から始まり、開催はこれまで6回を数える。高校生の孫を持つ世代から、会社員、大学生などさまざまな市民が参加してきた(5月14日付)。

飯島教諭は「哲学カフェは格闘技ではない」と強調する。相手を言い負かしたり、勝ち負けや一つの正解を求めたりするのではなく、異なる意見を受け取り、対話を通じて自分も相手も少しずつ変わっていく。その過程そのものを大切にする活動だとし、「社会の分断が世界規模で進む中、共通の土壌の上で共同作業をする経験を、どこで積むのか。その一つの答えが哲学カフェだと思っている」と語る。

9月には、土浦やつくば市内で出版記念イベントの計画も進行中だ。飯島教諭は書籍について「生徒自身が表現した切実な思いが皆さんに伝わり、読んだ人の心の中に何か変化が起きて、それがまた社会の何かの変化につながっていくことがあったらありがたい」と期待する。大和田さんは「高校生の私たちが書いた文章によって、本を手に取ってくれた方に何か新しい発見や、日常の見方の変化があれば、一番うれしい」と話した。(柴田大輔)

◆執筆した哲学部員や卒業生、関係者らによる出版記念トークイベント「放課後の哲学ができるまで」が、9月13日(日)午前10時~11時30分、土浦市中央1丁目13-52 公園ビル内「がばんクリエイティブルーム」で開催される。入場無料。事前予約制。同日正午からは会場の向かいにある城藤茶店で希望者による食事会も開かれる。参加予約、問い合わせはメール(daisuke.pp@gmail.com)へ。

➡NEWSつくば連載のコラム《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》はこちら

「音」で土浦の今を残したい 子どもたちと集めた音でVR・AIアート体験を

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実行委員会代表の宇津木紘一さん

22、23日 りんりんポート土浦

普段は意識せずに聞き流している、揺れる木々の音、足音、街のざわめきなど土浦市内の音を録音し、映像やVR(仮想現実)、AIなどの技術と組み合わせて「土浦の音」を体験する展示「土浦サウンドアーカイブプロジェクト 土浦サウンド展」が22、23日、同市川口、霞ケ浦湖畔の休憩施設、りんりんポート土浦で開かれる。

主催するのは、土浦市在住の音楽家、宇津木紘一(44)が代表を務める市民団体「つちうらサウンド・アーカイブ・プロジェクト実行委員会」。昨年から開いてきたワークショップの一環で、地域で集めてきた音や活動を紹介するとともに、来場者自身が音を聞き、触れ、遊ぶことのできる「小さな美術館」のような空間をつくる。地域活性化や地域課題解決を目的とした活動を対象にした市の助成制度「土浦市協働のまちづくりファンド(ソフト)事業」にも採択された。

子どもたちと音を探す

今回の活動は、昨年10月に15人ほどの子どもたちと土浦の街に出て音を集めるところから始まった。市内を走るサイクリングロード、つくば霞ケ浦りんりんロードを自転車で走ったり、霞ケ浦総合公園を歩いたり、霞ケ浦で遊覧船に乗船しながら、スマートフォンを使ってさまざまな音を録音した。水や風の音など自然界の音だけでなく、足音、自転車のきしみなど、普段は聞き流してしまっている音を録音した。参加した子どもたちが驚いたのは、自分の耳で聞く音と、録音した音との違いだったという。

今年2月には、ワークショップで集めた音と、サックス奏者である宇津木さんらによる生演奏によるコラボイベントが、市内の寺院で開かれた。(2月20日付

今年2月に土浦市内の東光寺で開いた音楽イベント「音と光の建築」の様子(宇津木紘一さん提供)

宇津木さんは「音を通して、その土地の文化や地域を知ることができる」と話し、「音は人の記憶と結びつく。何気ない一つ一つの音も、複数の音が重なることで、その場所ならではの風景が浮かび上がることがある」、そんな気づきが活動に繋がったと語る。

土浦の音でリズムをつくる

今回の展示では、これまでのワークショップやコンサートを写真や映像、資料で振り返るほか、VRなどを利用した体験型作品も並ぶ予定だ。普段は美術館などに出掛けなければ触れる機会の少ないメディアアートを、身近な地域で気軽に楽しんでもらいたいとする。

映像とともに音の遠近や変化を体験する「土浦サウンドVR」は、暗幕で光を遮った室内に設置された100インチのスクリーンに、AI技術を使用し、土浦市内の風景を元に作られた仮想空間がプロジェクターで映される。参加者は、パソコンを操作しながら空間を移動し、画面上のものに触れるとさまざまな音を聞くことができる。

音遊びゲーム「おとふね」は、企画のために作られたスマートフォン用のアプリを使い、土浦で録った音を素材に、自分でリズムをつくることができる。例えば、足音をバスドラムの「ドン」という音のように使ったり、風や葉の揺れる音を楽器の一つとして組み込んだりする。アプリ上で好きな音を選び、何度も組み合わせながら自分なりのリズムをつくる。スタッフに相談しながら体験できるようにもする予定だ。「私自身、世界にある全ての音を音楽に使えると気付いた時に世界が広がった」と話す宇津木さんの体験が元になったコーナーだ。作った音は、ダウンロードし持ち帰ることができる。

会場にはこのほか、地域で活動する作家と一緒に線香花火や紙パックを使ったランタンを手作りできるコーナーも設ける。

消えていく「音」で町を残す

活動の背景には、「今の土浦を残す」という目的があると宇津木さんはいう。「音から、その地域の文化や歴史を読み取ることができる。ふと耳にした瞬間に昔を思い出すこともある。音にはそんな力がある。街の景色や暮らしは変わり、文化や歴史も失われていく。だから、今しか聞けない音を記録しておきたい」

今はスマートフォンがあれば、誰でも簡単に音を録音できる。宇津木さんが子どもの頃は、録音には専用の機器やカセットテープが必要だった。身近になった録音技術を使って地域の音を残し、さらにVRやAIなど現在の技術と組み合わせることも、このプロジェクトの目的だ。残された音を将来聞いた人が「なぜ、この音がしていたんだろう」と疑問を持ち、当時を知る人に尋ねることで、地域の歴史を知るきっかけにもなると想像する。

「写真は撮るけど、音は撮らないですよね」と話す宇津木さん。「一度、音に意識を向けるようになると、どこへ行っても音に気付くようになる。音を積極的に感じる機会が少し増えるだけでも、日常の楽しみは増えるんじゃないかと思う」とし、「専門的な知識は全然なくて大丈夫。夏休みの思い出づくりに、『ちょっと面白そうだな』という気持ちで来てもらえれば」と呼び掛ける。(柴田大輔)

◆「土浦サウンドアーカイブプロジェクト 土浦サウンド展」は、8月22日(土)、23日(日)、土浦市川口2丁目13-25 りんりんポート土浦で開催。両日とも午前11時~午後5時。手作り線香花火、紙パックランタンの「手作りワークショップ」は午後1時からと、午後3時から。午後3時30分からは、サウンドスケープ・ライブと題して、宇津木さんと、同実行委員会の統括ディレクターを務める作曲家でピアニストの中村浩之さんによる、集めた土浦の音と楽器による即興演奏会が開かれる。入場無料。問い合わせはメール(contact@bbmusic.tokyo)へ。イベントの詳細は、特設サイトへ。

大切な行事と「森の薬膳coco Tea」《ご飯は世界を救う》74

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イラストは筆者

【コラム・川浪せつ子】年齢を重ねると、食べ物や昔からの行事(お盆)などが大切に感じるようになります。今年1月、義理の妹が病気で亡くなり、初盆です。私より少し上でしたが、本当によくしてもらいました。

また我が家は、これからのお墓のことでいろいろ検討中です。そんな中、7月に掲載した「牛久沼泊岬」(7月16日付)に行く途中、大きな墓地があるのに気がつきました。

近所の友人に話したら、10年前、お父さんをその墓地に埋葬したそうです。「そこには見晴らし台があって、牛久沼がよく見えるから、スケッチしたら」と、案内してもらいました。なかなかよい感じのところです。ですが、やぶ蚊が多く、とってもスケッチはできず、写真に収めて家で描くことに…。

牛久沼近くの墓地

お墓参りした後、友人が連れて行ってくれたのが「森の薬膳 coco Tea」(つくば市学園の森)というお店でした。お参りしてから、洋食料理より薬膳料理って、なんだかよい感じです。心も体もいたわる感じで…。

薬膳には興味はありませんでしたが、今回食したカボチャは体を温め、胃腸の働きを高めるそうです。山芋はスーパーフードで、滋養強壮にもいろいろな効果があるそうです。これからの食生活にも、少しずつ取り入れたいものですね。

風景に癒やされ、食事からは元気をもらい、大好きな友人とおしゃべり。そして、これからのご先祖様と私の行く末を考えながら、前向きの気持ちになった一日でした。(イラストレーター)

TX土浦延伸期成同盟会を設立 県内6市町長と議長

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設立総会で大井川知事と記念撮影する期成同盟会メンバーの6市町長と議会議長

つくばエクスプレス(TX)の土浦延伸と茨城空港延伸を目指して、県内の関係6市町長と議会議長が17日、TX土浦延伸期成同盟会を立ち上げ、会長に安藤真理子土浦市長を選出した。TX東京駅延伸を図る沿線首長らによる期成同盟はすでに存在しているが、土浦駅延伸を目指す団体が結成されたことで、双方向延伸実現に向けた政治関係組織ができた。同日、土浦市内の結婚式場「ローブ」で設立総会が催された。

交通政策審での位置付けが課題

メンバーは、土浦、石岡、牛久、かすみがうら、小美玉市、阿見町の市長・町長と、これら6市・町の議会議長の計12人で構成される。土浦駅に近い常磐線沿線の首長のほか、土浦延伸が実現したあと茨城空港(小美玉市)への再延伸を目指して、その経路に当たると想定されるかすみがうら市長も加わった。

採択された設立趣意書では ①TX土浦延伸、さらに茨城空港延伸は、沿線地域の利便性を向上させ、県南・県央・県北と首都圏、さらに諸外国を結ぶ交通ネットワークを強化する ②延伸は交流人口の拡大や産業の活性化、大規模災害時の代替輸送路確保に寄与する ③次期(国土交通省)交通政策審議会答申で、必要路線と位置付けられることが重要課題 ④関係自治体が連携し、強力な推進体制を構築し、関係機関に強く訴える―とうたっている。

あいさつする期成同盟会会長の安藤真理子土浦市長

土浦延伸と県南50万都市はセット

設立総会には大井川和彦知事、関係市町が選挙区の県会・国会議員、地元土浦の市会議員も出席した。土浦市長や来賓あいさつでは、TX土浦延伸と県南50万都市形成をセットで構想する発言が相次いだ。

会長に選出された安藤土浦市長は「(最近)知事からTX延伸を機に県南に50万都市を建設するとの話があったが、TX延伸はその都市づくりの重要な要素になる。そのために地域がひとつになることが重要」だと述べた。大井川知事は「TXは土浦とつくばを中心とした50万都市づくりの大きな契機になる。そのためには地元自治体の延伸活動が大事」だとし、地元選挙区選出の国光あやの衆院議員は「高市政権の成長戦略では鉄道も重視されている。TX土浦・東京延伸は費用対効果を考えると十分ペイする。50万都市形成を目指す県南でTXが充実することは国の戦略と合致する」などと話した。

常磐線不通の際は替輸送経路

総会後、県の木名瀬貴久政策企画部長が「TX延伸による茨城の未来」という演題で講演、いろいろな視点から延伸がもたらす効果を説明した。この中でも「つくばなど県南・県西と水戸など県央、さらには県北がより近くなることで、県内の大きな経済圏の連携強化につながる」と、県全体に及ぼす経済効果に言及した、

また延伸区間(つくば駅~土浦駅、約10キロ、約9分)のポテンシャルについて「つくばー土浦間の利用者は平日・休日ともに7~8万人もの流動性がある」とし、「これにより一部区間で発生している交通渋滞は鉄道利用が増えることで緩和される」「延伸区間は高架構造を想定しており、河川氾濫などの災害リスクや輸送障害を軽減できる」などと説明。特に、常磐線が不通になった際、TXが代替輸送経路になることを強調した。(坂本栄)

竹園に残る未来の遺跡《デザインを考える》35

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写真構成は筆者

【コラム・三橋俊雄】つくば市の竹園地区は、1970年代に研究学園都市の中でいち早く整備された地域の一つです。そのため、この地区には学園都市建設当時の理想や期待が色濃く刻み込まれています。公務員宿舎や公共施設もそうした構想のもとで整備されました。

しかし半世紀近くが過ぎた現在、社会の姿は大きく変わりました。人口構造や働き方、住まい方が変化し、かつて重要な役割を担っていた施設の一部は、その役割を終えています。その結果、閉鎖されたままの公務員宿舎や使われなくなった設備の一部は、街の中に残されることになりました。

毎週水曜・日曜のラジオ体操の際に気になっているのが、竹園ショッピングセンター広場に設置されていた水飲み場(写真右下の2枚)です。もともと、ショッピングセンターと交流センターの間には、3基の水飲み場がありました、しかし5年以上前から、金属製の蛇口は取り外され、石造の基部だけが残されています。かつては夏の日に子どもたちや買い物客の喉をうるおし、まちのやさしさを感じさせる存在だったことでしょう。

それだけではありません。つくば市誕生当初から設置されている案内地図板(写真左の2枚)も今は色あせ、機能していません。研究学園都市として新しい未来を切り開こうとしていたころの期待や希望を映し出していたはずの地図板も、今では静かに時の流れを物語るだけの存在となっています。それらが適切な手入れもされないまま残されている姿は、歴史的景観というよりも、むしろ「廃墟」のような印象を受けます。

さらに昨年から、管理者によって使用が禁止されたままとなっている郵便局脇の掲示板(写真右上)も、そのまま使用できずに残されたままです。子どもたちの通学路でもあるこの広場は、長年にわたり多くの人々が行き交い、掲示板は地域の情報を共有する場として親しまれてきました。掲示板には地域のイベントや活動のお知らせが貼られ、そこには日々の息づかいが感じられていました。その掲示板だけがポツンと残されている光景に、私は一抹の寂しさを覚えています。

「廃墟」と「現在」が同居

使えない水飲み場や、色あせた案内地図板、使用できない掲示板が放置されたまま、この広場には「廃墟」と「現在」が同居しているのです。そうした風景を眺めていると、研究学園都市として船出したころに抱いていた理想や、市民とともにまちを育てていこうとしていた熱意は、どこへ行ってしまったのだろうか?と思わずにはいられません。

まちの魅力は、新しい施設だけによって生まれるものではありません。人々が集い、情報を共にし、地域への愛着を育む場所であってこそ、まちは生き続けることができるのです。水飲み場も、案内地図板も、掲示板も、一見するとささやかな存在かもしれません。しかし、そうした身近な施設にどう向き合っていくかということこそ、そのまちのありようが表れているのではないでしょうか。

今こそ、つくばが研究学園都市として歩み始めたころの志に立ち返り、まちの記憶と誇りを次世代へ受け継ぐための「まちのデザイン」が必要ではないでしょうか。(ソーシャルデザイナー)

検査を「特別なこと」にしない 筑波大教員ら、土浦で無料の性感染症検査

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「ゆるっと大人の性感染症検査」 に取り組む(左から)中澤眞生特任助教、 井坂ゆかり助教、堀愛准教授=筑波大学

性感染症の検査を、後ろめたさや怖さを伴う「特別なこと」ではなく、誰もが受ける健康管理の一つにしたい―。筑波大学医学医療系准教授の堀愛さん、助教の井坂ゆかりさんらが土浦市内で、HIVや性感染症を無料・匿名で調べる「ゆるっと大人の性感染症検査」に取り組んでいる。

指定のサイトから事前予約が必要で、手続きを終えると受診会場の案内がメールで届く。尿・血液検査でHIV、梅毒、淋菌、クラミジアの感染を調べることができる。結果は当日、知ることができる。8月10日、6回目の検査会が開かれた。

堀さんらが問題視するのは、検査を必要としながら、受ける機会を持てない人が少なくないことだ。HIV感染に気付かないまま、エイズを発症して初めて受診する患者もいる。現在は治療が大きく進歩し、感染を早く知り治療を続ければ、発症を防ぎながら生活することができる。「もっと早く分かっていればと思ったこともある。大人になって性的なパートナーができたら、誰でも一度は検査を受けた方がいい。そんなメッセージをもっと伝えたい」と堀さんは言う。

記者も受けてみた

検査を受ける記者=土浦市内の特設会場

8月10日、実際に検査の様子を知ろうと、記者も検査を受けてみた。会場は、JR土浦駅近くの建物内に設けられた特設スペース。具体的な場所は、検査を受ける人への配慮から非公開にしている。会場にはポスターなどの掲示もない。

受け付け開始は午前10時。取材を兼ねる記者は一般受け付けが始まる15分前から手続きを始め、10時前には検査を終えた。早ければ5分ほどで終えることもできる。予約時に本名を伝える必要はなく、会場でも事前に伝えていたニックネームと予約番号を確認するだけで受け付けは済んだ。尿検査用の採尿キットを受け取ると、案内に立っていたのはポロシャツを着た関係者だった。白衣を着ないのも、受診者の心理的な負担を軽くするためだという。入り口と出口も別々に設けられ、受信者同士が顔を合わせないよう配慮されていた。

待合室は一人一人パーテーションで区切られている

採尿を終えると、パーテーションで一人ひとりの空間が区切られた待合室に案内された。3メートルほどの間隔でパイプ椅子が3脚並び、ここでも受診者同士が顔を合わせることはない。椅子に座って待つ間に、壁に貼られたQRコードをスマートフォンで読み込み、検査への同意と簡単なアンケートに回答する。まもなく係員に案内され、隣接の検査スペースで採血を受けた。担当するのは、筑波大学附属病院に勤務する看護師2人だ。

会場から少し離れた駅直結の複合施設ウララには、筑波大で看護を学ぶ学生2人が啓発ブースを設け、行き交う人に企画のチラシ入りポケットティッシュや、企業の寄付による無料コンドームを配りながら周知していた。関心を持って足を止めた人には、予約状況を確認しながらその場で当日受け付けも行うという。

土浦駅前の複合施設ウララには啓発ブースを設けている

この日は22人が検査を受けた。予約は過去最高となる27人。当日受け付けを含めれば最大40人まで対応できるといい、これは検査結果をその日のうちに通知できる上限の人数だという。「検査を希望する人は、何かしらの心配事を抱えている場合もある。時間を置かずに結果を伝えることが大切」と井坂さんは説明する。検査結果では、「陰性」か「要受診」がメールで通知される。「要受診」の際はオンライン上で、プロジェクトに賛同する近隣医療機関への紹介状をダウンロードすることができ、電話予約の上、紹介状を持参することができる。

尿・血液検査自体は一般的な健康診断と変わらない。むしろ採血に必要な血液量はより少なく、かかる時間も短かった。待ち時間を含めても、10分以内で終えることができる。採血と検尿だけであれば、通常の健康診断でも行われる検査方法だ。一部の健診機関では希望すれば定期健診に組み込める仕組みもあるようだが、より一般的になるとよいのではないかと感じた。検査結果は、その日の午後5時にメールで届いた。

啓発ブースを置く商業施設ウララ前で通行人に呼びかけをする筑波大学生

「関心はあるが、機会がない」

取り組みは2025年度に始まった。堀さんや井坂さんら筑波大医学医療系の教員が中心となる3年間の研究プロジェクトの一環だ。最初の検査は同年11月、筑波大学の学園祭で実施した。2日間で85人が受検し、アンケートでは76%が性感染症の検査を初めて受けたと答えた。「関心はあっても、機会がなければ受けない人がほとんどだったのだと思う」と堀さん。予想を上回る人数に、検査を生活圏に持ち込む意味を実感した。「地方では、アクセスがとにかく問題になる。これまで、本来受けてほしい人の目線に立てた検査を提供できていなかった」と堀さんは言う。

大都市ではNPOや医療機関による検査イベントがある一方、茨城などでは無料検査の機会が保健所に限られがちだ。会場が駅から遠い、実施曜日と仕事の都合が合わないなど、受けたくても利用しにくい人がいる。そこで、土浦駅周辺を会場に選んだ。市内の歓楽街で働く人やその利用者、決まった店に所属せず各地を移動して働く人などは、専門機関での検査につながりにくい可能性がある。「実態が分からないからこそ、まず土浦でやってみよう」と考えた。

今年1月から土浦市内で検査をはじめ、8月10日で6回目を数えた。学園祭を含めたこれまでの受検者は延べ200人近くにのぼる。最近は土浦会場を繰り返し利用する人も現れている。「定期的に、気軽に検査を受けてほしいという目的でやっているので、リピーターが来てくれるのはうれしい」と堀さんは話す。

「自分の体を知れてよかった」と思える検査に

堀さんらが検査と同じくらい力を入れているのが、性感染症にまつわるイメージを変えることだ。性感染症には、感染した人の行動や生き方を責めるような偏見がつきまとう。後ろめたさを感じ、結果を知ることを恐れて検査から遠ざかれば、治療の開始が遅れ、他の人に感染を広げる可能性もある。

「偏見に対処するには、ポジティブなメッセージを出すことが大事」。目指すのは「自分の体のことを知れてよかった」「思ったより簡単に受けられた」という前向きな受け止め方を広げることだ。「後ろめたい気持ちを抱えて、自分から検査を遠ざけてしまうのは、すごくもったいない。そういうことを気にせず来てほしい」と堀さんは話す。

検査は、感染を疑われる人だけが受けるものではない。感染していないと分かって安心するためにも、自分自身やパートナーを守るためにも利用できる。学園祭や商業施設の会場では、カップルで一緒に受ける人もいたという。

受検への心理的なハードルを下げるため、会場運営では細部にまで工夫が重ねられている。受け付けでも検査を受ける理由をあえて詳しく聞かない。「普通の健康診断や献血に行くのと同じように」必要な案内だけを淡々と行うという。

広報の手法も工夫を凝らす。若者向けにはゲームのキャラクターのような「ドット絵」を用い、歓楽街を訪れる人向けにはあえて目をひく金色を配色し「無料」と書き込み「お得感」を演出する。その他に、SNSやマッチングアプリにも広告を出す。性産業で働く人の支援団体や事業者からも意見を聞き「誰が、どのような情報なら目を向けるのか」を探っている。

様々な世代や背景を持つ人に届くよう広報にも工夫を凝らしている

「茨城モデル」を定着させたい

全国のHIV検査数は、新型コロナウイルス感染拡大前の2019年と比べて大きく減り、その後も増え方が鈍い。感染が早期に分からないまま、エイズを発症して初めて感染が判明する人も、報告される陽性者の約3分の1に上ると、堀さんは説明する。一方、治療は大きく進歩している。感染が早く分かり薬を飲み続ければ、発症を防ぎながら通常の生活を送ることができる。それでも「エイズは怖い病気」「検査を受けるのも怖い」という過去のイメージは根強く残る。「私たちが検査を受けてほしいと考えている人と、実際に検査を受けたい人が同じとは限らない。本当の声を聞かなければいけない」と堀さんは言う。

2026年度で2年目を迎えた。今後は実施する時間帯や場所を広げ、外国人を含め、これまで検査につながりにくかった人のもとへ出向くことも検討している。研究期間の終了後も資金を確保し、仕組みを県内各地に広げ、地域で感染を早期に見つけ、治療につなげたい。土浦での検査を「茨城モデル」として地域に定着させたいと考えている。今後は月1回の頻度で、引き続き土浦での開催を予定している。次回は9月に行う。(柴田大輔)

◆「ゆるっと大人の性感染症検査」の詳しい情報は特設サイトへ。

◆保健所が実施している無料の性感染症・肝炎検査の情報はこちら

「感動をありがとう」霞ケ浦ナインに大きな拍手【高校野球’26】

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先制点が入り喜ぶ生徒、保護者たち=阿見町青宿、霞ケ浦高校

ベスト8ならずも優勝候補の横浜に先制

甲子園で開催中の第108回全国高校野球選手権は16日、3回戦が行われ、茨城代表の霞ケ浦は今大会優勝候補の横浜(神奈川)と対戦し、2-5で敗れた。阿見町青宿の霞ケ浦高では1回戦、2回戦に続き、パブリックビューイングが開催された。前回を上回る多くの生徒、保護者、卒業生、地元の中学硬式野球チームが応援に駆けつけ、メガホンを叩く音と歓声が響き渡った。試合後。保護者からは「強豪横浜を相手にみんなよく頑張った。感動をありがとう。良い夏休みになった」とスクリーン越しの霞ケ浦ナインに大きな拍手が送られた。

1年の山口純人さんは「負けてしまったが、神奈川大会から1度もリードをされたことがなかった横浜から先制点を取った時は感動し、心を揺さぶられた。1、2年生にはこれから秋の大会に向けて新たに頑張ってほしい」とエールを送った。 3年でバレーボール部の糸井大輝さんは「負けてしまったが素晴らしい試合だった。選手の西野結太さん、塚田泰生さん、石沢夢叶さんは同じクラスで普段とても明るいが、試合で見せる勝負の時の真剣な表情はとてもかっこよかった。お疲れさん」と霞ケ浦ナインをねぎらった。

スクリーンの前で試合を見守る生徒、保護者たち

横 浜 000014000 5
霞ヶ浦 000110000 2

霞ケ浦は4回1死2塁のピンチで、3塁ファールフライを村上聖がカメラ席に飛び込みながらもしっかり捕球し流れをつかむと、その裏、先頭の西野結太、菊地勇一の連打で1、3塁とした。続く渡辺航太がセンターへの犠牲フライで先制した。5回に同点に追いつかれるが、その裏、加藤龍のツーベースで2死2塁のチャンスをつくり、村上聖がセンター前にタイムリーヒットを放ち2ー1と勝ち越した。

しかし霞ケ浦先発の小林将大が6回1死1、3塁とされると、小林からリリーフした稲山幸汰が2死満塁で千島大翼に逆転の2点タイムリーを許した。さらに横浜打線から2点を追加され、2ー5とされた。

横浜は6回、先発の小林鉄三郎から豪速球右腕の織田翔希がマウンドに上がる。織田は2回戦の日南学園戦で甲子園記録となる最速156キロを記録している。霞ケ浦は6回に菊地勇一が四球で出塁するが、後続が凡退。その後は織田から走者を出すことが出来ず、初のベスト8進出はならなかった。(高橋浩一)

つくばと土浦が中心になる大都市圏 ⑵《吾妻カガミ》222

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茨城県庁(左)とつくば市役所

【コラム・坂本栄】前かすみがうら市長の宮嶋さんが提起した土浦市との合併話を機に、隣接市との合併や県南大都市圏の議論が盛んになっています。それらを読むと、発言者の立ち位置の違い、視野の広さ狭さがよく分かります。今回は、本サイトに最近掲載された記事やコラムを紹介しながら、これらの議論を少し整理してみます。

厳粛なデータ、財政力指数

火付け役、宮嶋さんの合併必要論は明快です。記事「合併ムーブの仕掛け人…」(7月28日掲載)の発言を要約すると、①自市の人口構成は若年層が少ないので今後財政運営が厳しくなる、②土浦市も基本的には同じ構造であり合併で両市の潜在性を引き出せる、③両市合併+アルファで50万都市をつくれば県を引っ張るエンジンになる―と、合併が県南活性化の起爆剤になると主張しています。

元水戸市みとの魅力発信(広報)課長の沼田さんは、国依存の地方財政に疑問を投げ、かすみがうら市が土浦市に、そして坂東市が常総市に合併を働きかける動きに注目しています。コラム「…県内市合併の動き…」(7月28日掲載)によると、基準財政需要額に占める基準財政収入の割合(財政力指数)が、かすみがうら市は0.571(2025年度)、坂東市は0.668(同)と、県内市の平均値0.681(同)を下回ります。

国の財政支援がないと自立は大変ということですから、将来展望が悲観的になり、生活仕事圏である隣接市にアプローチする動機がよく理解できます。国が主導した「平成の大合併」は市町村合併で行政コストを下げるのが目的でしたが、今回の両ケースは市の将来を懸念する市内識者の悲鳴の表現であり、こういった動きに真剣さを感じます。

「市民の声を聞く」首長?

しかし、かすみがうらの新市長、金子さんの合併熱量は前任者よりも低いようです。また、土浦の市長、安藤さんの対応も慎重に見えます。記事「合併めぐり土浦市長…」(8月6日掲載)から引用すると、「(あいさつに来た金子さんの発言は)かすみがうら市民の皆さんの声を聞きたい」であり、「(安藤さんの姿勢は)土浦市民の皆さんの考えを聞きたい」だったそうです。

両市長とも「市民の声を聞きたい」と、自分の判断を避けています。自市の現状と将来に関する豊富なデータ、それらを踏まえて打つ多様な対応策―首長にはこういった情報が用意されています。断片的な情報しか持たない市民の声を聞き、市の存続に関わる判断を下すと公言する市長は無責任です。自分の頭で絞り込んだ方向性を市民に問うのが、首長の正しい作法ではないでしょうか。

独自の絵を描ける政令市

大都市圏について、県知事の大井川さんの構想はクリアです。コラム「…大都市圏構想」(7月20日掲載)で引用したように、記者会見では①一定人口規模の都市には利便性が集積する、②自立的に人口を集める規模は最低でも50万人、③茨城の大きな課題の一つは同規模の都市が存在しないこと、④TX延伸を機につくばと土浦が中心となる大都市圏の形成が望ましい、⑤必要ならば政令市(人口要件50万以上)を設けたらよい―と述べています。

しかし、つくば市長の五十嵐さんは、緩やかな大都市圏はすでに存在していると主張し、政令市形成には消極的です。6町村合併で誕生した現市のマネジメントに精一杯で、50万都市を視野に入れる余裕がないのでしょう。また、市民の現状満足度が高いと読み、ポピュリズム「つくばファースト(最優先)」を貫きたいようです。

コラム「…『独立』を考える」(6月15日掲載)で述べたように、私は大都市圏の形成には強い力を持つ政令市が必要と考えています。つくば市も、国による研究学園都市建設、県主導の新鉄道敷設という都市コンセプトがなければ実現しませんでした。つくば市は国と県が整えた基盤の上に存在する「付与された」自治体にすぎず、次のステップを展望するのであれば、新しい「絵」を描ける行政体が必要になります。(経済ジャーナリスト)

「土浦と大曲」時を超える花火の絆【見上げてごらん】55

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土浦の花火オフィシャルカレンダー2026の表紙と8月の暦

【コラム・小泉裕司】日本全国には、花火の競技大会が小規模なものを含めると数十あるといわれ、優勝者に文部科学大臣賞や国土交通大臣賞などが授与される大会もある。その中でも、花火競技大会賞の最高位とされる内閣総理大臣賞が授与されるのは、秋田県大仙市の「大曲の花火」と土浦の全国花火競技大会の2大会だけである。2000年から両大会に同賞が授与されている。

今回は、25年以上前に「土浦の花火」の運営に携わった湯原洋一氏(元土浦市教育部長)のインタビューを中心に、大曲と土浦のつながりを紹介したい。湯原氏は退職後も地元ケーブルテレビなどの中継解説に出演し、「土浦の花火」の魅力を伝えてきた一人だ。

インタビューに答える湯原洋一氏(筆者撮影)

内閣総理大臣賞授与の裏話

「大曲と土浦のつながりを語る上で、真っ先に浮かぶのが内閣総理大臣賞です」。湯原氏によると、2000年8月、「大曲の花火」に内閣総理大臣賞が授与されるとの情報が、大曲商工会議所の小西龍一氏から土浦市にもたらされたという。

小西氏は約40年にわたり「大曲の花火」の運営に携わり、県外からの観客がまだ少なかったころには、観客を呼び込もうとキャラバン隊を結成して東奔西走した。開催当日は打ち上げ現場との連絡役を務めるなど、大会を陰から支えた人物であった。当時の口癖は「土浦に追いつけ、追い越せ」。

情報が伝わると、当時土浦市産業部長で「花火太郎」の愛称で親しまれていた菅沢秀男氏をリーダーに、「土浦の花火にも内閣総理大臣賞を」と、当時の通商産業省(現経済産業省)に働きかけた。しかし、「賞は1カ所にしか出せない」と、なかなか認められなかったとのこと。

そこで。小西氏が国に対し「大曲と土浦の両方に内閣総理大臣賞を出してもらえないか」と申し入れたのだという。

小西氏には、そうする理由があった。1961年、土浦火工の北島義一氏の尽力により、土浦で通商産業大臣賞が授与されることになった。その後、北島氏の後押しもあり、1964年から「大曲の花火」にも同賞が授与されるようになったのである。

その経緯を知る小西氏は、「大曲が通商産業大臣賞をもらえるようになったときの恩を、仇(あだ)で返すようなことはできない」と国に働きかけたという。

競い合い、学び合い、支え合う

こうして、かつて土浦から大曲に贈られた「恩」が、時を超えて大曲から土浦へ返された。両者の花火文化の発展に懸ける思いが、2000年の内閣総理大臣賞の両大会への授与につながったのである。

大曲から土浦へ、土浦から大曲へ。競い合いながらも、互いに学び、支え合ってきた両大会。その絆が、今日の日本の花火文化を支えてきたのかもしれない。

湯原氏は最後にこう語った。「両大会の関係者の皆様には、将来にわたって交流を深めていただき、全国の花火ファンの皆さま方から愛される両大会の運営に努めていただくことを心から願っています」。本日はこれにて打ち留めー!(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

<参考文献など>
「大曲の花火 100年の魅力」(秋田魁新報社、2010年)
「花火と土浦」(土浦市、2018年)
土浦と大曲の友情物語」(コージーセレクション、2023年製作)
※青字部をクリックするとYouTube動画が見られます。

1年間難民生活を送り38度線を越えた【語り継ぐ 戦後81年】4

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河合弘子さん

つくば市 河合弘子さん(91)

つくば市茎崎地区に住む河合弘子さん(91)は、1935(昭和10)年、京都府舞鶴市で生まれた。小学1年の時、一家で満州国に渡り、終戦から1年間、朝鮮半島で難民生活を送った。その後、38度線を歩いて超え、故郷に戻った。

父親は市役所職員で、母親は学校教員だった。父親が満州国(中国東北部)に赴任、太平洋戦争が始まる前年の1940年、父母と5歳の弘子さん、二つ下の妹の4人で満州国に渡った。

満州国最大の都市、奉天(現在は瀋陽)にあった日本軍の部隊の官舎に入り、翌1941年4月、日本人向けの奉天在満国民学校(小学校)1年生に入学した。

官舎があったのは、かつての清朝の首都、盛京を囲んだ城郭、奉天城の東側で、通りは、一方に、日本軍の部隊や満鉄、飛行場などが並んでいて、通りの向かい側に日本人の官舎と民間住宅、満州の集落などが並んでいた。

官舎は部隊の真ん前にあり、建物は、中庭を囲むように配置されていた。父親は軍事物資の輸送の仕事に携わり、母親は弘子さんが入学した国民学校の教員を務めた。家には、クーニャンと呼ばれた住み込みのお手伝いさんがいて、全部世話をしてくれた。

学校に入学した時から授業は教育勅語の暗唱ばかりだった。学校の敷地は広く、グラウンドの端には、行軍してきた兵隊が野営する場所があった。昼休みだけ、兵隊となわとびをしたり、鬼ごっこをしたり、童謡を一緒に歌ったりして遊んだ。ある日、1年生だった弘子さんを膝に抱いた兵隊が、歌いながら涙を流していた。兵隊さんは強いと思い込んで大きくなったので不思議だった。当時はなぜ泣いているのか分からなかったが、家族を置いて子供を残して出征したのではないかと思う。

奉天駅に集まり列車に乗った

1945年8月の早朝、日にちは覚えてないが、日本人の部隊関係者の家族は全員、奉天駅に集合するよう言われた。家を出る時、近所の友達にあいさつすらさせてもらえなかった。駅で父親と別れ、母親と弘子さんと妹、満州で生まれた4歳の弟の4人で臨時列車に乗った。列車は女性と子供ばかりで、各車両の前後に2人の兵隊が付いた。

どれくらい走ったか覚えてないが、列車が突然止まり、そのまま2時間ぐらい車内で待った。子供心にものすごく長く感じた。「日本が負けた」と言っているのを聞いた。そこは、朝鮮半島北部の平壌(ピョンヤン)だった。

夕方まで待ったが列車が動かないので、兵隊に誘導されて全員、列車から降り、駅の近くの学校の体育館に入った。日本人が通っていた学校だと言われたが、だれ一人いなかった。列車が何両編成で、何人乗っていたかわからないが、夏だったので体育館は蒸し暑く、足の踏み場もないくらいだった。夜には、白米のおにぎりとおつゆが出た。

体育館で過ごして3日目。全員、外に出なさいと言われ、起立して玉音放送を聞いた。座り込むお母さんや泣くお母さんもあった。昭和天皇の声が雑音と混じって聞こえ、弘子さんには何も分からなかった。

8月9日、満州国や朝鮮半島にソ連軍(当時)が侵攻し、駐留していた関東軍は敗走した。「奉天をいつ出たかは覚えてないが、体育館で3日過ごしたので、学校に着いたのは8月12日かと思う。後で考えれば、日本の敗戦が近いことをすでに分かっていて、女性と子供だけを先に日本に帰す列車に乗せたと思う」と振り返る。

シラミやチフスがまん延

学校の体育館は暑く、水道はあったが、風呂はなく、手を洗うことも十分にできなかった。1週間か10日ぐらいでシラミや発疹チフスがまん延し、大勢が高熱にうなされた。薬は無く、水で冷やすだけ。弘子さんも1週間ぐらい高熱にうなされ、うわごとを言い続けた。

大勢の女性と子供が亡くなり、死体をむしろに巻いて、職員用玄関の先のコンクリートの上に積んでいった。だんだん腐ってきて、汁が落ちるようになり、悪臭でいられなくなって、学校を出た。

髪を切り顔に炭を塗って寝た

2カ所目に行ったのは、ちょっといなかの方の日本企業の社宅だった。畳2畳にかまどと風呂場があり、8~10人ぐらいずつ分散して入った。奉天を出て初めて、手足を伸ばして眠ることができた。

何日かたった夜、ソ連兵が、朝鮮人の通訳を伴い、銃を持って入ってきた。通訳に「全員起きて立て」「並べ」と言われ、ソ連兵は銃を向けながら、見た感じがいい女性を連れて出た。薄暗い電球の下で銃が黒光りし、ソ連兵の目が緑色だったので余計に怖かった。朝になって、帰ってきた人もいたが、帰ってこなかった人もいた。

あくる日すぐ、付き添っていた兵隊に髪を切られ、鍋やかまどの炭を顔に塗って寝た。その後も5~6回、ソ連兵に入られ、いられなくなって、社宅を出た。

朝市が終わるのを待ってコメ粒を拾った

平壌市中の繁華街に出ると、ソ連兵は来なくなった。弘子さんの家族は飲食店の倉庫の2階に置いてもらった。8畳間に押し入れが一つあって、1畳に4~5人寝たので、50人近くの女性と子供がいたと思う。妹と弟が横になったらもう寝る隙間はなく、母親と弘子さんはほとんど座ったまま寝た。

平壌の市中には大洞江という大きな川が流れていて、奉天を出て初めて、水浴びができた。満州を出て初めてお風呂に入った気分だった。

奉天から一緒だった兵隊は、民間人の服に着替えていたが、ずっと付き添ってくれ、最初は食事なども手配してくれた。しかし食事情がだんだん悪くなり、ものを拾いに行くようになった。

市中には広い野原があって、毎朝、朝市が立ち、むしろを敷いた上にいろいろなものが並ぶ。升(ます)で量り売りをしているので、コメやコーリャンがこぼれていたり、野菜が落ちていたりした。弘子さんら子供たちは毎朝、朝市に行き、市が終わるのを待って、地面に落ちたコメ粒やコーリャン粒を拾った。お腹がすいた妹は、帰りに拾ったものを食べてしまうので、よくけんかした。市場では、朝鮮の人から「ちょっとおいで」と声を掛けられ、キムチをのせたご飯を食べさせてくれたこともあった。ありがたかった。

飲食店の倉庫には水道がなくて、朝起きて、水を汲みに行くのが日課だった。小さい子はビール瓶2本、9歳の弘子さんは3本抱えて、50メートルくらい離れた水道に水を汲みに行った。その後は、近くの豆腐屋におからが捨ててあるので、おからを取りに行って、コーリャンの粒が入った朝食のおつゆにおからを入れてもらった。おからが水分を吸ってふくらみ、腹持ちがよかった。

その後、大洞江に水浴びに行って、お昼を食べて昼寝する。夜になると飲食店の裏戸に行き、「何かあったらください」と頼んで回り、お客さんが残した残飯をもらった。「今は乞食と言う言葉は使わないけれど、そういう生活をして過ごしてきた」と弘子さんは振り返る。

1945年11月、4番目の男の子が生まれた。鹿児島出身の産婆さんがいて、母親はその人のところに行って出産したが、栄養失調ですぐに亡くなった。満州で生まれた3番目の弟も、5歳だった1946年2月、栄養失調で亡くなった。お腹がふくれて、目が落ち込んで、肌がどす黒くなっていた。

死んだ人を埋めにいくという話を聞いて、朝鮮の人に案内してもらい、遺体をトラックに乗せて、大きな深い穴に遺体を投げ捨てて埋めてもらった。葬式も出せず、手を合わて拝んだだけだった。

前の人の服を持って絶対に離すな

そんな生活が1年続いた1946年8月の早朝、奉天からずっと付き添ってくれていた兵隊から、急に「ご飯が済んだら皆で出発する」と言われ、倉庫を出た。とにかく朝早かった。いなか道を半日ぐらい歩いたころ、途中、雨水をためているところがあって、雨水を飲んで渇きをいやした。

駅ではなかったが、農村地帯の野原の真ん中にトロッコがあった。トロッコに乗って走り、着いた先が、38度線の山だった。当時38度線を境に、北側をソ連、南側を米国が占領していた。山のふもとは田畑が広がり、遠くに農家が見えた。田んぼのところどころに、刈り取った稲を置くわら小屋が建っていて、夕方まで、何人かずつに分かれて隠れた。

夕方ごろ、指揮を執っていた兵隊が隠れていた小屋にきて「今から38度線を逃げるから、前の人の服を持って絶対に離すな」「声を出したらいけない。もし聞こえたら銃殺される」「歩けなくなった人や子供がいたら置いて逃げるように」と言われた。

隠れている小屋から赤土の山が見えて、登っていく道が見えた。赤土を掘ってあるから道はところどころ崩れていた。弘子さんは、その横の田んぼのあぜ道を抜けて山に入った。けもの道を登り、とにかく前の人の服を離さないようにした。途中、泣いてしゃがんでいる子がいても目を背けて横を向くだけ。一言も声を掛けず通り過ぎた。

戦争はただ悲惨さだけが残る

暗いうちに山を下り、明け方までに38度線を越えた。やれやれと思ったが、着いた途端、置いてきた子供を探しにさっと引き返した母親もいた。近くの寺で1週間ほど泊めてもらった後、仁川(インチョン)に行った。仁川には大勢の日本人がいて、大きな貨物船に乗って帰国した。船底だったで、エンジンの音がうるさくて油臭くて船酔いしたのを覚えている。

博多港に着いて、貨物列車に乗り、父の実家がある舞鶴に戻った。貨物列車は屋根があって外が見られなかった。舞鶴の駅に着くと夜で、40分ぐらい歩いて、父の実家に戻った。

奉天駅で別れた父親は、2年遅れて帰国した。戦時中、仲良くしていた中国人の何軒かの家にかくまってもらい、逃げ回って生き延びたと聞いた。

帰国後、祖父が亡くなり、父親は実家の農業を継いだ。母親は舞鶴の中学校教員になり、定年まで務めた。

弘子さんは京都の学校を出た後、幼稚園の先生になり、23歳で教員の夫と結婚した。子育ての後、12年間、保育所に勤めた。夫が86歳で亡くなり、舞鶴で一人で暮らしていたが、88歳のとき息子夫婦が住むつくば市に転居してきた。

「戦争は何も残らない。ただ悲惨さだけが残る」と語り、「今の状況を見ると、ものすごく不安に感じる。戦争だけは反対し、平和の道をたどってほしい」と話す。(鈴木宏子)

終わり

霞ケ浦、3回戦進出【高校野球’26】

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霞ケ浦ナインに声援を送る生徒、保護者たち=阿見町、霞ケ浦高校

甲子園で開催中の第108回全国高校野球選手権は2回戦が行われ、茨城代表の霞ケ浦は鳴門渦潮(徳島)と対戦、5ー1で勝ち2年振りの3回戦進出を決めた。 
霞ケ浦は大会前の目標に掲げた甲子園での2勝を見事に達成、新たな歴史を刻み、初となる2度目の校歌を合唱した。

阿見町青宿の霞ケ浦高校では9日の1回戦に続きパブリックビューイングが開催された。生徒、保護者、卒業生ら約70人が会場に駆けつけ、スクリーン上の甲子園で活躍する選手達に向かい、メガホンを叩きながら熱い声援を送った。

藤本珠奈さん(3年)は「同級生たちが活躍する姿を見て鳥肌が立ちすごく良かった。3回戦も頑張って欲しい。」と笑顔で話した。ソフトテニス部の吉井翼さんは「先制点を取ってからピンチもあったが、バックがしっかり守り全員野球で勝って良かった。次もチーム一願となって勝ち進んで欲しい」とエールを送った。

スクリーンの前で試合を見守る生徒、保護者たち

鳴門渦潮 000100000 1
霞 ヶ 浦 01400000× 5 

霞ヶ浦は2回2死2塁のチャンスに、鳴門渦潮のエース西村大輝から野口空真がセンター前にタイムリーを放ち先制。3回には1死から村上聖、佐藤大亜、西野結太の3連打で満塁とすると、続く菊地勇一が今大会初ヒットとなる3塁打で3点を追加した。さらに渡辺航太の犠牲フライで1点を追加しリードを広げた。

霞ケ浦先発の小林将大は5回を投げ、鳴門渦潮打線を3安打1失点に抑えた。6回からはエース稲山幸汰がマウンドに上がり、走者を出すも要所を抑え、無失点できり抜けた。霞ケ浦は投打がかみ合い3回戦進出を決めた。

3回戦は16日の第4試合にベスト8進出を掛けて横浜(神奈川)と対戦する。(高橋浩一)

オオタカとハシボソガラスの記憶《鳥撮り三昧》16

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オオタカ(筆者撮影)

【コラム・海老原信一】暑い日が続き、自称元気者のつもりでいるのだが、鳥を見に行く「勇気」が出てこない日々になっている。とはいえ、思い切って「オオヨシキリを見に行こう」と出かけたものの、肝心のオオヨシキリがヨシから出てこない。子育ても一区切りついたころなのに…。鳥もやはり「暑いのは苦手なのか」と勘ぐってみる。

そんなことで、今回はオオタカとハシボソガラスの記憶をたどってみた。現在、筑波山南側を下妻市に抜けるバイパスが出来ているが、その工事が途中で止まっていたころの話。バイパス沿いに寺具という地域があり、道路は田畑に囲まれた中を通っている。その一隅に車を止め、機材を肩にして農道を歩き回っていた。

カラスの声が聞こえたので、そちらを見ると複数羽のハシボソガラスが上下に反転しながら騒ぎ立てていた。以前にも似た状況に遭遇したことを思い出し、直感的に「ある状況」を想起した。そこまではちょっと距離があるが、暑さと機材の重さで吹き出す汗もなんのその、走り出した。

田んぼの中の草地の中央近くに、オオタカが一羽。その足先の爪に捕らえられたハシボソガラスはかなり啄(ついば)まれていた。それでも仲間のカラスたちはオオタカに威嚇を繰り返していた。オオタカの方も屈することなく、捕らえた獲物を放棄することはしなかった。

まだ無謀ができた当時

攻防がしばらく続いたが、やがてカラスたちは諦め、飛び去って行き、オオタカも獲物の重さに耐えるように飛んで、近くのやぶの中に消えていった。目撃した光景での興奮が冷めてくると、それまで消えていた汗が急激に噴き出してきた。ともかく日陰のある所まで行こうと、遠慮なく照り付けるお日様の下を歩く。

そんなとき目に入ったのが、田んぼへ水を引く灌漑(かんがい)用導水管。あらかたは地中に埋設しているが、所々地上に出ており、空気を抜く弁がついている。よく見ると、管の中を流れる水に冷やされた空気が、水滴となって管の周りに付き、水滴は氷のように輝いていた。

周囲にチラッと視線を走らせ、冷たく光る配管に抱きつく。シャツを通して染みてくる水滴に生き返った感ありだった。熱中症という言葉を聞くことがなかったころとはいえ、「夢中になる」とはこういうことか。バイパスを通るたびに導水管を眺めては、鳥よりも「まだ無謀ができた当時」を懐かしんでいる。(写真家)

広島の焼け野が原を駆け回った【語り継ぐ 戦後81年】3

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中川静香さん

つくば市 中川静香さん(89)

広島出身の中川静香さん(89)は、つくば市みどりの地区に住む。二・二六事件が発生した1936年、原爆ドームから1.8キロほどの広島市的場町で生まれた。原爆が投下された1945年8月6日は、父親の実家がある瀬戸内海の能美島に一家で疎開していて無事だった。

1911(明治44)年生まれの父親は、小学5年か6年のころ、仕事に就くため、能美島から広島市にきた。仕事の手伝いをしていた時、大きな氷が落ちてきて左足を切断した。その後、義足や義手など補装具をつくる店に丁稚奉公した。やがて独立し、七軒長屋で補装具店を開いた。

長女の静香さんは七軒長屋で生まれ、1、2年生までは広島市内の段原国民学校(小学校)に通った。同小学校は8月6日の原爆投下時、木造校舎が爆風で押しつぶされ、下敷きになった子供たちを救出できないまま猛火に包まれた。後に悲劇の学校といわれるようになる。

一人で叔父の家に疎開

2年生の終わり、静香さんは学校から、子どもは疎開した方がいいので集団疎開か個人疎開かどちらかを選ぶよう言われ、父の実家がある能美島の沖村(現在は江田島市)に疎開することになった。

一人で疎開することになり、広島市に迎えに来た父の兄に当たる叔父に連れられて沖村に向かった。能美島の中村(現在は中町)という船着場に船が着いて、そこから先はずっと歩いた。「まだかね、まだかね」と言いいながら歩いたのを覚えている。

母親は大分県出身。1942(昭和17)年に6歳下の妹が生まれた。静香さんが疎開した後、母親は出産のため妹を連れて実家の大分に里帰りした。1945(昭和20)年7月に弟が生まれ、母親は、妹と生まれたばかりの弟を連れて父の実家にきた。父親も後からやってきた。当時、弟のためのミルクは無く、コメをすりこぎで擦って水で薄め、沸かして弟に飲ませた。「昭和20年生まれの弟には何もなかった」と静香さんはいう。

叔父の家では「家族の人数が多いものだから、遠慮しながら小さくなって過ごした」。能美島ではサツマイモがいっぱい栽培され、食事は、米粒が少しと、サツマイモばかりだった。海軍の造船所が集積し、当時、東洋一の軍港と呼ばれた呉の街が空襲を受け、夜、呉の空が真っ赤に焼けていたのを覚えている。

キノコ雲が見えた

1945年8月6日朝、家の廊下に座っていた時、ピカッと光ったように感じ、やがてキノコ雲が見えた。小学3年だったが、当時は何も分からなかった。その後、「ピカドンが落ちて、やけどで皮膚がはがれた幽霊みたいな人が、船着場に大勢着いた」という噂を聞いた。島だから村に病院もなかった。島で被爆者に直接会ったことはないが、逃げてきたんだと思った。ひどいことばかりで、当時は何も思わなかったし、思う暇もなかった。

原爆投下から2、3日後、七軒長屋に残してきた商売道具がどうなったか心配し、父親が的場町に見に出掛けた。すぐに帰ってきたが、戻った父親は広島市の様子を何も話さなかった。

8月15日は夏休みだったのに、皆、国民学校に集められ、運動場で玉音放送を聞いた。

中心部に向かって歩くにつれ焼け野が原だった

父親は、これ以上、兄の世話になるのがしのびないと、その後もたびたび広島市に行き、バラックの家を建てた。薄っぺらな木の板で囲った小屋で。終戦から1年数カ月後の1946年秋、一家で広島市に戻った。船で広島市の宇品(うじな)に着き、そこから皆で数キロを歩いた。宇品には建物がちょっとずつ残っていたが、広島市の中心部に向かうにつれて建物はなくなり、焼け野が原だった。

父親が建てたバラックは爆心地から1.5キロほどの日赤病院そばのにあった。日赤以外、建物はなかった。当時、病院はがらんとしていて、妹と2人、日赤病院の庭を駆け回ったり、なわとびをしたりして遊んだ。やがて静香さんと妹の2人はたびたび鼻血が出るようになり、その後何十年間も鼻血に悩まされた。当時は放射能に関する知識もなかった。「ピカドン、ピカドンというだけで、放射能の被害など意識してなかった。当時の子供たちは皆、ほったらかしだった」と振り返る。

当時、ピンク色のコーリャンが配給されたが食べ物は足りず、近所のおばさんからヤミ米を買った。おばさんは田舎に行って仕入れた物を、着物と引き換えに高く売った。食べ物には苦労し、焼け跡の土地に野菜を植えて飢えをしのいだ。

広島市に戻ってからは、千田小学校の4年生に転入した。原爆で児童41人と教師3人が犠牲になった小学校で、教室に窓ガラスがなくて、紙か何かがガラスの代わりに貼られていた。運動場の真ん中には麦畑がつくられていて、運動会では麦畑の周囲を走った。学校の講堂は、焼けて赤茶けた鉄骨だけが残っていた。運動場にガラスの破片がころがっていて、子供たちがガラスを拾う時間が設けられた。学校の教科書は薄っぺらだったが、黒塗りでいっぱいだった。

1948(昭和23)年、一番下の弟が生まれ、きょうだいは4人になった。生活はいっぱいいっぱいで、父も母も子供たちを養うのに一生懸命だった。

世の中が落ち着いたころ。父の補装具店に病院から注文が入り、コルセットなどをつくるようになった。原爆で建物の下敷きになり、けがをして手足を失った人などが父の店をたずねてきた。長女の静香さんは学校に通いながら父親の仕事を手伝った。補装具の型をとるため、ガーゼに石膏の粉を付けるのが静香さんの仕事だった。

学校には行っていたが、父や母の手伝いで勉強する暇もなかった。中学生になり、6歳下の妹が小学校に入学した時は、忙しい父母に代わって、妹の父兄会に参加したり、成績表をもらいに行ったりした。

「歴史に学ばないのか」

静香さんは短大を卒業後、短大の化学室の助手などを務め、その後、結婚。2022年に、娘が暮らすつくば市に転居するまで広島で暮らしてきた。

父親はずっと原爆手帳をもらわずにきたが、原爆投下後、2週間以内に爆心地から2キロ以内に入った人は「入市被爆」と認定され、原爆手帳がもらえると聞き、戦後何十年か経って、原爆手帳を申請した。静香さんが父の手続きを手伝い、86歳で亡くなる10年くらい前に原爆手帳をもらった。亡くなった時、津川貞夫という父の名前は原爆死没者名簿に載り、慰霊碑(広島平和都市記念碑)に奉納された。申請時、静香さんは「戦争するのはいけない」と父の申請書に書き添えた。父親以外の家族は原爆手帳交付の対象にはならなかった。

戦後、静香さんは、核兵器廃絶を求める署名活動など平和運動に関わるなどした。今の世の中については「戦前の軍国主義の時代を知っているので、武器種出規制の緩和やスパイ防止法の動きなどを見ると、ピンとくる。歴史に学ばないのか、歴史は繰り返すのかと悲しくなる」と話す。(鈴木宏子)