金曜日, 12月 12, 2025
ホーム暮らし豊かだった満州の記憶 鮮明に【語り継ぐ 戦後79年】1

豊かだった満州の記憶 鮮明に【語り継ぐ 戦後79年】1

阿見町 奥島雅子さん

阿見町でミニデイサービスの事業所「レプラコーン若栗」を管理する奥島雅子さん(93)。1931(昭和6)年、東京都江東区生まれ。戦時中のことを鮮明に覚えている。米屋を営む家で、雅子さんは8人きょうだいの末っ子だった。3歳の時に父が亡くなり、11歳の時に母も亡くしたが、25歳上の兄が家業を継ぎ、親代わりとなって雅子さんを育てた。

亀戸にあった実家は米屋だったため米蔵もあり、ネズミに困るほどたくさんの米があったが、1940年に配給制が始まると蔵は空になり、配給もわずかだったことから雅子さんたちきょうだいも食べ物に困るようになった。「配給でもらえるのはほんの少し。これでどうやって家族全員食べるのかと。お芋を入れたりしてなんとか食べてはいたが、栄養失調だったと思う」と話す。

満鉄の兄に連れられ満州へ

長男の兄は本来徴兵される年齢ではなかったが、兵隊として中国南方へ配属された。2番目の兄は満州事変をきっかけに徴兵されて満州(中国東北部)に渡っていたが、その後除隊。次男で後を継ぐ必要がないからと南満州鉄道に就職していた。2人とも実家の米屋の配達で車の運転ができたため、前線に行くことなく無事だった。1944年の秋、雅子さんが14歳のころ、満州へ行っていた兄が日本に一時帰国して、食べるに食べられない状況を見かね、雅子さんと姉を満州に連れて行くことにした。急なことだったが雅子さんは急いで荷物をまとめ、リュックを背負って東京駅から下関まで1日かけて汽車に乗り、下関の港から船で釜山に渡った。

汽車の中で一人に一つ蒸しパンが渡されたが、雅子さんは食べずに取っておいた。釜山から列車で満州の撫順(ぶじゅん)駅に到着すると、満鉄の人が車で迎えに来てくれ、社宅まで送ってくれた。「社宅には紺と白のじゅうたんがありびっくりした。取っておいた蒸しパンを姉が蒸して温めなおしたら、バターを塗って、紅茶にお砂糖を入れて出してくれた。感動どころか、驚いてひっくり返った。なんでバターやお砂糖があるのかと」

撫順での暮らしは豊かだった。社宅はコンクリート造り3階建て。冬はマイナス10度以下になるが、ボイラーがあって室内は暖かく暮らしやすかった。「豚肉の切り身やみかんなどなんでもあった。栄養が取れるようになり、満州で体ができた」。学校にも通った。日本人専用車に乗って30分から40分ほどかけて通学した。教科書も日本で勉強していた内容と同じだったが、中国語の授業があることが違っていた。

雅子さんと姉は撫順で落ち着いた暮らしをしていたが、1945年3月、東京大空襲があり、亀戸にあった米屋の実家は燃えてしまった。姉たちは金庫にあったお金を懐に入れて逃げ、あたり一面が火の海になる中、川に入ってやりすごしたと聞いた。家族全員、無事だった。「焼け出されて(足立区にあった)隠居所に越したよ、という手紙をもらって(実家が燃えたことを)知った。着る物もなく困るだろうと浴衣や靴下、炒った大豆のカンカンを行李(こうり)2つ分入れて日本に送ったけれど、1つだけしか届かなかった」。

押し入れに隠れて寝た

1945年8月、ソ連が満州に攻め入ってきた。国民党軍と八路軍(中国共産党軍)の撃ち合いも始まり、爆撃音が聞こえていた。「どこまでが正規軍(国民党軍)でどこまでが八路軍かも分からない。ソ連軍を恐れて、夜は押し入れに隠れて寝るようになり、夜は近所中の男の人が警備をした。撃ち合いになると流れ弾に当たらないように壁にくっついた。とにかく自分を頼るしかない。家族と離れないようにしていた」と話す。学校は閉鎖になり、不安の中、家で兄の勉強ノートなどを読んで過ごす日々が続いた。

1年間残留し、1946年10月27日、東京に帰ることになり、撫順市から港がある葫芦島(ころとう)市まで屋根のない汽車で向かった。途中で盗賊に襲われるグループもあったが、雅子さんたちは無事だった。葫芦島からは日本語を話せるアメリカ兵が誘導し、「ごはん食べた?」と日本語で聞かれ、雅子さんは驚いた。

「みんな緊張していたが、ボートが陸を離れると大人も笑顔になった」と話す。船の中で亡くなる人がおり、水葬となった。乗り込んだ人の中でお経を上げる人がおり、船長が板を斜めにして海に遺体を流した。「お経を上げてくれる優しい人がいてよかったと思った」。

東京に戻り、亀戸の駅前に立つと、「180度見渡す限りなんにもない。引き揚げ船の中で、東京のここが焼けていると地図を見せて教えてもらっていたが、何もかも変わっていた」。しかし「自分はけがもない、手足もそろっている。こんなにありがたいことってない」と境遇に感謝する。

工夫が身に付いた

結婚し、都内で空調工事などを手掛ける会社「奥島工業」を夫と2人で切り盛りした。女性が現場に入ることが少なかった昭和30年代に、病弱だった夫を助け、雅子さん自ら2トントラックのハンドルを握り、搬送や経理の仕事をした。仕事で中国に何度も行き、満州時代に覚えた中国語を勉強し直した。60代で女性起業家の異業種交流会の代表を務めた。退職後、阿見町が気に入り移り住んだ。

「無い無いばかりだった時、兄も姉もなんでも自分で作っていた。無い物は自分で作るという習慣ができている。足りないものばかりだったから、今は誰かが来たらいつでも何かを食べさせる。経験したことが知恵として残っていて、不自由だから自分で直したり、ものづくりしたりが染みついている」と話す。(田中めぐみ)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

1コメント

1 Comment
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

ソプラノ歌手招き 歌ってフレイル予防を つくばのコーラスサークル

健康を維持するためのコーラスサークル「マウントつくばエコー」(伊藤雄二代表)が今年5月に結成され、国内外で活躍するソプラノ歌手で二期会会員のひらやすかつこさんを都内から招き、ボイストレーニングとコーラスの講座が開催されている。 音楽を楽しむと同時に、大きな声を出すことによって、加齢で心身が老い衰える「フレイル」(虚弱状態)を予防し、健康を維持することを目的としている。歌唱のうまさを競うものでなく、それぞれが楽しく歌うというのがモットーだ。 講座は月1回、同市並木の並木交流センターで催され、ひらやすさんが毎回、呼吸、発声、歌唱方法などを指導する。呼吸は、持参したストローを用い、ゆっくり深く息を吸った後、ストローを使って、吸った時間の倍の時間を掛けてゆっくり吐き出す。声帯と周辺筋肉の「声筋」を鍛えるほか、肺機能を向上させ、副交感神経を優位にすることでストレスの軽減や不安の緩和などの効果があるという。「声筋を鍛えることは認知症予防につながる。日常生活に音楽を取り入れるために、とても良い練習になる」とひらやすさんは言う。 現在会員は15人で、ほとんど欠席者は出ず、毎回毎回を楽しみに通っているという。練習では「埴生(はにゅう)の宿」「ふるさと」「オー・ソレ・ミオ」などをレパートリーとしている。 代表の伊藤さんが、都内でひらやすさんの講座を受講し、「つくばでもぜひやってみたい」と相談したのがきっかけ。伊藤さんが会員を募集しスタートした。 ひらやすさんは、武蔵野音楽大学を卒業後、ドイツ、イタリア、オーストリアなどに3度国費留学。ニューヨークのカーネギーホールで催された日米親善ソリスト公演にも出演した。現在は声楽家にとどまらず、臨床心理療法士、心理カウンセラーと幅広く活躍している。音楽と健康をテーマに、都内で開かれている「ときめきサロン」などの講師を務めているほか、老人ホームなどでも音楽教室を開いている。 ひらやすさんは「つくばは2018年頃から訪れているが、自然が豊かでとても気に入っている街。毎月来るのが楽しみになっている。楽しく歌えば健康になる。どんな形でもどんなジャンルでも歌うことは良いことで、歌うことが日常になってくれれば」と語る。「年を重ねると声帯が固くなり、高い声などが出にくくなる。しかしトレーニングによって改善することが出来る」と言い、「サークルでも、コーラスだけでなく、一人一人に歌ってもらうことで効果を高める指導をしている」と話す。 代表の伊藤さんは、大手半導体メーカー、インテルを退職後「テニスやゴルフ、カードゲームなど趣味に生きていた」が、ひらやすさんとの出会いによって新しい世界が広がったという。「会員のみんなが熱心で、歌うことによって健康になってもらえれば」「現在も会員募集中で、20人ぐらいに増やしたい。将来は旅行などしながら移動コンサートも出来たら」と語る。(榎田智司) ◆マウントつくばエコーのひらやすかつこさんの講座は、毎月第2木曜日午前9時30分~午後1時、つくば市並木4-2-1、並木交流センター音楽室で開催。会費は月2000円。問い合わせは伊藤さん(電話080-1241-5733、メールyuji3itoh@gmail.com)へ。

人類救済と日常生活の話《映画探偵団》95

【コラム・冠木新市】フランシス・フォード・コッポラ監督は、ベトナム戦争を描いた大作映画『地獄の黙示録』(1979)の撮影で数々のトラブルに悩まされていたとき、フェデリコ・フェリーニ監督の映画『8 1/2』(1963)を見て心を慰めていたという。世界映画史の上位に常にランクされる同イタリア映画は、日本では東京オリンピック(1964)の翌年、アートシアター系の劇場で公開され、難解な作品として話題になった。 この映画は、車の中にガスが充満してきて、必死に脱出を試みる映画監督グイド(マルチェロ・マストロヤンニ)の悪夢シーンから始まる。そして、ラストシーンはグイドが準備中だった「原子力戦争で生き残った人々が地球脱出をはかる」内容の映画をクランクインするシーンだ。 つまり、このドラマは「人類救済」をテーマにした映画作りに取り組む、一監督の苦労を描いたもので、彼の作品創造の秘密を解明している。しかし、創造の秘密といっても、それは技術上のことではなく、作品を完成させる上での自信、インスピレーションなど、グイドの内面に焦点が当てられている。 温泉療養所やホテルで暮らすグイドの内面に湧いてくるのは、亡くなった両親、自分の少年時代の追憶、そして妻、浮気相手、理想の女性クラウディアに関する夢など、準備中の映画とは関係ないことばかりだ。「人類救済」という大テーマに取り組みながらも、日常生活では妻や浮気相手の女性、過去の出来事との間で混乱するグイドの姿が浮き彫りにされる。 ユニークなのはその表現方法だ。前半では追憶や夢のシーンと現実シーンとの移行が明瞭だが、後半になるとそれらの境目が曖昧になる。グイドと妻のいる現実の場面に妄想の浮気相手が出てきて、妻と仲良く踊りだす。リアルな人物描写と相まって、グイドの混とんたる内面を表現する絶妙な効果をあげている。今では理解できる表現だが、1965年当時、日本の観客は混乱の極致だった。 人生は祭りだ 共に生きよう ラストシーンの直前で、日常生活と仕事に疲れ切ったグイドが、記者会見の席上でピストル自殺をはかる幻想にとらわれる。そして制作を中止、セットが破壊されてゆくその瞬間、突然、グイドはインスピレーションを受ける。「混乱を整理するのではなく、あるがままを受け入れること…それは愛だ。人生は祭りだ。共に生きよう!」と。 ラストシーンは映画史に残る名場面だ。宇宙船発射場セットの幕を引くと、階段からどっと白い服を着た人たちが降りてくる。現実の映画関係者や夢や追憶に登場した人物である。人々は輪になって踊りだす。現実と夢、内面と外面世界が融合した瞬間だ。その輪にグイドはもめていた妻と加わる。人類救済と日常生活は個人の内面で深く結びついている。 今年諸事情で開催を延期したイベントを、来年の開催に向けて準備中である。誰でも経験すると思うが、種々のトラブルはつきものである。ふと『8 1/2』を見たくなったのは、そのためか。だが、悩みながらも混乱する世界の救済と結び付いていると信じて取り組んでいる。サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家) <お知らせ> 物語観光:つくつくつくばの七不思議セミナー(参加費無料)・日時:12月13日(土)午前10時半~・場所:カピオ中会議室・内容:映画『サイコドン』上映、出演者の話、唄、踊りなど

無人のダンプが坂下り出し 軽トラの女性けが つくば市発注の水道工事

筑波山中腹 11日午前11時30分ごろ、つくば市臼井、筑波山中腹の坂道で、同市発注の水道管布設替え工事中、道路脇に停車していた無人の2トンダンプが動き出し、約30メートル下った先の住宅敷地内に停車していた軽トラックに衝突、軽トラックははずみで住宅の玄関に衝突し、乗っていた女性が打撲など軽いけがを負った。 市水道工務課によると、現場は筑波山神社に続く生活道路で、工事を受注した市内の業者が老朽化した水道管を取り替える工事中、前方を坂の下に向けて停車していたダンプが前に動き出した。ダンプは事故時、交換した水道管を埋め戻すための砂を積んでいた。サイドブレーキはかけていたが、車止めは設置していなかったという。 けがを負った女性は、出掛けようと軽トラックの運転席に乗ったところ、左後ろの荷台付近をダンプに衝突された。住宅の玄関は、庇(ひさし)を支える木製の庇柱2本が折れるなどした。衝突の影響で軽トラックのドアが開かなくなり、消防署が女性を救出、女性は救急車で病院に運ばれた。 女性は現在、自宅療養中で、事故原因は調査中としている。 同市の五十嵐立青市長は「事故によりけがをされた方に深くお詫びします」とするコメントを発表し、「再びこのような事故を起こさぬよう、受注者に、現場の安全対策の再確認や現場作業員に対する安全対策の再教育を指示」し、さらに「現在工事を受注している全事業者に対しても、安全対策に関する指導を徹底します」としている。

11年ぶりのお色直し つくばエキスポセンター H2ロケット

つくば駅前の中央公園に隣接するつくばエキスポセンター(同市吾妻)で、同センターのシンボルであるH2ロケットの全面塗装工事が始まった。ロケットは実物大模型で高さは約50メートル。11月25日から足場の組み立てが進められており、来年3月30日に完了する予定だ。底辺部から先端部分まで全面的にお色直しする。1990年の設置以来、ほぼ10年ごとに塗り替えを行っており、今回は2014年以来11年ぶりとなる。 エキスポセンターは、1985年に開かれた「科学万博つくば’ 85」の第2会場として建てられ、万博閉幕翌年の1986年に科学館として再オープンした。当時、世界最大だったプラネタリウムをはじめ、万博関連資料が展示されているほか、最先端の科学技術をわかりやすく紹介している。 今回、お色直しされるH2ロケットの模型は、初の純国産大型ロケットして1994年に1号機が打ち上げられた「H2」を模したもの。1989年の横浜博覧会で展示された模型を1990年6月にエキスポセンター屋外展示場に移設した。以来、つくば市中心地区のシンボルとして、長く市民に親しまれている。 今回の塗り替えについて、エキスポセンターの中原徹館長は「2014年の塗装後、塗装落ちなどが見られたため調査を行った結果、全面塗装を行うことになった。色やデザインの変更はない。来春には塗装を終え足場を取りはずしますので、市民の皆様にはぜひ完成を楽しみにお待ちいただければ」と語った。 作業の進ちょくは、つくばエキスポセンターのホームページなどで知らせる予定だ。(柴田大輔)