土曜日, 4月 4, 2026

【あと一勝の壁】3 高校1年夏 鮮烈デビュー

【伊達康】高校は県外の強豪校に行きたい気持ちもあったが、親の薦めもあって地元に残り父親の母校でもある私立霞ケ浦高校に進学した。中学までは常に叱られながら野球に取り組んできた上野だが高校では環境が一変した。監督は上野の全てを受け入れてくれたのだ。 「1年からすぐに試合で使っていただいたので気を遣ってもらっていたのかなという部分はありますね。好きにやらせてもらった。だからといって練習を手抜きした訳ではありません」。否定されることも叱られることもない分、自主性と自立心が要求された。 迎えた1年夏、2回戦の境戦で2番手として公式戦デビューを果たすと、3回戦の第7シード土浦湖北戦では先発を任され9回まで1失点。後を受けた片野凌斗(東京経済大―筑波銀行)が無失点でしのぎ延長15回の激闘を制した。3年生がベンチに4人しか入っていない2年生中心のチームはノーシードながら準々決勝まで勝ち進んだ。 インパクト残した1度目のチャンス 2強時代へ 甲子園への1度目のチャンスは1年秋に訪れた。霞ケ浦は県大会決勝で常総学院に0対7で敗れ茨城2位となり関東大会に進出。初戦は神奈川1位で大会優勝候補の東海大相模となった。誰もが東海大相模には勝てないだろうと予想していたカードであったが、なんと上野が完投して5対3で大金星を挙げた。あと一つ勝てば甲子園に手が届く。しかし続く準々決勝で宇都宮商に4対5と逆転負けを喫した。センバツ甲子園出場はかなわなかったが、東海大相模を倒したインパクトは大きく、1年サウスポー上野拓真の知名度は一気に上がった。 2年春には県決勝で常総学院に3対2で競り勝って念願だった夏の第1シードを獲得した。この頃から高校野球ファンの間で霞ケ浦と常総学院を称して「2強」と呼ばれるようになった。それだけ2校の力が抜きん出ていた。 =続く

【あと一勝の壁】2 心も体も成長 叱られ続けた中学時代

【伊達康】中学では学校の軟式野球部ではなく硬式クラブチームを選択。茎崎ファイターズでバッテリーを組んだ石川竜聖(竜ケ崎一)と一緒にまだ創設されたばかりの取手リトルシニアに3期生として入団した。ただ、自宅から練習場までは車で抜け道を通っても30分以上かかった。「駅まで遠くて自力で通うことができないので、毎日の送迎では親に大変な苦労をかけた。石川の親と交代で送迎してもらってお互いの負担を減らして。そうでもしなかったらとても続けられなかった」 取手リトルシニアに入ってからも叱られながら野球に取り組む日々だった。「小学生の時も毎日叱られたが、シニアではその比にならないくらい叱られた。もう何をやっても叱られる感じ。言われ続けてようやく気付いてできるようになることってありますよね」 「よく『叱られて伸びるタイプはタフなだけ。褒められればもっと伸びていた』という人がいますが、僕の場合は叱られなければ伸びなかった。叱られて自分ができないことが身に染みて分かる。だから悔しくてさらに自ら練習するから伸びるのではないか。もし褒められていたとしたら調子に乗って自分から練習していない。言い続ける指導者も大変だったと思いますよ。本当に毎日罵声ですもん(笑)。でもそのおかげで人間的にも野球に取り組む姿勢も成長できた。シニアで僕の人間としての礎を作ってもらった」 同期は30人。仲間と切磋琢磨(せっさたくま)しながら、指導者に励まされながらの取り組みは大いに結実した。のちに高校3年夏の決勝で甲子園をかけて対決することになる根本文弥(藤代―東洋大4年)が4番打者。その後高校まで同じ釜の飯を食べた菅原直輝(霞ケ浦―白鴎大4年)がショート。今や東京6大学のスター選手で今年のドラフト候補でもある柳町達(慶應義塾高―慶應義塾大3年)が1学年下ながらもレギュラーと、そうそうたるメンバーを擁して3年の全国選抜大会で初優勝を果たした。もちろんエースは上野である。「その年のジャイアンツカップ(中学硬式クラブナンバーワンを決める大会)にも出場できたんですよ。取手リトルシニアの11年の歴史において、ジャイアンツカップに出場できたのは唯一、僕らの代だけなのでちょっとした自慢です」と表情を緩ませる。 =続く

【あと一勝の壁】1 日本一の悔し涙 胸中に迫る

【伊達康】4年前、茨城の高校野球で話題を席巻した小さな大エースがいた。身長166㌢と小柄ながら、私立霞ケ浦高校で1年夏から主戦投手として活躍し、1年秋から3年夏まで6季連続で県大会決勝に進出。秋と春の関東大会では全国区の強豪・東海大相模と横浜に完投勝利を収め、2年春と2年秋の2度、県大会優勝と、投手として一時代を築いた上野拓真(22)さんだ。 投手としての実力が圧倒的に抜きん出る一方で、彼のもう一つのドラマにも注目が集まった。秋の関東大会準々決勝と夏の茨城大会決勝で合計4度甲子園に王手をかけたが全て敗退。大一番で先発を4度経験しながらもあと1勝の厚い壁が立ちはだかって甲子園への切符をつかむことなく高校野球を引退した。 その後は神宮球場での登板を夢見て東都大学野球リーグの青山学院大に進学。3年春には念願のリーグ戦デビューを果たし4年秋には7試合に登板した。大学野球を経て今春からは社会人野球「北海道ガス」に所属し都市対抗野球出場を目指すという。新たな高みを目指す上野さんの胸中に迫った。 全国大会で3位 小学生時代 野球を始めたのは小学2年。通っていたつくば市立茎崎第一小を本拠地とする茎崎ファイターズに入団した。全国大会常連の名門チームであるだけに練習が厳しく、「野球の技術も精神的にも未熟だった」という上野は、毎日叱られながらもめげることなく練習に取り組み3年からピッチャーを任された。1学年上には、のちに高校2年夏の決勝で先発として投げ合うことになる飯田晴海(常総学院―東洋大―新日鉄住金鹿島)がおり、「当時からすごくて憧れの存在」だったという。4年からは全日本学童軟式野球大会(マクドナルド・トーナメント)に3年連続で出場し逸材ぞろいの茎崎ファイターズは県内で無敵を誇った。さらに6年の時はエースとして同大会の全4試合で完投し3位になった。 =続く

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