【コラム・平野国美】私たちの社会には、「普通」という暗黙のルールがあります。「空気」を読み、周りに合わせることが求められ、そこから外れる人は「変わっている」「融通が利かない」と見なされがちです。しかし、もし社会の「普通」という前提自体が崩れ落ちてしまったら、一体何が起きるでしょうか。
2011年3月11日に起きた東日本大震災。被災地の町の図書館も例外ではなく、すさまじい揺れで本棚は倒れ、蔵書が床一面に散乱する光景が広がりました。翌朝、出勤したスタッフは言葉を失い、立ち尽くすばかりでした。「どこから手を付ければ…」。誰もが絶望と無力感にさいなまれ、思考を停止していたのです。
その時が止まったような空間に、カツ、カツと規則正しい足音が響きます。定刻通りに出勤してきたKさんです。彼は普段、「仕事は正確だが冗談が通じない」「空気が読めず人を戸惑わせる」と評される、少し不思議な存在でした。
この日も、Kさんはいつもと寸分違わぬ「いつも通り」でした。茫然(ぼうぜん)自失の同僚たちを一瞥(いちべつ)しただけで、散乱した本の山にまっすぐ向かいます。そして静かに一冊の本を拾うと、汚れを払い、記憶の中にある完璧な配置図通り、本来あるべき棚にそっと差し込みました。一冊、また一冊…。
Kさんは、目の前の惨状など存在しないかのように、淡々と本を元の場所に戻し続けます。周りの混乱した空気とは完全に異質なその姿。「空気を読まない」と評された彼の特性が、この極限状況において、誰にも真似できない「不動の精神」として静かな光を放ち始めた瞬間でした。その規則正しい作業は、まるで正確に時を刻む振り子のようでした。
不思議なことに、その姿を見ているうちに、パニックに陥っていたスタッフたちの心は少しずつ凪いでいきます。「…そうだ、こうしていても始まらない」。誰かがつぶやくと、1人、また1人と魔法が解けたように動き出し、Kさんの隣で本を拾い始めたのです。
Kさんの「いつも通り」が、崩壊した世界の中で、秩序を取り戻すための最初の歯車となりました。作業は1日中続きました。しかし夕方5時に終業チャイムが鳴ると、Kさんはぴたりと手を止めます。そして、まだ山のように残る本には目もくれず、「お先に失礼いたします」と一礼し、いつも通りの定時に帰って行ったのです。
輝いた「異質な人間の存在」
一見、奇妙に見える彼の行動。しかし、この一連の出来事は、私たちが当たり前だと思う「普通」や「協調性」という物差しを、根底から揺さぶるものでした。彼の行動の裏には、一体何があったのでしょうか。
この話の中にダイバーシティの概念があります。人間の集団の中には、気質や行動パターンに多様性が存在します。町の図書館の中にも異質な人間が存在したのです。同じタイプの人間ばかりでは、同じストレスがかけられた場合、その集団が全滅する可能性があります。Kさんの性格・特性は「いつも通り」でない世界で輝いたのです。(訪問診療医師)