【コラム・冠木新市】脚本家、橋本忍が橋本プロダクションをつくり、その第1回作品に選んだのが「砂の器」(1974年)だった。すでに脚本は十数年前にできていた。
当初、ハンセン病の父と子を描いた松本清張の原作は非常に入り組んでおり、橋本忍は頭を抱えたそうだ。だが原作にある「その道中どんなことがあったか、それは親子のこじきにしかわからない」との「父と子の旅」の1節に注目し、そこから脚本を構成、共同脚本の山田洋次と仕上げた。松竹で製作予定だったが、内容が暗いためか中止となってしまう。
橋本忍の父親が病の床につき故郷に戻った時、父親の床に2冊の台本が置かれていた。「お前の書いたホンの中でまァまァなのはこの二つや」と「切腹」と「砂の器」をあげ「けど、わしはこの砂のなんとかのほうが好きや」と言い、さらに興行師の経験もあった父親は「この外題(砂の器)は、やりさえすりゃ当たる」との遺言を残している。
その後、橋本忍は各映画会社に企画を持ち込むが、様々な理由を付け皆断ってきた。遂には他の仕事の依頼を受けても、「砂の器」をつくらなければ仕事はやらないとまでに。とうとう独立プロダクションを設立し「砂の器」を自主制作することにした。
すると橋本忍は、映画監督の黒澤明から電話で呼び出された。脚本を読み、冒頭の容疑者捜索シ一ンは意味がなく無駄だし、犯人の愛人が血痕の付着した服を切り刻んで電車からまく証拠隠滅シ一ンがおかしいと指摘を受けた。橋本忍もその欠点には気づいてはいたが、しかし最後まで削除改訂することはしなかった。橋本忍はクライマックスの父と子の旅にすべてをかけていた。
「砂の器」の後半がすごい。①警察庁での捜査会議の席上、今西刑事(丹波哲郎)が殺人事件の背景を語るシ一ン②犯人の作曲家、和賀英良(加藤剛)のピアノコンサートのシ一ン③お遍路姿の病人(加藤嘉)と7、8歳の男の子(春田和秀)の旅路のシ一ン。この3つのシ一ンが同時並行で描かれるからだ。
橋本忍の父親は、捜査会議(義太夫語り)とコンサート(三味線弾き)とお遍路親子(人形)が、人形浄瑠璃の仕掛けだと見抜いていた。
丹波哲郎、加藤剛、加藤嘉、春田少年の演技と全編に流れるピアノとオ一ケストラの音楽には誰もが泣かされるはずである。
父と子の旅のシ一ンは、今西刑事の想像であり、作曲家でピアニスト和賀英良の回想でもある。だから主軸は、父と子の旅の場面だ。セリフはなく、音楽のみで表現される。
私がいつも泣かされるのは、少年が山道から小学校の校庭で体育の授業風景をじっと見つめる場面だ。父親は旅をせかすが、少年は動かない。少年の授業を受けたい思いが痛いほど伝わってくる。『砂の器』の父と子の旅の場面は、戦後の貧しかった日本の社会を象徴するものといえる。
私の父は「砂の器」が公開された年に亡くなった。久し振りに「砂の器」を見直した。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家)