【コラム・山口絹記】先日、久しぶりに学生時代の友人のライブに行った。学生時代、私はなぜだかクラシックギターをやっていたのだが、当時ジャズサークルでやかましいドラムを叩いていた同期の彼に「クリスマスに爆音で大学のチャペルをぶっ壊したいんだけど、一緒に演奏しない?」と声をかけられて以来の付き合いである。
クラシックギターをやっている人間に対する誘い文句ではないと思うのだが、たぶん何も考えていなかったのだろう。私も何も考えずに生きているからこそ承知したわけで、人のことは言えない。
ライブに行くと、毎度会場でDJを担当しているのも学生時代から付き合いの友人だ。なぜ毎回いるのだろう。暇ではないと思うのだが、毎回いるので、もしかしたら本当は暇なのかもしれないが、そんなことはどうでもよい(コラム42に登場する2人である)。
芯まで響くバスドラに、サックスとギター、ベースの音が乗って、頭がピリピリする。やかましくもどこか変わらない音に身を包まれながら目をつむると、途端に自分が今どこにいるのかわからなくなる。
発破をかけてくれる音
音楽に限らず、何かをずっと続けて、日々進化し続ける意思というのは尊い。どれだけ洗練されようと、そうした精神には何かずっと変わらないものが宿るのだと思う。そんな音にあてられると、ふわふわとした日常の不確かな自己の座標なんて簡単に吹き飛ばされてしまう。初めてその音を体験した日に連れてかれてしまう。
何もかもが簡単に過ぎ去り変わっていく日々の中で、本当に変わらないものというのは、実は常に前進し続けるものだけなのだと私は考えている。停滞すれば、歩みを止めれば風化が始まる。変わってしまう。
たぶん私は、定期的にそんな音に発破をかけて欲しくて、あの音を浴びに行くのだと思う。(言語研究者)